『School Days』――モラトリアム者たちの『供犠』。
2007/09/30/Sun
巷でナイスボートとかってゆってるのがわからなかったので見てみた。
スクイズっていうんだー。みたいな。
さて、いつかの記事で、精神分析的批評は物語の登場人物に対してではなくて、作家性なりを読み解くものだ、と書いた。しかしアニメだと多人数の無意識が関わってくる。脚本、演出家、監督、声優と。では分析できないかというとそうでもない。演劇では、特に西洋近代演劇的な「戯曲主義」などならば、戯曲家をメインにした想像的一人と仮定して分析可能であるとわたしは考えている。加えて、これはオタク文化に特徴的なことであるが、「オタクに『商業的に』ウケるため」という目的で作られた作品は、ある意味オタクたち自身がその作品における作家性となると思う。これについてはこちらの記事で少し触れているが、要するに、オタクたちの無意識は鏡像的に作品に反映されているのだ。
というわけで、スクイズという作品に対して騒いでいるオタクたちに焦点を合わせて、分析的批評「のようなもの」をしてみよう。
結論から先に言うと、モラトリアム若者の抑鬱状態のための『供犠』として作用した作品であろう、ということである。
まず、モラトリアムについて考察してみよう。
モラトリアム者たちは、選択の多様性を前にして、どれも選べない。選べない理由として、本当の自分はこれらの選択に当てはまるものではない、という気持ちもあるだろう。大学生ぐらいにおけるこの選択肢は就職などといった象徴的なものである。もちろん就職氷河期などはあるだろうが、資本主義の社会では努力して結果を出せば選択肢は増える。「僕には結果は出せない」などと言って、その可能性を放棄したがるのがモラトリアムである。
本当の自分に向かいたいのなら、いくら苦労が予測されるとはいえその道を選択すればよいのだが、そうはしない。では苦労から逃げたがっているかと言えばそうでもない。可能性を前にして踏み止まること自体が無意識的な不安を助長するのである。わたしは単純にモラトリアム者に「甘えの構図」は見ない。むしろマゾヒスティックにダブルバインドを望んでいるようにすら思える。
そのダブルバインドとはなんだろう。
それは、本当の自分を求めるような、中二病的な、理想主義的な情動と、現実を見なければ、という現実主義的な、去勢の承認的な情動の二つの相反する情動による、自分の中の葛藤である。モラトリアム者はそこに留まりたがっているのだ。
これは神経症者にとっては基本原理とも言えると思う。ラカンは、神経症者の焦燥をカマキリに喩えている。カマキリのメスは交接の後オスの頭を食べてしまう。自分はカマキリになってしまった。巨大なメスが自分に近寄ってくる。しかし自分がオスかメスかわからない。この「自分がわからない」という不安から、神経症者たちは短絡的な答えを求める。即ち、「いっそ」オスになって食べられてしまおう、と思うのだ。不安は恐怖に変わる。
モラトリアム者が現実主義を選択することを、去勢の承認だと捉えれば、彼らは去勢不安の反復として、モラトリアムというダブルバインド的な場に留まりたがっていると言える。
このダブルバインド的な葛藤の根源とはなんであろうか。ここでクライン論を援用する。
赤ん坊は、生後すぐ妄想分裂態勢に入る。この時の赤ん坊の世界は、以前の記事にも書いたが、「断片の世界」である。大人の世界からみると同じ乳房になるが、同一化を満たしてくれる「授乳してくれる乳房」と不快な飢えを誘引する「授乳してくれない乳房」を、赤ん坊は別々の「断片」として捉えている。これが有名な「良い乳房/悪い乳房」というものだ。
幼児は妄想の中で、悪い乳房を破壊する。悪い乳房の破壊は「母乳を吸い尽くす」ことであるので、悪い乳房は自分の中に取り込まれてしまう。この罪悪感から、幼児は良い乳房と悪い乳房を統合し、最終的にいろんな断片を「母(授乳してくれる人)」という「個」に統合する。
