文章の美しさ
2007/04/03/Tue
文章の美しさとはなんだろうか?
そんなもの存在するのだろうか?
ここで言う文章とは、小説なら文体のことだ。文章が意味すること例えば小説ならストーリーの美しさとは関係ない。
文体の美しさ。
それは例えばテンポとか韻とかいわゆる言葉の音楽的なところだろうか。
人は文字を読んでいる時でもその言葉を頭の中で発音している。無意識的に。声を出して読むのは無意識に朗読していることを意識化することに過ぎない。そんな大層な意味はない。パロールもエクリチュールもほとんど変わらない。まあ言語学者とか詳細に拘る人なら拘っても構わないが。
無意識のものを意識化するというのは、精神分析の目的の一つでもある。無意識のものを反復させて他者化して予測可能性のあるものにすることで無意識のそれに対する安心を得るのである。書かれた文章を声に出して読むことはそういった安心を得るだけだ。
いや、パロールとエクリチュールの優劣を論じたいわけじゃない。どっちも同じ言葉だといいたいだけだった。話を進めよう。
音楽的美しさ。いいだろう。それは私もあると思う。しかし音楽的美しさなら意味は重視されないはず。音楽は言葉じゃない。たしかに象徴的思考を使うからただの空気の振動に構造を感じて癒されたりするのだろう。別に昔はやった1/fゆらぎとかでも何でもいい。
なら文学は音楽で構わないじゃないか。別に詩や小説などのジャンルは必要ない。
やはり意味だ。意味の構造の美しさが重要なのだ。その意味は例えばストーリーなどといった全体的な意味ではなく、その言葉が直接想起させる意味だ。その意味は文脈によって整えられる。それは書く者と読む者の共同作業だ。この両者がいて初めて文脈が成り立ち多義性という分岐路で両者同じ道を選択できる、意味を特定できる。
この意味の美しさは、「論理」という言葉で掴み取れるだろう。
論理は情念などの曖昧さを排除するというルールを課す。そのルールに書く者も読む者も従う。情念などといった曖昧さをそぎ落として美を目指す。美は対象a即ち剰余物だから、そぎ落とした後に表れる。合理的ではないか。
文章の美しさの主成分は、論理性である。
しかし、おかしいではないか。文章の美しさの主成分が論理性であるなら、小説や詩より論文の方が美しいということになる。最も美しいのは数学の論文である。
確かに数学の論文は美しい。淀みがない。間違っていないじゃないか。
違う、比喩などといった詩的言述の美しさだ。と反論する人もいるかもしれない。
そう反論する人は、美がわかっていない。もしくは、詩的言述をわかっていない。
確かに言語の起源は比喩に象徴される詩的言述だろう。中沢新一氏もネアンデルタール人とホモ・サピエンスの認知考古学的差異を流動的知性にあるとして、これは比喩などといった類化能力を司るものであるから、言語の最初の形は詩的言述的なものであったろう、としている。
うん、それが?
最初の形が詩的言述だからって、詩的言述が美の母体であるとは限らない。
言語は、分化されていない曖昧な世界を掴み上げる。曖昧な世界を差異化する。多義性という差異化としては妥協的なやり方で曖昧な世界に妥協的な境界を作る。掴み上げるから、享楽するのだ。ファルス的享楽だ。一部とはいえ世界を所有できたような幻想を得られるから享楽するのだ。これが美だ。即ち美は差異化により生まれるものだ。
それならば、差異化としては詩的言語より進んだ論理的言述の方が美しいではないか。
曖昧なものをそぎ落とした余りとして対象a的な美が生まれるのである。論理的言述と詩的言述なら、論理的言述の方が美しいのだ。
では何故詩的言述の方が「芸術的」なのだろう。
はっきり言おう。詩的言述の方が「汚い」ものを表現できるからである。「汚い」という言葉がお嫌いならば、ぬるぬるでもいい。ぐちょぐちょでもいい。ねばねばでもいい。べたべたでもいい。知的にいうなら自他未分化的などと言ってもいい。境界が曖昧であるなんて言い方もいいだろう。
アブジェクシオンという概念がある。
abjectとは仏語で「棄却」とか「排除」という意味を持つ。
簡単にいうなら、ぬるぬるしてぐちょぐちょしてねばねばして自他未分化で境界が曖昧な、人に恐怖や不快を感じさせる根源となるものだ。
これは対象aの現実界的な顔と言っていいだろう。
ラカンは現実界を「命のしかめっ面」と呼んだ。
欲望の根源であり、人が手に入れられないからこそ目指す対象aの現実的な顔が、アブジェクシオンだ。それは女性の化粧やファッションに幻想を抱き、行為の後すっぴんの顔を見て幻滅する男性の気持ちに比喩できるだろう。アブジェクシオンは幻想を纏うと聖母のような美女に変身するのだ。そして男性はその幻想に欲望する。
