オタク文化における「幻想」の「縮小再生産」
2007/02/24/Sat
前の記事で、斎藤環氏が『戦闘美少女の精神分析』で分析した1990年代のオタクと比べ、今のオタクはマニア化=フェティシスト化しているのではないか、と書いた。私のオタク二分論「パラノ/スキゾ」(記事1、記事2、記事3)ならパラノ化している、という表現になる。このことにより、斎藤氏が「おたくの本質」とした「斜に構えた熱狂」のような「身軽さ」を、文化的傾向として失っているのではないか、と。
しかし誤解しないで欲しいが私はフェティシスム一般を批判しているわけではない。偶像崇拝を今でも固く禁じているイスラム教を擁護するわけでもない。そういった文脈で一度記事を書こうと思ったら中沢新一氏が『緑の資本論』という著作で似たようなことを既に書いているようだ。私は未読だが。まあみんな考えることは一緒なんだなあ、と。
オタク文化におけるアニメキャラについて書いた記事と同人誌文化について書いた記事を合わせて、私がオタク批判として言いたいことを要約すると(こういう要約は本当は避けたいのだが)、今のオタク文化はフェティシスト的である。そして、「同人作家」と非フェティシスト的なオタクたちの間には、「分析家の語らい」が存在している。この語らいにより閉鎖された袋小路的な虚構の世界が、アニメキャラに外套のように纏わりついている。よって、フェティシスト的にアニメキャラを愛することは、「オタク的なる虚構世界」に飲み込まれることにならないか、ということである。
補足しよう。非フェティシスト的なオタクとは、生の欲動に従って象徴的代理物S2を掴み続けるという意味であり、その行為の末、分析家と比喩可能な「同人作家」という対象aに近接した他者を発見したオタクたちのことである。死の欲動に沿うという意味で倒錯的なフェティシスト=マニア的オタクとは、それこそアニメキャラのヴェールに想像的ファルスを移すことで、アニメキャラを仮想の対象aのようなものと見ることが可能になったオタクたちである。
非フェティシスト的なオタクは、「同人作家」との「分析家の語らい」の末、袋小路に入っている。フェティシスト的オタクは、想像的同一化と象徴的同一化の狭間で「突然停止した映画」のようにそこに立ち止まる。
「分析家の語らい」によって、「死」と表現できる対象aとの同一化の場所に近接した「同人作家」と非フェティシスト的なオタクたち。一方、大文字の他者Aの場所に欠如しているシニフィアンS(/A)を経由せずに想像的対象との仮想の同一化を果たすフェティシスト的なオタクたち。フェティシスト的な想像的同一化と象徴的同一化を短絡的に近接させることと、非フェティシスト的な「同人作家」という対象aに向かうことを両立させたのが、「押しかけ厨」となろう。押しかけ厨にならずとも、フェティシストと非フェティシストの狭間で揺らいでいるような中間的なオタクが多い印象だ。先に書いた声優「マニア」などもここに含まれるだろう。ともかく、これら、二種類(中間的オタク含む)のオタクたちは、ともに彼らのS2で出来た構造=超自我=幻想が遊ぶ迷路を停止、または無化させる、「死の欲動」的な存在と言える。注意して欲しいのは、ここでは前時代的な、欲望に対して「身軽な」スキゾ的オタクが含まれていないことである。
フェティシスト的なオタクが去勢を承認して現実的な他者の声優に向かうこともあるだろうし、「同人作家」を目指すこともあるだろう。しかし、彼らは去勢を承認しても、オタク文化の「分析家の語らい」の末の袋小路的な「閉鎖されたシステム」からは逃れられない。このシステムが、アニメキャラが外套のように纏う「呪縛」の正体である。オタク文化は、ただ閉鎖しているだけの文化じゃないのだ。対象aという欲望の根源が、文化のシステムとして内部にセットされているユートピアなのだから。
ここで少しこの記事の補足をしておきたい。そこでいう「同人作家」という言葉は、その記事にも書いてあるように、プロアマ問わない、オタクが自分の作品を欲望することを知りつつオタク向けの作品を生産する作家、という仮設のシニフィアンに過ぎない。よって、オタクが「同人作家」になろうとすることは、同人作家個人という想像的他者に欲望を転移させることではない、と言える。そういった意味では、オタクにとって同人作家は対象aではないと言えよう。厳密には、大文字の他者の「要求」=Dが、「同人作家」というシニフィアンだと言える。これは対象aという想像的他者が「欲望せよ」という「要求」の形で発言する言葉である。つまり、愛する恋人の言葉(現実的には「要求的な」言葉でなくてもよい)により欲望が生まれるという「人間の欲望は他者の欲望である」の構図だ。これを/S→対象aまたは/S◇対象aの代わりに、/S→Dまたは/S◇Dと表現する。◇は幻想だ。
