『はるがいったら』飛鳥井千砂――現実界は遠きにありて思うもの。
2006/12/25/Mon
※ネタバレ注意!
ネタバレ注意と書いたが、ネタバレしてもこの作品の面白さにはあまり関係なかろう。
面白かった。というと違う気がする。「フツーに面白かった」か。それもなんか違う。「フツーっぽいんだけど微妙なカンジが面白かった」になるんだろうか。今の言葉なら。
こういう「微妙なカンジ」の面白さは言葉にしにくい。批評しにくいのだ。諸手を挙げて評価する気にはなれないけどこの「微妙なカンジ」に惹かれたのは事実なので、そこをメインに掘り下げてみようかな、と。
さてネットでの書評は……。うーん。なんかキャラ小説として読まれてるのね、これって。キャラ小説ならそりゃ主人公姉の完璧主義が鼻につくっていうのはあるんだろうけど……。まあ雰囲気がラノベっぽいというかキャラ小説っぽいからそういう風に読んでしまうのはわからなくもない。
キャラ小説として読んだら最後の老犬の死による「ちょっとした成長」が重要になるんだろうけど、キャラ小説の文脈でそういう風に論じたらいけない作品だろうなあ、と思う。
とはいっても、どこから論じたらいいのやら。
「ラノベっぽいキャラ小説のスタイル」というところから行ってみよう。ラノベっぽいといってもラノベではないと思う。「キャラ小説」というところが重要なのだ。
「キャラ小説」というのは、「虚構としての登場人物」=「キャラ」を重視した小説だと思う。小説なんて全て虚構なので、「虚構度が高い登場人物」といってもいいだろう。なら「虚構」とは何ぞや? という話になる。
ここでラカンにご登場願おう(「飽きたー」という反論は却下)。ラカン論では、一般に私達が現実と思っている現実も、「想像界」と「象徴界」という「虚構」に過ぎない。本当の現実である「現実界」は、「クッションの縫い目の点」という「一の線」を介すなど、ふとしたはずみでしか私達の前に現れない。独我論的な自分が存在しなければ存在しない世界と、自分が存在しなくても存在する世界の違いだろうか。後者は一見「科学的」のように思えるが、科学において表現された世界も「象徴界」における世界(しかも「再現性」「反証可能性」の強いもので場合分けした一部の世界)の記述でしかないのだ。以降便宜的に前者の独我論的な世界を、一般的に私達が認知する虚構としての「現実」、後者をラカン論から「現実界」と呼び分ける。
「虚構」に戻ろう。一般的な「現実」を何故人は「虚構」と思わないのだろうか。それは現実のそこかしこに「クッションの縫い目の点」が落ちているからだろう。その点を基軸に「リアリティ」が広がる。しかしそれは「虚構」に過ぎない。「主観」といってもいいだろう。人はその虚構を他人と共有するために他者と何がしかのコミュニケーションでもって確認する。言葉でもなんでもいい。確認された事項は「現実」の要素として捉えられる。これが「コンテクスト」の根源だ。現代では「コンテクスト」に「リアリティ」を感じると言っても過言ではない。科学信仰という現代の特色を考えれば、「科学っぽい」コンテクストで書かれた言説を「現実」だと思うようなものだ。それがたとえ「クッションの縫い目の点」から乖離してしまっていても、コンテクストによるリアリティを覚えてしまうのだ。斎藤環氏は、それを「虚構のリアリティ」という一見矛盾に見える言葉で表現している。
「虚構のリアリティ」はオタク文化で顕著である。宇宙人「グレイ」の造形のように目が大きい「キャラ」に性欲を掻き立てられる「オタク」を想像すればわかりやすいだろう(私はそれ自体は批判しない)。彼らが「美少女キャラ」に萌えたり性欲を覚えたりするのは「オタク文化のコンテクスト」があるからなのだ。このコンテクストによりオタクは「虚構のリアリティ」を感じるわけだ。
しかし、話はオタクに限ったことではない。オタクじゃなくても私達は「コンテクスト」から逃れられないのだ。先程の「科学っぽい」コンテクストなどの例を考えたらわかるだろう。他にも「テレビドラマっぽい」コンテクスト、「政治活動っぽい」コンテクスト、現代ならオタクとかぶるところはあるだろうが「ネット社会における」コンテクストもある。最後の例を取り上げるなら2ちゃんでよく言われる「空気を読め」という言葉に象徴されるだろう。私はこれらコンテクストに流されることをいけないことだとは批判しない。それは「現実」としてあるものだから。
