排便報告
2009/12/06/Sun
他ブログで排便するの控えた方がいいかな。こことかここ。
死体画像サイトで、顔が刃物でギザギザに切り刻まれている写真があった。『モタ男』のインパクトとかそういうことだよな。顔だからインパクトがある。こんなに話題になった。『グリーン姉さん』も顔だったな。
去勢済み主体の「人なるもの」を過剰に特別視する精神疾患は、こういった「顔だから」ってのに症状として表れているのかもしれない、と思った。
「顔」が、たとえばアメリカの科学的犯罪捜査ドラマなどでよく出てくる、「頭蓋骨から顔を復元する」といったことや「顔の認識識別ソフトで変装を見破る」といったことに用いられるものとは違っている。シニフィエが違っている。彼らは犯罪を立証するという目的のために、「顔」を、あるいは「顔の識別」という人間に特殊的に備わった能力を、むしろ道具として利用している。
「顔」だってただの物だと。
あ、そうだ。排便先の中坊さんブログで書いた「機能主義」って言葉も繋がるかもね。多くの人と違って科学捜査してる人たちは「顔」を機能主義的に取り扱っている、ということだ。
わたしは「顔」を覚えるのが下手だ。表情の変化などで識別することが多い。役者をやっていたからか、顔面の筋肉の動きには人一倍敏感なのだ。たとえば、「この人とこの人って似てるよね」などと言って「え、全然違うじゃん」などとよく言われるのだが、社会人になってやっと「あ、わたしはそういった顔面の筋肉の使い方が似ているから似ていると言ったんだな」と気づいた。
わたしのこの「顔面の筋肉の動きで認識する」パターンをプログラム化できたら、新しい「顔の認識識別ソフト」ができるんじゃね? ドラマとか見てても識別する画像は静止画だもんな。なのでわたしの顔認識アルゴリズムとは違う、となる。
まー顔面の筋肉を自由自在に動かすことが職業化している舞台役者には通用しないんだろうけどな。舞台役者の稽古をしたことがある人ならそういった稽古があるのは知ってるだろう。いやそうじゃなくてもテレビとかでよくやってる「顔の美容体操」みたいなんあるっしょ。あれと似てる。あれって要は顔面の筋肉の維持なんだよな。顔面の筋肉が衰えてないから「若々しい顔」となるわけだ。それにほら役者ってよく年齢不詳だって言われるじゃん。そういうことだと思うよ。顔面の筋肉が人一倍発達している。近くで見ると小じわとかあるのがわかるけどな(笑)。でも舞台は基本遠目だから小じわまではわからない。顕微鏡を使わなければ皮膚細胞の老化はわからない。ある老女優が『星の王子様』を演じて、実年齢を聞いてみんな驚く、といったようなことは普通にある。いやほんとに子供に見えるんだよ。ちなみにこの女優さん『ガラスの仮面』のヘレン・ケラー劇のモデルになった作品でサリバン先生やってた人な。それくらいのベテラン。まあ背ちっちゃかったしそういう要件もあったろうな。わたしと一緒。
余談だが、「声」についてもそうだよなと思った。たとえば、ネットで「僕この歌が好きなんだよね」と言われて音声ファイルだけDLして聞いてたんだが、わたしは「この歌手受け口じゃね」と思ってそう言った。そいつも顔は知らなかったらしく検索して調べたら、ほんとに若干受け口だった。これはわかりやすいと思うよ。猪木のモノマネとかすると特徴的な声になるじゃん。とはいえ「この人の声猪木と似ている」などととは思われないだろう。女性歌手だったし。
これもそうだよな。顔の認識の仕方が周りの多くの人と違うってのと。
この性質が先天的なものか後天的なものかわからない。「わたしは役者やってたから」と言えば後天的となるが、演劇人からも「え、全然似てないじゃん」とよく言われた。そういう意味でまあ後天的じゃないかもしれないが、「なぜ多くの人と印象が違うのか」を説明できるようになったのは役者の稽古のおかげだよな、とは思う。
