ちゅぱげっちーもんちゅたー
2010/02/01/Mon
人間という動物の内面において、「人間性」やら「人間の尊厳」やらなんてものは、そもそもそれほど大きいものではなかったのではないだろうか。
内面における「人間性」やら「人間の尊厳」やらを高めるために作られた人工的なシステムが宗教である、となるよな。
もともとそういったものが高ければ、宗教は生まれなかった、とは言わないが、これほど人間社会を左右するシステムになりえなかったのではないか。
もちろん、この「「人間性」やら「人間の尊厳」やらを高めるために作られた人工的なシステム」としての宗教に、多神教が含まれるかどうかは微妙だろう。「「人間性」やら「人間の尊厳」やらを高めるために作られた人工的なシステム」として主任格を担ったのは、キリスト教などと言った一神教であろう。
断っておくが、ここで一神教か多神教かなどという議論をするつもりはない。
たとえば、社会において「人間性」やら「人間の尊厳」やらが高まったことによって、人間は生物学的な恩恵も大きく受けたであろう。そういった意味では、主任格である一神教の貢献を称揚すべきだろう。「人間性」やら「人間の尊厳」やらを高めるのに一神教と比して消極的だった多神教は評価されないだろう。
一方、「人間性」やら「人間の尊厳」やらが高まることとは、集団的に見れば人間中心主義が強化されることと等しい。となれば環境論者の定型句的な批判が生じよう。「「人間性」やら「人間の尊厳」やらが高まることでそれは「人間の傲慢さ」となり、人間が自己の都合のためにする人間以外の自然への介入が過剰となった結果、現代の環境問題が生じているのではないか」などと。この場合、多神教が評価され、一神教は批判対象となる。
つまり、どっちもどっち、ってこと。
問題は、「人間性」やら「人間の尊厳」やらを高めることの是非ではなく、なぜ人間は「人間性」やら「人間の尊厳」やらが、他の動物がする自己利益ための行動などよりはるかに高いのか、あるいはそれを高めたがるのか、ということではないだろうか。
となると、心の問題になってくるんだよなあ。
いやわたしが物理から精神分析に移行したから言うわけじゃないけど、科学って最終的に心の問題に帰着すると思ってるのだよね。個々人の心の問題に。哲学も同様。独我論の理屈は単純すぎてとても高度には見えないが、強靭だ。
「知」ってのは、高度になればなるほど足元に戻ってくるものだと思う。この円環が大きければいいと言う奴は、あるいは円環の大きさにこだわる奴は、人格者になりたがっている。円環の大きさなんてどうでもいいというのが科学者の態度だろう。藤田博史による「生の欲動/死の欲動」論だよな。生とは死の迂回でしかないって奴。大きく迂回できる人ほど人格者。
わたしはあれだな、余裕がないんだな。迂回をよしとする余裕が。いやもちろんドクサによる短絡は認めないから、その道筋を辿るためにいちいち検証が必要だ、という立場ではあるが。むしろ一歩一歩が小さいから、のろいから、迂回をいやがる、という感じなんだろうか。
むしろ、円環の地面への接地点から離れられない、という感じ。重力に抗えない。ガンダムなら生粋のオールドタイプになる。
自然と人間を区別できない。できなくはないが、気づけば「人間も自然の一部だ」って考え方になっている。地面に落ちている。
だから、「人格者としての学者」が求められる現代において、わたしは「学者」足りえない。円環を大きくできない。
魔女でいいよ。ほんとに。
いやわかってるんだよ、この記事これまでと毛色違うって。あ、わたしだけ? じゃあわたしがこれまでの記事とこの記事毛色違うなって思った。
いやね、こう、この記事で言うところの二次元モードっつかね。わざとなんだけど。わざとじゃないか。
で、ま、なんか一個解決したので、もとに戻れるかなってテスト。
ほんと迷子状態辛い。
つか迷子状態って要するに無知の知状態なんだけど、本当の無知(知識がないこと、ではないことに注意)を生きている人間は迷子のように慢性的な不安を抱えている、って話なんだよな。
ソクラテスは全然無知じゃありません。わたしの主観で。
つかね、自閉症関係の記事を自分で読んで思ったんだけど、わたしがやっていることって、(自閉症者に限らない)未去勢者の、去勢済み主体の主観世界には存在しない主観世界に、主にラカン理論の概念を流用して、言葉を与えているように思えたんだけど、それは違うと思ったんだな。
っていうのは、前記事なんかでは、「世界」や「魂」って言葉を正常人のものとしている。この記事ではわたしは「愛」という言葉の意味を正常人に渡している。
