「パトスの知」「演劇的知」
2006/12/28/Thu
→AFTER SEVENさん
まず、駄文を読んでいただいたことに深く感謝いたします。ありがとうございます。
指摘も鋭いと思います。全て反論できません。思わず「なるほど」と思ったこともありました。
そういった前提で反論ではなくお返事として、または先の記事の補足としてこの記事を書かせていただきます。
●「社会の多様化と流動化」と「2ちゃん」について。
これは確かに論が希薄でした。なので暴論的になっていますね。言及が甘かったことに対する反論はいたしません。
私も「時々2ちゃねらであるし時々2ちゃねらでない」ので、AFTER SEVENさんの仰っていることも理解できます。
●自我同一性の拡散について。
=====
多様性の中で何を選択したらいいのかわからないからアイデンティティが確立できないんだ、とアブラブログの人は前提している。
ただこの前提は正しいのだろうか?疑問がある。アイデンティティの確立というのは、多様性の中から何かを選ぶことではなく、自分自身の中にあるものを肯定するということなのではなかったのかと。それは選択できるものではない。もともとそこにあった否定できないものとしての自分自身を背負うことである。たとえで言うなら我々はたくさんある顔のなかから自分の顔を選ぶのではなく、ほかでもない自分の顔を、自分の顔であるということを肯定することに近い。それは選択ではないはずだ。そういう意味で上の分析はよくわからない。
ましてや、成長期に象徴的他者としての父性の抑圧が少ないから~云々というのはますますよく分からない。
アイデンティティが確立できない人間は父親に甘やかされた人間だけなのだろうか。
=====
心理学的なアイデンティティの確立ができない状態である「自我同一性の拡散」は、ラカン論でいえば「象徴界に馴れていない」状態だと私は思っています。
ラカン論では生まれたばかり赤ん坊における主体=エスは空虚であり、そこから他者を通じて、比喩的に言うなら他者という鏡に映った自分を認知することで自我が形成されます。他者(人間とは限らない)に映った自分の集積が自我となるのです。つまり「自我同一性の拡散」の文脈におけるアイデンティティの確立とは、他者という鏡に映った自分と内面の自分を一致させることなのです。
比喩的に言うなら、「自分の顔」は自分で見れません。「他者」という鏡に映った「自分の顔」を認知するしかないのです。その「他者に映った自分の顔」と内面を同一化させることが、自我同一性になるわけです。
具体的にいうならば、ここでいう「自分の顔」とは、「他者に話される自分」です。話している他者(自問自答含む)は大文字の他者であり、象徴界にある他者です。主体や自我が象徴界と折り合いをつけていくことが自我同一性を得るということになります。現代はこの象徴界が「多様化しているように見える」から折り合いがつけらない、どの鏡(他者)に映った自分を選択すればよいのかわからない、という文脈です。「自分の顔」の比喩で言えば、その顔はAというコミュニティとBというコミュニティでは受け取られ方が違うかもしれません。体育会系のAでは「なよなよした顔」と言われ、文化系のBでは「きつい顔」と言われたりとか。それが多様性ということです。
また、象徴界への参入は「父という名における去勢」によって行われます。そういった文脈で父性という言葉を使いました。なので、
>アイデンティティが確立できない人間は父親に甘やかされた人間だけなのだろうか。
という問いに対しては、「父親」を「父性」と言い直したとして、この文章を比喩表現と捉えるなら「そうだ」と言えますし、個人に対する分析についてだと捉えるなら「そうであることもあるし、そうでないこともある」という答えになります。
●「前世」について。
こちらの記事で述べているように、
=====
同じ前世の世界を分かち合える仲間との同一化、「私はあなたたち(前世に気付かない人間)とは違う」という差異化。
=====
という文脈で、各個人の内面にある「差異化」と「同一化」という矛盾する欲動を、コミュニティの外壁で「差異化」を、内部で「同一化」を、満たしている「傾向がある」小さなコミュニティの一例として、「前世」を信じる少女達の例を挙げました。オウム真理教もその一例です。