まとめると、「同人作家」視点からみると、自分という体感できる想像的他者はオタクにとっての対象aとなろうとするのに対し、同人作家を目指すオタクたちは「同人作家」(現実的には「ライトノベル作家」や「アニメ製作者」などになろうか)という対象aと置き換えられた要求Dを欲望している、という構図になる。本来の愛の形では、その恋人の発言は欠如している=S(/A)ことに気づかされ、それが/S◇対象aという幻想を生み出す。しかし、オタク文化の要求Dは欠如していない。オタクたちは比較的容易に「同人作家」と言うシニフィアンを手に入れることが出来るのだ。「分析家の語らい」として比喩するなら、そこに体感的に存在しないけど言葉だけが存在する、例えば「同人作家」というデフォルト名無しの匿名掲示板で分析している分析家との語らい、というイメージになる。
ともかく、生の欲動という欲望の連鎖=「転移」に従って、「ホントに欲しいもの」を求め続けることが対象aを目指すことであり、愛という幻想となり、また、対象aそのものは主体/Sと他者が同一化する(現実的には到達不可能な)領域でもある、ということだ。
一方、フェティシスムは、その生の欲動という欲望の連鎖を、想像的他者(想像的対象物)のヴェールに自らのファルスを映し出すことで、自らがナルシシスム的に欲望される側に一旦周り(想像的同一化し)、S2の構造を短絡化させることによって、その場所に留まる(転移しない)欲望の形を言う。マニアの対象物、例えば車などに、彼らは自らを投影しているのである。自分の車をちょっと傷つけられただけで烈火の如く怒ったりするのは、彼は車と想像的同一化をしているからなのである。
また、「押しかけ厨」のように妄想的な言動になるのは、「同人作家」というDの手に入れ方の違いから、彼女たちの眼前に、現実的な(想像界の他者である)同人作家からの「否定」が現れるからである。この「否定」は、そこにあるはずの「快く受け入れてくれる私」が「欠如」していることである。本来の愛の形における乗り越えなければならないS(/A)という「欠如」が眼前に現れたのだ。このS(/A)は他者の主体にとって知の中心即ちS1の位置にあるものだ。(男性的)主体のS1にあるのはΦであり、それを「真理」などと言い換え可能であるなら、このS(/A)は、愛する恋人との会話による幻想/S◇Dの裏にある恋人の「真意」と言い換えてもいいだろう。それを承認すればよいがそれを否認すると、欲望の閉回路をループする、妄想的な思考に囚われてしまう。
生の欲動即ち「ホントに欲しいもの」を求め続けることとは、他者の例えば「否定」という形で表れる「欠如」している「真意」を承認し続けることでもある。「欠如」を「承認」すること、これ即ち「去勢の承認」である。お互い欠如している他者同士が会話することで幻想が生まれ、生の欲動という欲望の連鎖が可能になるのだ。こういった点からも、アニメキャラは対象aたりえないと言えよう。アニメキャラの言葉の裏にある「真意」という欠如のシニフィアンS(/A)は、それを生み出す表現者のものであるからだ。アニメキャラに無意識はない、その行間に立ち表れるのはその表現者の無意識である、ということである。想像的にであれ象徴的にであれ、理想自我であれ自我理想であれ自らが欲望の対象になって初めて、自らに欲望が生まれるのである。
話が細かくなってしまった。本論に戻ろう。
こういったユートピア的な文化システムは、人間の持つ本能的な「死の欲動」により無化される。無化させようとする個人が生の欲動に従っていても、文化そのものを一人の個人として仮定した場合の、比喩的な意味での「死の欲動」である。これは、「同人作家」を目指すオタクたちは「生の欲動」に従っているにも関わらず、文化としては袋小路という「死の欲動」的に構造を無化させるベクトルを進んでいることと等しい。
文化的傾向として構造を無化させるベクトルを進んでいることを、私は「記号のサイン化」と表現した。無数の「知」S2で出来た構造=超自我=幻想(妄想)が遊ぶ迷宮。そんな風に表現される、ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と表現する無意識が、その構成要素である言語が一義化=「サイン化」されることで、圧縮され萎縮しているのである。