統合したとはいえ、「良い乳房/悪い乳房」という相反するものに同一化している自分という記憶は残っている。正しく言うなら、忘れてしまうが、抑圧されて無意識下に残っている。これが無意識から反復して(舞い戻って)くるのが、ダブルバインド的な葛藤である。
クラインは、この時の赤ん坊にとっては、「悪い乳房」即ち死の欲動が勝っていることを強調する。フロイトの「憎しみは愛に先んずる」に通じる考えである。
また、赤ん坊がこの分裂妄想態勢を乗り越えるには、愛=生の欲動即ち「良い乳房」が勝ることだとしている。母親の愛情が、人間という「個」をもたらす、ということだ。
ここでクリステヴァを見てみよう。
クリステヴァは、ここに「想像的父」という概念を導入する。これはウィニコットの「ほどよい母」に通じるものである。短絡的に言うならば、「自分の方を向いてくれない母親」である。そういう意味では「授乳してくれない乳房」即ち「悪い乳房」でもあろう。悪い乳房は不快な飢えを赤ん坊にもたらすが、同時に「存在しない自分」をもたらす。何故ならば赤ん坊は乳房に同一化しているからだ。悪い乳房に同一化しているから、自分に対し飢えという形でやってくる攻撃性と同一化してしまう。それと同時に、視界に乳房がない時は、まるで自分を失ってしまうような「無」的な自分を感じているのだ。この感情は良い乳房という断片があるからこそ生じるものである。
この「無」的な自分が大きくなると、赤ん坊はクラインの言う「抑鬱態勢」に入る。妄想分裂態勢と抑鬱態勢を経て、幼児は「個」という統合を行う、あるいはその準備態勢を整えるのだ。ここで準備と書いたのは、ラカンの鏡像段階を考慮しているからである。この鏡像段階が仕上げとなって、幼児は「断片の世界」から、断片がファルス的に統合された「個の世界」に参入するのだ。
クリステヴァは、現実的には母親的なものではあるが、「無」的な自分をもたらす対象を「想像的父」と読んだ。そしてそれに同一化した状態が「アガペー」であると表現する。クラインの言う「愛」を、「無」的な自分によりもたらされる統合として、アガペーと読み替えたのだ。ファルス的統合以降の統合がエロスであり、ファルス的統合を生み出すのがアガペー、ということになろうか。フロイト-クライン論の、先んずる憎しみを愛に変換するための段階としての抑鬱的な状態を、想像的父という概念により読み直したのがクリステヴァの論である。
大人の抑鬱状態において、「喪」などという「無」的な自分と酷似する観念が重要視されることからも、クリステヴァ論の正当性が理解できるであろう。
同様に、モラトリアム者にも傾向的に抑鬱状態が認められる。先に「わたしは単純にモラトリアム者に甘えの構図は見ない」と言ったのはそういう理由からである。彼らは葛藤を乗り越えようとしているのであって、むしろ甘えとは遠い、自分の中にある不安と戦っている印象すら感じる。
さて、ここで『School Days』という作品に戻ろう。
話題となった最終回、また後半部を覗けば、エロゲアニメの王道的な流れで話は進む。多少「黒い(恋愛的どろどろ感、ぐらいで)」感じは強いが、男子主人公のハーレム系物語と言ってもよかろう。
しかし、最終回に向けて話は急転直下する。
ご存知の方も多いだろうし詳しくは述べないが、二人の女性の間を主人公男子は揺れ動く。片方の女性を妊娠させてしまい(後に嘘だとわかる)、三角関係に終止符を打とうとするが打て切れず、もう片方を選んでしまう。
ここでキャラクター分析するならば、主人公男子に父になることの拒否を読んでもいいだろう。女性オタクについて古くから指摘されている母になることの拒否を対応させても面白いかもしれない。
主人公男子は快楽主義的に二人の女性の間を行き来する。エロス=生の欲動の下、忠実な行動だと言えよう。