●「エリート」「ヘタレ」について。
他人のせいにしているような言い方になってしまいますが、宮台氏の言葉遣いが誤解を招いているようです。私は分類モデルとしてこれを支持しますが、「エリート」「ヘタレ」という言葉に内在する「優劣」については言及いたしません。
また、
=====
私が思うに、彼らが「ヘタレ」として語る全体性を希求する人間というのは、例えば真理を必要とする人間であるとか、世の中を理解したくて悩んでいるような連中だとか、元々そういう類の人間のことを言っているんじゃないの、ということである。こういう人間たちの欲求をみたすために宗教やら学問やらがあるわけだ。彼らの全体性への希求を満たす方法は二種類あって、神を信じることと、科学を探求することなわけだ。
神によって世界の全体性を補完するか、あるいは科学で世界のすべてを解明したいと思うか。どちらも全体性の希求なのだ。
そのようなことを延々とやっている人間が「ヘタレ」だと宮台はいっているのだと思うが。そうではなくて複雑で理不尽な世の中を理解不能なままそのままで生きられる強さを持てよと宮台は言いたいのだと思うが。
=====
についてですが、私は彼が用いた「ヘタレ」という言葉に内在する問題意識を捉えたのです。彼が感じる「ヘタレ」に内在する問題は、「短絡的に同一化と差異化を満足させるコミュニティ」にあると私は思ったわけです。
仰るような「全体性への希求」については、それ自体は私は否定しません。
最後の一文について、少し違和感があります。「理解不能なままそのままで生きられる」という言い方ですと、「理解不能だから理解しようとするのはやめろ」という言い方に見えますが、宮台は「理解しようとするのをやめろ」とは言ってないと思うのです。「理解不能」という前提が重要である、ということだと思います。これについては私の誤読かもしれません。
●オタク文化について。
まず、私は「オタク文化」そのものに対しては、全てがダメだと言っているわけでもないし、全てを肯定しているわけでもありません。そもそも私自身「オタク」に分類される人種ですし、全否定しているなら論ずること自体しないと思います。
引用した斉藤環氏の文章は、2000年の著作で、その内容を見ると90年代後半のオタク文化を述べたものだとわかります。これらAFTER SEVENさんが仰る「能動的に」作品を享受するオタク達の態度は肯定的に思っています。「萌えキャラと詩は類似している」という論は、その文脈から生まれたものです。
しかし、ここ数年のオタク文化については、表現文化として捉えた場合での違和感や不安感を感じるようになりました。それは思考するにつれオタク文化に限らないポストモダンにおける表現文化にも通底するものと思えましたので、私はそれを「記号のサイン化傾向」と表現して、批判しております。オタク文化の一面としてある傾向と思っていただいて構いません。
●「パトスの知」「演劇的知」について。
>近代的知に対抗しうる別の知をぶつけての分析
これについては私の思考の至らなさに尽きます。現状認識の分析に対立思想をぶつけただけになってしまいました。拙い文章でしたが、最後の結論に「おおむね同意」していただけたことは嬉しく思います。
*****
さて、以下はAFTER SEVENさんの記事から思いついた論です。こういう考えが導かれたことにも感謝いたします。
オタク文化のところで述べた「能動的に」作品を楽しむオタクたち。私はそれを肯定しています。彼らは私のオタク二分論だと「大雑把には」スキゾ的オタということになるでしょう。もちろんそれにあてはまらない例もあると思いますが、傾向を説明するための仮説のようなものだと思ってください。また、言葉として精神医学用語の「パラノイア」「スキゾイド」をモチーフにしましたが、本来の言葉の意味としてはなく、これらを暗喩的に用いた「パラノ/スキゾ」という二項対立だと思ってください。