そういや、子供向けマンガのキャラクターの顔を真っ二つにして脳とか眼球が飛び出た絵をリアルに描いたらみんなどんな反応するんだろうか、と妄想してた覚えがある。中学生くらいの頃か。要するに、ドラえもんのしずかちゃんみたいな絵柄そのままで、氏賀Y太みたいな描写をしたらどうか、ということだ。氏賀のマンガにそういうのあったな。『そこの肉片に告ぐ』だ。彼の絵柄ってグロ以外はとってもありがちで今では古臭くもある昔ながらのマンガ絵柄なんだが、それで描かれてた母親の顔が真っ二つになるんだよな。娘の見ている前で。「おーこれこれ、わたし昔妄想してたよ」と思った。
それだけ。
あ、だから「顔は対象aだ」なんて言うバカの論にいらっときたんだろうな。まあそう言えなくもないんだけどね。しかし対象aは部分対象でなければならない。定義として。対象aとは「まなざし」「声」「糞便」「乳房」のごときものである。そいつの言う「顔」は全く部分対象ではない。むしろわたしの認識の仕方の方が部分対象的である。
そいつは全くラカン論を理解していないと判断していいよ。わたしはそう判断している。
ああいう奴がいるから精神分析というメスは劣化し続ける。
あーそういえば自分の症状を「物語恐怖症」って名づけられたのも演劇のおかげだな。最初は自覚なかったけれど、社会人になって、電車の中でいろんな人の糞みたいな台本読んでて(小説業界で言う「下読み」みたいなもん)、吐き気がしてぶっ倒れたんだよな。一応注釈しとくと、会社は演劇とは全く関係のないところだったが、個人的にバイトみたいな感じで演劇界とはだらだら関係持ってたんだよ。この「だらだら関係を持ってしまう」って男との付き合い方と似てるわ。確かに。それはともかく、これだけなら乗り物の中で文字を読んでたんだから単に酔っただけとも言えるが、それまでにわたしが体調を悪くしたのを総合的に勘案すると、「物語」と接した時にこの症状が、自分で感じる身体反応があった、とわかったわけだ。って演劇やってた頃とかまさに「物語」の渦中にいたことになるけれど、ほんと舞台に立つのって死にに行くようなものだったからね。感覚的に。やしきたかじんとかステージでノイローゼになって倒れたって言ってるらしいけど、それマジだわとわたしにはわかる。それにいかにも「物語」然としたのじゃなく、ストーリーのない前衛系とかケラとかのナンセンス系が好きだったし。
そうよ、そういうことよ。人類学の機能主義には「物語」が足りなかった。神話を解析できなかった。しかし神話なるものは事実として存在する。幻想は幻想として現実に存在する。レヴィは最初は婚姻体系から構造主義を見出したんだが、神話にそれを適用したのは、直感だと思うけど、正しかった。
あーなるほどな。
オセロの中島の首がプロレスラーみたいになってた。芸能人の顔の印象って、ここでの「顔」って一般的語用におけるそれであってたとえば髪型とかも含めるから「印象」って追記したけれど、トレードマークみたいなもんで当人の売上つまり人気度に直接影響するものだから、変えにくいってのあると思うんだ。ふかわが髪切ったのもそういうところがおもしろいってつもりでやってたわけで、ってなんの番組見て言ったのかこれでわかったろ。
いやまあ、「中島激太り」ってのはなんかの見出しで見たから知ってたけど、首の太さ隠したいなら髪型ロングに変えるとかしなきゃだよなあ、と思ったわけだ。
こういう思考が構造主義を土台にした機能主義って奴になるのか。男性的享楽の上に乗せられた非男性的享楽。「井」の上に乗った「丼」のヽ(すまん中坊さんパクった。この言い方気に入ったらしい。ラカンが言った「男性的享楽に取り込まれた交接」(だっけか)を説明するのにとってもわかりやすい)。
その点だと思ってるものは、いわば「象徴界の穴」は、男性的享楽を取り囲んでいるって意味でのトーラス。
お前らは「穴」を取り囲んでいると思い込んでいるが、現実では「穴」に取り囲まれている。この「取り囲んでいると思い込」んでいることが、このブログで述べる「「物とは支配可能だ」という固定観念」に相当する。
