私は「変な人」マニアだ。マニアといってもフェティシスムのようにそれらを「所有」したいとは思わないが。
現実から乖離した「変な人」ほど私にとってはリアリティがある。「オタク」というシニフィアンを好んで分析するのもそのせいかもしれない。
変な人の言葉は、日常に蝕まれた私の中にはない言葉が多い。新しい言語という意味ではなく、彼らとの会話の中で使う言語が違う意味を持ったりすることを言っている。
だから私は学生時代から、ゲイバーやビアンバーを飲み歩いていた。ショー関係をするところはお金が高いのでなかなか行けなかったが、社会人になって行った六本木の「金魚」のショーには感動した。無理矢理連れて行った友達は微妙な顔をしていたが。宝塚歌劇は好きな子だったので大丈夫だと思ってたがそうでもないらしい。
私はいわゆるヘテロ=異性愛者だ。好奇の目で同性愛者を見ていると言われたら反論しようがない。しかし同性愛者に限らず、人間違う考え方をする他人を理解するにはまずこの他人に対する好奇心が必要なのではないかとも思う。他人にわからないものがあるから他人と会話をするのだと思っている。それは他愛ないおしゃべりでもいい。論理的な「納得」ではなく、わからない何かを「体感」するのが好きなのだ。特に同性愛者は男女関係無く、頭でっかちでロゴス信仰も甚だしく論理的に喋っていると自分では思い込んでいるのか知らないが私なんかからみたら論理も稚拙で感情に流されているようにしか見えないヘテロ男性諸君より、はるかに知的で論理的で体感の言葉というものをきちんとわかっているように思う。一般的な傾向として。こういったエセインテリぶりたがるヘテロ男性より、同性愛者との語らいの方がはるかに楽しい。
この、体感の言葉を得るために、私は自分のことを喋らない。聞かれたらほんとのことも言うし嘘のことも言う。他人の言葉を体感するには、自分はゼロでなければならない。もちろん見た目という逃れられない記号があるが、それは仕方が無い。だから肩書きや自分が考える個性はゼロにしておきたい。そこから発する言葉だけで会話をすれば、わからない他人を体感できるし、違う自分も見えてくる。一石二鳥だ。
前の記事で、男女の原抑圧までの成長の過程の違いをまとめた。自己満足のように既成の知を書くブログにしたかったわけじゃないが、今オタク文化のもう一つの側面に思考を向けているから、わざわざああいったまとめをしなければならなかった。
だからこの記事を読むにあたっては前の記事も読んでおいて欲しい。その、オタク文化のもう一つの側面とは、女性のオタクの文化である、ボーイズラブ(以下BLという)という側面だ。一応
wikipediaの「やおい」という項を貼っておこう。「やおい」と「BL」の区別などは論じるつもりなどないので、ここでは同じようなものとしておく。
精神分析の文脈で女性を語るのは難しい。何せ「女は存在しない」からだ。それでも何故こういうことを書こうとしたかというと、私がボーイズラブという文化を理解できないからだ。そういうジャンルに振り分けられる作品も、小説と漫画でいくつか読んだ。でもダメだった。おもしくろくないとかというより、そういう世界にはまらなかった。興味がわかないのだ。
私は何故BLがダメなのだろう? リアルゲイを知っているからだろうか? 確かに
こういう記事もある。一部引用しよう。
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やおいに傾倒している少女に、『さぶ』などのまともな同性愛雑誌を見せてみればいい。100人中99人が、「いやっ! 気持ち悪いっ」と叫ぶだろう。その意味では、「男同士の愛」という「異常」なものに傾倒しているつもりの彼女たちだが、実に「正常」なのである。
高城響氏『「やおい」に群がる少女たち』(朝日新聞社『ジェンダー・コレクション』)
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しかし、リアルゲイを受け入れてBLも好きだという人もいるだろう。
私も彼らのセックスを目の当たりにしたわけではないし(一度ちょっとしたはずみで口でしているのを見たことあるが)。
何度もこのブログでは書いているが、女性性は曖昧で複雑だ。ただでさえ曖昧なのに、BLにはまる女たちという女性群の傾向分析など難しいに決まっている。何故男性は単純で女性は複雑なのか。単純に言えば、男性は去勢というトラウマ的なものを誰しも持っているがため、象徴界においては、抹消された主体(/S)の代わりの象徴的ファルス(Φ)を求める、という画一的な方向性があるからである。一方女性は去勢も曖昧に行われるし、「女」という記号=「性の登録」そのものが大文字の他者から与えられた/Laというシニフィアンだから、方向性がないのだ。
なので、女性性を、そしてその群を分析するにはいくつも回り道しなくてはならない。周囲を埋めることでそれを分析するしかないわけだ。
まず第一の回り道。ラカン論での男女の「愛」のモデルを見てみよう。性倒錯的なものをまなざすには基本のヘテロの愛の形をつけておかなくてはならない。