ではコンテクストから逃れた「裸の現実界」というものはどういうものだろう。
私達がもっとも大きく縛られているコンテクストは、言葉だ。ラカン論なら象徴界だ。日本人なら日本語だ。日本語の言語構造というコンテクストに縛られている。では言葉のない世界を想像すれば、「裸の現実界」に近似できるのではないか。私はそう考え、想像してみた。それは「曖昧な世界」だった。言葉があるからこそ、そこに「パソコン」があったり「コップ」があったり「机」があったりするのだ。言葉がなければそれは「一枚の曖昧な絵」に過ぎない。曖昧な世界を差異化し、それを確定させるものとして言葉は存在するのだ。主観で差異化して、「コップ」と呼ばれている物を認知したとしても、言葉がなければそれは「「机」と呼ばれている物から取り外された物」でしかない。何に使うかは私の自由だ。それに手を突っ込んで「パソコンのモニター」と呼ばれている物を叩き壊したっていい。「コップ」というコンテクストがあるから私はそれを「コップ」として使っているのだ。
だから、私は「クッションの縫い目の点」を介して覗き見る「現実界」は、「曖昧な世界」だと思っている。
ここでようやく『はるがいったら』の書評に移れる。
この作品はネタバレしようが面白さには関係ないと思われるので、がんがん書いてしまうが、介護が必要なほど弱ってしまった老犬はラストで死ぬ。予想通りだ。宮台氏が批判する「死にオチ」に近い。虚構の死を持ってきて、コンテクストで痛みや悲劇性を感じさせる、ラノベでありがちな構造だと私も思っていた。しかし何かが違う。ラノベではないことは明らかだが、サブカルのコンテクストで読んでも違う何かを感じた。犬だからか。犬は好きだがそうではない。パブロフの犬的な「泣かせる作品だから泣く」という風に感じる感情ではない。
やはり、作品全体から立ち上がる「ちぐはぐさ」が原因なのだろう。
この作品は最初に述べたように、「キャラ小説」としてのコンテクストを感じる。完璧主義者の姉、老成した弟。この二人の視点で物語が描かれるが、この二人を内面を掘り下げているとはいえない。私小説的ではない。二人の性格はどこか戯画的に書かれている。一人称の移動とこの戯画的なところが、読者を客観の位置まで押し戻す。そんな物語の中でキャラは動く。
コンテクストについて少し突っ込むならば、私はテレビドラマ、それも90年代以降の夜9時からやっているようなドラマの感じを受けた。それは登場人物の長い独白に特徴的に現れているだろう。現代人はモノローグを好まない。よってモノローグ的な長い独白は、対話(ダイアローグ)という形で描かれることが多い。「渡る世間は鬼ばかり」なんかを思い出してくれればわかりやすいか。現実ではこのようなダイアローグをする機会はめったにない。演劇論としてのお約束、コンテクストと言っていいだろう。しかしモノローグは前の記事で書いたように演劇の呪術的効果を大きく担いうる形式だと私は思う。鳥肌実の演説芸などに、モノローグの演劇的呪術性らしき残滓が残っているだろうか。この呪術性により、彼がホンモノのキチガイのように見えてしまうのだ。
現代における「独白は馴染めない、対話が普通だろ」というコンテクストのせいで、劇作家はモノローグ的な独白をダイアローグで描くしかない。しかしそれさえも今やコンテクスト化していると言える。なので私はそれらをもって「テレビドラマっぽいコンテクスト」を感じたのだろう。
もちろん長い独白があれば即テレビドラマっぽい、というわけではない。ここを考察すると長くなりそうなので、そういう行間が特に長ゼリに感じられた、ということにしておこう。
また、最近の流行なのか知らないがこの作品もシーンが細切れである。『削除ボーイズ0326』の書評でも書いたが、私はそういう作品を「映像的」と思ってしまう。こういうところもあっただろう。