問題の最終回。嘘の妊娠を主張する女性(世界という名前)は、主人公男子を殺してしまう。片方の女性(言葉という名前)が、主人公を殺してしまった世界を殺す。物語的にはありがちと言えばありがちの構図だろう。
キャラクター分析では、言葉という女性の復讐的行為に不自然さを感じる。愛する男性の死体を目の前にした時、女性は、悲劇的ヒロインのような感情とも言うべき、「他者の享楽」的な悲劇を享楽する、受動性を発揮するものではないか、と思われるが、そういう描写はない。言葉という女性は、単純な男性原理的に、相手の女性(世界)に対して復讐を行っているように思える。そうであるならば、言葉が世界に対してなんらかの(例えば潜在的な同性愛的なものとか)情が欲しいところではある。そうでなくても、「内部に男性原理を持った大人しい少女」という魅力は引き出せてないように思える。復讐的行為のアクチュアリティが希薄に見えるということだが、OPに彼女たちの繋がりを隠喩するような映像もあるので、ここはどうでも解釈できるだろう。他のエロゲ的アニメを見てないのでわたしは正直よくわからない。そういった作品解釈よりわたしが重点を置きたいのは、この作品に対するオタクたちの反応である。
ニコニコ動画や掲示板でのこの作品の反応として、言葉が世界を殺して、その腹を裂き、本当に赤ん坊がいるかどうか確かめるシーンがあるが、そのグロテスクさに言及したものが多い。しかしそれ以上に、ニコ動の条件反射的コメント、即ち意識的ではない=無意識的な反応として、「誠(主人公の名前)死ね」というものが圧倒的に多い。また、個人的に聞いたことではあるが、「鬱系の作品である」という言葉もあった。
先に述べたように、モラトリアム者たちは、可能性という選択肢を前に、理想主義的なものと現実主義的なもとの狭間で葛藤する。葛藤の中、彼らは抑鬱態勢を反復する。抑鬱状態になる。この時同時に想像的父あるいは「無」的な(無力な)自分あるいはアガペーも反復する。これにより、彼らの前に広がる多様な選択肢を選択することができる。選択した道と捨ててしまった道を自分の中に統合する準備を整えるのだ。
もちろんこの過程は人それぞれである。葛藤が長引くものがいれば抑鬱状態が長引くものもいる。逆もある。統合しないまま中年になることもあろう。自分の職種や思想と対立する職種や思想に異常な反発心を燃やす大人がままいるが、統合の過程が不十分だったのだろう。だからといって彼が人間的に劣っているとは言えない。逆に葛藤という苦しい状態を長く生きている強い人間とも言えるかもしれない。人それぞれで正しいのだ。
とはいえ、この神経症的な状況は本人にとっては苦しいものである。この苦しさをより苦しくない苦しみに変換するのが精神分析である。わたしはカウンセラーや精神分析家に批判的ではあるが、そういうものとしての存在は認めている。
精神分析がなかったころは、短絡的に言うならば、恐らく宗教や芸術がその役割を担っていたと思われる。事実ラカンは精神分析を「アート」だとも言っている。
ここで「供犠」という概念を持ち出そう。人間は動物でありながら「人間という非動物的なるもの」になりたがる。ケガレを疎みながらケガレから逃れられない存在である。このケガレを瞬間的かつ幻想的に祓うのが供犠という機能だったのではないだろうか。死刑を公開するのは、民衆の死の欲動を一瞬ではあれ浄化させる一つの演劇として機能していたのではないだろうか。
クリフォード・ギアーツはこうまで言っている。「集団的祭儀は、国家を支えるための装置ではない。むしろ国家の方が、最終的には、集団的祭儀を上演するための装置なのだ」。
念のため断っておくが、公開処刑制度を復活させるべきなどと言っているわけではない。ケガレや死の欲動を浄化させる手段は一つではないからだ。「上演」という言葉からもわかるように、芸術、即ち表現文化もその一つである。
再度作品に関しての話に戻る。