逆に一般用語を未去勢者から奪って、正常人に渡している。
これは仕方ないんだ。言い訳になるけど。言葉ってのは生き物で、時代とともに変わっていく。この変化を担うのはやはり大多数派である正常人たちだ。言葉の意味の変化は見えない多数決によって行われている。なので全ての言葉の意味はどんどん正常人仕様にチューンされていく。
これはどうしようもないことだと思うんだ。未去勢者が人口比率で圧倒的少数なのは間違いない事実だし。いや、多少対抗できるような人数になってもだめだろう。なぜなら他者と認知認識体系を同調させるのが困難なのが未去勢者だからだ。正常人たちは見えない多数決によって決まったある言葉の意味に、その認識体系を同調することができる。もし万が一、正常人たちが思っている意味じゃない意味に、見えない多数決により決まったとしても、その意味に認識を同調させることが、未去勢者は困難なのだ。
要するに、未去勢者だけの社会というものが仮にあったならば、その言語体系はなかなか収縮しないだろう、意味は差延し続けるだろう、ということ。
わたしはすれすぎてしまった。わたしがどんなに自分の主観世界の一部を示す言葉としてその言葉を抱きしめていたとしても、知らない間に正常人たちの手に渡っている。負け犬根性が染みついてしまった。
ラカン理論だってそうだしね。もともとこの理論体系は「女(すなわちファルスのない人間すなわち理想的な未去勢者)は存在しない」って前提で成り立っているものだから、その概念の流用は、未去勢者の主観世界に言葉を与えることにならない。
うん、わたしはむしろ未去勢者たちから言葉を奪っているんだ。正常人たちに売り渡している。横流ししている。スパイみたいなもの。
だけどわたしが横流ししなくても、いずれ彼らが抱えている言葉は大多数の正常人たちに奪われるだろう。
そんなようなこと。
斎藤のこの論文。この論文の文脈を引いて、言いたい言葉があった。
「シニフィアンなきシニフィアン」としての「動詞」。
あ、いや違うな。「シニフィアンなきシニフィアン」を獲得する以前にある「動詞」。つまり「同定認知機能」を獲得する以前の「動詞」。
「動き」はあるだろう。知覚として。しかし、「シニフィアンなきシニフィアン」獲得以前の「動詞」とは、この「シニフィアンなきシニフィアン」獲得以前の「動き」に結びつく「シニフィアンなきシニフィアン」だ。
妄想分裂態勢に降臨する想像的父。違うか。父の名か。いや違う。
=====
原初的な大文字の他者の代わりをするものがその欠如(-Φ)を与える。その欠如を与えるこの大文字の他者を/A(斜線を引かれた大文字の他者)と記すことができる。
(『精神分析事典』より)
=====
における「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」としての「/A」。それはおそらく、「「固有名詞→名詞→形容詞→動詞」の系列」における「動詞」ではない、「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」としての、いわば「原動詞」と表現できるものではないか、ということ。つまり、
「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」としての「原動詞」
↓
「シニフィアンなきシニフィアン」の獲得(「学習Ⅱ」の段階)
↓
固有名詞→名詞→形容詞→動詞
ってこと。
うん、ただの直感。
つか「同定認知」って静的じゃん。だからこそこの機能を獲得した直後、静的な「固有名詞」や「名詞」を先に学ぶ。なぜ「同定認知」が静的かと言うと、「原動詞」が「その欠如を与える」からだ。自然状態は動も静もあるっしょ? 「原動詞」が動性を欠如させるから、静的な「同定認知」が可能になる、と。うーんすっきり。
クリステヴァの前-象徴としてのセミオティックになるのかな。検証してないけど。いや違うな。セミオティックと想像的父は別物だ。想像的父としてのセミオティック、とかか。むう、微妙。
あ! あ! これ中村雄二郎の「述語的世界」と繋がらね? おお。
お、もとの感じに戻れてるな。よしよし。
つかさー、そらパパさんさー、この記事のコメント欄とか見てみろよー。むちゃくちゃ「発散」しまくってるじゃんかよー。しかも「未診断」って自称している人たちがさー。やってる本人たちが「もう誰に答えたらいいのか」とか言っちゃうほどに。
ねーねー、どーいうことよー?