この二点から、私の表現でいうなら、「テレビドラマっぽい」コンテクストの上に成り立つ「虚構のリアリティ」を感じたわけだ。虚構度で言えばサブカルのそれに近い。だから手近な「ラノベ」が換喩され、「キャラ小説」というコンテクストで読まれるのであろう。
テレビドラマっぽいコンテクストによる「虚構のリアリティ」で書かれている作品だが、それで終わっていない。それが先に書いた「ちぐはぐさ」だ。
姉の完璧主義は戯画的に書かれているが、完璧主義なのに婚約者がいる幼馴染と付き合っている。姉は能動的、弟は受動的であり、神話学的な「男性性/女性性」を考えたら逆である。物語の筋的には不必要に思える弟の一人称。物語的にご都合主義と思われかねないストーカーとの対面。あげたらきりがない。こういった様々なお約束やコンテクスト、いうなれば「ベタ」を「少しだけ」裏切るような箇所が多く見られる。「虚構のリアリティ」で作られた砂糖のお城に、指でそこかしこに穴を開けているような感じだ。結果その砂糖の城は蟻がたかったかのように見える。しかし決して砂糖の城を崩すような裏切りではない。だからそういった穴=ちぐはぐさが多くあっても「虚構のリアリティ」という見かけの城の形は崩れない。崩れないのは、登場人物に「狂った」ような人間がおらず、全員どこか「善人」だからということもあるだろう(一人「魔女」と呼ばれるキャラがいるが、「悪人」ではない。「異物」と「悪人」の中間だ。これも一つの「指であけた穴」だろう)。私なんかはひねくれ者なので、その「善人」さも「虚構のリアリティ」に見えるが、これは作家本人の資質であるように思える。砂糖を城という形に固める糊として、この作家性が作用しているのだろうか。またこれがラストに作用して、さわやかな感じになってしまったのだろう。せっかく蟻にたかられたように見せている砂糖の城に、粉砂糖をかけてしまった。
とはいえ、このちぐはぐさが、老犬の死を「パブロフの犬的な悲しみ」や単なる「死にオチ」じゃない感動にせしめたのは事実だ。大体「虚構の死」は砂糖で味付けされているものだが、この作品においては、老犬の死に向かう描写だけは執拗にリアリティを求めた描写になっている。主人公二人の「人間としての」掘り下げとは対照的だ。人物を掘り下げなかったのが功を奏しているといえるだろう。小説がもっとも現実界に肉薄できるのは登場人物の内面だと私は思う。何故なら言葉の芸術であるが故、象徴界そのものを暗喩できるだからだ。しかし「キャラ小説」のキャラは虚構のリアリティにより成り立つ。コンテクストにより形式が与えられるのだ。コンテクストによるから、「現実」を感じさせる人物の個性がなくなり、「現実界」から乖離し、宮台氏の言う「主語の欠落」という状況になるのだろう。
この作品の登場人物は「キャラ」である。コンテクストに拠ったキャラ造形である。主人公二人はコンテクストに縛られた「文脈病」とも言える現代人、つまり読者の私達にも繋がるだろう。しかしそれぞれのキャラに、「虚構のリアリティ」上に、「故意に」ちぐはぐさを乗せている。そういう意味では弟の一人称も必要だったと言える。そこに「老犬の死」という、一見宮台氏が批判する「死にオチ」っぽい「虚構の死」を持ってくるにあたって、作者はそれを「コンテクストによる死」として読まれたくなかったのだと思う。その格闘の痕が窺える。前述のちぐはぐさは全てこのためなのかと思ってしまうほどだ。そこはそれほど明確にはなっていないけども、作品全体に散漫する「ちぐはぐさ」がここに集約されているような「カンジ」が、作品の骨格になっている。惜しむらくは、この骨格をはっきりさせるため、老犬の「醜い死」の描写量がもっとあってもよかったかもしれない。しかしそうすると砂糖の城が崩れてしまいかねないのか。うーん。バランス感覚、私には縁遠い感覚だ。
コンテクストという形式と、同調性気質的な作家性に支えられた砂糖の城に、故意に、指で穴をあけるような「虚構のリアリティ」への反発。表出としてあらわれる「ちぐはぐさ」。それは故意にリアルに書こうとした「老犬の死」に集約していく。
この「ちぐはぐさ」は居心地がいいものではない。老犬の死に繋がる骨格が曖昧だからだ。