先にも述べたように、「誠死ね」という言葉に象徴されるような、オタクたちの主人公誠への嫌悪は、アレルギー的にさえ感じる。
しかし、この主人公の死をケガレを祓うための供犠だと考えれば、さまざまな点で筋が通る。
この作品のファンは若者が多い。わたしの知り合いの二十代後半ぐらいの者たちは、「騒ぐほどグロでも鬱でもない」と言っていた。
これらのことから、大学生を中心とした年代が中心的に、この作品を「鬱」だと感じたのではないだろうか、と考え、この時期に固有的な、大人の社会への正式な参入というイニシエーションを前にしたモラトリアム期を、わたしは連想した。二人の女性という選択肢を選べない状態なども、象徴的にそれを連想させる。
この作品の特徴としてもう一つあるのが「グロテスクさ」である。これはまさに「供犠」的であると言えるだろう。この作品を死の欲動を浄化する供犠であると考えるならば、彼らは生贄が捧げられると同時に死を幻想する。作品前半部分の、ハーレム的な少年恋愛ものの王道さから考えると、多くの視聴者は主人公誠に想像的同一化しているであろう。そもそも受取手を作品との同一化に導く主軸が主人公の機能なのである。
つまり、彼らの「誠死ね」は、誠という代理表象に吸収された、自分の「ある部分」に向けて言っている言葉であるのだ。そのある部分とは、快楽主義(生の欲動)的な自分であり、複数の選択肢の前で選択できない自分、ということになろう。自我の一部分を切り離して他者に投射することを、クラインは投射性同一化と呼び、統合のための重要な要素として提出した。
また、最後にヒロインの一人である世界が殺されることで、ドラえもんの「独裁スイッチ」的な、ファルス的享楽、即ち自滅と等価的な「暴力的破壊」を隠喩しているのではないか。実際、殺す側である言葉というヒロインの、殺人にいたるまでの描写はほとんどない。受取手にしてみれば暴力的にことが進む。このことも、受取手の中の死の欲動のアクチュアリティを際立たせる。
自分が(幻想的に)死ぬということは、まさに「無」的な自分を反復することである。作品内で凄惨な供犠が行われることで、彼らは自我統合の前段階としての抑鬱状態に参入あるいはそれを強化しているのだ。だから「鬱系の作品」となる。そうして、彼らはカケラでもあるかもしれないが、アガペーを体感するのだ。
そういった意味では、この作品は、モラトリアム的なオタクたちにとって、反面教師的なビルドゥングスロマンとして受け入れられた、とも言えるかもしれない。
作品評価的には、わたしは……ノーコメントということで(汗)。
個人的には、この供犠的な、死の欲動を主軸にすることでカタルシスを得る、いわゆる悲劇的な作品が、最近のアニメには少ないと思う。ハリウッドも少ない。悲劇となるとどうも形式ばった感じのものが多い。それは、科学というゆりかごに守られたわたしたちが、悲劇的な要素から遠ざけられているせいもあるだろう。そんな中で、作品の内容はともかく、こういった悲劇的なものが受取手の内面に迫って受けた、というこの現象は、オタク文化の多様性を維持するという意味では良いことであるとは思う。その点については、ある程度の評価が与えられてもいいのではないだろうか。
……いや、そもそも二次元キャラが死んで「泣けるからいい作品だ」とか言っているオタク自体をわたしは批判しているんだけどね。
別にオナニーも泣くのも鬱るのも批判しないが、「泣いているボクチンはイイコなんでちゅー」的な「自らのケガレ(死の欲動)を隠蔽する所作として」哲学やら精神分析やらいろんな言説でお化粧をするのがキモチワルイ。まだ「誠死ね」のような反応が正直で清清しい。とはいえこんなアニメに感動する(いい意味悪い意味含め)奴らも(ry。
まあ、きれいな悲劇じゃなくて、ケガレとしての「グロ」や「恋愛のどろどろ」を前景化した分(っていうか作り手はこれをかなり意識しているんじゃないかと思えた)、こういう擁護記事もたまにはいいかな、と思っただけである。
