一応報告。
2008/09/17/Wed
ごちゃごちゃやってた。
ここねー。
なーんていうか、言っている表層だけ考えればスキゾフレニックなんだけど、あっさりパラノイアックなところが漏れてしまった、って感じだなー。
彼女の言う「S」は、精神分析で言う「マゾシスムの他者化」としてのサディスムじゃなくて、ただのファルスだと解釈できる。それらのコメントがわたしのコメントに対するものと仮定した場合の文脈によるが。
うん。彼女のファルスは立派に機能している。むしろこの「構ってちゃん乙w」という態度でブログを書いた方が、彼女自身の症状のためにはいいんじゃないだろうか。どっちが本音に近いかを、その横にあるコメント欄だと判断すれば、だけど。
っていうかこういう本音的な態度と記事内の態度が全然違うことに気持ち悪くなんないんだろうか?
いやわたしもブログ前半はものすげえ他人意識してぎこちないけどさ。
こいつもツレション好き人間だったというわけだな。わたしの判断として。
ああ一応断っておくけど、彼女がわたしに不快を感じるのはいいのだよ。それについては問題ない。後半は不快になるだろうなーとはうすうす思いながら書いたわけだし。
問題は、わたしの指摘を排除したことだ(もちろん彼女の内面で彼女がいろいろ思考している可能性は否定しない)。かのコメントがわたしに対してならば、わたしという言葉で表される幻想に彼女は引っかかっているのは確かである。引っかかってないならリアクションしないでしょ? スルーするもの。もちろんわたしが攻撃的に(まさに「イチャモン」)受け取られるような言葉で書いたからだ、と言われるかもしれないが、じゃあ何故攻撃的に接しられたら引っかかるの? ということだ。わたしはここについて考えている。わたしは攻撃的に接触される即ち不快なものに興味が向いてしまう。従ってこの彼女の態度について興味が向いてしまった。それは置いておくと、彼女はわたしについて感じた不快を前に、立ち止まれている。少なくともわたしが構築した意味を排除している。わたしという「構ってちゃん」(即ち空気が読めない人)に引っかかっているにも関わらず。ここが少なくともわたしと違うところだ、という話。
ホンモノのマゾヒストじゃなかった、ってことだな。あくまでも精神分析で言うマゾヒストだけど。
なんだ、彼女についてわたしが言った「商業作家」って当たってるじゃん。とふと納得してしまった。
彼女の「弱い奴ほどよく吼える」という言葉が、「愛されない奴ほど喋る」に聞こえてしまう。確かに彼女はコメント者から「愛されている」とは言えないが感情移入されている。それに多数派の暴力を感じてはいるが、同時に嫉妬を感じているのは事実だ。もちろんこれは、わたし自身が感情移入ベタだから他人から感情移入されていても気づかない、という構造によるものだ、と言われたら、そうだと答えるだろう。
自分が愛されない「物体」だと気づいちゃったわけだから仕方ないんだけどさー。この「物体」は心因的なものによる「愛されない」ではない、と言うこと。
まあ感情移入されることを「精液」だなんて言って不快に感じてしまうんだからどうしようもないんだけどね。
そんなこんなでわたしの中での引っかかり、即ちこのコメントの最初にある興味について、いろいろ納得できたのでこれについては終了。彼女もわたしとの関係に断絶を敷きたがっているようだし。
反論はあってもいいけどスルーするよ。いろいろ体調崩れてる。
ちゃおー(気に入ったらしい)。
自閉症の積極奇異と受動の違いって、この「嫉妬」とは呼べないけれどそれの原型のようなものの違いにあるんじゃなかろうか。
要するに積極奇異も受動も同じ未去勢な主体ではあるが、「愛され合う」という意味での「人なるもの」になるためのイニシエーション、即ち去勢(の想像的側面が強いもの)されたがっている度合い強いのが、積極奇異群ではないだろうか。「人に愛されない物体」(自分が器質因内因的に感情移入できないため)であるのに、「愛されよう」としてしまうのが、積極奇異群、ということだろうか。
こんな精神分析的理屈(っていうか文体だな)はちょっと自分で納得いかない点もあるけれど、まあメモのようなものとして。
あーしんど。
追記。
待ってたら飽きてきた。
追記2。
さて、ここのコメント者は当のブログ主ではなくわたしの方を「キ●ガイ」と判断したようだが、この判断基準について考えてみるのも面白いだろう。
さーみんなで考えよー。
っていうか根性あんなw このコメント者。こっちに興味が向いてきたわw
追記3。
先の文章で、「自閉症者は感情移入できない」みたいな論旨になっているけど、「感情移入」と呼べるかどうかは置いておいて、そのような状態は起こりうる。『自閉症の謎を解き明かす』にある例を紹介しよう。
ある自閉症者が、テレビで飢饉のニュースをやっているのを見た。その時彼は、不快な感情を示したと言う。これは飢饉に苦しんでいる人たちに感情移入している、と言えばそうなるだろう。しかし著者ウタ・フリスはこれについて以下のような解釈をしている。その自閉症者は、実際に自分が飢えに苦しんだことがあるので、言葉の(一義的な)意味を理解できる彼は、自分が経験した飢えを思い出し、苦しんだのだ、と。
わたしはまさにこれが、感情移入の原型あるいは本質だと考えている。
この原型が快楽原則や現実原則などにより幻想として共有できるものになったもの(ここではシニフィアンと言い切ってよいぐらいだ)が、一般で言うところの「感情移入」ではないか。
そのように思う。
あ、なんかわかった。「空気を読めること」と「空気に苦もなく従えること」の違いだな。最近使われている「空気が読めること」には「従うこと」という意味が付加されてはいるが。
ここねー。
なーんていうか、言っている表層だけ考えればスキゾフレニックなんだけど、あっさりパラノイアックなところが漏れてしまった、って感じだなー。
彼女の言う「S」は、精神分析で言う「マゾシスムの他者化」としてのサディスムじゃなくて、ただのファルスだと解釈できる。それらのコメントがわたしのコメントに対するものと仮定した場合の文脈によるが。
うん。彼女のファルスは立派に機能している。むしろこの「構ってちゃん乙w」という態度でブログを書いた方が、彼女自身の症状のためにはいいんじゃないだろうか。どっちが本音に近いかを、その横にあるコメント欄だと判断すれば、だけど。
っていうかこういう本音的な態度と記事内の態度が全然違うことに気持ち悪くなんないんだろうか?