男性は、欠如した主体=/Sが、その欠如を埋めるかのように、赤ん坊の頃母親に欲望された自分を求めるように同一化したい対象=対象aを欲望する。ややこしいことだが欠如しているからこそ同一化の対象も欠如してなくてはならない。「欲望は欠如に向かう」という奴だ。男性にとってもっとも欠如している(と見られる)のは女性であろう。かくして男性は女性に対象aを見てとる。女性は女性でもともと象徴界における「女性」という記号は他者から与えられたものだから、その対象aに近い/Laという自分を象徴界におく。「愛される私」みたいなものだろうか。対象aは同一化したもの、現実的に届かない場所にあるものだから/Laは対象aにはなりえない。よって/Laは対象aの近似値として象徴界に登録される。/S→/Laというわけだ。さて、/Laというシニフィアンになった女性はというと、男性に対し、エレクトラコンプレックスの頃のような父親の象徴を男性の内に求める。父親の象徴といったら象徴的ファルスそのもの、つまりΦだ。かくして男性は/S→Φという方向性をさらに強めるわけだがここではおいておこう。女性側から見れば/La→男性のΦだ。しかし女性はもう一つの選択肢がある。男性は去勢により母親への愛という近親相姦的愛をトラウマ的に抑圧されているが、女性にはそれがない。よって女性は自分の内に父親、ペニスを持った母親を求めることもできる。男性のΦにあたる女性の(シニフィアンの中心である)S1は、前に書いた通りS(/A)だ。/La→S(/A)である。女性の愛は、男性のように/S→対象aという一方向ではなく、/La→Φと/La→S(/A)という二つの選択肢があるのだ。
/Laという女性の最初の位置が受動的であることに違和感を覚える女性もいるだろう。しかしよく考えて欲しい。女性は愛する男性が変わればファッションが変わったり、口癖が変わったりしないだろうか? 私がネットで見つけてとても感心した言葉にこういうのがある。「男性は過去の恋愛を『名前を付けて保存』し、女性は『上書き保存』する」。これはまさに/Laが受動的に決定されることを表現しているのではないだろうか。
男性の方を見てみよう。Φを暗喩する事例を挙げてみる。少年漫画の「究極の強さ」、学問における「真理」、英雄が得る「絶対的権力」、宗教なら「絶対神」などだろうか。男性にとって失われたΦ=象徴的ファルスとは絶対的で単一のもの、まさに平原にそそり立つペニスのようなイメージを持つものである。
一方、女性のS(/A)とは他者との「境界」である。だから絶対的でも単一でもない。女性にとって自らに求めるものは、強さなら究極でなくてよいし、真理も一つじゃなくてよいし、権力も絶対じゃなくてよいし、神も何人いてもよい。こういったことをフロイトは「女性は超自我が弱い」だの、誰の言葉か忘れたが「女性は自我理想が低い」などと表現しているのだ。また、象徴界の中でペニスのようにそそり立つ一つのものを構築する必要がないからロゴスもいらない。「女の勘」や「体感の言葉」でよい。このことを「女性は非論理的だ」と表現される。これらは単に去勢というトラウマ的なものに縛られている男性の言い分だと思えば可愛く思えてこないだろうか?
近代的知のコンテクストに縛られていると、受動的であることが悪いことのように思えてしまうが、それは古代ギリシャ哲学からキリスト教、そして科学という一連の流れで強化された、男性の去勢によるトラウマ的執着で形成されたコンテクストに過ぎないのだ。レヴィ=ストロースが発見した「野生の思考」では女性的知とも言える受動的知と、男性的な近代的知のような能動的知がうまく共存している。ここでも中村雄二郎氏の著作『魔女ランダ考』の思考が思い出される。
話がそれた。
あと二つ回り道をさせてもらいたい。それはレズビアンと宝塚歌劇(以下「宝塚」)だ。私には、宝塚にはまる女性たちの心理が、BLにはまる女性たちの心理にとてもよく似ているように思える。
まずレズビアン。藤田博史氏著『性倒錯の構造』を紐解いてみよう。
女性はS(/A)の位置から、対象aを求めることも可能である。これに父親=男性への幻滅が加わると、父親への挑戦として、あたかも「騎士道的愛」(ラカンによる表現)の如く、「本当の愛とはこういうものだ」というアクティングアウトで、S(/A)→対象aを体現する。これがレズビアンの精神分析らしい。男性同性愛は去勢の否認が原因とされているが、女性には去勢が(明確には)ない。厳密にはレズビアンも去勢の否認が原因とされているが、去勢そのものが曖昧なので、こういった要件が必要となるのだろう。
確かに男性は去勢というトラウマ的なものに言動が規制されている。それは私も体感的に納得できる。しかし女性はそれがないので理屈をつけられない。だから、象徴界の道徳や倫理といった社会的ルールが無意識的に浸透しており、それが性倒錯に走るのを規制している、としか言えないのだろう。逆に女性は去勢がないから、受動的だからコンテクストや社会的ルールに縛られやすいとも言えるだろうか。
男性は、去勢というトラウマ的なものに縛られているが故、象徴的ファルスΦを求める。生きる場所は象徴界が主体になるだろう。女性は去勢が曖昧だ。よって、男性と女性を比べたら、女性はその内的動力が「想像界>象徴界」であり、私の
オタク二分論でいうなら女性はパラノ的、男性は逆でスキゾ的とも言えるだろうか。最近は自己愛型引きこもりというものがあるので単純に比較できないかもしれないが、本来引きこもりはスキゾイドが素因である。引きこもりは男性が多いという現象にも当てはまるかもしれない。また「女性は非論理的」ということにも繋がるだろう。