そういうことだ。
死体画像サイトで、顔が刃物でギザギザに切り刻まれている写真があった。『モタ男』のインパクトとかそういうことだよな。顔だからインパクトがある。こんなに話題になった。『グリーン姉さん』も顔だったな。
去勢済み主体の「人なるもの」を過剰に特別視する精神疾患は、こういった「顔だから」ってのに症状として表れているのかもしれない、と思った。
「顔」が、たとえばアメリカの科学的犯罪捜査ドラマなどでよく出てくる、「頭蓋骨から顔を復元する」といったことや「顔の認識識別ソフトで変装を見破る」といったことに用いられるものとは違っている。シニフィエが違っている。彼らは犯罪を立証するという目的のために、「顔」を、あるいは「顔の識別」という人間に特殊的に備わった能力を、むしろ道具として利用している。
「顔」だってただの物だと。
あ、そうだ。排便先の中坊さんブログで書いた「機能主義」って言葉も繋がるかもね。多くの人と違って科学捜査してる人たちは「顔」を機能主義的に取り扱っている、ということだ。
わたしは「顔」を覚えるのが下手だ。表情の変化などで識別することが多い。役者をやっていたからか、顔面の筋肉の動きには人一倍敏感なのだ。たとえば、「この人とこの人って似てるよね」などと言って「え、全然違うじゃん」などとよく言われるのだが、社会人になってやっと「あ、わたしはそういった顔面の筋肉の使い方が似ているから似ていると言ったんだな」と気づいた。
わたしのこの「顔面の筋肉の動きで認識する」パターンをプログラム化できたら、新しい「顔の認識識別ソフト」ができるんじゃね? ドラマとか見てても識別する画像は静止画だもんな。なのでわたしの顔認識アルゴリズムとは違う、となる。
まー顔面の筋肉を自由自在に動かすことが職業化している舞台役者には通用しないんだろうけどな。舞台役者の稽古をしたことがある人ならそういった稽古があるのは知ってるだろう。いやそうじゃなくてもテレビとかでよくやってる「顔の美容体操」みたいなんあるっしょ。あれと似てる。あれって要は顔面の筋肉の維持なんだよな。顔面の筋肉が衰えてないから「若々しい顔」となるわけだ。それにほら役者ってよく年齢不詳だって言われるじゃん。そういうことだと思うよ。顔面の筋肉が人一倍発達している。近くで見ると小じわとかあるのがわかるけどな(笑)。でも舞台は基本遠目だから小じわまではわからない。顕微鏡を使わなければ皮膚細胞の老化はわからない。ある老女優が『星の王子様』を演じて、実年齢を聞いてみんな驚く、といったようなことは普通にある。いやほんとに子供に見えるんだよ。ちなみにこの女優さん『ガラスの仮面』のヘレン・ケラー劇のモデルになった作品でサリバン先生やってた人な。それくらいのベテラン。まあ背ちっちゃかったしそういう要件もあったろうな。わたしと一緒。
余談だが、「声」についてもそうだよなと思った。たとえば、ネットで「僕この歌が好きなんだよね」と言われて音声ファイルだけDLして聞いてたんだが、わたしは「この歌手受け口じゃね」と思ってそう言った。そいつも顔は知らなかったらしく検索して調べたら、ほんとに若干受け口だった。これはわかりやすいと思うよ。猪木のモノマネとかすると特徴的な声になるじゃん。とはいえ「この人の声猪木と似ている」などととは思われないだろう。女性歌手だったし。
これもそうだよな。顔の認識の仕方が周りの多くの人と違うってのと。
この性質が先天的なものか後天的なものかわからない。「わたしは役者やってたから」と言えば後天的となるが、演劇人からも「え、全然似てないじゃん」とよく言われた。そういう意味でまあ後天的じゃないかもしれないが、「なぜ多くの人と印象が違うのか」を説明できるようになったのは役者の稽古のおかげだよな、とは思う。