いやわたしもブログ前半はものすげえ他人意識してぎこちないけどさ。
こいつもツレション好き人間だったというわけだな。わたしの判断として。
ああ一応断っておくけど、彼女がわたしに不快を感じるのはいいのだよ。それについては問題ない。後半は不快になるだろうなーとはうすうす思いながら書いたわけだし。
問題は、わたしの指摘を排除したことだ(もちろん彼女の内面で彼女がいろいろ思考している可能性は否定しない)。かのコメントがわたしに対してならば、わたしという言葉で表される幻想に彼女は引っかかっているのは確かである。引っかかってないならリアクションしないでしょ? スルーするもの。もちろんわたしが攻撃的に(まさに「イチャモン」)受け取られるような言葉で書いたからだ、と言われるかもしれないが、じゃあ何故攻撃的に接しられたら引っかかるの? ということだ。わたしはここについて考えている。わたしは攻撃的に接触される即ち不快なものに興味が向いてしまう。従ってこの彼女の態度について興味が向いてしまった。それは置いておくと、彼女はわたしについて感じた不快を前に、立ち止まれている。少なくともわたしが構築した意味を排除している。わたしという「構ってちゃん」(即ち空気が読めない人)に引っかかっているにも関わらず。ここが少なくともわたしと違うところだ、という話。
ホンモノのマゾヒストじゃなかった、ってことだな。あくまでも精神分析で言うマゾヒストだけど。
なんだ、彼女についてわたしが言った「商業作家」って当たってるじゃん。とふと納得してしまった。
彼女の「弱い奴ほどよく吼える」という言葉が、「愛されない奴ほど喋る」に聞こえてしまう。確かに彼女はコメント者から「愛されている」とは言えないが感情移入されている。それに多数派の暴力を感じてはいるが、同時に嫉妬を感じているのは事実だ。もちろんこれは、わたし自身が感情移入ベタだから他人から感情移入されていても気づかない、という構造によるものだ、と言われたら、そうだと答えるだろう。
自分が愛されない「物体」だと気づいちゃったわけだから仕方ないんだけどさー。この「物体」は心因的なものによる「愛されない」ではない、と言うこと。
まあ感情移入されることを「精液」だなんて言って不快に感じてしまうんだからどうしようもないんだけどね。
そんなこんなでわたしの中での引っかかり、即ちこのコメントの最初にある興味について、いろいろ納得できたのでこれについては終了。彼女もわたしとの関係に断絶を敷きたがっているようだし。
反論はあってもいいけどスルーするよ。いろいろ体調崩れてる。
ちゃおー(気に入ったらしい)。
自閉症の積極奇異と受動の違いって、この「嫉妬」とは呼べないけれどそれの原型のようなものの違いにあるんじゃなかろうか。
要するに積極奇異も受動も同じ未去勢な主体ではあるが、「愛され合う」という意味での「人なるもの」になるためのイニシエーション、即ち去勢(の想像的側面が強いもの)されたがっている度合い強いのが、積極奇異群ではないだろうか。「人に愛されない物体」(自分が器質因内因的に感情移入できないため)であるのに、「愛されよう」としてしまうのが、積極奇異群、ということだろうか。
こんな精神分析的理屈(っていうか文体だな)はちょっと自分で納得いかない点もあるけれど、まあメモのようなものとして。
あーしんど。
追記。
待ってたら飽きてきた。
追記2。
さて、ここのコメント者は当のブログ主ではなくわたしの方を「キ●ガイ」と判断したようだが、この判断基準について考えてみるのも面白いだろう。
さーみんなで考えよー。
っていうか根性あんなw このコメント者。こっちに興味が向いてきたわw
追記3。
先の文章で、「自閉症者は感情移入できない」みたいな論旨になっているけど、「感情移入」と呼べるかどうかは置いておいて、そのような状態は起こりうる。『自閉症の謎を解き明かす』にある例を紹介しよう。
ある自閉症者が、テレビで飢饉のニュースをやっているのを見た。その時彼は、不快な感情を示したと言う。これは飢饉に苦しんでいる人たちに感情移入している、と言えばそうなるだろう。しかし著者ウタ・フリスはこれについて以下のような解釈をしている。その自閉症者は、実際に自分が飢えに苦しんだことがあるので、言葉の(一義的な)意味を理解できる彼は、自分が経験した飢えを思い出し、苦しんだのだ、と。
わたしはまさにこれが、感情移入の原型あるいは本質だと考えている。
この原型が快楽原則や現実原則などにより幻想として共有できるものになったもの(ここではシニフィアンと言い切ってよいぐらいだ)が、一般で言うところの「感情移入」ではないか。
そのように思う。
あ、なんかわかった。「空気を読めること」と「空気に苦もなく従えること」の違いだな。最近使われている「空気が読めること」には「従うこと」という意味が付加されてはいるが。