ともかく、女性は去勢というトラウマ的なものがない故、同性愛などの性倒錯には抵抗が少ないのかもしれない。私が聞いた話だと、バイ(両刀使い)は女性が多いという。女性性の曖昧さに起因する性倒錯に対する軽やかさの一端かもしれない。
ここで宝塚に移る。このレズビアンの分析理論を使うと女性が宝塚に惹かれる理由をとても説明しやすくなる。簡単である。女性にとってS(/A)は父親でありペニスを持った母親であると書いた。男装する女性というのは直接的な暗喩として機能するだろう。
観客は自分がS(/A)の位置にいようといなかろうと、S(/A)を暗喩する男装した女性の「S(/A)→対象a」という娘役の女性との関係性、「愛の形」を楽しんでいるのだ。むしろ男装の女性と女性の愛という虚構の関係性そのものが観客にとっての対象aと言えるか。彼女たちは、お目当ての役者はいるが、それは舞台を降りた役者に同一化の幻想を求めているのであり、芝居を見ている時は、誰に感情移入しているかというのはとても多様である。少年漫画は大概読者の感情移入先は主人公であるが、宝塚ファンは全く自分勝手にいろんな役に感情移入する。漫画のように感情移入先を特定して没頭しないのだ。感情移入というより、密かな愛の物語を覗き見している第三者みたいな比喩が正しいだろうか。
テレビのスターなどへの同一化が激しくなり、それが妄想の域まで達すると、パラノイアとなる。しかし私が知る限りでは宝塚ファンは、むしろジャニーズに熱狂する女性たちなどより、妄想的な印象を感じない。宝塚ファンとお目当ての役者の間には、舞台というクッションが機能しているのだ。彼女たちは舞台を見るときは、「宝塚の舞台」という世界と同一化しているのだ。この感覚があるからこそ、役者に対しパラノイア的な熱狂を注ぐことはないのだろう。これも分析したら面白そうだが、ここでは本論と外れるのでやめておく。
ともかくまとめよう。ローゼンフェルトの言に倣うなら、「宝塚にはまることは同性愛の防衛である」という感じだろうか。
女性は、象徴界における、/LaとS(/A)の位置を軽やかに行き来することができる。元の/Laが他者から与えられたシニフィアンであるからこそである。これらを、とても暴論的な比喩で表現するなら、
前の記事で引用した二階堂奥歯氏の文中の「少女」と「女」、/Laは「少女」でS(/A)は「キャリアウーマン」みたいなものを想像してもらうとわかりやすいだろうか。「女性は演技的である」ということにも繋がるかもしれない。
ちなみに男性のキャリアウーマンに対するアレルギー的な嫌悪もこれで説明できる。S(/A)は父親でありペニスを持った母親であると書いた。これはまさに男性にとって消失した/Sそのものを暗喩し、究極の欲望する対象である。しかし当然の如く完全にはそれと一致しない。理想に近い異性がいたとして、ほんの少しの違和が多大に気になってしまうというのは感覚的に理解できないだろうか? 例えば理想に近い異性が鼻をほじくっていたら大きなショックを受けるだろう。男性のキャリアウーマンに対する嫌悪は、単なる妬みのような感情以外に、去勢というトラウマ的なところを激しく揺り動かされた結果、愛憎ないまぜにして生まれたものが主成分となっている。
さて、ここでようやくBLの分析に移れる。一応軽く「この文章における」定義をつけておこう。
●少年から青年男子の同性愛を描いた作品群である。
●メインの登場人物に女性は含まれない。
●性的描写がある。
まず私が疑問に思ったのは、wikipediaの「やおい」の項で、「自らの女性性を嫌悪した結果である」と書かれていることだ。これはおかしい。ラカン論では「女は存在しない」、つまり嫌悪したくてもできないのである。女性性への関わり方は、男女問わず「問いかけ」、即ち精神分析的なヒステリーという形でしか成り立たない。そして何よりも、彼女たちの言動、ファッションからとても女性性を嫌悪している様子は見られない。
私が辿り着いた最初の結論から書こう。BLにはまる女性たちは、/Laに固執している。S(/A)となることを避けている。が、レズビアンと同じく、父親=男性に幻滅し、「正しい愛の形」を父親=男性に示そうというアクティングアウトを行っている。幻滅した男性とは現実的な男性だ。だから彼女たちはリアルゲイを受け入れられない。彼女たちは、BLにはまることによって、「少女」などのような/Laというシニフィアンを自らの記号として維持しようとしているのだ。BLは、現実的な年齢など関係ない、「少女」たちによって作られた世界なのだ。
彼女たちが嫌悪しているのは自らの女性性なんかではなく、社会性だ。これは男性オタクと同じ心情である。男性、女性オタクとも社会を遠ざけているという点で一致している。ただ、男性の場合は去勢というトラウマ的なものがあるため、社会性を遠ざけても去勢の呪縛により社会性に顔が向いてしまう。結果周りから見ても自分の心情を顧みてもその行動は「逃避」的なものとなってしまう。一方女性は去勢がない。彼女が生きるシニフィアンも他者から勝手に与えられたものだ。結果社会を遠ざけたとしてもそれは「逃避」とはならない。だから父親=男性=男性的社会に「幻滅」した、という表現になる。
男性の方々は不公平じゃないか、と思われるかもしれないが、よく考えてみよう。古来神話などの物語世界では、社会を遠ざけている女性は「深窓の令嬢」「箱入り娘」のような類型で、社会的には好意的に捉えられていなかったか?
