『とりぱん』ってマンガが好きだ。
四コママンガで、鳥の観察がテーマになってるっぽいが、鳥以外の動物のこともよく書かれている。
ちなみにわたしは別に鳥が好きってわけじゃない。動物も好きってわけじゃない。そらそうだ、終業式で先生から「山に行くときは野犬に注意しましょう」なんて言われるような田舎で育ったんだからな。動物に特別な思い入れはない。
でもな、この人の視点がおもしろい。
主人公は作者自身なんだな。エッセイ四コマ(そんなジャンルあるのか知らんが)。
んで今月号にこんな四コマがあった。『直感』ってタイトル。
主人公=作者が外を歩いている。夕方になった。
「そろそろ帰ろうか、犬の散歩している人もいるし」
と思う。
「犬の散歩をしている人」ってのは後姿でちらっとしか見てない。
主人公は「???」と思う。
「尻尾の形が。あの形はなんて犬だっけ? あれ、あんな尻尾の犬っていたっけ?」
と思い振り返りよく見ると猫だった。
「尻尾の違和感は結構大きい」ってオチ。
尻尾だけ見ていろいろ考えるのって、いわば
部分対象的な視点だよな。
そういうことだよなー、って思ったってだけ。
「部分」と「違和感」。
これがキーワードなんだよな。
わたしの。
あ、そうそう、
あたし四コママンガ好きだから。いやなんか一応。
わたし
しっぽしっぽしっぽよあなたのしっぽよ
がんばる わたしまけない
しっぽのきもちよ
あれか、ちょっとひねったペニス羨望みたいなもんか。
お尻に生えたペニス。
お尻に生えているから裏ペニスみたいな?
それこそ「あなたが西を向けば尻尾は東よ」だ。
ペニスは西を向けば西を向くからな。
『しっぽのきもち』は『ほうき星の歌』が好きだったな。人気ないのか動画ねえ。谷山浩子関係の動画ってネットにゃそこかしこにあるんだが、谷山って本人が自分の楽曲動画楽しんで見てる人だから消されにくいらしい。JASRACはあくまでアーティストの代理だからな。
あ、でも歌詞あった。
単体だったらそうでもなかったかもしれないけれど、こういうアルバムにあるからこそいい。単体で聞いたら「せつない歌」になるけれど、このアルバムにあると「なんかわかんないけど微妙に怖い歌」になる。『まっくら森の歌』系の。『まっくら森』は「微妙に」じゃなく「怖い歌」だけど。
独り言。うわ言。
いや違うな。裏ペニスじゃなくて裏乳房かもしれない。
対象aの裏側。
そうだよな。尻尾なんだから糞便とも換喩可能だしな。
対象aとしての自分、ではなく、対象aの裏側、部分対象としての自分。
「ほうき星」は太陽でもない、月でもない、一番星でもない、火星でも金星でもない。どちらかといえばデブリだ。ジブリじゃないよ。
「天体の隠喩」の中では結構部分対象的かもな。太陽とかになるとファルスになるけど。
「がんばる、わたし負けない、部分対象の気持ちよ」
どうでもいいけど「水上雅敏」でぐぐってわたしブログが上にあったりしたらかわいそうだなって思ってぐぐったら
こんなん見つけた。なんだ、やっぱ
「「無」チュキチュキー」な人じゃんか。
「無」に執着するのって抑鬱症だよな。抑鬱症とは「何もなくなった」ではなく「「無」チュキチュキー」な症状だ。
やっぱ君ポスト・フェストゥムじゃん。あ、ちなみにわたし
ここでも書いているように「友人の少ない子」だったよ。
大学デビューして「知人」は爆発的に増えたが。
めんどくせえ。「友人」って。
あ、
この記事思い出した。
つかさ、
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本来であれば、そもそも意味などと言うものは幻影に過ぎぬと知って、もっと自由にシニフィアンに様々な意味を―公的な意味も私的な意味も―廻らせて遊べ、そういう中で、意味の奇妙で凝固された使い方も溶解され訂正されていくのだろうが、
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その「幻影に過ぎぬ意味」の構造をわかってなければ「遊べ」ないだろうが。
器質因的に隠喩をうまく理解できない自閉症者は、「そもそも意味などと言うものは幻影に過ぎぬと知っ」た結果「遊べ」ると思うか?
自閉症者にとってその「遊び」は必死なものとなるだろうな。なんせ構造がわからないんだから。外から見たことないジャングルジムの中を動き回るのはそりゃあ必死になるだろう。
ああ、「遊びが遊びになってないじゃん」って「必死じゃないことが遊び」という意味じゃなく、「必死に遊ぶ」のも「遊び」なら別にいいが。
この記事から。お、この記事でもマン汁ババアへの嫌悪感を示してるじゃん、あたし。
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このババアになんでこんなにむかつくのかな、と思ってたら、そうか、とわかった。わたしの勝手なイメージで(わたしの妄想にすぎないってこと)、
この記事とかで書いた「遊びが遊びになってないじゃん」ってな態度をする知人を連想したからだと思った。多分。
そこでも書いているようにわたしは「遊びだから本気」なのだ。
というか、なぜ遊びだと本気じゃないのだろう? 「遊び」と「本気」は対義語じゃないよな。それぞれの意味は。子供なんか遊びに夢中になるよな。本気になってるよな。
ああそっか、「ガキ臭え」って言いたかったのか、そいつは。
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で、水上くんはどういう意味で「遊べ」と書いたんだい?
わたしは必死に「幻想に過ぎぬ意味」構造を「遊んで」いる。必死に遊んでいる。真面目に遊んでいる。
わたしが精神分析を学んでいるのはこういうことだ。
水上はこんなわたしを「遊びが遊びになってないじゃん」と笑うのだろうか。
「幻想に過ぎぬ意味」構造というジャングルジムを「遊んで」いることが、
「王様ゲーム」であり「隠喩を読み読まれあう」ことだよ。
わかる? 藤田博史と「主人のディスクール」を(おそらく)無意識的にできちゃう水上くんや。
つかそれを無意識的にできる君も「「友達の多い子が人格の良い子。」最近こういう言い回しを」する子たちと大差ないんじゃないか?
その「外から見たジャングルジム」なんて「幻想に過ぎぬ」のに、なぜその中で「遊べ」るのだろう?
不思議だ。
ほんと去勢済み主体って不思議だ。
そういう精神疾患と考えた方が合理的だ。
「無」自体が幻想なんだよ。
幻想の上に構築された幻想たる「意味」で遊んでいるお前らの方が「コトバハコトバノコトバカリ」に見えるわ、わたしゃ。
具体の伴わない言葉をそう言うんじゃないの?
あれだな。無理矢理まとめると。
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そもそも意味などと言うものは幻影に過ぎぬと知って、
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ってのは、「「あなたが西を向けば西を向く」乳房やペニスと、「あなたが西を向けば東を向く」尻尾は、同じ突起物だと知ること」だな。
「あなたが西を向けば西を向く」乳房やペニスの方に注意が向いてしまう習性こそが、幻想だと。