うじゃぱー。
深い意味はありません。
スクイズっていうんだー。みたいな。
さて、いつかの記事で、精神分析的批評は物語の登場人物に対してではなくて、作家性なりを読み解くものだ、と書いた。しかしアニメだと多人数の無意識が関わってくる。脚本、演出家、監督、声優と。では分析できないかというとそうでもない。演劇では、特に西洋近代演劇的な「戯曲主義」などならば、戯曲家をメインにした想像的一人と仮定して分析可能であるとわたしは考えている。加えて、これはオタク文化に特徴的なことであるが、「オタクに『商業的に』ウケるため」という目的で作られた作品は、ある意味オタクたち自身がその作品における作家性となると思う。これについてはこちらの記事で少し触れているが、要するに、オタクたちの無意識は鏡像的に作品に反映されているのだ。
というわけで、スクイズという作品に対して騒いでいるオタクたちに焦点を合わせて、分析的批評「のようなもの」をしてみよう。
結論から先に言うと、モラトリアム若者の抑鬱状態のための『供犠』として作用した作品であろう、ということである。
まず、モラトリアムについて考察してみよう。
モラトリアム者たちは、選択の多様性を前にして、どれも選べない。選べない理由として、本当の自分はこれらの選択に当てはまるものではない、という気持ちもあるだろう。大学生ぐらいにおけるこの選択肢は就職などといった象徴的なものである。もちろん就職氷河期などはあるだろうが、資本主義の社会では努力して結果を出せば選択肢は増える。「僕には結果は出せない」などと言って、その可能性を放棄したがるのがモラトリアムである。
本当の自分に向かいたいのなら、いくら苦労が予測されるとはいえその道を選択すればよいのだが、そうはしない。では苦労から逃げたがっているかと言えばそうでもない。可能性を前にして踏み止まること自体が無意識的な不安を助長するのである。わたしは単純にモラトリアム者に「甘えの構図」は見ない。むしろマゾヒスティックにダブルバインドを望んでいるようにすら思える。
そのダブルバインドとはなんだろう。
それは、本当の自分を求めるような、中二病的な、理想主義的な情動と、現実を見なければ、という現実主義的な、去勢の承認的な情動の二つの相反する情動による、自分の中の葛藤である。モラトリアム者はそこに留まりたがっているのだ。
これは神経症者にとっては基本原理とも言えると思う。ラカンは、神経症者の焦燥をカマキリに喩えている。カマキリのメスは交接の後オスの頭を食べてしまう。自分はカマキリになってしまった。巨大なメスが自分に近寄ってくる。しかし自分がオスかメスかわからない。この「自分がわからない」という不安から、神経症者たちは短絡的な答えを求める。即ち、「いっそ」オスになって食べられてしまおう、と思うのだ。不安は恐怖に変わる。
モラトリアム者が現実主義を選択することを、去勢の承認だと捉えれば、彼らは去勢不安の反復として、モラトリアムというダブルバインド的な場に留まりたがっていると言える。
このダブルバインド的な葛藤の根源とはなんであろうか。ここでクライン論を援用する。
赤ん坊は、生後すぐ妄想分裂態勢に入る。この時の赤ん坊の世界は、以前の記事にも書いたが、「断片の世界」である。大人の世界からみると同じ乳房になるが、同一化を満たしてくれる「授乳してくれる乳房」と不快な飢えを誘引する「授乳してくれない乳房」を、赤ん坊は別々の「断片」として捉えている。これが有名な「良い乳房/悪い乳房」というものだ。
幼児は妄想の中で、悪い乳房を破壊する。悪い乳房の破壊は「母乳を吸い尽くす」ことであるので、悪い乳房は自分の中に取り込まれてしまう。この罪悪感から、幼児は良い乳房と悪い乳房を統合し、最終的にいろんな断片を「母(授乳してくれる人)」という「個」に統合する。