これは実は、オタク文化に限ったことではない。ポストモダン全体に言えることだろう。マクロ視点から、この「記号のサイン化」を単純化して表現してみよう。ポストモダンはネット文化に代表されるように、巷に記号が溢れている時代である。人はその記号を理解しないと文化的生活が営めない。しかし人間の象徴化能力的な処理能力にも限界があろう。よって人は限界を超えた記号の氾濫に対し、記号のサイン化という方法でそれを圧縮する。一つの記号が多義であるより、一義の方がデータとして処理しやすいという考えからそうなるのだろう。実際には言葉は一義とならない。言葉のやりとりにはそこにかならず誤解が生じる。しかし短絡的な科学信仰とも言える科学的論理や、ネットなどの情報技術によりそれが可能だと思っている。そういったポストモダン病とも言える固定観念にはまっている私たちは、語らいにおいて言葉の多義性による齟齬が生じると、それを「非科学的だ」とか「論理的に間違っている」とか「主観に過ぎない」などといった言葉で排除する。ここで注意しておきたいのは、私たちの精神内部で現実的に記号=言語がサイン化しているわけではない、ということだ。前の記事で、記号のサイン化とは、超自我的なS2がサイン化により単純化、圧縮されたもの、と言い方をしたが、これは厳密には正しくない。科学的言説、論理的言説などといった超自我や思い込み、固定観念などにより、語らいに条件を加え、語られる言葉を限定化することが、記号のサイン化の実体である。人間の象徴界の内的動力とも言える象徴化能力には確かに限界はあるだろう。しかしそれはパソコンのHDD容量のように収納する言語=記号の情報量の収納限界が問題となるのではない。情報は忘れてもいいのだ。忘れるということは無意識に収納されることなのである。だから情報はそれこそ本物のパソコンやネットや本棚に収納されていればよい。つまり、その情報のシニフィアンを忘れてしまっても、その情報=「知」を象徴的に処理できていれば、それは無意識においてS2の迷路の材料となるのだ。シニフィアンは連鎖して初めて超自我を形成する。
ここに、ポストモダン病、近代的自我病とも表現できる私たちの「知」に対する誤解がある。
確かに暗記することは、S2を豊かにするには重要な手段であろう。だが暗記だけではだめなのだ。その情報を象徴的処理することで初めてそれは象徴界の他者としてのS2=「知」となるのだ。これは、以前の記事にも書いたが、数学の公式だけ覚えて途中を理解していない、という比喩で表現できる。私がよくいくライトノベル作家を目指す方たちが集うサイトでも、知識というのは豆知識的な、データベースのように情報を詰め込むことだと思っている方が多い。その豆知識を披露した後に、会話が続かないのだ。その情報=「知」から、彼らはシニフィアンを連鎖させることができない。情報=「知」がシステム化されてない、という表現でも構わないだろう。だから、彼らのそういった「知」に関する会話は、それの(科学的)正誤を検証するなどといった、単純なものに限られてしまう。「知」の象徴的なシステム化が出来ていない彼らは、その「知」を一義化=サイン化させるやり方でしかその「知」に関して語れない。このサイン化は、彼らが議論の際、言葉を定義づけたりすることが多い傾向にも当てはまる。彼らは、ポストモダン病的な、科学信仰的な超自我あるいは固定観念により、シンボル=象徴としての言葉を操れない。彼らの「知」は、パソコンに記憶させたデータに過ぎないのだ。
豆知識的な、データベース的に「知」を「暗記」しようとしているだけなら、確かに言葉が氾濫することで、処理能力を越えてしまうように感じるだろう。このことが彼らのロゴス中心主義的な固定観念を加速させる。言葉は多義性のあるシンボルであるからこそ、その言葉=情報=「知」を忘れる=無意識に格納されることで、S2の迷路が構成されるのだ。言葉をサイン化させるような論理的言説では、それはS2とならない。本来の意味での「知」となりえないのだ(もちろん言葉をシンボルとして扱う論理的言説も可能だ。論理的言説が全て言葉をサイン化させているわけではない)。
また、これは私の直感だが、この記号のサイン化は、ネット文化に代表されるように、語らいの場がエクリチュール中心主義とも言える状態になっていることも原因であろう。想像的他者は対象aを強く暗示する。決して同一化できない=完全に理解することができない想像的他者のパロールは、エクリチュールより象徴化処理を助勢するだろう。何故なら、言葉の知らない幼児が言葉を教わるのは、想像的他者だからである。
つまり、ポストモダンにおいては、科学的思考方法、ロゴス中心主義などといった超自我の抑圧が、私たちの語らいにおける言葉を限定化させ、単純化させ、サイン化させるのである。これを短絡的な科学信仰またはロゴス中心主義による固定観念、と断ずることは簡単だ。言葉が無意識に、超自我に落ち、それが意識に表出する際に圧縮置き換えされてしまった結果が、短絡的に見えるのは当然のことである。