私の仮説では、パラノ的人格はスキゾ的人格と比較して、想像界が強いという定義にしています。結果、人当たりはよくスキゾより社交的能力があると言えるでしょう。彼らがその能力により、表出としては他者や社会との同一化という傾向が生じるでしょう。ラカンの「パラノイアは人格そのものである」という論に従えば、パラノ的人格は一般人であると言えます。「差異化/同一化」という二項対立はパラノイアの構成要件から換喩したものです。パラノにも同一化とともに差異化への希求があるはずです。彼らは表層的には「同一化」傾向がありますが、見えないところに「差異化」への希求があるといえます。
一方スキゾはどうかというとパラノと比較して想像界が弱いので社交的とはいえないでしょう。結果表層的には孤立しているように見えます。また、彼らは象徴界が強いがために記号の世界にのめり込みがちです。それは言語の世界でもあります。ソシュールの論で言えば「言語は差異の体系である」ということから、象徴界にのめり込むことは「差異化」的表出となると思われます。しかし彼らにも同じく「同一化」への希求があると思います。
次にコミュニティの話に移ります。コミュニティではコミュニケーション、つまり表出が重要となりますね。
なので例えばスキゾだけのコミュニティがあったとしましょう。彼らは表出的は「差異化」的ですので、コミュニティは集団としては曖昧なものとなると思われます。同一化への希求はコミュニティに捉われない個人的な繋がりに向くと予想されます。これをここでは「スキゾ的コミュニティ」と呼びましょう。
一方、パラノだけのコミュニティがあるとすれば、コミュニケーションが届く範囲では同一化的傾向が見られるでしょう。コミュニケーションを内部ほど必要としない他のコミュニティとの関係についてはどうなるでしょうか。もし、内面における「差異化」への希求が満たされていないのであれば、それは他とのコミュニティとの「差異」、つまり外壁に向かうこともあるでしょう。内部での同一化は存在していますから、そういった傾向にすら同調していけば、外壁に「差異化」、内部で「同一化」という欲動の矛先が整ってくると予想されます。同じくこれを「パラノ的コミュニティ」と呼びます。
ポストモダンにおいては、社会の多様化により「能動的」にコミュニティを選択することができます。能動的に形成されたコミュニティは、内部にたまたまあった「差異」というものが存在しにくいですね。差異があるならコミュニティから抜ければよいし、自分にあったコミュニティを探せばよいのですから。つまり「能動的」であることが許される故にコミュニティ内部の同一化の純度が上がると言えます。結果、差異化の矛先はよりその外壁に向かってしまうでしょう。これを私は「閉塞した島宇宙」と呼んでいます。
ここでスキゾ的人格の私の仮説の定義である「想像界<象徴界」ということを考えましょう。子供は見たり聞いたりすることより言葉を覚えるのが後になりますね。想像界が先にあって去勢により象徴界に参入するのです。そういった意味では一般的に成長の度合いとして「想像界>象徴界」となり、パラノの(私の仮説の)定義と合致します。私の仮説の定義からも「パラノは一般人」ということが言えると思います。つまり、人口的に「パラノ>スキゾ」ということが成り立つわけです。
パラノの方が人口が多いとなれば、コミュニティの視点から言えばパラノ的コミュニティの傾向が強く表出してくると考えられます。
ポストモダンは情報化社会と言えます。情報化社会を記号の氾濫と捉えれば、マクロで見ればスキゾ的人格と相性がよい時代と言えるでしょう。一方、社会が多様化して能動的にコミュニティを選べるということ、また人口的に「パラノ>スキゾ」であることを考えればパラノ的コミュニティの数が多くなる傾向が強い時代であるとも言えます。このような複雑な状況を、モデルとして考えているのです。
このようなモデルにおいて、パラノがスキゾ的仮面を被ることなく生きるにはどうすればよいのか。
実を言うと、私は社会学的思考はあまり得意ではありません(社会の多様化や2ちゃんについての論の希薄さはこのせいでしょう)。宮台氏のような歯切れのよい文章はとてもじゃないけど無理です。なので限定した言い方になってしまいます。その答えが「パトスの知」「演劇的知」にあると考えているのですが、まだこれを明確に説明できる言葉を持っていません。
「パトスの知」による効果を少しだけ言葉にしてみます。