また、女性も社会に出なければならないというフェミニズム的な言い分には私は幾ばくかは同意するが、女性も社会に対して能動的であらねばならない、という固定観念はつい(神話時代などと比較して)ここ最近の、男性が作り上げた近代的自我というものに洗脳された言い分ではないかとすら私は思う。洗脳とは言い過ぎかもしれない、/Laに呪縛されているといった方がいいだろうか。近代的自我など関係なく、能動的でありたい女性はS(/A)を目指せばよいし、受動的でありたいなら男性のΦを求めればよいのだ。
BLの創始者であるらしい中島梓氏は、『コミュニケーション不全症候群』という著作で、BL=やおいにはまる少女たちは、大人の女性になることを拒絶している、と書いてある。古い本(1991年刊行)だがまあ大まかな文脈は信用できると思う。しかし中島氏は、「大人の女性」を「母親」だと考えているようだ。これは厳密には、自らの内のS(/A)=父親=ペニスを持った母親を拒否しているという方が正しいだろう。こう考えると、同著では少し説明不足の感がある一つの疑問が解決する。それは、BL(同著では「JUNE的な作品」と表現しているが)の原点のようなものとして、彼女は自分の作品と森茉莉氏の作品を例に挙げているのだが、その中で、「「年長の男性」の愛が年長の女性と年若い少年とによって奪い合われる世界である。」という一文がある。主人公=読者が感情移入するのはもちろん「年若い少年」だ。しかしそこから派生したとされる現代のBL作品群では、あまり「年長の男性」という類型を見かけない。もちろん「おじさま萌え」や「老執事萌え」などといった嗜好はあるが、父性を暗喩するような年長の男性がBLの同性愛関係に関わってくるのは少数といってよい。年長の男性が登場しても、それは主役格の少年たちが、エディプスコンプレックス的に対抗すべき対象として描かれることが多い。よって現代のBLに関しては、彼女が同著で書いているように、単純にエレクトラコンプレックスの代理としての虚構という構図をあてはめるべきではないのだ。つまり、彼女らは父親=男性=男性的社会にも幻滅していると同時に、自らがS(/A)となることを遠ざけている。なので、自分が感情移入する「年若い少年」の愛の対象は、社会を暗喩するような父性的男性であってはならないのだ。
また、レズビアンと同じ文脈である、「本当の愛の形を見せつける」アクティングアウトに関しても、同著ではこういう表現をしている。
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少女たちから要求されているのは、社会の秩序に反逆しても構わないとされる「究極の愛」とでもいったもの、自分を否定する社会の論理をはねかえしてでも自分を守り、自分の正当な居場所を(たとえそれは最後には死のなかにしかないということになっても)与えてくれることのできる強烈な愛着であるのだから。
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この文章だけ読むと先述のレズビアンの幻滅した父親=男性に対するアクティングアウトそのもののようにさえ思える。そうなのだ。BLにはまることとは「究極の愛」の形を幻滅した男性(それは父親でもあり社会でもある)に叩きつけるアクティングアウトなのだ。
ではレズビアンと何が違うのだろう。レズビアンは自らをS(/A)の位置に追いやり、その位置から対象aを求める。S(/A)→対象aという図式だ。そしてこの関係性はたびたび逆転する。お互いが対象aを体現したりS(/A)を体現したりするのだ。しかし現代では男女平等思想の下、女性の社会進出も珍しくない日常のものとなった。S(/A)というファルス的なものを求める女性はこぞって社会に出て行っただろう。こういった状況の中、S(/A)は「キャリアウーマン」的な、男性社会の中で生きる男性的女性というものを暗喩するようになった。本来、S1という知の中心、シニフィアンの中心の位置にあるのがS(/A)なのであるが、近代から現代ではS(/A)はまさしくペニスを持った母親の如く、社会性を体現する大人の女性を暗喩するものになってしまったのだ。
ここでBLにはまる女性群のもう一つの、中島梓氏が前掲書で挙げている(タイトルにまで関与している)特徴である、「社会性を遠ざけている」という要素が起動する。つまり彼女たちは社会性を遠ざけているため、現代では社会性を暗喩してしまうS(/A)に向かうことを拒否している、ということになるだろうか。
以上の分析から、BLにはまる女性たちは、レズビアンのようにS(/A)と/Laについて明確に「タチ」「ネコ」という役割を自らに課することなく、宝塚にはまる女性のようにS(/A)と/Laの間を軽やかに移動することもなく、/Laの立場を固持しながら、父親=男性に対してのアクティングアウト、「究極の愛」を見せつけようとしている、というところまでわかった。
では、何故その「究極の愛」が、レズビアンや宝塚のような、女性同士の愛ではなく、BLでは男性同士の愛に反転したのか。ここを探らなくてはならない。
まず、彼女たちが固執する/Laとは一体どんなものか見てみよう。先に/Laは「少女」のようなものである、と書いた。前の記事にある二階堂奥歯氏の文章を再度引用しよう。
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それ(「少女」)は無垢で悪魔で天使でいたずらで非日常で無邪気で神秘的で繊細で元気で優しくて残酷で甘えん坊でわがままで弱くて強くて無口でおしゃべりで白痴で悩みがなくて憂いに沈んで無表情で明るくておてんばで物静かでこわがりでなにもこわくなくて何も知らなくて何でも受け入れてくれて潔癖で閉鎖的な性質を持っている。
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この文章からわかるように、「少女」は、男が「一番都合のいい性質」を選び取るために、様々な性質を持っていなくてはならない。ラカン風に言うならば男性から欲望される対象aにより近似的な/Laでいようとしているのだ。そしてそれは男の「言葉」によるものだ。だから/Laは大文字の他者の中にシニフィアンという形で規定される。