つまり、オタク文化に限らず、ポストモダンにおいては、S2の迷路は、その「語らい」がサイン化していった結果、「二次的」に、S2で出来た迷路あるいは幻想の遊び場が単純化されてしまう、ということである。ラカンによれば、「無意識」と「語らい」はメビウスの輪のように繋がっている。つまり、メビウスの輪の裏面=「無意識」が表に「語らい」として表れる。表になった瞬間「無意識」は「無意識」では無くなる。逆もまた然りで、「語らい」が裏面になるとそれは「無意識」となる。ちなみにこの「無意識」と「語らい」の関係を示すメビウスの輪の一本の縁が「一の線」であり「クッションの刺し縫い点」であり、対象aの縁である。この一本の縁があるから、私たちの語らいは永遠に対象aに到達できない。裏表のない一本の線で仕切られた一つの平面上にしか私たちの知=言葉は存在しない。ラカンの言葉なら「メタ言語はない」ということだ。
超自我でもあるS2の構造を単純化させるのは主体に問題があるのではない。私たちの「語らい」をサイン化させるのは、ポストモダンにおけるマクロ的なものであれ、オタク文化のシステム形態というミクロ的なものであれ、私たちを取り巻く環境に原因がある。この結果として、主体と他者の間で、幻想の貧困化が生じる。この現実的表象としては、芸術文化の貧困化という形で現れるだろう。
これに対しどういう対応をすればいいのか。私にはわからない。中村雄二郎氏が『魔女ランダ考』で述べている「パトスの知」「演劇的知」にヒントがあると確信しているが、それを具体的にどう述べていいのか、私にはわからない。むしろ、言語構造を改変させるという意味では、言語と違う刺激が必要となるだろう。言語の世界の外界としての体感的な世界、即ち想像界的な刺激でないと、言語のように構造化された無意識には届かないのかもしれない。それを「述べ」ようとすること自体が間違っているのかもしれない。しかし、体感的な刺激を重視したとしても、例えばオウム真理教のような例もある。単純に「体感が大事」とアジテートするのも危険だろう。
私が「記号のサイン化」と表現する、不気味さ。ポストモダン全体に感じることだが、オタク文化はこういったポストモダン文化の特徴をデフォルメして体現している。
「知」という幻想の遊び場は、S2というシニフィアンにより構成されている。語らいの単純化により、二次的に主体のS2で出来た幻想の遊び場が貧困化する。このS2はシニフィアンであり、その連鎖により幻想の遊び場は形成される。私が言う貧困化は、言葉の芸術である小説という表現形態に直接的に表出するだろう。オタク文化に強く依存している小説ジャンル、即ちライトノベルである。
ガガガ文庫のHPにおいて、東浩紀氏はライトノベルの縮小再生産的な傾向を指摘している。ライトノベル作家たちは、こういった指摘を真摯に受け止めるべきだろう。
その部分を引用しておこう。
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東:たとえば、谷川流の「涼宮ハルヒ」シリーズ。今、アニメが話題になってることもあって、amazonで10位中に5冊ぐらい入ってるんで、ネットで一番売れている本でしょう。でもこれは末期的とも言える。「涼宮ハルヒ」は、アニメ版は知らないけれど、小説は明らかにメタライトノベルです。この作品が、ライトノベルの新しい世界の扉を開いたっていうよりは、ライトノベルの「メタ」なんだよね。同じく人気作家である西尾維新も、メタライトノベルと言える。批評的に見て面白いけれど、そういう作品がライトノベルのマーケットの中心ってどうなのか。
佐藤:本来ならカウンターであるべきものが、メインになってしまっているってことですよね。それはアニメにも言えるんですよ。『エウレカセブン』とか『BLOOD+』は、カウンターだったはずだし、『ガンダムSEED』もガンダムに対するカウンターだったはずなのに、今やそれがメインのように扱われてしまっている… カウンター的な作品がきちんとカウンターとして成立してないと、シーンは脆弱化しちゃう。
イシイ:カウンターを取られているのに、わからない。メタなのに、それに気づかず真正面から受け止めてしまうユーザーが多すぎるのも原因かもしれない。
東:「涼宮ハルヒ」シリーズは、ライトノベルの約束事自体を対象化してつくった小説。あれをわかるためには、ライトノベルの感覚がわかっていなくてはいけない。それを読んで、そのまんま影響を受けた若い子が登場してくると、まずいことになると思います。
佐藤:マトリョーシカ状態(笑)!?