先の記事に書いたように「パトスの知」を得るには具体的にどう学べばよいのか。これも先に書いた以上のことは具体的に言えません。一つだけ挙げるなら「自分が何故感動したのか思考する」ということです。これは自分の情念の動きを言語的思考で形にする(文字にする必要はありません)ことです。これは「能動的」に自分の感受性を探るということになりますね。また言語的思考であるなら、言語の差異化という側面から、内面を「差異化」する、曖昧な「感動」を細分化して構造化するという言い方にもなると思います。
差異化の希求は他者との差異化だと思いがちです。しかし、先に書いたラカン論では自我というものは「他者という鏡に映った自分の集積」です。それを差異化することも他者の差異化と言えないでしょうか。また、違う言い方をするのであれば、現実的な他者と自分の差異化に限ると、それはその他者を必要としていることになり、その内には同一化の希求が感じられます。純度の高い差異化はむしろ内面への差異化の方だと言えます。
自己の内面を差異化していれば、外側に差異化の希求が向くことは少なくなるでしょう。そうなれば、パラノ的コミュニティの外壁に差異化が集まることも少なくなるのではないでしょうか。するとコミュニティは柔軟化します。「閉塞」しなくなるわけですね。縮小化から逃れることができるでしょう。またコミュニティに異物が入ることもあるでしょうし、それを受動的に受け入れることでコミュニティ内の同一化傾向も薄まるでしょう。同一化への欲動が外側へ拡散されるのです。
しかし内面を差異化することもストレスになりえますね。その報酬がなければいけません。それが芸術的な感動だというのは、自分で暴論だとわかっていますが、限定的な考え方として捉えて下さい。「パトスの知」を得ればより深いところの情念を震わせることができます。「動物」的な受動的態度であっても、パブロフの犬的な感動ではない深い感動が得られるのです。また、芸術文化において受取手の質の向上は表現者の質の向上に直結します。悪いストレスを深い感動という良いストレスに変えるという言い方になりましょうか。
もちろん、内面を差異化することが一律的に正しいというわけではありません。個人の問題で考えるなら、それだけだと何らかの障害が出てくるかもしれません。しかし、現在外側メインに向かっている差異化の希求を内側に少しだけ向けることで、芸術文化的に豊かな生活を送れるのではないか、という話です。要は、バランスの問題なのです。
「受動的/能動的」という対立項で述べるならば、コミュニティに関わる表出については動物的な「受動的」態度で、自分の情念的な内面については「能動的」態度であるべき、という言い方になるでしょうか。もちろん行き過ぎを薦めるわけではないですが。
以上に述べたのは「パトスの知」の一部にすぎません。私としては「内側の情念に対する思考」だけではなく、もっと体感的で直感的なアプローチもあると思っています。しかしそれは体感的である故言葉にし辛いのです。そういった言葉にできないような「パトスの知」を共有できるのが「演劇的知」というものだと思っています。演劇と限ってしまうわけではないので、「芸術的知」と言っても構わないと思います。
人は超越性や不可能性に惹かれます。それを記述したり共有するために宗教や学問、科学が生まれ、発展しました。他者との共有に重点を置いたこれら以外に、自分の内面に重点をおいて超越性や不可能性に顔を向けるもう一つの柱として、「パトスの知」や「演劇的知」が機能すると私は思います。ポストモダンにおいてはこのもう一つの柱が大きな意味を持つのではないでしょうか。
一つだけ例を挙げます。私は芸術の本質は「同一化」にあると考えています。それは主観と客観の同一化でもよいし、自我とエスの同一化でもよいし、象徴界と自己の同一化でもよいでしょう。私はお能を見て主観と客観の同一化をうっすらと感じ、それに強く惹かれました。詳しくはこちらの記事をお読み下さい(お能を見ろと言っているわけではありません。念の為)。それは体感的で直感的なものでした。これを言葉で論理的に説明するのは今の私には無理なのです。
長くなってしまいました。今日のところはこの辺で……。
まず、駄文を読んでいただいたことに深く感謝いたします。ありがとうございます。