統合したとはいえ、「良い乳房/悪い乳房」という相反するものに同一化している自分という記憶は残っている。正しく言うなら、忘れてしまうが、抑圧されて無意識下に残っている。これが無意識から反復して(舞い戻って)くるのが、ダブルバインド的な葛藤である。
クラインは、この時の赤ん坊にとっては、「悪い乳房」即ち死の欲動が勝っていることを強調する。フロイトの「憎しみは愛に先んずる」に通じる考えである。
また、赤ん坊がこの分裂妄想態勢を乗り越えるには、愛=生の欲動即ち「良い乳房」が勝ることだとしている。母親の愛情が、人間という「個」をもたらす、ということだ。
ここでクリステヴァを見てみよう。
クリステヴァは、ここに「想像的父」という概念を導入する。これはウィニコットの「ほどよい母」に通じるものである。短絡的に言うならば、「自分の方を向いてくれない母親」である。そういう意味では「授乳してくれない乳房」即ち「悪い乳房」でもあろう。悪い乳房は不快な飢えを赤ん坊にもたらすが、同時に「存在しない自分」をもたらす。何故ならば赤ん坊は乳房に同一化しているからだ。悪い乳房に同一化しているから、自分に対し飢えという形でやってくる攻撃性と同一化してしまう。それと同時に、視界に乳房がない時は、まるで自分を失ってしまうような「無」的な自分を感じているのだ。この感情は良い乳房という断片があるからこそ生じるものである。
この「無」的な自分が大きくなると、赤ん坊はクラインの言う「抑鬱態勢」に入る。妄想分裂態勢と抑鬱態勢を経て、幼児は「個」という統合を行う、あるいはその準備態勢を整えるのだ。ここで準備と書いたのは、ラカンの鏡像段階を考慮しているからである。この鏡像段階が仕上げとなって、幼児は「断片の世界」から、断片がファルス的に統合された「個の世界」に参入するのだ。
クリステヴァは、現実的には母親的なものではあるが、「無」的な自分をもたらす対象を「想像的父」と読んだ。そしてそれに同一化した状態が「アガペー」であると表現する。クラインの言う「愛」を、「無」的な自分によりもたらされる統合として、アガペーと読み替えたのだ。ファルス的統合以降の統合がエロスであり、ファルス的統合を生み出すのがアガペー、ということになろうか。フロイト-クライン論の、先んずる憎しみを愛に変換するための段階としての抑鬱的な状態を、想像的父という概念により読み直したのがクリステヴァの論である。
大人の抑鬱状態において、「喪」などという「無」的な自分と酷似する観念が重要視されることからも、クリステヴァ論の正当性が理解できるであろう。
同様に、モラトリアム者にも傾向的に抑鬱状態が認められる。先に「わたしは単純にモラトリアム者に甘えの構図は見ない」と言ったのはそういう理由からである。彼らは葛藤を乗り越えようとしているのであって、むしろ甘えとは遠い、自分の中にある不安と戦っている印象すら感じる。
さて、ここで『School Days』という作品に戻ろう。
話題となった最終回、また後半部を覗けば、エロゲアニメの王道的な流れで話は進む。多少「黒い(恋愛的どろどろ感、ぐらいで)」感じは強いが、男子主人公のハーレム系物語と言ってもよかろう。
しかし、最終回に向けて話は急転直下する。
ご存知の方も多いだろうし詳しくは述べないが、二人の女性の間を主人公男子は揺れ動く。片方の女性を妊娠させてしまい(後に嘘だとわかる)、三角関係に終止符を打とうとするが打て切れず、もう片方を選んでしまう。
ここでキャラクター分析するならば、主人公男子に父になることの拒否を読んでもいいだろう。女性オタクについて古くから指摘されている母になることの拒否を対応させても面白いかもしれない。
主人公男子は快楽主義的に二人の女性の間を行き来する。エロス=生の欲動の下、忠実な行動だと言えよう。
問題の最終回。嘘の妊娠を主張する女性(世界という名前)は、主人公男子を殺してしまう。片方の女性(言葉という名前)が、主人公を殺してしまった世界を殺す。物語的にはありがちと言えばありがちの構図だろう。