イシイ:縮小再生産か。
東:となると、3年とか4年後にどういうマーケットになっていってるかは見えてきますよね。そんなことでいいのか!と。今回のライトノベルブームは、正直そういう方向に行きかねない危険性を持ってます。
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東氏の、「ライトノベルの感覚がわかっていなくてはいけない。それを読んで、そのまんま影響を受けた若い子が登場してくると、まずいことになると思います。」という言葉。この「縮小再生産」的な「まずい」状態こそ、まさに前の記事で論じた、「分析家の語らい」の末の袋小路の状態を示している。
このブログで、オタク文化に対し批判的な文章が多いのは、根底にはこの「記号のサイン化」に対する不気味さを感じていて、それがそうさせているかもしれない。
まあ、オタク文化にしてみればいい迷惑かもしれないですが……。
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私は、天井の向こうに夜空があることを知らなかった。
魔女ランダが、部屋に窓を開けてくれたから、夜空を知ることができた。
夜空があると知ったから、天井を開け放つことができた。
夜空を一度も見たことはなかったのに、夜空がきれいだということは知っていた。
思ったほどじゃなかったけど、夜空はきれいだった。
私はずうっと夜空を見ていた。
だけど、ずうっと夜空を見ているうちに、夜空が、天井のように見えてきた。
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しかし誤解しないで欲しいが私はフェティシスム一般を批判しているわけではない。偶像崇拝を今でも固く禁じているイスラム教を擁護するわけでもない。そういった文脈で一度記事を書こうと思ったら中沢新一氏が『緑の資本論』という著作で似たようなことを既に書いているようだ。私は未読だが。まあみんな考えることは一緒なんだなあ、と。
オタク文化におけるアニメキャラについて書いた記事と同人誌文化について書いた記事を合わせて、私がオタク批判として言いたいことを要約すると(こういう要約は本当は避けたいのだが)、今のオタク文化はフェティシスト的である。そして、「同人作家」と非フェティシスト的なオタクたちの間には、「分析家の語らい」が存在している。この語らいにより閉鎖された袋小路的な虚構の世界が、アニメキャラに外套のように纏わりついている。よって、フェティシスト的にアニメキャラを愛することは、「オタク的なる虚構世界」に飲み込まれることにならないか、ということである。
補足しよう。非フェティシスト的なオタクとは、生の欲動に従って象徴的代理物S2を掴み続けるという意味であり、その行為の末、分析家と比喩可能な「同人作家」という対象aに近接した他者を発見したオタクたちのことである。死の欲動に沿うという意味で倒錯的なフェティシスト=マニア的オタクとは、それこそアニメキャラのヴェールに想像的ファルスを移すことで、アニメキャラを仮想の対象aのようなものと見ることが可能になったオタクたちである。
非フェティシスト的なオタクは、「同人作家」との「分析家の語らい」の末、袋小路に入っている。フェティシスト的オタクは、想像的同一化と象徴的同一化の狭間で「突然停止した映画」のようにそこに立ち止まる。
「分析家の語らい」によって、「死」と表現できる対象aとの同一化の場所に近接した「同人作家」と非フェティシスト的なオタクたち。一方、大文字の他者Aの場所に欠如しているシニフィアンS(/A)を経由せずに想像的対象との仮想の同一化を果たすフェティシスト的なオタクたち。フェティシスト的な想像的同一化と象徴的同一化を短絡的に近接させることと、非フェティシスト的な「同人作家」という対象aに向かうことを両立させたのが、「押しかけ厨」となろう。押しかけ厨にならずとも、フェティシストと非フェティシストの狭間で揺らいでいるような中間的なオタクが多い印象だ。先に書いた声優「マニア」などもここに含まれるだろう。ともかく、これら、二種類(中間的オタク含む)のオタクたちは、ともに彼らのS2で出来た構造=超自我=幻想が遊ぶ迷路を停止、または無化させる、「死の欲動」的な存在と言える。注意して欲しいのは、ここでは前時代的な、欲望に対して「身軽な」スキゾ的オタクが含まれていないことである。
フェティシスト的なオタクが去勢を承認して現実的な他者の声優に向かうこともあるだろうし、「同人作家」を目指すこともあるだろう。しかし、彼らは去勢を承認しても、オタク文化の「分析家の語らい」の末の袋小路的な「閉鎖されたシステム」からは逃れられない。このシステムが、アニメキャラが外套のように纏う「呪縛」の正体である。オタク文化は、ただ閉鎖しているだけの文化じゃないのだ。対象aという欲望の根源が、文化のシステムとして内部にセットされているユートピアなのだから。