指摘も鋭いと思います。全て反論できません。思わず「なるほど」と思ったこともありました。
そういった前提で反論ではなくお返事として、または先の記事の補足としてこの記事を書かせていただきます。
●「社会の多様化と流動化」と「2ちゃん」について。
これは確かに論が希薄でした。なので暴論的になっていますね。言及が甘かったことに対する反論はいたしません。
私も「時々2ちゃねらであるし時々2ちゃねらでない」ので、AFTER SEVENさんの仰っていることも理解できます。
●自我同一性の拡散について。
=====
多様性の中で何を選択したらいいのかわからないからアイデンティティが確立できないんだ、とアブラブログの人は前提している。
ただこの前提は正しいのだろうか?疑問がある。アイデンティティの確立というのは、多様性の中から何かを選ぶことではなく、自分自身の中にあるものを肯定するということなのではなかったのかと。それは選択できるものではない。もともとそこにあった否定できないものとしての自分自身を背負うことである。たとえで言うなら我々はたくさんある顔のなかから自分の顔を選ぶのではなく、ほかでもない自分の顔を、自分の顔であるということを肯定することに近い。それは選択ではないはずだ。そういう意味で上の分析はよくわからない。
ましてや、成長期に象徴的他者としての父性の抑圧が少ないから~云々というのはますますよく分からない。
アイデンティティが確立できない人間は父親に甘やかされた人間だけなのだろうか。
=====
心理学的なアイデンティティの確立ができない状態である「自我同一性の拡散」は、ラカン論でいえば「象徴界に馴れていない」状態だと私は思っています。
ラカン論では生まれたばかり赤ん坊における主体=エスは空虚であり、そこから他者を通じて、比喩的に言うなら他者という鏡に映った自分を認知することで自我が形成されます。他者(人間とは限らない)に映った自分の集積が自我となるのです。つまり「自我同一性の拡散」の文脈におけるアイデンティティの確立とは、他者という鏡に映った自分と内面の自分を一致させることなのです。
比喩的に言うなら、「自分の顔」は自分で見れません。「他者」という鏡に映った「自分の顔」を認知するしかないのです。その「他者に映った自分の顔」と内面を同一化させることが、自我同一性になるわけです。
具体的にいうならば、ここでいう「自分の顔」とは、「他者に話される自分」です。話している他者(自問自答含む)は大文字の他者であり、象徴界にある他者です。主体や自我が象徴界と折り合いをつけていくことが自我同一性を得るということになります。現代はこの象徴界が「多様化しているように見える」から折り合いがつけらない、どの鏡(他者)に映った自分を選択すればよいのかわからない、という文脈です。「自分の顔」の比喩で言えば、その顔はAというコミュニティとBというコミュニティでは受け取られ方が違うかもしれません。体育会系のAでは「なよなよした顔」と言われ、文化系のBでは「きつい顔」と言われたりとか。それが多様性ということです。
また、象徴界への参入は「父という名における去勢」によって行われます。そういった文脈で父性という言葉を使いました。なので、
>アイデンティティが確立できない人間は父親に甘やかされた人間だけなのだろうか。
という問いに対しては、「父親」を「父性」と言い直したとして、この文章を比喩表現と捉えるなら「そうだ」と言えますし、個人に対する分析についてだと捉えるなら「そうであることもあるし、そうでないこともある」という答えになります。
●「前世」について。
こちらの記事で述べているように、
=====
同じ前世の世界を分かち合える仲間との同一化、「私はあなたたち(前世に気付かない人間)とは違う」という差異化。
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という文脈で、各個人の内面にある「差異化」と「同一化」という矛盾する欲動を、コミュニティの外壁で「差異化」を、内部で「同一化」を、満たしている「傾向がある」小さなコミュニティの一例として、「前世」を信じる少女達の例を挙げました。オウム真理教もその一例です。
