『ひぐらしのなく頃に』アニメ
2006/10/30/Mon
いろいろとばたばたしてます。
ひぐらしのなく頃に。
私これゲームはやってないんですよね。アニメだけしか見てませんが、アニメは面白かったと思います。
私の好きな不条理系というか、メタ的な匂いがしたのに実は謎解きミステリの感動想起手法を使っているという、妙な感覚を味わいました。
これを言葉でどう説明したらいいのかなあ、なんて思いつつ、まあどうでもいいかなんて思っていたら、東浩紀氏が鋭い批評を書いていました。
>閉域(繰り返される日常=悪夢)からの脱出方法が、メタフィクション的にメタレベルに向かうものではなくて、なんというか、ゲーム世界からプレイヤー世界に移行するような感じへと変わっている。
おお、とうなりましたねえ。
まさにこんな感じです。というと手抜きのように思われそうなので、私の言葉で言い直してみます。
劇場を考えてみると、皆さんが持っている劇場のイメージというのは、舞台に額縁がありますよね。この額縁をプロセニアムアーチと呼び、そういった舞台をプロセニアム舞台と呼びます。日本の客席数百人以上の劇場はほとんどプロセニアム舞台です。
そうではない舞台というと、歌舞伎の花道や、能の三方舞台、グローブ座などの円形劇場があります。
このプロセニアム形式が完成されたのはワーグナーのバイロイト祝祭劇場なのですが、日本ではついこの間できた新国立劇場大ホールをもって、日本の近代演劇の金字塔とされています。設計に参加したどなたかが仰っていましたが、「これで日本はワーグナーを卒業できる」ということらしいです。
このプロセニアム形式劇場というのは、舞台と観客を完全に区別します。これには是非があります。
是としては、舞台内のリアリズムを主題にした場合は、観客は別世界の話として見ますので、冷静に観劇できます。
これは、近代リアリズム演劇の隆盛にも大きく関わってきていると考えています。リアリズム演劇とプロセニアム形式というのは相性が良いのですね。舞台の中で世界を完結させるのがリアリズムですから。つまり、プロセニアム劇場の隆盛と、近代リアリズム演劇の隆盛はお互いに深く影響しているものと思います。(もちろんバレエやオペラなど近代リアリズムでない演目もあったと思いますが)
また、日本では江戸から明治という演劇史的に断絶とも言える時代を経ていますので、上記は近代舞台芸術輸入が先、つまり近代リアリズム演劇の影響が先にあって、プロセニアム劇場乱立につながった、と言えると思います。
非としては、演劇の起源にあたる祝祭的、儀礼的効果、つまり呪術性が薄くなるということです。観客は別世界にいるのですから当たり前ですね。
東氏が言っていたゲーム世界とプレイヤー世界を分け隔てる物語、つまり、私的言葉で言い直すと、プロセニアム劇場的な物語、と言えると思います。
その閉ざされた世界の中で、登場人物は世界をアドベンチャーゲームのプレイヤー的に生きます。
これは、L・エイベルがハムレットをメタシアターの元祖だとした時の言い分と非常に近いのです。
ハムレットは劇作家のように自分がいる世界を誘導し、自分さえ陽狂というその世界の役どころを演じます。ハムレットはその世界のプレイヤーなのです。
ここで問題となってくるのは、ハムレットが、「運命」を主題にした古典的悲劇から近代リアリズム的作劇術の転換点だとする見方です。
つまり、「ひぐらし」のような作品は、近代リアリズムの先祖がえりと言えるかもしれませんね。
ハムレットにとっての古典悲劇は、現代なら主人公と世界の命運が同一化される「セカイ系」にあたりそうです。
「ひぐらし」や「時かけ」はアンチセカイ系作品ということかな、と。
そういえば宮台氏もセカイ系を批判して「時かけ」をべた褒めしてたなあ。
また、演劇はリアルタイムで動く物語なので、物語の階層化などは苦手な分野でしたが、アドベンチャーゲームなどでは親和性が高い要素かもしれませんね。
「ひぐらし」をミステリと考えてよいのかどうかわかりませんが、ミステリというのは、ロジックの物語です。物語内の理屈は完全でなければなりません。
