実は小説そのものがあまり好きじゃないことが最近判明した。
私は言葉フェチだ。言葉になりたいのだ。今の意味主義、イメージ主義の物語は言葉を利用しているだけだ。意味やイメージは言葉が恣意的に決定する。逆に意味が言葉に影響を与えることについては、クリステヴァ女史の思想を拝借するなら言葉の根源的なところに「ル・セミオティック」のような概念があったり、ラカン論なら「クッションの刺し縫い」という概念の中でそれに軽く触れていたりする。イメージがシンボル化する瞬間、シンボルの原初の姿。むしろ私は言葉になることでそこを目指したいのかもしれない。しかしそれは、短絡的な意味主義、イメージ主義とは別物だ。そういったものは、象徴的に言うなら別に言葉じゃなくて映像やマンガや演劇で物語を表現すればよいのだ。ライトノベルはその傾向が特に強い。言葉をレイプしていると表現できる。こういう怒り方が私の言葉フェチっぷりをよく表している。面白い。
(元)演劇人なので、演劇ならイメージによる呪術性があるのはわかっている。それは引っ張り込まれる、誘い込まれる、落ちていくような呪いだ。一方言葉にも呪術性がある。それは掴み上げるような、「所有」的な形をした呪いだ。その両方を捨て去って、文脈性だけに依存して成り立っているのが今のほとんどの物語だ。
もちろん、小説にもいろいろあるし、文脈性を利用して二次的な「イメージの呪」を醸し出していたり、ファルス的享楽的な「言葉の呪」をいかんなく発揮している作品もある。それら二つの呪術性の根源とも言える、ル・セミオティック的な領域に挑んでいる作品などを読むと嘆息する。例えば保坂和志氏の一連の作品のような仏教の無我的な文章によるものもある。それらは構造化した日常的現実から構造を無化する方向で言葉の始原であるル・セミオティックに近づこうとしたものだが、特異な才能によりル・セミオティックな位置から「言問はぬ木」が喋る言葉、即ち言霊的な構造化に向いた町田康氏という作家もいる。
――いや、そんなことはどうでもいい。言葉フェチの戯言である。
広義の文脈性をコンテクストと呼ぶ。オタク文化は斎藤環氏の言を借りるなら「ハイ・コンテクスト」という特徴を持っている。例えば、現実にいたなら宇宙人グレイを彷彿とさせるような目のでかいアニメキャラでオタクたちがオナニーするのは、「みんながその絵でオナニーしているから」オナニーしているのだ。そういうコンテクストがあるから性的欲望を覚えることができるのだ。このように性的情動さえもコンテクストに依存して成立することが可能である。精神分析では「欲望とは他者の欲望である」。わかりやすくいうと、欲望の始原は「母に欲望されたいという欲望」なのである。「ないものを欲しがる」のが欲望だが、ないものを欲しがるからこそ際限なく連鎖するのだ。即ち全ての欲望は「母に欲望されたいという欲望」が連鎖し変換したものなのだ。
話を戻そう。ライトノベルという小説ジャンルについて、別に定義論などはオタク同士で勝手にやってもらって構わないが、大きな特徴としての、「オタク文化に強く依存している」ことについては反論を受け付けない。これに反論しようというバカはいないだろうがもしいたなら、「ひきこもってないで世間を見なさい」と優しく諭してあげて欲しい。
ライトノベルはオタク文化の「宇宙人グレイのような人体造詣に性的欲望を引き起こされる」ことに象徴されるような「暗黙の了解」や「お約束」即ちコンテクストに強く依存している。それは超自我の領域にまで及んでいる。早い話無意識なのだ。「みんながオナニーしているから」なんてことは意識に上っていないだろう。
この自分の文化のコンテクストに強く依存していることが自家中毒的な印象を生み、
以前私が指摘した縮小再生産的な印象に至る。この縮小再生産のうねりに飲み込まれると
アニメキャラを対象aと思い込んだりするのだろう。しかし対象aとは自我でもある。ということは彼らは二次元のアニメの世界の中で生きていると言える。オタク批判としては使い古されている「現実と妄想の区別がついていない」という言葉が当てはまるだろう。これについては斎藤環氏が90年代の「おたく」を分析し反論していたが、
それについての反論をこの記事で書いている。もしそうであるならば、彼らはアニメの世界に生きているわけだから、彼が私たちを見た時私たちはアニメキャラと等しい存在になっているだろう。都合よく主人公に恋したり都合よく主人公に性的快楽を与えたり都合よく死んだりするアニメキャラと、私たちは同値なのだ。ラカン論では現実と妄想の明確な区別はつかない。現実は到達不可能な現実界にしかない。私たちが現実と思っている日常的現実はフィクションと同じ地平にあるのだ。
