「抑圧」と「解離」
2014/03/17/Mon
「抑圧」は、いくら「抑圧」しても、享楽に、現実界に近づけない。
享楽、現実界に近づきたければ、「解離」するとよい。
それを知ろうとするなら、強迫症者ではなく、ヒステリーになりなさい。
特に(去勢済み)男はその才能がないんだから、女一倍努力しなさい。
享楽の淵で笑って見ててあげるから。
妄想の中だけでしか生きられない生物学的に滑稽なヒトという種を。
たとえば「仮面」「ペルソナ」という概念がある。これはわりと一般的に浸透している心理学概念であろう。
人は、人間関係あるいは社会関係を、フロイト曰く「集団のリビドー的な結合」を可能にせしめるために、さまざまな「仮面」をとっかえひっかえつけている。
これも広義に取れば「解離」である。
しかし、このような「仮面」という心理が過剰になったのが過剰適応であり、それを病理とした症状は強迫神経症に分類される。
であれば、強迫神経症とはヒステリーの一部だとなってしまい、精神分析理論として矛盾する。
ここで「抑圧」という概念を導入する。
「仮面」という心理は意識的なもので、「抑圧」の上にあるものだ。
たとえれば、地震が起きた際の地割れは、表面の柔らかい地層だけひび割れて、下の硬い岩盤層は割れずに地割れの底のようになっていることがある。
これが「仮面」という心理症状だとする。
もちろん、マグニチュードが大きければ、下の硬い岩盤層もひび割れてしまうことがある。
「解離」が無意識層にまで達している。
これがヒステリーすなわち解離性障害だとすれば、強迫神経症とヒステリーの区別はすっきりする。
意識層で「仮面」をとっかえひっかえするのも「解離」であり、地層の一番上がひび割れることであるが、神経症という地層にはその下の無意識層に硬い岩盤層があり、あたかも地割れから守るように、蓋をするように、「抑圧」がある。
無意識層すなわちその下の硬い岩盤層にまで「解離」すなわち地割れが達していないのはヒステリーすなわち解離性障害と認めず、「抑圧」という症状としての強迫神経症だとし、無意識層すなわちその下の硬い岩盤層まで「解離」すなわち地割れが達していれば、ヒステリーとすればよい。
ところで、実際の地層には、下にある地層が上にある地層よりも柔らかいケースがある。
そういった地層の場所は、地震が起きれば地滑りを起こす。
これが精神病や自閉症だと考えるべきである。
「前精神病者に分析的に接近したとすれば、どういうことになるかを私たちは知っています。彼らは精神病者となります。つまり見事な精神病が」
高機能自閉症は、表向き強迫症状が見られ、おそらくそれをもってして「アスペは男性的な病気だ」と一般的に言われているが、長いあいだ自閉症を精神分析的に(すなわち無意識に主眼を置いて)臨床してきたわたしから見ると、自閉症を特徴付けるのは解離症状である。
彼らの無意識は少しの刺激でひび割れる。非常にもろい地層なのである。
そういった意味では、自閉症とは女性的な精神障害だと言える。
先の比喩で言えば、高機能自閉症者において、表面の地層は、他の神経症者同様であり、精神病者のようにいたるところにひび割れが起きているわけでもない。
だからと言って分析家が安心して「分析的に接近したとすれば」、あたかも前精神病者のように、たやすく精神病化する。観念連合の弛緩を示す。地滑りを起こす。
以上から、わたしは以下のようなことを考えてしまう。
アスペには男性が多いというのは統計的事実だが、それは、実は女性のアスペをヒステリーすなわち解離性障害と診断しているからなのではないか、と。
女性のアスペには受動型が多いとされているが、特に受動型は定型発達と区別しがたい(ネット上で言われている「アスペ」のイメージからも程遠いのが受動型である)。これは自閉症を専門的に臨床しているカウンセラーたちも同意することだろう。
解離症状が共通するヒステリーと自閉症の違いは、論理上、心因性か器質因性か、ということだけである。今のところ、わたしの管見では。
心因性と確定するには、トラウマを確定しなければならない。あくまで論理上。
しかし、そういった実践を最先端でやってきた精神分析でさえ、その作業には数年かかるのが実情である。
つまり、精神科医や分析家たちが、科学的に厳密な手順を踏まず、単なる先入観でもってして、解離症状を持つ女性の多くを心因性だとしすなわちヒステリーだと結論づけているだけなのではないだろうか、とすら思える。
特に臨床を重視しない日本のラカン派精神分析界隈においては、そのような先入観は強いのではないだろうか。
その「固い岩盤層」が、去勢された男の才能のなさなんだよ。
分析家としての。
ヒステリーごっこする男たちのなんと滑稽なことよ。
シェーマLにおける鏡像的他者と自我の矢印(a'→a)すなわち鏡像関係。