ここで少しこの記事の補足をしておきたい。そこでいう「同人作家」という言葉は、その記事にも書いてあるように、プロアマ問わない、オタクが自分の作品を欲望することを知りつつオタク向けの作品を生産する作家、という仮設のシニフィアンに過ぎない。よって、オタクが「同人作家」になろうとすることは、同人作家個人という想像的他者に欲望を転移させることではない、と言える。そういった意味では、オタクにとって同人作家は対象aではないと言えよう。厳密には、大文字の他者の「要求」=Dが、「同人作家」というシニフィアンだと言える。これは対象aという想像的他者が「欲望せよ」という「要求」の形で発言する言葉である。つまり、愛する恋人の言葉(現実的には「要求的な」言葉でなくてもよい)により欲望が生まれるという「人間の欲望は他者の欲望である」の構図だ。これを/S→対象aまたは/S◇対象aの代わりに、/S→Dまたは/S◇Dと表現する。◇は幻想だ。
まとめると、「同人作家」視点からみると、自分という体感できる想像的他者はオタクにとっての対象aとなろうとするのに対し、同人作家を目指すオタクたちは「同人作家」(現実的には「ライトノベル作家」や「アニメ製作者」などになろうか)という対象aと置き換えられた要求Dを欲望している、という構図になる。本来の愛の形では、その恋人の発言は欠如している=S(/A)ことに気づかされ、それが/S◇対象aという幻想を生み出す。しかし、オタク文化の要求Dは欠如していない。オタクたちは比較的容易に「同人作家」と言うシニフィアンを手に入れることが出来るのだ。「分析家の語らい」として比喩するなら、そこに体感的に存在しないけど言葉だけが存在する、例えば「同人作家」というデフォルト名無しの匿名掲示板で分析している分析家との語らい、というイメージになる。
ともかく、生の欲動という欲望の連鎖=「転移」に従って、「ホントに欲しいもの」を求め続けることが対象aを目指すことであり、愛という幻想となり、また、対象aそのものは主体/Sと他者が同一化する(現実的には到達不可能な)領域でもある、ということだ。
一方、フェティシスムは、その生の欲動という欲望の連鎖を、想像的他者(想像的対象物)のヴェールに自らのファルスを映し出すことで、自らがナルシシスム的に欲望される側に一旦周り(想像的同一化し)、S2の構造を短絡化させることによって、その場所に留まる(転移しない)欲望の形を言う。マニアの対象物、例えば車などに、彼らは自らを投影しているのである。自分の車をちょっと傷つけられただけで烈火の如く怒ったりするのは、彼は車と想像的同一化をしているからなのである。
また、「押しかけ厨」のように妄想的な言動になるのは、「同人作家」というDの手に入れ方の違いから、彼女たちの眼前に、現実的な(想像界の他者である)同人作家からの「否定」が現れるからである。この「否定」は、そこにあるはずの「快く受け入れてくれる私」が「欠如」していることである。本来の愛の形における乗り越えなければならないS(/A)という「欠如」が眼前に現れたのだ。このS(/A)は他者の主体にとって知の中心即ちS1の位置にあるものだ。(男性的)主体のS1にあるのはΦであり、それを「真理」などと言い換え可能であるなら、このS(/A)は、愛する恋人との会話による幻想/S◇Dの裏にある恋人の「真意」と言い換えてもいいだろう。それを承認すればよいがそれを否認すると、欲望の閉回路をループする、妄想的な思考に囚われてしまう。
生の欲動即ち「ホントに欲しいもの」を求め続けることとは、他者の例えば「否定」という形で表れる「欠如」している「真意」を承認し続けることでもある。「欠如」を「承認」すること、これ即ち「去勢の承認」である。お互い欠如している他者同士が会話することで幻想が生まれ、生の欲動という欲望の連鎖が可能になるのだ。こういった点からも、アニメキャラは対象aたりえないと言えよう。アニメキャラの言葉の裏にある「真意」という欠如のシニフィアンS(/A)は、それを生み出す表現者のものであるからだ。アニメキャラに無意識はない、その行間に立ち表れるのはその表現者の無意識である、ということである。想像的にであれ象徴的にであれ、理想自我であれ自我理想であれ自らが欲望の対象になって初めて、自らに欲望が生まれるのである。
話が細かくなってしまった。本論に戻ろう。
こういったユートピア的な文化システムは、人間の持つ本能的な「死の欲動」により無化される。無化させようとする個人が生の欲動に従っていても、文化そのものを一人の個人として仮定した場合の、比喩的な意味での「死の欲動」である。これは、「同人作家」を目指すオタクたちは「生の欲動」に従っているにも関わらず、文化としては袋小路という「死の欲動」的に構造を無化させるベクトルを進んでいることと等しい。
文化的傾向として構造を無化させるベクトルを進んでいることを、私は「記号のサイン化」と表現した。無数の「知」S2で出来た構造=超自我=幻想(妄想)が遊ぶ迷宮。そんな風に表現される、ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と表現する無意識が、その構成要素である言語が一義化=「サイン化」されることで、圧縮され萎縮しているのである。