いささか過激な文章になってしまっているが、それは、久しぶりに読んだ一冊のライトノベル作品が原因である。前評判は悪くなかった。「泣けた」という感想も多く見られた。去年は『狼と香辛料』というまあまあの良作に出会えたので油断していた。
『ミミズクと夜の王』。紅玉いづき氏の作品だ。
いや、いいのだ。いわゆる「地雷」には慣れている。『お留守バンシー』なんかで。これについては私も地雷とは思ったがあるチャットでのあまりにもの酷評に少しだけフォローを入れたことすらある。
しかし、この作品は「地雷」じゃ済まない。
これに「泣いた」という感想が多くあったことも私の背筋を冷やしている。
精神分析理論を展開するまでもなく、断言できる。
この作品は、「フェティシスム賛美」であり、「他者」が存在していない。
フェティシスム自体が自己愛的だから、自己愛の賛美とも呼べる。二重の自己愛的な構造がある。キャラを読み解くまでもなく、記号分析学的に文章を分析するまでもなく、この作品には精神分析的な「他者」が存在しない。作家性としての紅玉氏の世界には「本当の意味での(想像的)他者」が存在していない。
私はこれまで、オタク二分論(
記事1、
記事2、
記事3)や
サントームに触れた記事や
フェティシストとひきこもりについて述べた記事などで、幾度も今のオタク文化はフェティシスム(マニア)的な傾向が強いのではないか、と指摘してきた。そういった文脈を加味するなら、このフェティシスム賛美はオタク文化を自画自賛的に賛美していることにもなろう。つまりこの賛美はオタク自身の賛美をも暗喩する。
この作品に感動できるのは、自らをフェティシストだと自覚できていないフェティシストだ。そしてそれは、この作品から立ち上がる作家性にも当てはまることでもある。
分析することすら躊躇われるが何故「フェティシスム賛美」あるいは「自己愛的」かを説明しよう。
主人公の少女が恋する夜の王。すでに「王」という言葉で象徴されているが、人間時代の頃の彼も王子であり、設定の時点で彼は非常にファルス的である。キャラ的にはオタク文化にはありがちな類型だが別にそんなことはどうでもいい。重要なことは、彼の行動原理あるいは心理が全く成立していないということだ。わざとそれについての文章を書かない技術もあるが、そういった行間を埋めても、彼の心理は成り立たない。いつの間に主人公に恋したのだろう? 花を取ってくるエピソードがあるがそんなんで恋したというならなんてウブな魔王だろう。そんなに純な心の持ち主がよく荒廃した国で民衆の後ろ指に耐えられたもんだ。というか、彼の作品内における行動は、ただの「バカ」だ。
と、ここで浅はかな人なら「魔王だから人間じゃない、だから心理など成立していなくてよい」という反論をしてくるかも知れない。実はその方がありがたい。何故ならその方がフェティシスム賛美説をより補強してくれるからだ。フェティシスムは偶像崇拝のことでもある。魔王という動く偶像に恋している主人公はフェティシストであるという論理が直接的に成り立つ。
どっちにしろ、夜の王は非人間的である。少女は夜の王の非人間的な、いわばヴェールに恋している。ヴェールに想像的ファルスを投影し同一化するのがフェティシスムである。夜の王の特殊な色の瞳に対する少女の思い入れなどがこのことを象徴的に表している。精神分析において瞳はまなざし即ち対象aを暗喩するものだが、夜の王の瞳の描写は物体的である。彼のまなざしは欲望していない。ただし対象aに近いものではあるから、母的な想像的ファルスを投影しやすいだろう。
もう少し詳しく見てみよう。この物語は主人公少女の「去勢の承認」を主軸にしたビルドゥングスロマンである。冒頭の、夜の「王」という直接的にファルスを暗喩する対象に「食べられたい」という想像的同一化。そこから花を手に入れることで、想像的同一化である「ありたい」=「食べられたい」から象徴的同一化である「手に入れたい」という欲望に変化している。「フクロウを返せ」というセリフが「手に入れたい」という欲望を象徴しているだろう。その後の失われた記憶を取り戻す流れなどは、昔はやったトラウマ思い出し系物語と同じ構造をしている。楽しかった森にいた頃と辛かった奴隷時代の両義的な記憶。いかにもトラウマ的で、このあたりの描写は上手いと言えるだろう。少女は失われた記憶を思い出し、その結果夜の王を選択する。これは、トラウマを思い出し、トラウマ時代の思い出に固着することを暗喩している。通常トラウマは「思い出すこと」が象徴する「反復」を通じて他者化される。他者化するから治療になる。しかし少女は他者化しなかった。むしろトラウマと同一化することを選択したのだ。トラウマとは