●「エリート」「ヘタレ」について。
他人のせいにしているような言い方になってしまいますが、宮台氏の言葉遣いが誤解を招いているようです。私は分類モデルとしてこれを支持しますが、「エリート」「ヘタレ」という言葉に内在する「優劣」については言及いたしません。
また、
=====
私が思うに、彼らが「ヘタレ」として語る全体性を希求する人間というのは、例えば真理を必要とする人間であるとか、世の中を理解したくて悩んでいるような連中だとか、元々そういう類の人間のことを言っているんじゃないの、ということである。こういう人間たちの欲求をみたすために宗教やら学問やらがあるわけだ。彼らの全体性への希求を満たす方法は二種類あって、神を信じることと、科学を探求することなわけだ。
神によって世界の全体性を補完するか、あるいは科学で世界のすべてを解明したいと思うか。どちらも全体性の希求なのだ。
そのようなことを延々とやっている人間が「ヘタレ」だと宮台はいっているのだと思うが。そうではなくて複雑で理不尽な世の中を理解不能なままそのままで生きられる強さを持てよと宮台は言いたいのだと思うが。
=====
についてですが、私は彼が用いた「ヘタレ」という言葉に内在する問題意識を捉えたのです。彼が感じる「ヘタレ」に内在する問題は、「短絡的に同一化と差異化を満足させるコミュニティ」にあると私は思ったわけです。
仰るような「全体性への希求」については、それ自体は私は否定しません。
最後の一文について、少し違和感があります。「理解不能なままそのままで生きられる」という言い方ですと、「理解不能だから理解しようとするのはやめろ」という言い方に見えますが、宮台は「理解しようとするのをやめろ」とは言ってないと思うのです。「理解不能」という前提が重要である、ということだと思います。これについては私の誤読かもしれません。
●オタク文化について。
まず、私は「オタク文化」そのものに対しては、全てがダメだと言っているわけでもないし、全てを肯定しているわけでもありません。そもそも私自身「オタク」に分類される人種ですし、全否定しているなら論ずること自体しないと思います。
引用した斉藤環氏の文章は、2000年の著作で、その内容を見ると90年代後半のオタク文化を述べたものだとわかります。これらAFTER SEVENさんが仰る「能動的に」作品を享受するオタク達の態度は肯定的に思っています。「萌えキャラと詩は類似している」という論は、その文脈から生まれたものです。
しかし、ここ数年のオタク文化については、表現文化として捉えた場合での違和感や不安感を感じるようになりました。それは思考するにつれオタク文化に限らないポストモダンにおける表現文化にも通底するものと思えましたので、私はそれを「記号のサイン化傾向」と表現して、批判しております。オタク文化の一面としてある傾向と思っていただいて構いません。
●「パトスの知」「演劇的知」について。
>近代的知に対抗しうる別の知をぶつけての分析
これについては私の思考の至らなさに尽きます。現状認識の分析に対立思想をぶつけただけになってしまいました。拙い文章でしたが、最後の結論に「おおむね同意」していただけたことは嬉しく思います。
*****
さて、以下はAFTER SEVENさんの記事から思いついた論です。こういう考えが導かれたことにも感謝いたします。
オタク文化のところで述べた「能動的に」作品を楽しむオタクたち。私はそれを肯定しています。彼らは私のオタク二分論だと「大雑把には」スキゾ的オタということになるでしょう。もちろんそれにあてはまらない例もあると思いますが、傾向を説明するための仮説のようなものだと思ってください。また、言葉として精神医学用語の「パラノイア」「スキゾイド」をモチーフにしましたが、本来の言葉の意味としてはなく、これらを暗喩的に用いた「パラノ/スキゾ」という二項対立だと思ってください。