理屈=ロゴスと考えると、ロゴス中心主義の隆盛による文学への影響は、自然主義などによる近代リアリズムとして現れます。
私は、ライトノベルというジャンルは非常に近代リアリズム的だと思うのですね。
もちろん内容はファンタジーやSFが多いですが、理屈以外の情念を催す作用より、理屈重視傾向があると思います。対立項としては、詩的小説や幻想小説を考えてもらうとわかりやすいと思います。
読者がラノベを読む時、まず最初に評価するのはもちろんキャラクター性ですが、次にくるのは物語の理屈なのですね。論理的に納得できるかどうかを読むわけです。
論理的な説明は、説得力を持ちます。また、科学重視の現代では論理的思考というのは非常にリアリティがあります。
だからライトノベルでは(リアリズムではない)リアリティ、説得力が必要、ということになるのだと思います。
近代小説では、論理の拠り所に現実世界を選択しました。科学は現実世界を対象として研究されてきたので当然ですね。そこから影響を受けたのが19世紀末に生まれた自然主義文学です。
ところが自然主義を輸入した日本は明治時代で、まだ世界は科学的に成り切っていませんでした。なので日本の作家は外的世界ではなく内的世界に向かうようになりました。それが私小説です。
科学というものは、理屈、つまりロゴス主義なわけです。情念などの主観的な、曖昧な要素は排除するという考え方なわけですね。
このロゴスという視点から見ると、ライトノベルは近代リアリズムの系譜に収まるジャンルであると思うのです。
ミステリとライトノベルと「ひぐらし」、ロゴス中心主義の中人気を得たであると言えるのではないでしょうか。
つまり、押井氏や庵野氏などが詩的情景やメタ手法を用いて突き崩そうとした近代の固定観念(=ロゴス中心主義)に、未だどっぷりと浸かっているという状況なのです。
それを批判するつもりはありません。
ライトノベルやアニメは時代性が非常に強いので、そういう時代の要請があると思うのです。
この点については、上述の東氏が2000年頃の著作で、デリダ派としてラカン派を批判する際に注目していたイメージ(想像的なもの)とシンボル(象徴的なもの)の曖昧化に深く影響している現象ではないかな、と思います。
ロゴス中心主義ではシンボルというものを嫌います。シンボルは複数の意味を持ち、その意味間を自由に行き来できるので再現性がなくなるからです。論理が構築しにくいのですね。科学は再現性がないものを相手にしません。
ラカンは言語というシンボルの構造(シンボリズム)が人間の無意識層の構造に当てはまると言っています。
ではイメージ的なシンボルはどうなのか? あるのではないのか? というのが東氏の指摘です。
東氏はイメージのシンボル文化としてオタク文化に答えがあると考えているようです。
私はラカンも絵的イメージのシンボル性などは考慮に入れてはいたと思いますが、ソシュール言語学を土台に理論を構築していったので言語主体の論旨になったのでしょうね。
私もほぼ東氏と同意見ですが、オタク文化に限っては少し違う見方をしています。
シンボルという概念の対比項として、サインというものがあります。これは意味が単一の記号のことを言います。
オタク文化は萌えキャラや物語の構造を抽象化して、一見シンボル化したように受け取って感動しているみたいに見えますが、その実サイン化しているのではないか、という見方です。
ここでは、物事を記号に抽象化する際、一つの記号に複数の意味を見出す力がシンボル化、記号の意味を単一化させようとする力をサイン化と呼びたいと思います。
オタク文化ではこれまでの表現、芸術文化と比較して、サイン化の流れが強いのではないか、ということです。もちろんこれには情報化社会の発達も関係していることでしょう。
サイン化された記号というのは、非常に科学的、論理的なものと相性が良いのですね。意味が単一ですから再現性が担保されるわけです。逆に言えば、近代の特徴であるロゴス中心主義にどっぷりはまった傾向であるとも言えるのではないでしょうか。