「そっちでやればいいだろ」って? いやわたしも「発散」してるのを追いかけんのめんどくさいって思うし。さすがにこのレベルの「発散」見ると「うわあ……」って思う。うん、「収束」させたい気持ちもわかるんだ。だけど納得できてないのに「収束」はできないじゃん。そんな「収束」それこそ「嘘」じゃん。
つかこのコメント欄と比べたらわたしの「発散」ぜんっぜん大人しいと思うんだが。君が勝手に個人的に不可侵とした「内面」を、わたしは最初から含めて論じていただけで、わたしは「発散」なんかしてないんだよ。そのコメント欄みたいなのが「フレーム問題」的な本当の「発散」。何度も言ってるだろ、わたしは当事者じゃない、と。わたしだって「嘘」であることを我慢すれば普通にまとめることはできる。
だから君は、わたしの議論が「発散」してたから削除したのではなく、君が勝手に個人的に不可侵とした「内面」を含めてわたしが論じているから、削除した、というべきじゃないかい? 君が勝手に個人的にそこは論じたくないからそうしただけじゃないかい?
少なくともわたしはそう思う。
いやこれは単なるいじけだ。いじけてるの。いじいじ。
しかしまあこのママさんよく正気を保ってられるもんだ。
内面における「人間性」やら「人間の尊厳」やらを高めるために作られた人工的なシステムが宗教である、となるよな。
もともとそういったものが高ければ、宗教は生まれなかった、とは言わないが、これほど人間社会を左右するシステムになりえなかったのではないか。
もちろん、この「「人間性」やら「人間の尊厳」やらを高めるために作られた人工的なシステム」としての宗教に、多神教が含まれるかどうかは微妙だろう。「「人間性」やら「人間の尊厳」やらを高めるために作られた人工的なシステム」として主任格を担ったのは、キリスト教などと言った一神教であろう。
断っておくが、ここで一神教か多神教かなどという議論をするつもりはない。
たとえば、社会において「人間性」やら「人間の尊厳」やらが高まったことによって、人間は生物学的な恩恵も大きく受けたであろう。そういった意味では、主任格である一神教の貢献を称揚すべきだろう。「人間性」やら「人間の尊厳」やらを高めるのに一神教と比して消極的だった多神教は評価されないだろう。
一方、「人間性」やら「人間の尊厳」やらが高まることとは、集団的に見れば人間中心主義が強化されることと等しい。となれば環境論者の定型句的な批判が生じよう。「「人間性」やら「人間の尊厳」やらが高まることでそれは「人間の傲慢さ」となり、人間が自己の都合のためにする人間以外の自然への介入が過剰となった結果、現代の環境問題が生じているのではないか」などと。この場合、多神教が評価され、一神教は批判対象となる。
つまり、どっちもどっち、ってこと。
問題は、「人間性」やら「人間の尊厳」やらを高めることの是非ではなく、なぜ人間は「人間性」やら「人間の尊厳」やらが、他の動物がする自己利益ための行動などよりはるかに高いのか、あるいはそれを高めたがるのか、ということではないだろうか。
となると、心の問題になってくるんだよなあ。
いやわたしが物理から精神分析に移行したから言うわけじゃないけど、科学って最終的に心の問題に帰着すると思ってるのだよね。個々人の心の問題に。哲学も同様。独我論の理屈は単純すぎてとても高度には見えないが、強靭だ。
「知」ってのは、高度になればなるほど足元に戻ってくるものだと思う。この円環が大きければいいと言う奴は、あるいは円環の大きさにこだわる奴は、人格者になりたがっている。円環の大きさなんてどうでもいいというのが科学者の態度だろう。藤田博史による「生の欲動/死の欲動」論だよな。生とは死の迂回でしかないって奴。大きく迂回できる人ほど人格者。