そういや、子供向けマンガのキャラクターの顔を真っ二つにして脳とか眼球が飛び出た絵をリアルに描いたらみんなどんな反応するんだろうか、と妄想してた覚えがある。中学生くらいの頃か。要するに、ドラえもんのしずかちゃんみたいな絵柄そのままで、氏賀Y太みたいな描写をしたらどうか、ということだ。氏賀のマンガにそういうのあったな。『そこの肉片に告ぐ』だ。彼の絵柄ってグロ以外はとってもありがちで今では古臭くもある昔ながらのマンガ絵柄なんだが、それで描かれてた母親の顔が真っ二つになるんだよな。娘の見ている前で。「おーこれこれ、わたし昔妄想してたよ」と思った。
それだけ。
あ、だから「顔は対象aだ」なんて言うバカの論にいらっときたんだろうな。まあそう言えなくもないんだけどね。しかし対象aは部分対象でなければならない。定義として。対象aとは「まなざし」「声」「糞便」「乳房」のごときものである。そいつの言う「顔」は全く部分対象ではない。むしろわたしの認識の仕方の方が部分対象的である。
そいつは全くラカン論を理解していないと判断していいよ。わたしはそう判断している。
ああいう奴がいるから精神分析というメスは劣化し続ける。
あーそういえば自分の症状を「物語恐怖症」って名づけられたのも演劇のおかげだな。最初は自覚なかったけれど、社会人になって、電車の中でいろんな人の糞みたいな台本読んでて(小説業界で言う「下読み」みたいなもん)、吐き気がしてぶっ倒れたんだよな。一応注釈しとくと、会社は演劇とは全く関係のないところだったが、個人的にバイトみたいな感じで演劇界とはだらだら関係持ってたんだよ。この「だらだら関係を持ってしまう」って男との付き合い方と似てるわ。確かに。それはともかく、これだけなら乗り物の中で文字を読んでたんだから単に酔っただけとも言えるが、それまでにわたしが体調を悪くしたのを総合的に勘案すると、「物語」と接した時にこの症状が、自分で感じる身体反応があった、とわかったわけだ。って演劇やってた頃とかまさに「物語」の渦中にいたことになるけれど、ほんと舞台に立つのって死にに行くようなものだったからね。感覚的に。やしきたかじんとかステージでノイローゼになって倒れたって言ってるらしいけど、それマジだわとわたしにはわかる。それにいかにも「物語」然としたのじゃなく、ストーリーのない前衛系とかケラとかのナンセンス系が好きだったし。
そうよ、そういうことよ。人類学の機能主義には「物語」が足りなかった。神話を解析できなかった。しかし神話なるものは事実として存在する。幻想は幻想として現実に存在する。レヴィは最初は婚姻体系から構造主義を見出したんだが、神話にそれを適用したのは、直感だと思うけど、正しかった。
あーなるほどな。
オセロの中島の首がプロレスラーみたいになってた。芸能人の顔の印象って、ここでの「顔」って一般的語用におけるそれであってたとえば髪型とかも含めるから「印象」って追記したけれど、トレードマークみたいなもんで当人の売上つまり人気度に直接影響するものだから、変えにくいってのあると思うんだ。ふかわが髪切ったのもそういうところがおもしろいってつもりでやってたわけで、ってなんの番組見て言ったのかこれでわかったろ。
いやまあ、「中島激太り」ってのはなんかの見出しで見たから知ってたけど、首の太さ隠したいなら髪型ロングに変えるとかしなきゃだよなあ、と思ったわけだ。
こういう思考が構造主義を土台にした機能主義って奴になるのか。男性的享楽の上に乗せられた非男性的享楽。「井」の上に乗った「丼」のヽ(すまん中坊さんパクった。この言い方気に入ったらしい。ラカンが言った「男性的享楽に取り込まれた交接」(だっけか)を説明するのにとってもわかりやすい)。
その点だと思ってるものは、いわば「象徴界の穴」は、男性的享楽を取り囲んでいるって意味でのトーラス。
お前らは「穴」を取り囲んでいると思い込んでいるが、現実では「穴」に取り囲まれている。この「取り囲んでいると思い込」んでいることが、このブログで述べる「「物とは支配可能だ」という固定観念」に相当する。
そういうことだ。