これは実は、オタク文化に限ったことではない。ポストモダン全体に言えることだろう。マクロ視点から、この「記号のサイン化」を単純化して表現してみよう。ポストモダンはネット文化に代表されるように、巷に記号が溢れている時代である。人はその記号を理解しないと文化的生活が営めない。しかし人間の象徴化能力的な処理能力にも限界があろう。よって人は限界を超えた記号の氾濫に対し、記号のサイン化という方法でそれを圧縮する。一つの記号が多義であるより、一義の方がデータとして処理しやすいという考えからそうなるのだろう。実際には言葉は一義とならない。言葉のやりとりにはそこにかならず誤解が生じる。しかし短絡的な科学信仰とも言える科学的論理や、ネットなどの情報技術によりそれが可能だと思っている。そういったポストモダン病とも言える固定観念にはまっている私たちは、語らいにおいて言葉の多義性による齟齬が生じると、それを「非科学的だ」とか「論理的に間違っている」とか「主観に過ぎない」などといった言葉で排除する。ここで注意しておきたいのは、私たちの精神内部で現実的に記号=言語がサイン化しているわけではない、ということだ。前の記事で、記号のサイン化とは、超自我的なS2がサイン化により単純化、圧縮されたもの、と言い方をしたが、これは厳密には正しくない。科学的言説、論理的言説などといった超自我や思い込み、固定観念などにより、語らいに条件を加え、語られる言葉を限定化することが、記号のサイン化の実体である。人間の象徴界の内的動力とも言える象徴化能力には確かに限界はあるだろう。しかしそれはパソコンのHDD容量のように収納する言語=記号の情報量の収納限界が問題となるのではない。情報は忘れてもいいのだ。忘れるということは無意識に収納されることなのである。だから情報はそれこそ本物のパソコンやネットや本棚に収納されていればよい。つまり、その情報のシニフィアンを忘れてしまっても、その情報=「知」を象徴的に処理できていれば、それは無意識においてS2の迷路の材料となるのだ。シニフィアンは連鎖して初めて超自我を形成する。
ここに、ポストモダン病、近代的自我病とも表現できる私たちの「知」に対する誤解がある。
確かに暗記することは、S2を豊かにするには重要な手段であろう。だが暗記だけではだめなのだ。その情報を象徴的処理することで初めてそれは象徴界の他者としてのS2=「知」となるのだ。これは、以前の記事にも書いたが、数学の公式だけ覚えて途中を理解していない、という比喩で表現できる。私がよくいくライトノベル作家を目指す方たちが集うサイトでも、知識というのは豆知識的な、データベースのように情報を詰め込むことだと思っている方が多い。その豆知識を披露した後に、会話が続かないのだ。その情報=「知」から、彼らはシニフィアンを連鎖させることができない。情報=「知」がシステム化されてない、という表現でも構わないだろう。だから、彼らのそういった「知」に関する会話は、それの(科学的)正誤を検証するなどといった、単純なものに限られてしまう。「知」の象徴的なシステム化が出来ていない彼らは、その「知」を一義化=サイン化させるやり方でしかその「知」に関して語れない。このサイン化は、彼らが議論の際、言葉を定義づけたりすることが多い傾向にも当てはまる。彼らは、ポストモダン病的な、科学信仰的な超自我あるいは固定観念により、シンボル=象徴としての言葉を操れない。彼らの「知」は、パソコンに記憶させたデータに過ぎないのだ。
豆知識的な、データベース的に「知」を「暗記」しようとしているだけなら、確かに言葉が氾濫することで、処理能力を越えてしまうように感じるだろう。このことが彼らのロゴス中心主義的な固定観念を加速させる。言葉は多義性のあるシンボルであるからこそ、その言葉=情報=「知」を忘れる=無意識に格納されることで、S2の迷路が構成されるのだ。言葉をサイン化させるような論理的言説では、それはS2とならない。本来の意味での「知」となりえないのだ(もちろん言葉をシンボルとして扱う論理的言説も可能だ。論理的言説が全て言葉をサイン化させているわけではない)。
また、これは私の直感だが、この記号のサイン化は、ネット文化に代表されるように、語らいの場がエクリチュール中心主義とも言える状態になっていることも原因であろう。想像的他者は対象aを強く暗示する。決して同一化できない=完全に理解することができない想像的他者のパロールは、エクリチュールより象徴化処理を助勢するだろう。何故なら、言葉の知らない幼児が言葉を教わるのは、想像的他者だからである。
つまり、ポストモダンにおいては、科学的思考方法、ロゴス中心主義などといった超自我の抑圧が、私たちの語らいにおける言葉を限定化させ、単純化させ、サイン化させるのである。これを短絡的な科学信仰またはロゴス中心主義による固定観念、と断ずることは簡単だ。言葉が無意識に、超自我に落ち、それが意識に表出する際に圧縮置き換えされてしまった結果が、短絡的に見えるのは当然のことである。
つまり、オタク文化に限らず、ポストモダンにおいては、S2の迷路は、その「語らい」がサイン化していった結果、「二次的」に、S2で出来た迷路あるいは幻想の遊び場が単純化されてしまう、ということである。ラカンによれば、「無意識」と「語らい」はメビウスの輪のように繋がっている。つまり、メビウスの輪の裏面=「無意識」が表に「語らい」として表れる。表になった瞬間「無意識」は「無意識」では無くなる。逆もまた然りで、「語らい」が裏面になるとそれは「無意識」となる。ちなみにこの「無意識」と「語らい」の関係を示すメビウスの輪の一本の縁が「一の線」であり「クッションの刺し縫い点」であり、対象aの縁である。この一本の縁があるから、私たちの語らいは永遠に対象aに到達できない。裏表のない一本の線で仕切られた一つの平面上にしか私たちの知=言葉は存在しない。ラカンの言葉なら「メタ言語はない」ということだ。