しかし、だ。この主人公二人が戯画的に、虚構的に見えるのと同じく、私達自身も虚構化しているのだとしたら。情報化社会で、メジャーであろうがサブカルであろうが様々な小さな物語が氾濫する現代。私達自身が、無意識的にしろ意識的にしろ「虚構のリアリティ」化しているのではないだろうか。現代では様々なコンテクストを覚えなくては生きていけない。私達は現実界を繋ぐ「クッションの縫い目の点」から乖離していてもおかしくない。
身の回りに「クッションの縫い目の点」がなくなっているなら、私達は「虚構のリアリティ」に指で穴を開けるぐらいのことしかできないだろう。コンテクストから離れて生きていけないのだから。しかし、人に気付かれないように、たくさん穴を開けていればいつかはクッションの縫い目の点らしきものに巡り会えるかもしれない。そうしなくても、足元に落ちているかもしれない。要は、「クッションの縫い目の点」を見ようとする視線が必要なのだ。まあ、現実社会ではそんなもん必要ないかもしれないが……。
そんな時代の私達にとって、「クッションの縫い目の点」は曖昧に見えてしまう。そこから覗く現実界も「曖昧な世界」だろう。そこに違いはない。「虚構の現実界」とも言えるだろうか。しかし芸術は「現実界」を虚構化しようとしたものだから、表現作品から立ち上がるのは「虚構の現実界」でよいのかもしれない。
作品全体に行き渡る「ちぐはぐさ」を「老犬の死」に明確に繋げなかったのは、こういう現代の事情があるから、というのは深読みだが、文章にしておこう。
何故文章にしておこうと思ったのか。私が考える現実界とは、「曖昧な世界」である。言葉のない動物(暗喩ですよ)の目線から見た世界だ。この作品では「動物」という言葉が象徴的に挿入されている。主人公の姉も自分が動物だと思う。コンテクストにまみれ、「人間らしさ」という「虚構のリアリティ」の上に成り立っている私達は、どこかしら動物目線で見る「現実界」を求めているのではないだろうか。そういう行間が私には感じられた。
また、主人公姉の完璧主義ぶりは、嶽本野ばら氏的なスノビズムを感じさせる。ポストモダンにおけるスノビズムはあるピン止め的な意味を持っていると思う。それを言葉にすると長くなりそうなので詳細を述べるのはやめておくが、今後こういったスノビズム的な「キャラ」が、キャラ小説の突破口になるような気がする。スノビズム的なキャラの表層は、虚構と相性がよい。しかしその内面はそういう表層をすることの理由がある。それだけでこれまでのキャラ小説が置き去りにしてきた「情念という曖昧な内面」の種がそこにある。前の記事で書いた「差異化」と「同一化」という二つの欲動の融合が、コミュニティの縮小化の最終形として「個人の体」で完結する。そういった文脈で形式主義、スノビズムを見ると、動物化しているポストモダンには格好のモチーフとなりうるのではないか。そこからスノビズムはどこに向かうのか。動物化を自分の表皮一枚で、「形式」で拒否した彼らはどうやって生きていくのか。今私がもっとも興味があるところである。
ネットの書評を見る限り、この作品はコンテクストに沿った読まれ方をしていると思う。わかりやすくコンテクストから脱したとしても現代ではそれは何らかのコンテクストに含まれてしまう。無限だ。現代の作家は、何らかのコンテクストに縛られた「小さな物語」しか書けないのかもしれない。
「小さな物語」化は、オタク文化だけの話ではないのだ。
コンテクストから逃れるには、あえてコンテクストを踏襲し、「ほんの少しだけズラす」しかやり方がないのか。2ちゃんなら「空気を読めたズレ」になるが、それは単体ではコンテクストを破れない。むしろ「涼宮ハルヒ」のようにズレに気付かれない場合が多い。
オタク文化を論じた時に、以降「エヴァンゲリオン」のようなそれまでのコンテクストを覆す作品は今後生まれないだろう、と書いた。これもオタク文化だけに限らない。文芸一般にも言えることだろう。
居心地の悪いちぐはぐさと、一般的「死にオチ」だけど「少し違った」感覚。そこから読み解いてみたのだが、深読みっぽい批評になってしまった。
作品単体としては、先に書いたように「力のあるズレ」ではないので評価しにくいのは事実だ。しかし、こういう「微妙なズレ」が今後文芸界には重要になってくるのではないだろうか。