原光景を暗喩する。だから両義的なのだ。原光景が想像的ファルスを生み出す。そう、このクライマックスの展開は、主人公少女の失われた記憶が想像的ファルスとなって、夜の王のヴェールに投影されていく様子、即ち主人公少女がフェティシスムを選択する様子を、作者は精神分析を齧っているのかと疑うほど適切に暗喩しているのである。
ヴェール化即ちフェティッシュ化してしまえば、シンボル化するのは容易い。シンボル化すれば同時にコンテクストとなる。夜の王がフェティッシュ化したからコンテクスト化即ちオタク文化でありがちなキャラ化したのか、コンテクスト化しているからフェティッシュ化したのかわからないが、どっちでもいい。とにかくフェティッシュ化はオタク文化のコンテクスト重視主義と深く関わっているだろう。
主人公少女の夜の王に対する愛情はフェティシスムである。これは私の第一印象でもあり、誰が見ても明らかだと思う。
この作品の感想に、「少女の一途さがよかった」というものがあった。当然だ。彼女はフェティシスムを選択したのだから。
フェティシスムとは分かり易く言えばマニアだ。マニアは一途だろう。また、解説の有川浩氏の言葉にこういうのがある。「このまっすぐさに負けました」。これは有川氏がフェティシスト的傾向を持っていることを白状しているようなものである。フェティシストだからこの後半の展開を「まっすぐ」と思えるのだ。精神分析的には「まっすぐ」とは言い難い。この物語は倒錯的な欲望の様式を選択している、という分析になってしまう。
フェティシスムを選択するのであれば、それをストレートに書いて欲しかった。この作品はフェティシスムを選択する過程を暗喩的に表現することで隠蔽しようとしている。フェティシスムの選択とこの隠蔽が、ラカン論風に言うなら二重に「欲望に対して譲歩している」所作となる。
現実のフェティシストがいけないというわけではない。実際私だって言葉フェチだ。フェティシストという人間を描いた純文学だってあるだろう。金原ひとみ氏が描く身体改造なんかも自らの体をフェティッシュ化したものと言えるだろう。
前の記事でも書いたように、フェティシストは性倒錯に分類されるが、彼らだって葛藤から逃れられていない。象徴界にぽっかり開いた泉に映った自分の姿をナルキッソスのように愛してしまう。そこから彼は動けない。「突然停止した映画」のように欲望の連鎖が停止する。なので多くのフェティシスム=マニアは、それを「一つの趣味」として扱う。自分のフェティシスムを一つの側面として抱え込み、その他の領域で正常な欲望の連鎖を保つのだ。比喩的に言うなら、車フェチが車を買うために仕事に精を出す、みたいなものだ。この程度の人なら多数いるだろう。そう、フェティシスム的な側面は誰だって持っているのだ。
では何故この作品のフェティシスムに私は怖気を感じたのだろうか。
フェティシスムだって葛藤から逃れられない。車フェチは自分のフェティシスムに無意識的不安を感じているから車を買い漁るのだ。そのお金を稼ぐために仕事に精を出すのだ。これがフェティシスムの葛藤の表出の一例になるだろう。
この作品は、フェティシスムを選択した主人公が、ラストにおいて、ご都合主義を感じさせる作為的な「運命」により肯定されている。これをご都合主義と感じない人だっているだろう。自覚のないフェティシストたちである。その葛藤が「運命」によって肯定されるから彼らは感動するのである。車フェチと同様の自らのフェティシスムに対する無意識的不安が、「運命」的に肯定されるから、彼らは泣くわけだ。
欲望を停止することで葛藤を隠蔽するのがフェティシスムだ。葛藤を意識に上らせないようにするわけだ。隠蔽された葛藤はどこにもいかない。むしろ、フェティシスムという葛藤の様式を助長するだろう。
これが、この作品を「フェティシスム賛美」だと言った理由だ。
この「フェティシスムの運命的な肯定」は、作者にとっては無意識的なものだろう。とてもフェティシスムの精神分析的考察を経て書かれたものとは思えない。即ち、作家性としてもフェティシスムを感じる。これについては、次に述べる「他者の不在」が自己愛的な印象であることと関連してくるだろう。そもそもフェティシスム自体が自己愛的印象を孕むものだが、それをさらに自画自賛的に賛美している、ということだ。