私の仮説では、パラノ的人格はスキゾ的人格と比較して、想像界が強いという定義にしています。結果、人当たりはよくスキゾより社交的能力があると言えるでしょう。彼らがその能力により、表出としては他者や社会との同一化という傾向が生じるでしょう。ラカンの「パラノイアは人格そのものである」という論に従えば、パラノ的人格は一般人であると言えます。「差異化/同一化」という二項対立はパラノイアの構成要件から換喩したものです。パラノにも同一化とともに差異化への希求があるはずです。彼らは表層的には「同一化」傾向がありますが、見えないところに「差異化」への希求があるといえます。
一方スキゾはどうかというとパラノと比較して想像界が弱いので社交的とはいえないでしょう。結果表層的には孤立しているように見えます。また、彼らは象徴界が強いがために記号の世界にのめり込みがちです。それは言語の世界でもあります。ソシュールの論で言えば「言語は差異の体系である」ということから、象徴界にのめり込むことは「差異化」的表出となると思われます。しかし彼らにも同じく「同一化」への希求があると思います。
次にコミュニティの話に移ります。コミュニティではコミュニケーション、つまり表出が重要となりますね。
なので例えばスキゾだけのコミュニティがあったとしましょう。彼らは表出的は「差異化」的ですので、コミュニティは集団としては曖昧なものとなると思われます。同一化への希求はコミュニティに捉われない個人的な繋がりに向くと予想されます。これをここでは「スキゾ的コミュニティ」と呼びましょう。
一方、パラノだけのコミュニティがあるとすれば、コミュニケーションが届く範囲では同一化的傾向が見られるでしょう。コミュニケーションを内部ほど必要としない他のコミュニティとの関係についてはどうなるでしょうか。もし、内面における「差異化」への希求が満たされていないのであれば、それは他とのコミュニティとの「差異」、つまり外壁に向かうこともあるでしょう。内部での同一化は存在していますから、そういった傾向にすら同調していけば、外壁に「差異化」、内部で「同一化」という欲動の矛先が整ってくると予想されます。同じくこれを「パラノ的コミュニティ」と呼びます。
ポストモダンにおいては、社会の多様化により「能動的」にコミュニティを選択することができます。能動的に形成されたコミュニティは、内部にたまたまあった「差異」というものが存在しにくいですね。差異があるならコミュニティから抜ければよいし、自分にあったコミュニティを探せばよいのですから。つまり「能動的」であることが許される故にコミュニティ内部の同一化の純度が上がると言えます。結果、差異化の矛先はよりその外壁に向かってしまうでしょう。これを私は「閉塞した島宇宙」と呼んでいます。
ここでスキゾ的人格の私の仮説の定義である「想像界<象徴界」ということを考えましょう。子供は見たり聞いたりすることより言葉を覚えるのが後になりますね。想像界が先にあって去勢により象徴界に参入するのです。そういった意味では一般的に成長の度合いとして「想像界>象徴界」となり、パラノの(私の仮説の)定義と合致します。私の仮説の定義からも「パラノは一般人」ということが言えると思います。つまり、人口的に「パラノ>スキゾ」ということが成り立つわけです。
パラノの方が人口が多いとなれば、コミュニティの視点から言えばパラノ的コミュニティの傾向が強く表出してくると考えられます。
ポストモダンは情報化社会と言えます。情報化社会を記号の氾濫と捉えれば、マクロで見ればスキゾ的人格と相性がよい時代と言えるでしょう。一方、社会が多様化して能動的にコミュニティを選べるということ、また人口的に「パラノ>スキゾ」であることを考えればパラノ的コミュニティの数が多くなる傾向が強い時代であるとも言えます。このような複雑な状況を、モデルとして考えているのです。
このようなモデルにおいて、パラノがスキゾ的仮面を被ることなく生きるにはどうすればよいのか。
実を言うと、私は社会学的思考はあまり得意ではありません(社会の多様化や2ちゃんについての論の希薄さはこのせいでしょう)。宮台氏のような歯切れのよい文章はとてもじゃないけど無理です。なので限定した言い方になってしまいます。その答えが「パトスの知」「演劇的知」にあると考えているのですが、まだこれを明確に説明できる言葉を持っていません。
「パトスの知」による効果を少しだけ言葉にしてみます。