違う言い方をするならば、折口信夫の言う「類化性能」と「別化性能」ということでしょうか。違う事物に対し類似性を発見する思考、これはシンボルと相性のいい思考でしょう。一方事物を分別する思考、これはそのままサインに当てはまります。中沢新一氏などはこの「別化性能」を「非対称性」と呼び、一神教由来のアリストテレス論理、つまりは論理的、科学的思考傾向のことを示しています。ロゴス中心主義的思考なわけですね。(個人的には中村雄二郎氏の言葉である「近代的知」の方がしっくりきます)
オタク文化は記号化の文化であるという論は最近よく見かけます。
私はこれ自体は批判することはしません。例えば舞台芸術でもバレエやお能ように、人間の動作、所作をコード(記号)化することを極めて、新しい表現形態を生み出したものだってあるからです。
しかし、記号には「シンボル」と「サイン」という2種類あるのです。オタク文化は、サイン化の傾向が強い文化なのではないでしょうか。
私は、表現による感動は、シンボルではないと生み出せないものと考えます。
サインに感動を見出そうとしても限りがあります。なのでオタク文化は飽きたら次、という消費文化になっているのではないかな、と思います。
また、サインによる感動は、ユングのいう集合的無意識みたいな、深層の心性を奮わせるほどの、普遍的感動は生まれないと思います。
事実、集合的無意識の出発点となった神話は、それぞれの要素における意味の多義性、つまりシンボル性が重要な役割を果たしています。
東氏のイメージとシンボルの曖昧化という視点は、従来の芸術文化では素直にシンボル化されたようなことが、現代文化であるオタク文化ではサイン化されていることによる違和感が根底にあるのではないかな、と思うのです。
ラカン派と言い分としてこれを用いるなら、抽象化されているがサイン的な抽象化であり、シンボル化ではない。よってオタク文化の記号は象徴界にあるものではない、従って、現代文化でも想像界と象徴界の区分はまだついている、という言い方になるのでしょうか。
オタク文化については、一つの記号的なものに複数の意味を見出すような、シンボル化ともいうべき力が働かない限り、時代を超えて愛される名作は生まれてこないのではないでしょうか。
ひぐらしのなく頃に。
私これゲームはやってないんですよね。アニメだけしか見てませんが、アニメは面白かったと思います。
私の好きな不条理系というか、メタ的な匂いがしたのに実は謎解きミステリの感動想起手法を使っているという、妙な感覚を味わいました。
これを言葉でどう説明したらいいのかなあ、なんて思いつつ、まあどうでもいいかなんて思っていたら、東浩紀氏が鋭い批評を書いていました。
>閉域(繰り返される日常=悪夢)からの脱出方法が、メタフィクション的にメタレベルに向かうものではなくて、なんというか、ゲーム世界からプレイヤー世界に移行するような感じへと変わっている。
おお、とうなりましたねえ。
まさにこんな感じです。というと手抜きのように思われそうなので、私の言葉で言い直してみます。
劇場を考えてみると、皆さんが持っている劇場のイメージというのは、舞台に額縁がありますよね。この額縁をプロセニアムアーチと呼び、そういった舞台をプロセニアム舞台と呼びます。日本の客席数百人以上の劇場はほとんどプロセニアム舞台です。
そうではない舞台というと、歌舞伎の花道や、能の三方舞台、グローブ座などの円形劇場があります。
このプロセニアム形式が完成されたのはワーグナーのバイロイト祝祭劇場なのですが、日本ではついこの間できた新国立劇場大ホールをもって、日本の近代演劇の金字塔とされています。設計に参加したどなたかが仰っていましたが、「これで日本はワーグナーを卒業できる」ということらしいです。
このプロセニアム形式劇場というのは、舞台と観客を完全に区別します。これには是非があります。
是としては、舞台内のリアリズムを主題にした場合は、観客は別世界の話として見ますので、冷静に観劇できます。
これは、近代リアリズム演劇の隆盛にも大きく関わってきていると考えています。リアリズム演劇とプロセニアム形式というのは相性が良いのですね。舞台の中で世界を完結させるのがリアリズムですから。つまり、プロセニアム劇場の隆盛と、近代リアリズム演劇の隆盛はお互いに深く影響しているものと思います。(もちろんバレエやオペラなど近代リアリズムでない演目もあったと思いますが)
