「ヤンキー文化」と「オタク文化」
2006/12/20/Wed
斎藤環氏著『文学の徴候』を(一年ぐらいかけて(汗))読了した。ほとんど読んではいたんですが読んでなかった章とかをふと思い出して読み通してみた、という感じです。
で、最後に金原ひとみ氏に触れているんですが、その内容はともかく、「ヤンキー文化」に言及していることに目が行きました。そのあたりのくだりを引用します。
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現代の若者は、コミュニケーションを軸として、おおまかに「ひきこもり系」と「じぶん探し系」という、二つの部族として棲み分ける。「ひきこもり系」とは、コミュニケーションが不得手で対人関係が少なく、しかし「自己イメージの不確かさ」についての葛藤が少ないタイプの若者たちだ。彼らは自己の内的過程に没頭する傾向が強く、そのぶん創造性も高い。いわゆる「おたく」もここに含まれる。いまどき創作活動に関心を持つような若者は、そのほとんどが「ひきこもり系」だ。
一方、「じぶん探し系」の若者は、過剰なまでにコミュニカティブで、友人も100人のオーダーで存在する。異性関係においても早熟で、常に流動性の高い対人関係を生きている。しかしそのぶん、孤独に対する耐性が低く、自己イメージが安定しない。コンビニやファーストフードの前にたむろする、金髪にピアスの若者たちは、この部族に所属する。
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前者が「オタク文化」、後者が「ヤンキー文化」になりますか。ふむ。パラノイア構成要素の「差異化」と「同一化」の極端化ということになるでしょうか。私は前者ですねえ。後者は宮台氏のコギャルなんかもあてはまるでしょう。
とはいえ、最近のオタク文化も、そのコミュニティの中で「同一化」への希求を求めている感じがします。まあそれは「同一化」つまり同調をよしとする「ヤンキー文化」においても「世間から突出しない程度に微調整された差異化志向」(斎藤氏の同著より)という感じで、その内部には逆方向の志向があるのと一緒でしょう。しかし斎藤氏はヤンキー文化のこの志向を、同調圧力との間に生じた「嗜好なき嗜好」と表現していますが。
つまりはヤンキー文化にしろオタク文化にしろ、それに所属する個人の内的志向が「差異化」「同一化」どっちが強いか、という問題ではなく、文化としてどっちが大きく表出した文化か、ということだと思います。オタク文化に所属しているからっていって「差異化」志向が強い人間ばっかり、というわけじゃない、という話です。若者にとってみたらそういう二つの部族文化が目の前にあるわけですから、どっちを選ぶかというだけに過ぎません。
「差異化」志向というのは「確かなもの」化志向です。だからオタク文化は表面上「確かな」表出が目立つのでしょう。「同一化」は他人と同調するのが目的なので、結果自分が「曖昧化」します。「自己イメージが安定しない」わけですね。クレッチマーの三気質でいえば、オタク文化は内閉性気質、ヤンキー文化は同調性気質といえましょうか。ではオタクよりヤンキーの方が大人なのか、とは私は思いませんが(汗)。
ヤンキー文化といえば実は私の友人には結構いたりします。高校時代から飲み屋街をうろついていたこともあって、そういうサンプルにはことかきません。が、大人になるにつれやっぱりそういうのとは疎遠になってきましたねえ……。ということでヤンキー文化を知るための資料として「面白い」のが田島みるく氏著「本当にあった愉快な話」というマンガを挙げておきましょう。これは読者からの届いたエピソードを元にマンガ化するわけですが、この読者層がどうも「ヤンキー文化」メイン臭いんです。面白いですよ。なかなか。
ラカンの「人格はパラノイアである」という論や鏡像段階論を見ても、人間には誰しも「同一化」と「差異化」の志向があると思います。しかしそれは表面的な感情や思考に隠されてなかなか見えにくいものだと思います。深層的な欲動だと私は思うのですね。自分の気持ちや言動がどうなっているか、この二項論理で考えると自己を客観視できるのではないでしょうか。自己を論理化していけばそれは対象化し、ラカンでいえば「黄金率で表記できる対象a」になるかもしれませんし、保坂和志氏の小説の登場人物のような「無我」的な自己になっていくかもしれません。人間は社会の中でしか生きられません。社会の中で生きていくには、「差異化」「同一化」どちらが正解かではなく、自分が今その二項を対極にした軸のどの辺にいるのか、「自我を客観視」することが重要となるのではないでしょうか。
話は変わりますが。
オタク文化にしろヤンキー文化にしろ「確かなもの」≒「ベタなもの」志向というのがあると思うのですよ。「ベタ」についてはpikarrr氏が見事な考察をしているのでそちらを読んでいただくとして。
でそれを批判するというより、自分もそういうケがあるので何かなあ、と考えたところ、擁護の論理が見つかってしまいました。それは、ヘーゲルの芸術観です。ヘーゲルは古代ギリシャの芸術を例に挙げて、共同体を統一するため、神・聖性に近づくための芸術を芸術の本質としました。だから「芸術宗教」などと言ったわけですね。これは「文脈」や「コンテクスト」などの換喩で繋ぐと、「確かなもの」を共有することによる同一化志向と言えると思います。
ということは。
ファンシーや萌えキャラなどの「ベタなもの」の氾濫は、聖性が民衆に一般化した結果である、のか? どうなのか? ええ? ちょっとそれは……。ヘーゲルが求めていた共同体の統一とか共同体精神とか、それを体現した芸術がやっとポストモダンに現れたのか?