これは、男性は女性が欠如しているから女性を欲望する、という男性視点の構図と合致する。女性の内面が欠如しているからこそ男性はそこから「一番都合のいい性質」を選び取れるのだ。このことは斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』にも同類のことが指摘されている。彼はその著作の中で、戦闘美少女=ファリックガールと、S(/A)的なペニスを持った母親=ファリックマザーを対比させている。男性はファリックマザーについては、その内面に現実的な、トラウマのような「外傷」を想像する。この想像する行為により男性はヒステリー女性に惹かれるのだと。彼は
劇場アニメ『風の谷のナウシカ』のクシャナというキャラクターを例に挙げているが、最近のアニメでは『灼眼のシャナ』のマージョリー、『ゼロの使い魔』のタバサ、『ローゼンメイデン』の水銀灯などといったキャラがそれにあたるだろう。これらの例を見てもわかるように、トラウマ的な外傷により彼女たちはファルス=「強さ」を求めている。しかし女性には象徴的ファルスは元より存在しない。女性の場合、S1にあるのはS(/A)という「大文字の他者に欠如しているシニフィアン」だ。自らに男性的なファルスを帯びさせるからこそ、彼女たちは女性性に対する問いかけをせずにはいられない。「性への問いかけ」とはヒステリーのことである。
一方、内面にトラウマ的な外傷を想起させるファリックマザー的キャラと比べ、戦闘美少女=ファリックガールは、
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ファリックガールの戦闘には、十分な動機が欠けている。
(中略)
彼女の戦闘能力は――ナウシカがそうであるように――説明を欠いた自明の前提となっているか、あるいは「唐突に-外から-理由なく」もたらされる。
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である(斎藤氏の前掲書より)。こういった彼女たちを、斎藤氏は「徹底して空虚な存在」「完璧な実在性の欠如」と表現する。
いきなり男性オタクの話を挿入した理由を、おわかり頂けるだろうか。そう、BLにはまる女性は、父親=男性から与えられた/Laを純化させ、ファリックガールのような、「徹底して空虚な存在」たろうとしているのだ。
何度もいうようだが、精神分析的な女性性は、女性自らもわからないぐらいに複雑で曖昧である。その内面は、愛憎喜怒哀楽いろんな感情がないまぜになった、様々な色のペンキを放り込んだカオスのようなものである。「どろどろした女の情念」といった中島みゆき的な表現だとわかりやすいだろうか。しかし、ペンキには粘度があるので、それらは完全に混じり合わない。ここでは
『ウルトラセブン』のオープニングのようなもの、という比喩をしておく。
全ての色を放り込み、完全に混ぜてしまったらどうなるだろう。そう、理論的には黒になる。黒とは闇であり虚無である。ファリックマザーはそのないまぜになったペンキをそれこそウルトラセブンのオープニングのように映像を逆回転させてすっきりとした(意味=シニフィエのある)形を作ろうとする。他者から与えられた/Laというシニフィアンにシニフィエを後付しようとしているわけだ。一方ファリックガールは逆にそれらを混ぜ合わせてしまって、黒=空虚に行き着いたのだ。BLにはまる女性たちが歩いている方向は後者のファリックガール的な方向だと言えよう。
彼女たちにとって究極の/La。それは男性のまなざし(/S→対象a)を完全に満足させる/Laでなければならない。男性のまなざしは能動的である。それを満足させるには完全な受動体=「徹底して空虚な存在」でなければならない。彼女たちは求める/Laとは、「ゼロ」なのだ。完全なる不在だ。だからこそ、能動性を帯びるファリックマザーに向かうことが許されない。
ファリックマザー=ペニスを持つ母親的な自分を求める女性より、よっぽど男性のまなざしを、あたかも思春期心性のように意識しているのが彼女たちだ。
先に、S(/A)とは父親=ペニスを持つ母親=ファリックマザー的なもの、と書いた。しかしS(/A)本来の意味を見ると、「大文字の他者に欠如しているシニフィアン」であり、「大文字の他者」と「欠如」の間にある「境界」である。男性にとってのS1であるΦは、それこそ平原にそそり立つペニスのような絶対で単一的なものであるが、女性にとってのS1=S(/A)とは、「欠如」という大きな空虚の落とし穴の「縁」なのだ。例えば、学問の世界における、絶対的で単一的なΦとは、哲学の「真理」や科学の「大統一理論」のようなものだ。私はこういったことを、「男性が求める「真理」とは「1」であり、女性が求める「真理」とは「-1」である」とか「男性の「真理」は一つでなければならないが、女性にとっての「真理」は複数で構わない」と言ったりする。
こう考えると、BLにはまる女性にとっての究極の、ゼロ的な/Laとは、「欠如」のシニフィアンであるS(/A)であることがわかる。
先に、「BLにはまる女性は、/Laに固執しキャリアウーマン的なS(/A)を拒否している」と書いた。この仮説はここにおいて否定される。
先程、S(/A)とは「縁」的なものである故、「女性にとって真理は複数で構わない」と書いた。これは、S1へと進む道程が多数あって構わないということだ。キャリアウーマンは、男性がやるやり方でS1に突き進んでいて、BLにはまる少女は、男性のまなざしに導かれてS1に向かっているわけだ。よって、「BLにはまる女性は、/Laに固執しキャリアウーマン的なS(/A)を拒否している」という仮説はこう訂正されなければならない。即ち
、「BLにはまる女性は、他者に与えられた/Laという位置から、ペニスを持つ母親を求めるような道程でS(/A)に向かっているのではなく、男性の対象aに限りなく近似していくという道程で、S(/A)に向かっている」。