また、日本では江戸から明治という演劇史的に断絶とも言える時代を経ていますので、上記は近代舞台芸術輸入が先、つまり近代リアリズム演劇の影響が先にあって、プロセニアム劇場乱立につながった、と言えると思います。
非としては、演劇の起源にあたる祝祭的、儀礼的効果、つまり呪術性が薄くなるということです。観客は別世界にいるのですから当たり前ですね。
東氏が言っていたゲーム世界とプレイヤー世界を分け隔てる物語、つまり、私的言葉で言い直すと、プロセニアム劇場的な物語、と言えると思います。
その閉ざされた世界の中で、登場人物は世界をアドベンチャーゲームのプレイヤー的に生きます。
これは、L・エイベルがハムレットをメタシアターの元祖だとした時の言い分と非常に近いのです。
ハムレットは劇作家のように自分がいる世界を誘導し、自分さえ陽狂というその世界の役どころを演じます。ハムレットはその世界のプレイヤーなのです。
ここで問題となってくるのは、ハムレットが、「運命」を主題にした古典的悲劇から近代リアリズム的作劇術の転換点だとする見方です。
つまり、「ひぐらし」のような作品は、近代リアリズムの先祖がえりと言えるかもしれませんね。
ハムレットにとっての古典悲劇は、現代なら主人公と世界の命運が同一化される「セカイ系」にあたりそうです。
「ひぐらし」や「時かけ」はアンチセカイ系作品ということかな、と。
そういえば宮台氏もセカイ系を批判して「時かけ」をべた褒めしてたなあ。
また、演劇はリアルタイムで動く物語なので、物語の階層化などは苦手な分野でしたが、アドベンチャーゲームなどでは親和性が高い要素かもしれませんね。
「ひぐらし」をミステリと考えてよいのかどうかわかりませんが、ミステリというのは、ロジックの物語です。物語内の理屈は完全でなければなりません。
理屈=ロゴスと考えると、ロゴス中心主義の隆盛による文学への影響は、自然主義などによる近代リアリズムとして現れます。
私は、ライトノベルというジャンルは非常に近代リアリズム的だと思うのですね。
もちろん内容はファンタジーやSFが多いですが、理屈以外の情念を催す作用より、理屈重視傾向があると思います。対立項としては、詩的小説や幻想小説を考えてもらうとわかりやすいと思います。
読者がラノベを読む時、まず最初に評価するのはもちろんキャラクター性ですが、次にくるのは物語の理屈なのですね。論理的に納得できるかどうかを読むわけです。
論理的な説明は、説得力を持ちます。また、科学重視の現代では論理的思考というのは非常にリアリティがあります。
だからライトノベルでは(リアリズムではない)リアリティ、説得力が必要、ということになるのだと思います。
近代小説では、論理の拠り所に現実世界を選択しました。科学は現実世界を対象として研究されてきたので当然ですね。そこから影響を受けたのが19世紀末に生まれた自然主義文学です。
ところが自然主義を輸入した日本は明治時代で、まだ世界は科学的に成り切っていませんでした。なので日本の作家は外的世界ではなく内的世界に向かうようになりました。それが私小説です。
科学というものは、理屈、つまりロゴス主義なわけです。情念などの主観的な、曖昧な要素は排除するという考え方なわけですね。
このロゴスという視点から見ると、ライトノベルは近代リアリズムの系譜に収まるジャンルであると思うのです。
ミステリとライトノベルと「ひぐらし」、ロゴス中心主義の中人気を得たであると言えるのではないでしょうか。
つまり、押井氏や庵野氏などが詩的情景やメタ手法を用いて突き崩そうとした近代の固定観念(=ロゴス中心主義)に、未だどっぷりと浸かっているという状況なのです。
それを批判するつもりはありません。
ライトノベルやアニメは時代性が非常に強いので、そういう時代の要請があると思うのです。
この点については、上述の東氏が2000年頃の著作で、デリダ派としてラカン派を批判する際に注目していたイメージ(想像的なもの)とシンボル(象徴的なもの)の曖昧化に深く影響している現象ではないかな、と思います。