現代人の私達にとって、現実界は遠く離れてしまったのだ。
ネタバレ注意と書いたが、ネタバレしてもこの作品の面白さにはあまり関係なかろう。
面白かった。というと違う気がする。「フツーに面白かった」か。それもなんか違う。「フツーっぽいんだけど微妙なカンジが面白かった」になるんだろうか。今の言葉なら。
こういう「微妙なカンジ」の面白さは言葉にしにくい。批評しにくいのだ。諸手を挙げて評価する気にはなれないけどこの「微妙なカンジ」に惹かれたのは事実なので、そこをメインに掘り下げてみようかな、と。
さてネットでの書評は……。うーん。なんかキャラ小説として読まれてるのね、これって。キャラ小説ならそりゃ主人公姉の完璧主義が鼻につくっていうのはあるんだろうけど……。まあ雰囲気がラノベっぽいというかキャラ小説っぽいからそういう風に読んでしまうのはわからなくもない。
キャラ小説として読んだら最後の老犬の死による「ちょっとした成長」が重要になるんだろうけど、キャラ小説の文脈でそういう風に論じたらいけない作品だろうなあ、と思う。
とはいっても、どこから論じたらいいのやら。
「ラノベっぽいキャラ小説のスタイル」というところから行ってみよう。ラノベっぽいといってもラノベではないと思う。「キャラ小説」というところが重要なのだ。
「キャラ小説」というのは、「虚構としての登場人物」=「キャラ」を重視した小説だと思う。小説なんて全て虚構なので、「虚構度が高い登場人物」といってもいいだろう。なら「虚構」とは何ぞや? という話になる。
ここでラカンにご登場願おう(「飽きたー」という反論は却下)。ラカン論では、一般に私達が現実と思っている現実も、「想像界」と「象徴界」という「虚構」に過ぎない。本当の現実である「現実界」は、「クッションの縫い目の点」という「一の線」を介すなど、ふとしたはずみでしか私達の前に現れない。独我論的な自分が存在しなければ存在しない世界と、自分が存在しなくても存在する世界の違いだろうか。後者は一見「科学的」のように思えるが、科学において表現された世界も「象徴界」における世界(しかも「再現性」「反証可能性」の強いもので場合分けした一部の世界)の記述でしかないのだ。以降便宜的に前者の独我論的な世界を、一般的に私達が認知する虚構としての「現実」、後者をラカン論から「現実界」と呼び分ける。
「虚構」に戻ろう。一般的な「現実」を何故人は「虚構」と思わないのだろうか。それは現実のそこかしこに「クッションの縫い目の点」が落ちているからだろう。その点を基軸に「リアリティ」が広がる。しかしそれは「虚構」に過ぎない。「主観」といってもいいだろう。人はその虚構を他人と共有するために他者と何がしかのコミュニケーションでもって確認する。言葉でもなんでもいい。確認された事項は「現実」の要素として捉えられる。これが「コンテクスト」の根源だ。現代では「コンテクスト」に「リアリティ」を感じると言っても過言ではない。科学信仰という現代の特色を考えれば、「科学っぽい」コンテクストで書かれた言説を「現実」だと思うようなものだ。それがたとえ「クッションの縫い目の点」から乖離してしまっていても、コンテクストによるリアリティを覚えてしまうのだ。斎藤環氏は、それを「虚構のリアリティ」という一見矛盾に見える言葉で表現している。
「虚構のリアリティ」はオタク文化で顕著である。宇宙人「グレイ」の造形のように目が大きい「キャラ」に性欲を掻き立てられる「オタク」を想像すればわかりやすいだろう(私はそれ自体は批判しない)。彼らが「美少女キャラ」に萌えたり性欲を覚えたりするのは「オタク文化のコンテクスト」があるからなのだ。このコンテクストによりオタクは「虚構のリアリティ」を感じるわけだ。
しかし、話はオタクに限ったことではない。オタクじゃなくても私達は「コンテクスト」から逃れられないのだ。先程の「科学っぽい」コンテクストなどの例を考えたらわかるだろう。他にも「テレビドラマっぽい」コンテクスト、「政治活動っぽい」コンテクスト、現代ならオタクとかぶるところはあるだろうが「ネット社会における」コンテクストもある。最後の例を取り上げるなら2ちゃんでよく言われる「空気を読め」という言葉に象徴されるだろう。私はこれらコンテクストに流されることをいけないことだとは批判しない。それは「現実」としてあるものだから。