これがないときには、大文字の他者Aもない。
新宮一成などはそれがないときにすでに大文字の他者Aがあるとしているが、確かにラカンは最初そうしていた。自我の発生以前に「大文字の他者の他者」である「父の名」が存在すると。
しかし晩年のラカンは「父の名」と「対象a」を同列に扱っている。
実際『精神分析事典』において自閉症は「鏡像関係の組込の失敗例」とされているが、こんな文章もある。
=====
原初的な大文字の他者の代わりをするものがその欠如(-Φ)を与える。その欠如を与えるこの大文字の他者を/A(斜線を引かれた大文字の他者)と記すことができる。
(『精神分析事典』より)
=====
鏡像的他者と自我の矢印(a'→a)すなわち鏡像関係がない場合の大文字の他者Aは、「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」「/A」であるとするならまあうんってくらい。
でもそれぶっちゃけ部分対象じゃね、とも思う。
どうしても言語と関係付けたければこの記事で書いている「動性の欠如」でもよい。
「動性」って今は変だと思えるけどな、自分で。「述語性の欠如」? んーイマイチ。
いいじゃんもう「父の名」は「対象a」で。
ラカンがクラインと対立した点、「すべての人は多かれ少なかれ精神病である」に降ることになるけどな。
わたしは半分クライン派ですので別にいいすよ、どうでも。
つか正直クライン派と合流すればいいのに。うまいこと補完しあえるんじゃね。
死の欲動重視なのは共通してんだし。
あとまあどうでもいいことだが。
要するに精神分析は脳科学に還元できるのかって話でさ。
わたし個人は、今時点の脳科学では、精神分析が研究している「主体」は解明されないと思っている。
だが政治なのかしらんが脳科学を全否定する人がいんだよな、茂木大嫌いな人とか(わたしも嫌いだが)。
フロイトとかもともと神経生理学者でφニューロンψニューロンとか精神分析理論を脳科学に還元する試みをした論文もあるわけで。
今時点の脳科学では精神分析が研究してきた分野をカバーできないから、簡単に脳科学にすべて還元するのは誤りではあるが、だからと言って脳科学と精神分析との連携を否定するのも誤りだとわたしは思っている。
そういう意味ではわたしは十川幸司の立場に近い。
彼は精神分析と認知科学の連携を主張している。
愛の才能ないの
今も勉強中よそおぉる
享楽、現実界に近づきたければ、「解離」するとよい。
それを知ろうとするなら、強迫症者ではなく、ヒステリーになりなさい。
特に(去勢済み)男はその才能がないんだから、女一倍努力しなさい。
享楽の淵で笑って見ててあげるから。
妄想の中だけでしか生きられない生物学的に滑稽なヒトという種を。
たとえば「仮面」「ペルソナ」という概念がある。これはわりと一般的に浸透している心理学概念であろう。
人は、人間関係あるいは社会関係を、フロイト曰く「集団のリビドー的な結合」を可能にせしめるために、さまざまな「仮面」をとっかえひっかえつけている。
これも広義に取れば「解離」である。
しかし、このような「仮面」という心理が過剰になったのが過剰適応であり、それを病理とした症状は強迫神経症に分類される。
であれば、強迫神経症とはヒステリーの一部だとなってしまい、精神分析理論として矛盾する。
ここで「抑圧」という概念を導入する。
「仮面」という心理は意識的なもので、「抑圧」の上にあるものだ。
たとえれば、地震が起きた際の地割れは、表面の柔らかい地層だけひび割れて、下の硬い岩盤層は割れずに地割れの底のようになっていることがある。
これが「仮面」という心理症状だとする。
もちろん、マグニチュードが大きければ、下の硬い岩盤層もひび割れてしまうことがある。
「解離」が無意識層にまで達している。
これがヒステリーすなわち解離性障害だとすれば、強迫神経症とヒステリーの区別はすっきりする。
意識層で「仮面」をとっかえひっかえするのも「解離」であり、地層の一番上がひび割れることであるが、神経症という地層にはその下の無意識層に硬い岩盤層があり、あたかも地割れから守るように、蓋をするように、「抑圧」がある。
無意識層すなわちその下の硬い岩盤層にまで「解離」すなわち地割れが達していないのはヒステリーすなわち解離性障害と認めず、「抑圧」という症状としての強迫神経症だとし、無意識層すなわちその下の硬い岩盤層まで「解離」すなわち地割れが達していれば、ヒステリーとすればよい。
ところで、実際の地層には、下にある地層が上にある地層よりも柔らかいケースがある。
そういった地層の場所は、地震が起きれば地滑りを起こす。
これが精神病や自閉症だと考えるべきである。