/La=「少女」的な「私」を否定することでS(/A)に向かっているのがキャリアウーマン的女性であり、/La=「少女」的な「私」を固持しそれを純化させ、男性社会的なファルスを拒否することでS(/A)に向かっているのがBLにはまる女性たちなのだ。なのでこういう表現もできるだろう。「BLにはまることは、ヒステリーの防衛である」。また、キャリアウーマンのように、男性のやり方に倣ってS(/A)を求めるのではない、BLにはまる女性たちのS(/A)の求め方を、S(/A)への「非男性的なアプローチ」と呼ぶことにしよう。
こういった分析は、BLにはまる女性たちに対する私の体感にもあてはまる。彼女たちは非常に穏やかで受動的で、自らのそういった趣味について、その正当性を積極的に語ることがない。彼女たちの語らいは、非論理的な「おしゃべり」である。
また、先に挙げた
HODGE'S PARROTさんの記事の引用についても、「正常」な男性のまなざしが、「いやっ! 気持ち悪いっ」という言葉を彼女たちに言わせているのだ。この「男性のまなざし」が、彼の言う「イデオロギーめいたもの」を生み出しているのだろう。即ち男性が欲望する「少女」的なものは、「ゲイ・ポルノ」に対し「気持ち悪い」と言わなければならないから、彼女たちはそう言っているわけだ(誤解しないで欲しいが「やおい女性」たちを責任転嫁的に擁護しているわけではない)。
もちろんキャリアウーマンであると同時にBLにはまっている女性もいると思う。そういった女性は、BLの世界をノスタルジーに似た感覚で楽しんでいるのではないだろうか。完全に受動的であった、自分の過去の少女時代の理想形として、/La=ゼロの世界、即ちBLの世界を読んでいるのではないだろうか。宝塚にはまる女性のような軽やかさだ。
しかし、ここで行っている分析は、「BLにはまる女性たち」という「想像的」対象の分析である。それは集団傾向を精神分析的アプローチで分析する、みたいなものだと思って欲しい。
たくさんの回り道をしてしまったが、ここでようやく、本当にようやく、先に挙げたBLの定義が説明できる。
「男性同士の愛を描く」ことと「主要キャラに女性がいない」という二点について。前者の「男性同士の愛」というところに注意が向きがちであるが、逆である。物語内に女性を登場させる必要がないから、「男性同士の愛」を書くことになるのだ。ところが、中島梓氏は前掲書において、BLの起源にあたる物語には少年のライバルとして女性が登場していた、と書いてある。だがよく読んでみると、女性読者はライバルの女性ではなく少年に感情移入していると書いてある。つまり、BLにはまる女性たちの祖先である彼女たちは、物語の中において、自らの「少女」的な/Laを男性が欲望する対象aにできるだけ近似させようとした。対象aとは欲望する者の自我でもある。よって彼女の/Laは、そのシニフィエは黒=空虚=ゼロに近づき、その覆いは「少年」化してしまうのだ。これは、斎藤氏がヘンリー・ダーガーの絵からシンボルとして取り上げた「ペニスを持つ少女」=ファリックガールの構図と合致する。
/Laに固執する女性たちは、その世界を純化させていった。即ち、/Laがゼロに近づくこととは、物語内に「女性」というシニフィアンを登場させないことである。ゼロだから必要ないのだ。しかしレズビアンと同じ父親=男性に対し「究極の愛」を見せつけるアクティングアウトという要素は残っている。「男性同士の愛」がその役割を担う。彼女たちにとって重要なのは登場人物ではなく、その関係性としての「愛」なのだ。だからBLというジャンルでは「カップリング」という要素が重要となる。要はどの登場人物とどの登場人物がどう結ばれるか、ということが彼女たちの興味の対象となるのだ。それらに固執する者を揶揄的に指す「カプ厨」というスラングまである。カップリングにより表現される愛の形は、彼女たちにとっての対象aを暗喩する。男性オタクのようにキャラに同一化しようとしているのではなく、その関係性に自らを同一化させようとしているわけだ。
また、そこに描かれる男性同性愛は非現実的であるのも当然である。彼女たちがそこに描きたいのは、レズビアンや宝塚にはまる女性たちと同じく、父親=男性にあてつけるアクティングアウトのための、女性にとっての「究極の愛」なのだから。そこに描かれる愛は、異性愛者同士の愛ではなく、レズビアン的な愛を「覆い」だけ「男性」に置き換えて表現されたものなのだ。よって、wikipediaに書かれているBLにはまる女性たちの分析は間違っていると言えよう。彼女たちは「女性性を嫌悪している」わけでもなく、「男同士のカップリングは男女間のロマンチック・ラブを男性間の関係に置き換えたもの」でもない。
簡単に言うならば、彼女たちはS(/A)へ向かうのに、非男性的なアプローチを選択した。だからその物語内には「女性」が登場してはならない。また、「究極の愛」はアクティングアウトとして表現したいということと、男性からの対象aに近似するあまり受動的に自らを想像上の「少年」化してしまったことの二点から、「男性同士の愛」に対象aを暗喩させる今の構図が成り立っていった、ということだ。これで「男性同士の愛」と「主要キャラに女性がいない」という二点を説明できたことになる。
次に三点目の性描写について。これについては簡単に済まそう。これは、単純に男性オタクのそれと同じ動機である。
オタクが執着する世界は、表現という「虚構の世界」である。もちろんラカン論では現実と虚構の区別はなく、本当の意味での現実である現実界は、人間に器官というものが具わっている限り到達不可能なものだ。だからこそ妄想は現実的な世界から飛躍する。しかし妄想の世界をつきつめても、それは「表現」とはならない。言語やコンテクストといった人間同士が共有できるものに、リアリティを乗せなければならない。現実界と想像界と象徴界という三界の中心には対象aがある。対象aを欲望する上でもっとも有効で王道な手段はセックスに他ならない。男性はファルス的享楽としてのセックスから対象aを目指し、女性は他者の享楽としてのセックスから対象aを目指す。これは男女のセックス観の違いの根拠にもなることだ。ともあれ、セクシュアリティというのはもっとも王道的に「現実的なリアリティ」を暗喩させるものなのだ。「現実的なリアリティ」とトートロジー的な表現をしたが、斎藤環氏の前掲書に書かれてある「虚構のリアリティ」と対比させるつもりでそう書いた。人間は、コンテクストにもリアリティを感じてしまう。そういったリアリティの積み重ねを斎藤氏は「虚構のリアリティ」と呼んでいる。