ではコンテクストから逃れた「裸の現実界」というものはどういうものだろう。
私達がもっとも大きく縛られているコンテクストは、言葉だ。ラカン論なら象徴界だ。日本人なら日本語だ。日本語の言語構造というコンテクストに縛られている。では言葉のない世界を想像すれば、「裸の現実界」に近似できるのではないか。私はそう考え、想像してみた。それは「曖昧な世界」だった。言葉があるからこそ、そこに「パソコン」があったり「コップ」があったり「机」があったりするのだ。言葉がなければそれは「一枚の曖昧な絵」に過ぎない。曖昧な世界を差異化し、それを確定させるものとして言葉は存在するのだ。主観で差異化して、「コップ」と呼ばれている物を認知したとしても、言葉がなければそれは「「机」と呼ばれている物から取り外された物」でしかない。何に使うかは私の自由だ。それに手を突っ込んで「パソコンのモニター」と呼ばれている物を叩き壊したっていい。「コップ」というコンテクストがあるから私はそれを「コップ」として使っているのだ。
だから、私は「クッションの縫い目の点」を介して覗き見る「現実界」は、「曖昧な世界」だと思っている。
ここでようやく『はるがいったら』の書評に移れる。
この作品はネタバレしようが面白さには関係ないと思われるので、がんがん書いてしまうが、介護が必要なほど弱ってしまった老犬はラストで死ぬ。予想通りだ。宮台氏が批判する「死にオチ」に近い。虚構の死を持ってきて、コンテクストで痛みや悲劇性を感じさせる、ラノベでありがちな構造だと私も思っていた。しかし何かが違う。ラノベではないことは明らかだが、サブカルのコンテクストで読んでも違う何かを感じた。犬だからか。犬は好きだがそうではない。パブロフの犬的な「泣かせる作品だから泣く」という風に感じる感情ではない。
やはり、作品全体から立ち上がる「ちぐはぐさ」が原因なのだろう。
この作品は最初に述べたように、「キャラ小説」としてのコンテクストを感じる。完璧主義者の姉、老成した弟。この二人の視点で物語が描かれるが、この二人を内面を掘り下げているとはいえない。私小説的ではない。二人の性格はどこか戯画的に書かれている。一人称の移動とこの戯画的なところが、読者を客観の位置まで押し戻す。そんな物語の中でキャラは動く。
コンテクストについて少し突っ込むならば、私はテレビドラマ、それも90年代以降の夜9時からやっているようなドラマの感じを受けた。それは登場人物の長い独白に特徴的に現れているだろう。現代人はモノローグを好まない。よってモノローグ的な長い独白は、対話(ダイアローグ)という形で描かれることが多い。「渡る世間は鬼ばかり」なんかを思い出してくれればわかりやすいか。現実ではこのようなダイアローグをする機会はめったにない。演劇論としてのお約束、コンテクストと言っていいだろう。しかしモノローグは前の記事で書いたように演劇の呪術的効果を大きく担いうる形式だと私は思う。鳥肌実の演説芸などに、モノローグの演劇的呪術性らしき残滓が残っているだろうか。この呪術性により、彼がホンモノのキチガイのように見えてしまうのだ。
現代における「独白は馴染めない、対話が普通だろ」というコンテクストのせいで、劇作家はモノローグ的な独白をダイアローグで描くしかない。しかしそれさえも今やコンテクスト化していると言える。なので私はそれらをもって「テレビドラマっぽいコンテクスト」を感じたのだろう。
もちろん長い独白があれば即テレビドラマっぽい、というわけではない。ここを考察すると長くなりそうなので、そういう行間が特に長ゼリに感じられた、ということにしておこう。
また、最近の流行なのか知らないがこの作品もシーンが細切れである。『削除ボーイズ0326』の書評でも書いたが、私はそういう作品を「映像的」と思ってしまう。こういうところもあっただろう。
この二点から、私の表現でいうなら、「テレビドラマっぽい」コンテクストの上に成り立つ「虚構のリアリティ」を感じたわけだ。虚構度で言えばサブカルのそれに近い。だから手近な「ラノベ」が換喩され、「キャラ小説」というコンテクストで読まれるのであろう。