わたしはあれだな、余裕がないんだな。迂回をよしとする余裕が。いやもちろんドクサによる短絡は認めないから、その道筋を辿るためにいちいち検証が必要だ、という立場ではあるが。むしろ一歩一歩が小さいから、のろいから、迂回をいやがる、という感じなんだろうか。
むしろ、円環の地面への接地点から離れられない、という感じ。重力に抗えない。ガンダムなら生粋のオールドタイプになる。
自然と人間を区別できない。できなくはないが、気づけば「人間も自然の一部だ」って考え方になっている。地面に落ちている。
だから、「人格者としての学者」が求められる現代において、わたしは「学者」足りえない。円環を大きくできない。
魔女でいいよ。ほんとに。
いやわかってるんだよ、この記事これまでと毛色違うって。あ、わたしだけ? じゃあわたしがこれまでの記事とこの記事毛色違うなって思った。
いやね、こう、この記事で言うところの二次元モードっつかね。わざとなんだけど。わざとじゃないか。
で、ま、なんか一個解決したので、もとに戻れるかなってテスト。
ほんと迷子状態辛い。
つか迷子状態って要するに無知の知状態なんだけど、本当の無知(知識がないこと、ではないことに注意)を生きている人間は迷子のように慢性的な不安を抱えている、って話なんだよな。
ソクラテスは全然無知じゃありません。わたしの主観で。
つかね、自閉症関係の記事を自分で読んで思ったんだけど、わたしがやっていることって、(自閉症者に限らない)未去勢者の、去勢済み主体の主観世界には存在しない主観世界に、主にラカン理論の概念を流用して、言葉を与えているように思えたんだけど、それは違うと思ったんだな。
っていうのは、前記事なんかでは、「世界」や「魂」って言葉を正常人のものとしている。この記事ではわたしは「愛」という言葉の意味を正常人に渡している。
逆に一般用語を未去勢者から奪って、正常人に渡している。
これは仕方ないんだ。言い訳になるけど。言葉ってのは生き物で、時代とともに変わっていく。この変化を担うのはやはり大多数派である正常人たちだ。言葉の意味の変化は見えない多数決によって行われている。なので全ての言葉の意味はどんどん正常人仕様にチューンされていく。
これはどうしようもないことだと思うんだ。未去勢者が人口比率で圧倒的少数なのは間違いない事実だし。いや、多少対抗できるような人数になってもだめだろう。なぜなら他者と認知認識体系を同調させるのが困難なのが未去勢者だからだ。正常人たちは見えない多数決によって決まったある言葉の意味に、その認識体系を同調することができる。もし万が一、正常人たちが思っている意味じゃない意味に、見えない多数決により決まったとしても、その意味に認識を同調させることが、未去勢者は困難なのだ。
要するに、未去勢者だけの社会というものが仮にあったならば、その言語体系はなかなか収縮しないだろう、意味は差延し続けるだろう、ということ。
わたしはすれすぎてしまった。わたしがどんなに自分の主観世界の一部を示す言葉としてその言葉を抱きしめていたとしても、知らない間に正常人たちの手に渡っている。負け犬根性が染みついてしまった。
ラカン理論だってそうだしね。もともとこの理論体系は「女(すなわちファルスのない人間すなわち理想的な未去勢者)は存在しない」って前提で成り立っているものだから、その概念の流用は、未去勢者の主観世界に言葉を与えることにならない。
うん、わたしはむしろ未去勢者たちから言葉を奪っているんだ。正常人たちに売り渡している。横流ししている。スパイみたいなもの。
だけどわたしが横流ししなくても、いずれ彼らが抱えている言葉は大多数の正常人たちに奪われるだろう。
そんなようなこと。