キャラクター分析では、言葉という女性の復讐的行為に不自然さを感じる。愛する男性の死体を目の前にした時、女性は、悲劇的ヒロインのような感情とも言うべき、「他者の享楽」的な悲劇を享楽する、受動性を発揮するものではないか、と思われるが、そういう描写はない。言葉という女性は、単純な男性原理的に、相手の女性(世界)に対して復讐を行っているように思える。そうであるならば、言葉が世界に対してなんらかの(例えば潜在的な同性愛的なものとか)情が欲しいところではある。そうでなくても、「内部に男性原理を持った大人しい少女」という魅力は引き出せてないように思える。復讐的行為のアクチュアリティが希薄に見えるということだが、OPに彼女たちの繋がりを隠喩するような映像もあるので、ここはどうでも解釈できるだろう。他のエロゲ的アニメを見てないのでわたしは正直よくわからない。そういった作品解釈よりわたしが重点を置きたいのは、この作品に対するオタクたちの反応である。
ニコニコ動画や掲示板でのこの作品の反応として、言葉が世界を殺して、その腹を裂き、本当に赤ん坊がいるかどうか確かめるシーンがあるが、そのグロテスクさに言及したものが多い。しかしそれ以上に、ニコ動の条件反射的コメント、即ち意識的ではない=無意識的な反応として、「誠(主人公の名前)死ね」というものが圧倒的に多い。また、個人的に聞いたことではあるが、「鬱系の作品である」という言葉もあった。
先に述べたように、モラトリアム者たちは、可能性という選択肢を前に、理想主義的なものと現実主義的なもとの狭間で葛藤する。葛藤の中、彼らは抑鬱態勢を反復する。抑鬱状態になる。この時同時に想像的父あるいは「無」的な(無力な)自分あるいはアガペーも反復する。これにより、彼らの前に広がる多様な選択肢を選択することができる。選択した道と捨ててしまった道を自分の中に統合する準備を整えるのだ。
もちろんこの過程は人それぞれである。葛藤が長引くものがいれば抑鬱状態が長引くものもいる。逆もある。統合しないまま中年になることもあろう。自分の職種や思想と対立する職種や思想に異常な反発心を燃やす大人がままいるが、統合の過程が不十分だったのだろう。だからといって彼が人間的に劣っているとは言えない。逆に葛藤という苦しい状態を長く生きている強い人間とも言えるかもしれない。人それぞれで正しいのだ。
とはいえ、この神経症的な状況は本人にとっては苦しいものである。この苦しさをより苦しくない苦しみに変換するのが精神分析である。わたしはカウンセラーや精神分析家に批判的ではあるが、そういうものとしての存在は認めている。
精神分析がなかったころは、短絡的に言うならば、恐らく宗教や芸術がその役割を担っていたと思われる。事実ラカンは精神分析を「アート」だとも言っている。
ここで「供犠」という概念を持ち出そう。人間は動物でありながら「人間という非動物的なるもの」になりたがる。ケガレを疎みながらケガレから逃れられない存在である。このケガレを瞬間的かつ幻想的に祓うのが供犠という機能だったのではないだろうか。死刑を公開するのは、民衆の死の欲動を一瞬ではあれ浄化させる一つの演劇として機能していたのではないだろうか。
クリフォード・ギアーツはこうまで言っている。「集団的祭儀は、国家を支えるための装置ではない。むしろ国家の方が、最終的には、集団的祭儀を上演するための装置なのだ」。
念のため断っておくが、公開処刑制度を復活させるべきなどと言っているわけではない。ケガレや死の欲動を浄化させる手段は一つではないからだ。「上演」という言葉からもわかるように、芸術、即ち表現文化もその一つである。
再度作品に関しての話に戻る。
先にも述べたように、「誠死ね」という言葉に象徴されるような、オタクたちの主人公誠への嫌悪は、アレルギー的にさえ感じる。