「前精神病者に分析的に接近したとすれば、どういうことになるかを私たちは知っています。彼らは精神病者となります。つまり見事な精神病が」
高機能自閉症は、表向き強迫症状が見られ、おそらくそれをもってして「アスペは男性的な病気だ」と一般的に言われているが、長いあいだ自閉症を精神分析的に(すなわち無意識に主眼を置いて)臨床してきたわたしから見ると、自閉症を特徴付けるのは解離症状である。
彼らの無意識は少しの刺激でひび割れる。非常にもろい地層なのである。
そういった意味では、自閉症とは女性的な精神障害だと言える。
先の比喩で言えば、高機能自閉症者において、表面の地層は、他の神経症者同様であり、精神病者のようにいたるところにひび割れが起きているわけでもない。
だからと言って分析家が安心して「分析的に接近したとすれば」、あたかも前精神病者のように、たやすく精神病化する。観念連合の弛緩を示す。地滑りを起こす。
以上から、わたしは以下のようなことを考えてしまう。
アスペには男性が多いというのは統計的事実だが、それは、実は女性のアスペをヒステリーすなわち解離性障害と診断しているからなのではないか、と。
女性のアスペには受動型が多いとされているが、特に受動型は定型発達と区別しがたい(ネット上で言われている「アスペ」のイメージからも程遠いのが受動型である)。これは自閉症を専門的に臨床しているカウンセラーたちも同意することだろう。
解離症状が共通するヒステリーと自閉症の違いは、論理上、心因性か器質因性か、ということだけである。今のところ、わたしの管見では。
心因性と確定するには、トラウマを確定しなければならない。あくまで論理上。
しかし、そういった実践を最先端でやってきた精神分析でさえ、その作業には数年かかるのが実情である。
つまり、精神科医や分析家たちが、科学的に厳密な手順を踏まず、単なる先入観でもってして、解離症状を持つ女性の多くを心因性だとしすなわちヒステリーだと結論づけているだけなのではないだろうか、とすら思える。
特に臨床を重視しない日本のラカン派精神分析界隈においては、そのような先入観は強いのではないだろうか。
その「固い岩盤層」が、去勢された男の才能のなさなんだよ。
分析家としての。
ヒステリーごっこする男たちのなんと滑稽なことよ。
シェーマLにおける鏡像的他者と自我の矢印(a'→a)すなわち鏡像関係。
これがないときには、大文字の他者Aもない。
新宮一成などはそれがないときにすでに大文字の他者Aがあるとしているが、確かにラカンは最初そうしていた。自我の発生以前に「大文字の他者の他者」である「父の名」が存在すると。
しかし晩年のラカンは「父の名」と「対象a」を同列に扱っている。
実際『精神分析事典』において自閉症は「鏡像関係の組込の失敗例」とされているが、こんな文章もある。
=====
原初的な大文字の他者の代わりをするものがその欠如(-Φ)を与える。その欠如を与えるこの大文字の他者を/A(斜線を引かれた大文字の他者)と記すことができる。
(『精神分析事典』より)
=====
鏡像的他者と自我の矢印(a'→a)すなわち鏡像関係がない場合の大文字の他者Aは、「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」「/A」であるとするならまあうんってくらい。
でもそれぶっちゃけ部分対象じゃね、とも思う。
どうしても言語と関係付けたければこの記事で書いている「動性の欠如」でもよい。
「動性」って今は変だと思えるけどな、自分で。「述語性の欠如」? んーイマイチ。
いいじゃんもう「父の名」は「対象a」で。
ラカンがクラインと対立した点、「すべての人は多かれ少なかれ精神病である」に降ることになるけどな。
わたしは半分クライン派ですので別にいいすよ、どうでも。
つか正直クライン派と合流すればいいのに。うまいこと補完しあえるんじゃね。
死の欲動重視なのは共通してんだし。
あとまあどうでもいいことだが。
要するに精神分析は脳科学に還元できるのかって話でさ。
わたし個人は、今時点の脳科学では、精神分析が研究している「主体」は解明されないと思っている。
だが政治なのかしらんが脳科学を全否定する人がいんだよな、茂木大嫌いな人とか(わたしも嫌いだが)。
フロイトとかもともと神経生理学者でφニューロンψニューロンとか精神分析理論を脳科学に還元する試みをした論文もあるわけで。
今時点の脳科学では精神分析が研究してきた分野をカバーできないから、簡単に脳科学にすべて還元するのは誤りではあるが、だからと言って脳科学と精神分析との連携を否定するのも誤りだとわたしは思っている。
そういう意味ではわたしは十川幸司の立場に近い。
彼は精神分析と認知科学の連携を主張している。
愛の才能ないの
今も勉強中よそおぉる