ロゴス中心主義ではシンボルというものを嫌います。シンボルは複数の意味を持ち、その意味間を自由に行き来できるので再現性がなくなるからです。論理が構築しにくいのですね。科学は再現性がないものを相手にしません。
ラカンは言語というシンボルの構造(シンボリズム)が人間の無意識層の構造に当てはまると言っています。
ではイメージ的なシンボルはどうなのか? あるのではないのか? というのが東氏の指摘です。
東氏はイメージのシンボル文化としてオタク文化に答えがあると考えているようです。
私はラカンも絵的イメージのシンボル性などは考慮に入れてはいたと思いますが、ソシュール言語学を土台に理論を構築していったので言語主体の論旨になったのでしょうね。
私もほぼ東氏と同意見ですが、オタク文化に限っては少し違う見方をしています。
シンボルという概念の対比項として、サインというものがあります。これは意味が単一の記号のことを言います。
オタク文化は萌えキャラや物語の構造を抽象化して、一見シンボル化したように受け取って感動しているみたいに見えますが、その実サイン化しているのではないか、という見方です。
ここでは、物事を記号に抽象化する際、一つの記号に複数の意味を見出す力がシンボル化、記号の意味を単一化させようとする力をサイン化と呼びたいと思います。
オタク文化ではこれまでの表現、芸術文化と比較して、サイン化の流れが強いのではないか、ということです。もちろんこれには情報化社会の発達も関係していることでしょう。
サイン化された記号というのは、非常に科学的、論理的なものと相性が良いのですね。意味が単一ですから再現性が担保されるわけです。逆に言えば、近代の特徴であるロゴス中心主義にどっぷりはまった傾向であるとも言えるのではないでしょうか。
違う言い方をするならば、折口信夫の言う「類化性能」と「別化性能」ということでしょうか。違う事物に対し類似性を発見する思考、これはシンボルと相性のいい思考でしょう。一方事物を分別する思考、これはそのままサインに当てはまります。中沢新一氏などはこの「別化性能」を「非対称性」と呼び、一神教由来のアリストテレス論理、つまりは論理的、科学的思考傾向のことを示しています。ロゴス中心主義的思考なわけですね。(個人的には中村雄二郎氏の言葉である「近代的知」の方がしっくりきます)
オタク文化は記号化の文化であるという論は最近よく見かけます。
私はこれ自体は批判することはしません。例えば舞台芸術でもバレエやお能ように、人間の動作、所作をコード(記号)化することを極めて、新しい表現形態を生み出したものだってあるからです。
しかし、記号には「シンボル」と「サイン」という2種類あるのです。オタク文化は、サイン化の傾向が強い文化なのではないでしょうか。
私は、表現による感動は、シンボルではないと生み出せないものと考えます。
サインに感動を見出そうとしても限りがあります。なのでオタク文化は飽きたら次、という消費文化になっているのではないかな、と思います。
また、サインによる感動は、ユングのいう集合的無意識みたいな、深層の心性を奮わせるほどの、普遍的感動は生まれないと思います。
事実、集合的無意識の出発点となった神話は、それぞれの要素における意味の多義性、つまりシンボル性が重要な役割を果たしています。
東氏のイメージとシンボルの曖昧化という視点は、従来の芸術文化では素直にシンボル化されたようなことが、現代文化であるオタク文化ではサイン化されていることによる違和感が根底にあるのではないかな、と思うのです。
ラカン派と言い分としてこれを用いるなら、抽象化されているがサイン的な抽象化であり、シンボル化ではない。よってオタク文化の記号は象徴界にあるものではない、従って、現代文化でも想像界と象徴界の区分はまだついている、という言い方になるのでしょうか。
オタク文化については、一つの記号的なものに複数の意味を見出すような、シンボル化ともいうべき力が働かない限り、時代を超えて愛される名作は生まれてこないのではないでしょうか。