超自我でもあるS2の構造を単純化させるのは主体に問題があるのではない。私たちの「語らい」をサイン化させるのは、ポストモダンにおけるマクロ的なものであれ、オタク文化のシステム形態というミクロ的なものであれ、私たちを取り巻く環境に原因がある。この結果として、主体と他者の間で、幻想の貧困化が生じる。この現実的表象としては、芸術文化の貧困化という形で現れるだろう。
これに対しどういう対応をすればいいのか。私にはわからない。中村雄二郎氏が『魔女ランダ考』で述べている「パトスの知」「演劇的知」にヒントがあると確信しているが、それを具体的にどう述べていいのか、私にはわからない。むしろ、言語構造を改変させるという意味では、言語と違う刺激が必要となるだろう。言語の世界の外界としての体感的な世界、即ち想像界的な刺激でないと、言語のように構造化された無意識には届かないのかもしれない。それを「述べ」ようとすること自体が間違っているのかもしれない。しかし、体感的な刺激を重視したとしても、例えばオウム真理教のような例もある。単純に「体感が大事」とアジテートするのも危険だろう。
私が「記号のサイン化」と表現する、不気味さ。ポストモダン全体に感じることだが、オタク文化はこういったポストモダン文化の特徴をデフォルメして体現している。
「知」という幻想の遊び場は、S2というシニフィアンにより構成されている。語らいの単純化により、二次的に主体のS2で出来た幻想の遊び場が貧困化する。このS2はシニフィアンであり、その連鎖により幻想の遊び場は形成される。私が言う貧困化は、言葉の芸術である小説という表現形態に直接的に表出するだろう。オタク文化に強く依存している小説ジャンル、即ちライトノベルである。
ガガガ文庫のHPにおいて、東浩紀氏はライトノベルの縮小再生産的な傾向を指摘している。ライトノベル作家たちは、こういった指摘を真摯に受け止めるべきだろう。
その部分を引用しておこう。
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東:たとえば、谷川流の「涼宮ハルヒ」シリーズ。今、アニメが話題になってることもあって、amazonで10位中に5冊ぐらい入ってるんで、ネットで一番売れている本でしょう。でもこれは末期的とも言える。「涼宮ハルヒ」は、アニメ版は知らないけれど、小説は明らかにメタライトノベルです。この作品が、ライトノベルの新しい世界の扉を開いたっていうよりは、ライトノベルの「メタ」なんだよね。同じく人気作家である西尾維新も、メタライトノベルと言える。批評的に見て面白いけれど、そういう作品がライトノベルのマーケットの中心ってどうなのか。
佐藤:本来ならカウンターであるべきものが、メインになってしまっているってことですよね。それはアニメにも言えるんですよ。『エウレカセブン』とか『BLOOD+』は、カウンターだったはずだし、『ガンダムSEED』もガンダムに対するカウンターだったはずなのに、今やそれがメインのように扱われてしまっている… カウンター的な作品がきちんとカウンターとして成立してないと、シーンは脆弱化しちゃう。
イシイ:カウンターを取られているのに、わからない。メタなのに、それに気づかず真正面から受け止めてしまうユーザーが多すぎるのも原因かもしれない。
東:「涼宮ハルヒ」シリーズは、ライトノベルの約束事自体を対象化してつくった小説。あれをわかるためには、ライトノベルの感覚がわかっていなくてはいけない。それを読んで、そのまんま影響を受けた若い子が登場してくると、まずいことになると思います。
佐藤:マトリョーシカ状態(笑)!?
イシイ:縮小再生産か。
東:となると、3年とか4年後にどういうマーケットになっていってるかは見えてきますよね。そんなことでいいのか!と。今回のライトノベルブームは、正直そういう方向に行きかねない危険性を持ってます。
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東氏の、「ライトノベルの感覚がわかっていなくてはいけない。それを読んで、そのまんま影響を受けた若い子が登場してくると、まずいことになると思います。」という言葉。この「縮小再生産」的な「まずい」状態こそ、まさに前の記事で論じた、「分析家の語らい」の末の袋小路の状態を示している。
このブログで、オタク文化に対し批判的な文章が多いのは、根底にはこの「記号のサイン化」に対する不気味さを感じていて、それがそうさせているかもしれない。
まあ、オタク文化にしてみればいい迷惑かもしれないですが……。
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私は、天井の向こうに夜空があることを知らなかった。
魔女ランダが、部屋に窓を開けてくれたから、夜空を知ることができた。
夜空があると知ったから、天井を開け放つことができた。
夜空を一度も見たことはなかったのに、夜空がきれいだということは知っていた。
思ったほどじゃなかったけど、夜空はきれいだった。
私はずうっと夜空を見ていた。
だけど、ずうっと夜空を見ているうちに、夜空が、天井のように見えてきた。
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