以上のことを、比喩的に言おう。オタクは虚構の妄想世界を遊んでいる。リアリティの拠り所になるのはコンテクスト的な「虚構のリアリティ」と、セクシュアリティという「現実的なリアリティ」と二つある。このセクシュアリティは、オタクが遊ぶ虚構の妄想世界と現実界を繋ぎ止める命綱となっている。その命綱の虚構の妄想世界に近い部分を、「虚構としてのセクシュアリティ」と斎藤氏は表現しているのだ。風船のように漂う妄想世界を繋ぎ止めるセクシュアリティという紐。その紐が風船の口を縛っている。この結び目が「虚構としてのセクシュアリティ」である、という言い方になるだろうか。
BLの世界もマンガやゲームや小説といったように、男性オタクの世界と同じく「ハイ・コンテクスト」な世界である。虚構度が高ければ高いほど、命綱としてのセクシュアリティが必要とされるわけだ。
BLにはまる女性たちは、男性が欲望する対象aの近似としての/Laを、対象aに近づけようとする「少女」である。しかし現実的に対象aとはなりえない。また、彼女たちは自分をとりまく男性的社会に失望している。これは男性オタクと同項目であろう。女性は去勢が曖昧なため、去勢の否認は現実的な行動=アクティングアウトとなる。それはレズビアンも宝塚にはまる女性もBLにはまる女性も等しく、「究極の愛」を父親=男性に見せつけるという形で表れる。彼女らの違いは、/La→S(/A)の道程の違いである。即ち、レズビアンは男性的なアプローチで、宝塚にはまる女性はその間を軽やかに行き来することで、BLにはまる女性は非男性的なアプローチでS(/A)を目指すのだ。彼女たちは(曖昧な)去勢を否認することで、去勢以前の愛情の度合いが「母親>父親」だった頃の感覚に戻る。つまり、母親への同一化的な愛情を持ちながら、「いつかは自分にはペニスが生えてくる」というファルス的な感情を、その頃に倣うように持つことになる。この「いつかはペニスが生えてくる」という無意識的な志向が、レズビアンにとっては男性と似た道程でS(/A)を目指す「ファリックマザー的な」方向となり、BLにはまる女性たちにとってはペニスを持つ少年に自己を投影するという道程でS(/A)を目指す「ファリックガール的な」方向となるのだ。
ここで注意しておきたいのは、道程が違うだけで、彼女らにとって共通項があることだ。それは、男性が目指す象徴的ファルス=Φよりも、自らの、いや「女性」一般としての、「いつかは生えてくるであろうペニス」の象徴であるS(/A)が優位に機能しているということである。
ラカンは、このΦに対するS(/A)の優位を、男性の性転換願望症者にも見て取り、レズビアンと彼らを対比させた。しかし、レズビアンのS(/A)へのアプローチの仕方は、キャリアウーマン的なそれ、即ち男性がΦに向かうのと似た道程を進む。よって、私はむしろ、BLにはまる女性と男性の性転換願望症者を対比させる方が正確ではないか、と考える。
前の記事で、/Laは大文字の他者の海を漂う小舟である、と書いた。レズビアンもBLにはまる女性も、道程が違うだけで/LaからS(/A)を目指している。レズビアンはS(/A)という立場から対象aを求める。大文字の他者の位置から対象aを目指せば、想像界と現実界の重なりである他者の享楽を通過することになる。このベクトルは大文字の他者から外へ、即ちその境界へ向かうベクトルであるため、彼女たちは自らの愛について、シニフィアンを紡ぐことが難しい。その愛を他者に説明することが難しいのだ。これはBLにはまる女性たちの症状と合致する。ラカンも、対象aの位置から発せられる精神分析家の語らいに対し、レズビアンたちは口籠もるしかない、というようなことを言っている。
レズビアンたちは想像界と現実界の重なりである他者の欲望から対象aを目指している。なので、重なりから他者の享楽を差し引いた残りである対象aという領域への踏み込み方は、現実的な「アクティングアウト」という形しか取りえない。BLにはまる女性たちにとっては、「BLにはまる」という行為そのものがアクティングアウトとなる。だからこそ彼女たちののめり込み方は、「濃い」ものとなる。しかしながら、彼女たちが踏み込む領域は残りとしての対象aではなく、ハイ・コンテクストな象徴界である。そこは、彼女たちが拒否していた男性的社会そのものの世界でもある。よって、彼女たちはそこでまた/Laとなる。つまり、「BLにはまっている女性」というシニフィアンの/Laとして、他者の海の中に投げ返されるのだ。
レズビアンが対象aという領域において、初めて「欠如」から脱し、「不在」ではなくなるのに対し、「BLにはまる女性」たちは永遠に「不在」であるのだ。
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あとがき。ってブログ記事であとがきって何よ? みたいな。でも思わずこんなに長くなってしまったし、書くのにひっじょーに苦労した記事なので、ちょっとだけ自己陶酔させてください……。
えーと。いや、女性を精神分析的に語るっていうのは、非常に無茶な行為だなあ、と自覚しているんです。なんせラカン曰く「女性は存在しない」ですから。女性は無限の開放集合みたいなもので、男性みたいに一括りされた一つの全体性として捉えられないわけですね。
ちょっと精神分析理論を齧っただけの私が、そんな女性性の、しかもその群を分析するのは、無茶というより阿呆であるわけで、それはよっく自覚しております。
でもあえて書こうとした理由は……なんでしょ?