次に「他者の不在」。
実は、最初の数十ページぐらいまで、私は好感を持って読み進めていた。暗い森というありきたりすぎる無意識の暗喩の中、その文脈ではシュルレアリスム的なデペイズマンを読み取れなくもない異形の魔物たち。そしてなんと言っても主人公少女の、そこはかとない狂気。この文章だけの紹介なら私は間違いなくその作品を読むだろう。
暗い森や魔物はどうでもいいとして、少女のそこはかとない狂気は、個人的には稚拙に思えるがライトノベルということで野暮なことは言いたくないしセリフの言い回しにあざとさを感じながらも悪くはない「戯画的な誇張を施した狂気」の表現として好意的に捉えていた。
しかし、だ。
話が進むにつれ少女は普通の少女になっていった。それも、現代の普通に教育を受けている「近代的」且つ「一般的」な少女に。
これを狂気からの脱出とは読めない。何故なら、狂気との境界の描写があまりにも稚拙だからだ。少女の生い立ちの設定だの、少女が人を殺傷したことだの、涙を流したことがないだの、食べられたいという欲望が変換されるくだりだの。リアリティという問題でもいい。ライトノベルだし私のような人間が突っ込むことでもないとも思う。しかし、その狂気との境界の描写が、あまりにも近代的自我への無自覚な信仰によることが問題なのだ。
構造主義は近代的自我、即ち「我思う故に我あり」の我、即ち西洋的で能動的な主体を批判することで始まった。西洋では未開と呼ばれていた社会にも西洋に負けない論理的な人類学的構造があるとしたレヴィ=ストロース。現代の子供という概念は近代以降のものでそれ以前は「小さな大人」として扱われたことを歴史学的に明らかにしたフィリップ・アリエス。狂気はかつて神霊によるものだったが近代では精神病として扱うことで「排除」しているとしたミシェル・フーコー。これら全て、思惟する自我を持っている近代西洋的な自分たちとそうじゃない他者は同じ考えをしている、もしくは自分たちの方が「正しい」「進歩している」という思い込みを覆すものだ。
この作品における狂気の扱い方は、まさにフーコーが批判した扱い方をしている。即ち、狂気を他者として捉えてないのだ。狂気的な人間も私たちと同じ自我を持っているという近代的自我的な思い上がりとも言える思い込みで少女の狂気を書いている。
さらに少女はいろいろな事件を経て成長していく。ラストで彼女はフェティシスムを選択するが、「思惟する我」が絶対的正だという視点で通して描かれている。
つまりこの作品においては、作家性として、作者は「他者は根本的に理解できない存在」ということをわかっていないという行間が浮かび上がっている。精神分析では自我さえも想像的なもので、自分の主体というものは自分でもわからないとされている。いわんや他者をや、である。アニメキャラという台本があって視聴する際には結果がわかっている「偽の他者」しか知らないのではないか、と思わせる。現実世界には台本なんてない。他者は何を言ってくるか何をしてくるか予測不可能なのだ。しかし、アニメは視聴する際にその話の先は知らないにしても、台本があることを、録画であることを視聴者は知っている。予測しようとしないだけで予測可能であることを知っているのだ。
アニメキャラでなくても、近代的自我というものは他者も同じ近代的自我を持っていると思い込んでいる。近代的自我という共通性において他者を理解できると思い込んでいるのだ。この思い込みがコンテクストを助長する。コンテクストを理解できないと周りを同じ近代的自我を持っていないと思われる。それから防衛するために、近代的自我を信仰せざるを得なくなる。
コンテクスト主義的な世界では、本当の他者である理解できない他者は排除されるべき存在となるのだ。例えばオタク文化であるなら、それまでのコンテクストで理解できないキャラが登場すると、「感情移入できなかった」といって理解することを放棄してしまう。それがコンテクスト主義である。結果、そういった世界に生きる彼らは「偽の他者」の存在しか知らない、という状況が生じる。
これが、本当の意味での「他者の不在」ということである。
また、先に書いた「フェティシスム賛美」も、そのヴェールにファルスを投影させそれを自己愛的に愛するのがフェティシスムであるので、彼の愛には他者の無意識あるいは(失われた)主体が必要とされない。中身なんて関係ないのだ。精神分析的な他者とは自分と等しく失われた主体を内包しているから「理解不能」で「予測不能」となるのだ。そういった意味ではフェティッシュ(フェティシスムの対象)は「本当の意味の(想像的)他者」ではなくなる。こういった文脈からも「他者の不在」という表現が可能だろう。