テレビドラマっぽいコンテクストによる「虚構のリアリティ」で書かれている作品だが、それで終わっていない。それが先に書いた「ちぐはぐさ」だ。
姉の完璧主義は戯画的に書かれているが、完璧主義なのに婚約者がいる幼馴染と付き合っている。姉は能動的、弟は受動的であり、神話学的な「男性性/女性性」を考えたら逆である。物語の筋的には不必要に思える弟の一人称。物語的にご都合主義と思われかねないストーカーとの対面。あげたらきりがない。こういった様々なお約束やコンテクスト、いうなれば「ベタ」を「少しだけ」裏切るような箇所が多く見られる。「虚構のリアリティ」で作られた砂糖のお城に、指でそこかしこに穴を開けているような感じだ。結果その砂糖の城は蟻がたかったかのように見える。しかし決して砂糖の城を崩すような裏切りではない。だからそういった穴=ちぐはぐさが多くあっても「虚構のリアリティ」という見かけの城の形は崩れない。崩れないのは、登場人物に「狂った」ような人間がおらず、全員どこか「善人」だからということもあるだろう(一人「魔女」と呼ばれるキャラがいるが、「悪人」ではない。「異物」と「悪人」の中間だ。これも一つの「指であけた穴」だろう)。私なんかはひねくれ者なので、その「善人」さも「虚構のリアリティ」に見えるが、これは作家本人の資質であるように思える。砂糖を城という形に固める糊として、この作家性が作用しているのだろうか。またこれがラストに作用して、さわやかな感じになってしまったのだろう。せっかく蟻にたかられたように見せている砂糖の城に、粉砂糖をかけてしまった。
とはいえ、このちぐはぐさが、老犬の死を「パブロフの犬的な悲しみ」や単なる「死にオチ」じゃない感動にせしめたのは事実だ。大体「虚構の死」は砂糖で味付けされているものだが、この作品においては、老犬の死に向かう描写だけは執拗にリアリティを求めた描写になっている。主人公二人の「人間としての」掘り下げとは対照的だ。人物を掘り下げなかったのが功を奏しているといえるだろう。小説がもっとも現実界に肉薄できるのは登場人物の内面だと私は思う。何故なら言葉の芸術であるが故、象徴界そのものを暗喩できるだからだ。しかし「キャラ小説」のキャラは虚構のリアリティにより成り立つ。コンテクストにより形式が与えられるのだ。コンテクストによるから、「現実」を感じさせる人物の個性がなくなり、「現実界」から乖離し、宮台氏の言う「主語の欠落」という状況になるのだろう。
この作品の登場人物は「キャラ」である。コンテクストに拠ったキャラ造形である。主人公二人はコンテクストに縛られた「文脈病」とも言える現代人、つまり読者の私達にも繋がるだろう。しかしそれぞれのキャラに、「虚構のリアリティ」上に、「故意に」ちぐはぐさを乗せている。そういう意味では弟の一人称も必要だったと言える。そこに「老犬の死」という、一見宮台氏が批判する「死にオチ」っぽい「虚構の死」を持ってくるにあたって、作者はそれを「コンテクストによる死」として読まれたくなかったのだと思う。その格闘の痕が窺える。前述のちぐはぐさは全てこのためなのかと思ってしまうほどだ。そこはそれほど明確にはなっていないけども、作品全体に散漫する「ちぐはぐさ」がここに集約されているような「カンジ」が、作品の骨格になっている。惜しむらくは、この骨格をはっきりさせるため、老犬の「醜い死」の描写量がもっとあってもよかったかもしれない。しかしそうすると砂糖の城が崩れてしまいかねないのか。うーん。バランス感覚、私には縁遠い感覚だ。
コンテクストという形式と、同調性気質的な作家性に支えられた砂糖の城に、故意に、指で穴をあけるような「虚構のリアリティ」への反発。表出としてあらわれる「ちぐはぐさ」。それは故意にリアルに書こうとした「老犬の死」に集約していく。
この「ちぐはぐさ」は居心地がいいものではない。老犬の死に繋がる骨格が曖昧だからだ。