斎藤のこの論文。この論文の文脈を引いて、言いたい言葉があった。
「シニフィアンなきシニフィアン」としての「動詞」。
あ、いや違うな。「シニフィアンなきシニフィアン」を獲得する以前にある「動詞」。つまり「同定認知機能」を獲得する以前の「動詞」。
「動き」はあるだろう。知覚として。しかし、「シニフィアンなきシニフィアン」獲得以前の「動詞」とは、この「シニフィアンなきシニフィアン」獲得以前の「動き」に結びつく「シニフィアンなきシニフィアン」だ。
妄想分裂態勢に降臨する想像的父。違うか。父の名か。いや違う。
=====
原初的な大文字の他者の代わりをするものがその欠如(-Φ)を与える。その欠如を与えるこの大文字の他者を/A(斜線を引かれた大文字の他者)と記すことができる。
(『精神分析事典』より)
=====
における「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」としての「/A」。それはおそらく、「「固有名詞→名詞→形容詞→動詞」の系列」における「動詞」ではない、「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」としての、いわば「原動詞」と表現できるものではないか、ということ。つまり、
「原初的な大文字の他者の代わりをするもの」としての「原動詞」
↓
「シニフィアンなきシニフィアン」の獲得(「学習Ⅱ」の段階)
↓
固有名詞→名詞→形容詞→動詞
ってこと。
うん、ただの直感。
つか「同定認知」って静的じゃん。だからこそこの機能を獲得した直後、静的な「固有名詞」や「名詞」を先に学ぶ。なぜ「同定認知」が静的かと言うと、「原動詞」が「その欠如を与える」からだ。自然状態は動も静もあるっしょ? 「原動詞」が動性を欠如させるから、静的な「同定認知」が可能になる、と。うーんすっきり。
クリステヴァの前-象徴としてのセミオティックになるのかな。検証してないけど。いや違うな。セミオティックと想像的父は別物だ。想像的父としてのセミオティック、とかか。むう、微妙。
あ! あ! これ中村雄二郎の「述語的世界」と繋がらね? おお。
お、もとの感じに戻れてるな。よしよし。
つかさー、そらパパさんさー、この記事のコメント欄とか見てみろよー。むちゃくちゃ「発散」しまくってるじゃんかよー。しかも「未診断」って自称している人たちがさー。やってる本人たちが「もう誰に答えたらいいのか」とか言っちゃうほどに。
ねーねー、どーいうことよー?
「そっちでやればいいだろ」って? いやわたしも「発散」してるのを追いかけんのめんどくさいって思うし。さすがにこのレベルの「発散」見ると「うわあ……」って思う。うん、「収束」させたい気持ちもわかるんだ。だけど納得できてないのに「収束」はできないじゃん。そんな「収束」それこそ「嘘」じゃん。
つかこのコメント欄と比べたらわたしの「発散」ぜんっぜん大人しいと思うんだが。君が勝手に個人的に不可侵とした「内面」を、わたしは最初から含めて論じていただけで、わたしは「発散」なんかしてないんだよ。そのコメント欄みたいなのが「フレーム問題」的な本当の「発散」。何度も言ってるだろ、わたしは当事者じゃない、と。わたしだって「嘘」であることを我慢すれば普通にまとめることはできる。
だから君は、わたしの議論が「発散」してたから削除したのではなく、君が勝手に個人的に不可侵とした「内面」を含めてわたしが論じているから、削除した、というべきじゃないかい? 君が勝手に個人的にそこは論じたくないからそうしただけじゃないかい?
少なくともわたしはそう思う。
いやこれは単なるいじけだ。いじけてるの。いじいじ。
しかしまあこのママさんよく正気を保ってられるもんだ。