文学の終わりにはドーナツを食べましょう
2007/09/09/Sun
正直言って、文学は終わったとかゆってるのってよくわかんない。文学の意義とか意味とかがなくなったから終わったってゆってるのなら、ないのが前提なわけだから、終わったも何もないと思うんだな。「ないから終わった」じゃなくて「ないのが普通、ってゆっかそれ前提」みたいな。言葉にできないものがなくなったって言葉としておかしいじゃん? ないものがなくなったって、ドーナツ食べたら真ん中の穴がなくなっちゃったーってゆってるみたい。当たり前だっつに。ボク穴も食べたかったのにい、とかゆってるわけ? お前は幼稚園児かと。もしかして「文学終わったー」とかってゆってる人って「ドーナツの穴にはなんにもない」みたいな当たり前のことを知らなかった人たちなの? わざわざそんなことを言うのって大好きな穴がなくなっちゃったから鬱になってインポテンツになってるようなもんじゃん。ボクがインポだからきっと他の人たちもインポに違いないって、……わあ、なんか可哀相になっちゃった。わざわざ自分じゃない何かを「終わった」とか言うのって、裏返せば「自分は終わっていない」「自分は生きている」ってことを言いたがってるってことじゃん? その人がそう言っている時点でその人が生きているのは自明のことなのに、何故わざわざ自分は「生きている」って言いたがるのでしょうか? 答え。「自分は終わっているかもしれない」って思っちゃってるから。「自分は終わってるかもしれない」という不安を文学に投影しているに過ぎないのよねえ。まあ文学って投影されてナンボだから当然の成り行きではあるけど。ほれ、インポテンツ。別に誰がインポだろうがわたしにはカンケーないんだけどさ。そもそもわたしから言わせれば文学なんて最初から言葉の彼岸を求めているわけで、そういう意味では最初から終わりに向かって進んでいるわけで、「文学は終わった」ということは文学のなすべき仕事が完了したってことになる。でもそう述べる人は生きている。それを聞くわたしたちだって生きている。終わっていない。だからインポで脱落した人たちを残してさらなる終わりへ、終わりのない終わりへ突き進むだけだと思う。屍を乗り越えてって奴。脱落した屍たちを悪く言うもんじゃないね、うん。ごめんなさい。
まあ要するに言葉って面白いねーってこと。
いいものはいいって思うし。っていうか文学とそれ以外の何かを同じ条件下で語るのがそもそもトンチンカンなわけ。あーもう小難しいこと考えさせないでよ、要は、そんなに「終わり」とかドーナツの穴が好きなら食べなきゃいいのに、ってことよ。でも食べちゃうんだよねー。わかるわかるわたしもそうだもん。っていうかドーナツなんて簡単よ、作るの。別に高級な料理じゃないし、面倒ならミスドでもダンキンでもいいし。
まあ要するに言葉って面白いねーってこと。
いいものはいいって思うし。っていうか文学とそれ以外の何かを同じ条件下で語るのがそもそもトンチンカンなわけ。あーもう小難しいこと考えさせないでよ、要は、そんなに「終わり」とかドーナツの穴が好きなら食べなきゃいいのに、ってことよ。でも食べちゃうんだよねー。わかるわかるわたしもそうだもん。っていうかドーナツなんて簡単よ、作るの。別に高級な料理じゃないし、面倒ならミスドでもダンキンでもいいし。