えええええ。
……そりゃー私は表参道のイルミネーションよりかは新宿ゴールデン街の店と店との間のおやじが立ちションするようなところに猫がいたりすることの方に心動かされたりしますがね。私にゃ関係のない世界ですかね……?
で、最後に金原ひとみ氏に触れているんですが、その内容はともかく、「ヤンキー文化」に言及していることに目が行きました。そのあたりのくだりを引用します。
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現代の若者は、コミュニケーションを軸として、おおまかに「ひきこもり系」と「じぶん探し系」という、二つの部族として棲み分ける。「ひきこもり系」とは、コミュニケーションが不得手で対人関係が少なく、しかし「自己イメージの不確かさ」についての葛藤が少ないタイプの若者たちだ。彼らは自己の内的過程に没頭する傾向が強く、そのぶん創造性も高い。いわゆる「おたく」もここに含まれる。いまどき創作活動に関心を持つような若者は、そのほとんどが「ひきこもり系」だ。
一方、「じぶん探し系」の若者は、過剰なまでにコミュニカティブで、友人も100人のオーダーで存在する。異性関係においても早熟で、常に流動性の高い対人関係を生きている。しかしそのぶん、孤独に対する耐性が低く、自己イメージが安定しない。コンビニやファーストフードの前にたむろする、金髪にピアスの若者たちは、この部族に所属する。
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前者が「オタク文化」、後者が「ヤンキー文化」になりますか。ふむ。パラノイア構成要素の「差異化」と「同一化」の極端化ということになるでしょうか。私は前者ですねえ。後者は宮台氏のコギャルなんかもあてはまるでしょう。
とはいえ、最近のオタク文化も、そのコミュニティの中で「同一化」への希求を求めている感じがします。まあそれは「同一化」つまり同調をよしとする「ヤンキー文化」においても「世間から突出しない程度に微調整された差異化志向」(斎藤氏の同著より)という感じで、その内部には逆方向の志向があるのと一緒でしょう。しかし斎藤氏はヤンキー文化のこの志向を、同調圧力との間に生じた「嗜好なき嗜好」と表現していますが。
つまりはヤンキー文化にしろオタク文化にしろ、それに所属する個人の内的志向が「差異化」「同一化」どっちが強いか、という問題ではなく、文化としてどっちが大きく表出した文化か、ということだと思います。オタク文化に所属しているからっていって「差異化」志向が強い人間ばっかり、というわけじゃない、という話です。若者にとってみたらそういう二つの部族文化が目の前にあるわけですから、どっちを選ぶかというだけに過ぎません。
「差異化」志向というのは「確かなもの」化志向です。だからオタク文化は表面上「確かな」表出が目立つのでしょう。「同一化」は他人と同調するのが目的なので、結果自分が「曖昧化」します。「自己イメージが安定しない」わけですね。クレッチマーの三気質でいえば、オタク文化は内閉性気質、ヤンキー文化は同調性気質といえましょうか。ではオタクよりヤンキーの方が大人なのか、とは私は思いませんが(汗)。
ヤンキー文化といえば実は私の友人には結構いたりします。高校時代から飲み屋街をうろついていたこともあって、そういうサンプルにはことかきません。が、大人になるにつれやっぱりそういうのとは疎遠になってきましたねえ……。ということでヤンキー文化を知るための資料として「面白い」のが田島みるく氏著「本当にあった愉快な話」というマンガを挙げておきましょう。これは読者からの届いたエピソードを元にマンガ化するわけですが、この読者層がどうも「ヤンキー文化」メイン臭いんです。面白いですよ。なかなか。
ラカンの「人格はパラノイアである」という論や鏡像段階論を見ても、人間には誰しも「同一化」と「差異化」の志向があると思います。しかしそれは表面的な感情や思考に隠されてなかなか見えにくいものだと思います。深層的な欲動だと私は思うのですね。自分の気持ちや言動がどうなっているか、この二項論理で考えると自己を客観視できるのではないでしょうか。自己を論理化していけばそれは対象化し、ラカンでいえば「黄金率で表記できる対象a」になるかもしれませんし、保坂和志氏の小説の登場人物のような「無我」的な自己になっていくかもしれません。人間は社会の中でしか生きられません。社会の中で生きていくには、「差異化」「同一化」どちらが正解かではなく、自分が今その二項を対極にした軸のどの辺にいるのか、「自我を客観視」することが重要となるのではないでしょうか。
話は変わりますが。
オタク文化にしろヤンキー文化にしろ「確かなもの」≒「ベタなもの」志向というのがあると思うのですよ。「ベタ」についてはpikarrr氏が見事な考察をしているのでそちらを読んでいただくとして。
でそれを批判するというより、自分もそういうケがあるので何かなあ、と考えたところ、擁護の論理が見つかってしまいました。それは、ヘーゲルの芸術観です。ヘーゲルは古代ギリシャの芸術を例に挙げて、共同体を統一するため、神・聖性に近づくための芸術を芸術の本質としました。だから「芸術宗教」などと言ったわけですね。これは「文脈」や「コンテクスト」などの換喩で繋ぐと、「確かなもの」を共有することによる同一化志向と言えると思います。
ということは。
ファンシーや萌えキャラなどの「ベタなもの」の氾濫は、聖性が民衆に一般化した結果である、のか? どうなのか? ええ? ちょっとそれは……。ヘーゲルが求めていた共同体の統一とか共同体精神とか、それを体現した芸術がやっとポストモダンに現れたのか?
えええええ。
……そりゃー私は表参道のイルミネーションよりかは新宿ゴールデン街の店と店との間のおやじが立ちションするようなところに猫がいたりすることの方に心動かされたりしますがね。私にゃ関係のない世界ですかね……?