男性オタクについては、その特徴的な現象、表現作品というような実体的なものがあるし、彼ら自身も能弁だ。つまり目が向きやすい。
しかし女性オタク、ことBLというジャンルについては、明らかな実体があるにも関わらず、それに関する言葉は少ない。彼女たちは無口なわけじゃない。そういったコミュニティでは言葉が氾濫している。それにも関わらず語られない。彼女たち自身も、社会的に男性オタクほど際立った特徴がない。ごく普通の女性である。
しかし、彼女たちを観察すればするほど、非常に精神分析的な群であると、かねてから思っていた。精神分析的な群というのは、精神分析理論があてはまりやすい群であるということだ。しかしそういった言葉も見られない。なので自分で考えてみた。すると、非常に表層的で画一的なその群を、分析チックに説明できないのだ。まあ別に私みたいな人間が考えることじゃないと思いつつ、魚の小骨のようにずっと心に引っかかっていた。
まあ、そういった経緯で、一度試しに文章にしてみるかー、と軽い気持ちで書き始めたわけだ。書き始めてすぐ後悔したが。でも一応最後まで形になってよかった、とほっとしている次第です。
宮台氏が彼のブログで、映画『鉄コン筋クリート』の批評から、現代に生きるギャルの「痛み」について書いている。ギャルの「痛み」とは具体的には「自傷や食べ吐きや援交や嗜癖の閉塞」である。
先の文章において、漫画やアニメや小説の世界を「ハイ・コンテクスト」な表現であると、斎藤環氏の言葉を引用して書いた。コンテクストとは広義の文脈性、即ちお約束や暗黙のルールなどといった、「システム」的な「縛り」だ。私は、漫画やアニメだけではなく、今の現実的な日常も「ハイ・コンテクスト」化していると思う。それは
過去の記事でも何度か書いた。ハイ・コンテクストによる、「虚構のリアリティ」が大きなウエイトを占める現代。一方、男性と比べて女性は「到達不可能な現実界」の気配に敏感であると私は思う。女性は出産という、もっとも現実界に近づけるイベントを運命付けられているからだ。ラカン派の識者は現実界は「死の瞬間」にしか垣間見えないという。それなら等しく「生の瞬間」も現実界に肉薄しているはずだ。それに生まれた子供とその母親の関係性は、男女間の愛よりもはるかに対象aに「究極的に」近似されていると言える。
しかし現代は、このような日常の中でもっとも「現実界」的なイベントである出産すら、コンテクストに蝕まれている。近代的自我というコンテクストを短絡的に信仰する女性たちは、「私が生んだ子供だからどうしようと私の「自由」だ」と言ってわが子を捨て、わが子を虐待する。近代的自我とは象徴界に依存した概念である。よってそこから対象aに近づくことは、「ファルス的享楽」という「所有」的で能動的な享楽を経ることになるのだ(誤解を避けるために補足するが、近代的自我を全面的に否定するわけではない)。
男性と比較して現実界の気配に敏感な女性である「ギャル」たちは、自らの女性性と、自分たちの身の回りが「ハイ・コンテクスト」化=「システム」化していることとの、他人に説明しづらい小さな違和感の積み重ねを感じている。これが宮台氏の言うギャルの「〈システム〉を生きる「痛み」」の病理ではないだろうか。
ギャルというシニフィアンとしての/La。その小舟で大文字の海を漂う彼女たちは、身の回りがあまりにも象徴界的なハイ・コンテクスト化しているが故、想像界と現実界の重なりにある「他者の享楽」を経て対象aに向かうことが難しい。BLにはまる女性たちは、そこに「ハイ・コンテクストにより成り立つ虚構世界」を発見したはよいが、そこから対象aに向かったとしても、先に書いたように、再び大文字の他者の海に投げ返される。
ギャルとBLにはまる女性。どちらが正しいとは言えないだろう。元々女性は曖昧で複雑で、だからこそ受動的になるのに抵抗がないからだ。ここに至って、ラカンの「女性は存在しない」という言葉に重みが増してくるように感じるのは私だけだろうか?
男性オタクたちを呪縛するコンテクストとして、キーワードを挙げるなら「萌え」だろう。一方、女性たちを縛りつけるコンテクストのキーワードの代表として挙げられるのは、「かわいい」ではないだろうか。
現代日本社会は、
「かわいい」が氾濫している。それは別に「エロカワ」でも「キモカワ」でも構わない。この「かわいい」という言葉を中心にシニフィアンが連鎖し、そこから立ち上がる行間的なコンテクストに、女性は無意識的に縛りつけられている。宮台氏の言葉に倣うなら、「かわいい」の「システム」化と言ってもいいだろう。
男性にとって「かわいい」のはシニフィエとしての女ではなく、シニフィアンとしての「少女」だ。この男性のまなざしが、女性を「徹底して空虚な」シニフィアンとしての「少女」化に向かわせる。その究極的な存在としてのイコンが、戦闘美少女=ファリックガールである。
実は、現代でもっとも「女性」というシニフィアンであろうとしているのは、男性の欲望に忠実なのは、ファリックガールに近い現実的存在は、BLにはまる女性たちなのかもしれない。
――ともあれ、女性性について語ることは非常に難しいとわかっただけでも、この記事の意義が自己満足的にあるわけで、まあそれでよしとしましょう。
いやー、つかれた……。