しかし、この主人公の死をケガレを祓うための供犠だと考えれば、さまざまな点で筋が通る。
この作品のファンは若者が多い。わたしの知り合いの二十代後半ぐらいの者たちは、「騒ぐほどグロでも鬱でもない」と言っていた。
これらのことから、大学生を中心とした年代が中心的に、この作品を「鬱」だと感じたのではないだろうか、と考え、この時期に固有的な、大人の社会への正式な参入というイニシエーションを前にしたモラトリアム期を、わたしは連想した。二人の女性という選択肢を選べない状態なども、象徴的にそれを連想させる。
この作品の特徴としてもう一つあるのが「グロテスクさ」である。これはまさに「供犠」的であると言えるだろう。この作品を死の欲動を浄化する供犠であると考えるならば、彼らは生贄が捧げられると同時に死を幻想する。作品前半部分の、ハーレム的な少年恋愛ものの王道さから考えると、多くの視聴者は主人公誠に想像的同一化しているであろう。そもそも受取手を作品との同一化に導く主軸が主人公の機能なのである。
つまり、彼らの「誠死ね」は、誠という代理表象に吸収された、自分の「ある部分」に向けて言っている言葉であるのだ。そのある部分とは、快楽主義(生の欲動)的な自分であり、複数の選択肢の前で選択できない自分、ということになろう。自我の一部分を切り離して他者に投射することを、クラインは投射性同一化と呼び、統合のための重要な要素として提出した。
また、最後にヒロインの一人である世界が殺されることで、ドラえもんの「独裁スイッチ」的な、ファルス的享楽、即ち自滅と等価的な「暴力的破壊」を隠喩しているのではないか。実際、殺す側である言葉というヒロインの、殺人にいたるまでの描写はほとんどない。受取手にしてみれば暴力的にことが進む。このことも、受取手の中の死の欲動のアクチュアリティを際立たせる。
自分が(幻想的に)死ぬということは、まさに「無」的な自分を反復することである。作品内で凄惨な供犠が行われることで、彼らは自我統合の前段階としての抑鬱状態に参入あるいはそれを強化しているのだ。だから「鬱系の作品」となる。そうして、彼らはカケラでもあるかもしれないが、アガペーを体感するのだ。
そういった意味では、この作品は、モラトリアム的なオタクたちにとって、反面教師的なビルドゥングスロマンとして受け入れられた、とも言えるかもしれない。
作品評価的には、わたしは……ノーコメントということで(汗)。
個人的には、この供犠的な、死の欲動を主軸にすることでカタルシスを得る、いわゆる悲劇的な作品が、最近のアニメには少ないと思う。ハリウッドも少ない。悲劇となるとどうも形式ばった感じのものが多い。それは、科学というゆりかごに守られたわたしたちが、悲劇的な要素から遠ざけられているせいもあるだろう。そんな中で、作品の内容はともかく、こういった悲劇的なものが受取手の内面に迫って受けた、というこの現象は、オタク文化の多様性を維持するという意味では良いことであるとは思う。その点については、ある程度の評価が与えられてもいいのではないだろうか。
……いや、そもそも二次元キャラが死んで「泣けるからいい作品だ」とか言っているオタク自体をわたしは批判しているんだけどね。
別にオナニーも泣くのも鬱るのも批判しないが、「泣いているボクチンはイイコなんでちゅー」的な「自らのケガレ(死の欲動)を隠蔽する所作として」哲学やら精神分析やらいろんな言説でお化粧をするのがキモチワルイ。まだ「誠死ね」のような反応が正直で清清しい。とはいえこんなアニメに感動する(いい意味悪い意味含め)奴らも(ry。
まあ、きれいな悲劇じゃなくて、ケガレとしての「グロ」や「恋愛のどろどろ」を前景化した分(っていうか作り手はこれをかなり意識しているんじゃないかと思えた)、こういう擁護記事もたまにはいいかな、と思っただけである。
うじゃぱー。
深い意味はありません。