先の記事に書いたように「パトスの知」を得るには具体的にどう学べばよいのか。これも先に書いた以上のことは具体的に言えません。一つだけ挙げるなら「自分が何故感動したのか思考する」ということです。これは自分の情念の動きを言語的思考で形にする(文字にする必要はありません)ことです。これは「能動的」に自分の感受性を探るということになりますね。また言語的思考であるなら、言語の差異化という側面から、内面を「差異化」する、曖昧な「感動」を細分化して構造化するという言い方にもなると思います。
差異化の希求は他者との差異化だと思いがちです。しかし、先に書いたラカン論では自我というものは「他者という鏡に映った自分の集積」です。それを差異化することも他者の差異化と言えないでしょうか。また、違う言い方をするのであれば、現実的な他者と自分の差異化に限ると、それはその他者を必要としていることになり、その内には同一化の希求が感じられます。純度の高い差異化はむしろ内面への差異化の方だと言えます。
自己の内面を差異化していれば、外側に差異化の希求が向くことは少なくなるでしょう。そうなれば、パラノ的コミュニティの外壁に差異化が集まることも少なくなるのではないでしょうか。するとコミュニティは柔軟化します。「閉塞」しなくなるわけですね。縮小化から逃れることができるでしょう。またコミュニティに異物が入ることもあるでしょうし、それを受動的に受け入れることでコミュニティ内の同一化傾向も薄まるでしょう。同一化への欲動が外側へ拡散されるのです。
しかし内面を差異化することもストレスになりえますね。その報酬がなければいけません。それが芸術的な感動だというのは、自分で暴論だとわかっていますが、限定的な考え方として捉えて下さい。「パトスの知」を得ればより深いところの情念を震わせることができます。「動物」的な受動的態度であっても、パブロフの犬的な感動ではない深い感動が得られるのです。また、芸術文化において受取手の質の向上は表現者の質の向上に直結します。悪いストレスを深い感動という良いストレスに変えるという言い方になりましょうか。
もちろん、内面を差異化することが一律的に正しいというわけではありません。個人の問題で考えるなら、それだけだと何らかの障害が出てくるかもしれません。しかし、現在外側メインに向かっている差異化の希求を内側に少しだけ向けることで、芸術文化的に豊かな生活を送れるのではないか、という話です。要は、バランスの問題なのです。
「受動的/能動的」という対立項で述べるならば、コミュニティに関わる表出については動物的な「受動的」態度で、自分の情念的な内面については「能動的」態度であるべき、という言い方になるでしょうか。もちろん行き過ぎを薦めるわけではないですが。
以上に述べたのは「パトスの知」の一部にすぎません。私としては「内側の情念に対する思考」だけではなく、もっと体感的で直感的なアプローチもあると思っています。しかしそれは体感的である故言葉にし辛いのです。そういった言葉にできないような「パトスの知」を共有できるのが「演劇的知」というものだと思っています。演劇と限ってしまうわけではないので、「芸術的知」と言っても構わないと思います。
人は超越性や不可能性に惹かれます。それを記述したり共有するために宗教や学問、科学が生まれ、発展しました。他者との共有に重点を置いたこれら以外に、自分の内面に重点をおいて超越性や不可能性に顔を向けるもう一つの柱として、「パトスの知」や「演劇的知」が機能すると私は思います。ポストモダンにおいてはこのもう一つの柱が大きな意味を持つのではないでしょうか。
一つだけ例を挙げます。私は芸術の本質は「同一化」にあると考えています。それは主観と客観の同一化でもよいし、自我とエスの同一化でもよいし、象徴界と自己の同一化でもよいでしょう。私はお能を見て主観と客観の同一化をうっすらと感じ、それに強く惹かれました。詳しくはこちらの記事をお読み下さい(お能を見ろと言っているわけではありません。念の為)。それは体感的で直感的なものでした。これを言葉で論理的に説明するのは今の私には無理なのです。
長くなってしまいました。今日のところはこの辺で……。
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