この「他者の不在」は、先に書いた「二次元の世界で生きるオタクたち」を彷彿とさせる。作者が男女どちらでも構わないが、この作品をディスクールと扱って分析すると、その作家性としてそれに近いものが浮かび上がってくる。
この要素とフェティシスム賛美が絡み合うことで、(一部の)オタクたちは現実世界の他者さえもアニメキャラとして認識しているのではないだろうか、という印象を強く呼び起こす。その印象が私の怖気の原因だ。ある意味非常に現代的オタクを象徴している作品であると言えるだろう。
と、批判一色というのも気が引けるので、少しだけフォローを入れておこう。
少女の「去勢の承認」を描くビルドゥングスロマンと考えれば、とても経済的な構成となっている。先にも述べたが想像的同一化から象徴的同一化の欲望に変換する構成なんかは、精神的成長の描写としては理に適っているし巧みである。クライマックスまでは、「去勢の承認」というテーマを過不足なく見事に描写できていると言えよう。
また、
女性はどうしても「去勢の承認」などの過程は曖昧になってしまうが、障害を持つ王子と王の関係を挿入することで「去勢の承認」というテーマが明確になっている。主人公少女にとって夜の王と聖騎士という二人の愛する父的存在は、
前の記事で述べた「抑圧する父」と「欲望する父」に照応する。主人公少女は「抑圧する父」を選択したのだ。
二重の自己愛的構造というのも、オタク文化というコンテクストを離れるならば、おもしろい要素だと思う。これに注目するなら少女の葛藤などが言い訳、自我の隠蔽に見えてしまうが、純文学にするならばトラウマ(失われた記憶)を思い出すシーンなどはドラマティックに書く必要がないし、バランス論でなんとかなると思われる。
最近、電撃文庫というレーベルは脱オタク化している印象があるという意見を聞く。この本を買ったのも実はそういう意見によるところがあった。確かに表紙はアニメ的でないし、作中にイラストが挿入されていない。そういった表層的なところは脱オタク的と呼べるだろう。
しかし、これまで見てきたように精神分析的な読み解きをすれば、非常に現代オタクと親和しやすい作品であることがわかる。
電撃文庫の経営戦略など興味ないが、もしこの作品を「脱オタク」を担う作品として捉えているのなら、オタク文化コンテクストの超自我化=無意識化は、一層深刻なものになっていることが窺える。これをオタク的でないと思ってしまうことが、オタク的なるものが無意識に浸透している証拠なのである。加えて、オタク文化の
縮小再生産という傾向を証明しているとも言えよう。何故なら、脱オタクを目指していていながら、無意識的にオタク文化と親和性の高い作品を選択しているからだ。私が述べている縮小再生産的な傾向は、
表現者(出版社含む)と受取手が共犯的且つ無意識的に閉じた関係を結ぶことを原因としている。また、この作品を非オタク的作品だと思ってしまったラノベファンも同様だろう。オタク文化の自家中毒あるいは縮小再生産は、無意識がそうさせているのだ。病根は深いと言える。
「脱オタク」が本当かどうかなんてどうでもいいが、結論としては「フェティシスム賛美」「他者の不在」を軸とした作品であり、非常に現代オタクと親和性の高い作品と言えよう。
そしてこの作品が脱オタク的文脈(表紙がアニメ的じゃない)を漂わせている要素が加わり、オタクは無意識的に「現実と妄想の区別がついていない」のではないか、という私の疑念をさらに加速させる。それが怖気を呼び起こしている。
ある意味、オタク文化、いや少なくともライトノベルの歴史において、ターニングポイントないし象徴的な作品になるかもしれない。
ああ、ライトノベルなんか書評書くべきじゃないわ、ほんとに……。っていうか、ラノベは私は批評できません。今回ふかーく納得いたしました。
佐藤亜紀氏の「エモエモ泣いている」発言。その文章自体は非常に感情的ですが、実は本質を捉えているんじゃないかなあ、と思っています。
専用に配合された飼料を横一列に並んで喜んで食べているブロイラーたち。もしくはパブロフの犬。こういった揶揄的な意味でのオタクの動物化は、着々と進んでいるのではないでしょうか。
はあ。多分最初で最後のラノベ書評となるでしょうね、これ……。