しかし、だ。この主人公二人が戯画的に、虚構的に見えるのと同じく、私達自身も虚構化しているのだとしたら。情報化社会で、メジャーであろうがサブカルであろうが様々な小さな物語が氾濫する現代。私達自身が、無意識的にしろ意識的にしろ「虚構のリアリティ」化しているのではないだろうか。現代では様々なコンテクストを覚えなくては生きていけない。私達は現実界を繋ぐ「クッションの縫い目の点」から乖離していてもおかしくない。
身の回りに「クッションの縫い目の点」がなくなっているなら、私達は「虚構のリアリティ」に指で穴を開けるぐらいのことしかできないだろう。コンテクストから離れて生きていけないのだから。しかし、人に気付かれないように、たくさん穴を開けていればいつかはクッションの縫い目の点らしきものに巡り会えるかもしれない。そうしなくても、足元に落ちているかもしれない。要は、「クッションの縫い目の点」を見ようとする視線が必要なのだ。まあ、現実社会ではそんなもん必要ないかもしれないが……。
そんな時代の私達にとって、「クッションの縫い目の点」は曖昧に見えてしまう。そこから覗く現実界も「曖昧な世界」だろう。そこに違いはない。「虚構の現実界」とも言えるだろうか。しかし芸術は「現実界」を虚構化しようとしたものだから、表現作品から立ち上がるのは「虚構の現実界」でよいのかもしれない。
作品全体に行き渡る「ちぐはぐさ」を「老犬の死」に明確に繋げなかったのは、こういう現代の事情があるから、というのは深読みだが、文章にしておこう。
何故文章にしておこうと思ったのか。私が考える現実界とは、「曖昧な世界」である。言葉のない動物(暗喩ですよ)の目線から見た世界だ。この作品では「動物」という言葉が象徴的に挿入されている。主人公の姉も自分が動物だと思う。コンテクストにまみれ、「人間らしさ」という「虚構のリアリティ」の上に成り立っている私達は、どこかしら動物目線で見る「現実界」を求めているのではないだろうか。そういう行間が私には感じられた。
また、主人公姉の完璧主義ぶりは、嶽本野ばら氏的なスノビズムを感じさせる。ポストモダンにおけるスノビズムはあるピン止め的な意味を持っていると思う。それを言葉にすると長くなりそうなので詳細を述べるのはやめておくが、今後こういったスノビズム的な「キャラ」が、キャラ小説の突破口になるような気がする。スノビズム的なキャラの表層は、虚構と相性がよい。しかしその内面はそういう表層をすることの理由がある。それだけでこれまでのキャラ小説が置き去りにしてきた「情念という曖昧な内面」の種がそこにある。前の記事で書いた「差異化」と「同一化」という二つの欲動の融合が、コミュニティの縮小化の最終形として「個人の体」で完結する。そういった文脈で形式主義、スノビズムを見ると、動物化しているポストモダンには格好のモチーフとなりうるのではないか。そこからスノビズムはどこに向かうのか。動物化を自分の表皮一枚で、「形式」で拒否した彼らはどうやって生きていくのか。今私がもっとも興味があるところである。
ネットの書評を見る限り、この作品はコンテクストに沿った読まれ方をしていると思う。わかりやすくコンテクストから脱したとしても現代ではそれは何らかのコンテクストに含まれてしまう。無限だ。現代の作家は、何らかのコンテクストに縛られた「小さな物語」しか書けないのかもしれない。
「小さな物語」化は、オタク文化だけの話ではないのだ。
コンテクストから逃れるには、あえてコンテクストを踏襲し、「ほんの少しだけズラす」しかやり方がないのか。2ちゃんなら「空気を読めたズレ」になるが、それは単体ではコンテクストを破れない。むしろ「涼宮ハルヒ」のようにズレに気付かれない場合が多い。
オタク文化を論じた時に、以降「エヴァンゲリオン」のようなそれまでのコンテクストを覆す作品は今後生まれないだろう、と書いた。これもオタク文化だけに限らない。文芸一般にも言えることだろう。
居心地の悪いちぐはぐさと、一般的「死にオチ」だけど「少し違った」感覚。そこから読み解いてみたのだが、深読みっぽい批評になってしまった。
作品単体としては、先に書いたように「力のあるズレ」ではないので評価しにくいのは事実だ。しかし、こういう「微妙なズレ」が今後文芸界には重要になってくるのではないだろうか。
現代人の私達にとって、現実界は遠く離れてしまったのだ。