もうおわかりだろうか。
論理的言述より詩的言述の方が美しいという人は、アブジェクシオンの化粧に騙されているのだ。
詩的言述は、対象aの化粧をはぎとるものだ。
詩的言述は、恐怖や不快を感じさせる、聖母のすっぴんの顔を炙り出すためにあるのだ。
それは、決して美しいものではない。
すっぴんが美しいはずだと思いこみたがる人は、想像的去勢を否認している、即ち、フェティシストだ。彼らは、聖母にペニスがあると信じてやまない。彼らは、人間だって動物であることを忘れている。
美とは、幻想である。美という幻想の中で留まりたがっているのが彼らだ。彼らは、母親が常に自分に母乳を与えてくれる存在だと未だに信じているのだ。
従って、文芸の範疇でいうならば、文体に美しさなどない、と言える。美しさを求めるなら、論文を書けばいい。むしろ、美しさの裏にあるすっぴんを暴くのが、文芸における文章の役割だ。
しかめっ面をした対象aの素顔を信じたくない気持ちが、フェティシスムを生む。
気がつくべきだ。愛とは幻想であり、幻想が愛なのだと。本当の現実は、私たちを愛していないのだと。
幻想は、象徴的思考により成り立つ。中沢氏の言葉なら流動的知性だ。象徴的思考を複雑化せしめるのが言語という道具だ。言語という道具を手に入れたから、人類は妄想を逞しくさせた。
私たちを愛しているのは、人類が言葉という道具で作り上げた、幻想だけなのだ。
そんなもの存在するのだろうか?
ここで言う文章とは、小説なら文体のことだ。文章が意味すること例えば小説ならストーリーの美しさとは関係ない。
文体の美しさ。
それは例えばテンポとか韻とかいわゆる言葉の音楽的なところだろうか。
人は文字を読んでいる時でもその言葉を頭の中で発音している。無意識的に。声を出して読むのは無意識に朗読していることを意識化することに過ぎない。そんな大層な意味はない。パロールもエクリチュールもほとんど変わらない。まあ言語学者とか詳細に拘る人なら拘っても構わないが。
無意識のものを意識化するというのは、精神分析の目的の一つでもある。無意識のものを反復させて他者化して予測可能性のあるものにすることで無意識のそれに対する安心を得るのである。書かれた文章を声に出して読むことはそういった安心を得るだけだ。
いや、パロールとエクリチュールの優劣を論じたいわけじゃない。どっちも同じ言葉だといいたいだけだった。話を進めよう。
音楽的美しさ。いいだろう。それは私もあると思う。しかし音楽的美しさなら意味は重視されないはず。音楽は言葉じゃない。たしかに象徴的思考を使うからただの空気の振動に構造を感じて癒されたりするのだろう。別に昔はやった1/fゆらぎとかでも何でもいい。
なら文学は音楽で構わないじゃないか。別に詩や小説などのジャンルは必要ない。
やはり意味だ。意味の構造の美しさが重要なのだ。その意味は例えばストーリーなどといった全体的な意味ではなく、その言葉が直接想起させる意味だ。その意味は文脈によって整えられる。それは書く者と読む者の共同作業だ。この両者がいて初めて文脈が成り立ち多義性という分岐路で両者同じ道を選択できる、意味を特定できる。
この意味の美しさは、「論理」という言葉で掴み取れるだろう。
論理は情念などの曖昧さを排除するというルールを課す。そのルールに書く者も読む者も従う。情念などといった曖昧さをそぎ落として美を目指す。美は対象a即ち剰余物だから、そぎ落とした後に表れる。合理的ではないか。
文章の美しさの主成分は、論理性である。
しかし、おかしいではないか。文章の美しさの主成分が論理性であるなら、小説や詩より論文の方が美しいということになる。最も美しいのは数学の論文である。
確かに数学の論文は美しい。淀みがない。間違っていないじゃないか。
違う、比喩などといった詩的言述の美しさだ。と反論する人もいるかもしれない。
そう反論する人は、美がわかっていない。もしくは、詩的言述をわかっていない。
確かに言語の起源は比喩に象徴される詩的言述だろう。中沢新一氏もネアンデルタール人とホモ・サピエンスの認知考古学的差異を流動的知性にあるとして、これは比喩などといった類化能力を司るものであるから、言語の最初の形は詩的言述的なものであったろう、としている。
うん、それが?
最初の形が詩的言述だからって、詩的言述が美の母体であるとは限らない。
言語は、分化されていない曖昧な世界を掴み上げる。曖昧な世界を差異化する。多義性という差異化としては妥協的なやり方で曖昧な世界に妥協的な境界を作る。掴み上げるから、享楽するのだ。ファルス的享楽だ。一部とはいえ世界を所有できたような幻想を得られるから享楽するのだ。これが美だ。即ち美は差異化により生まれるものだ。
それならば、差異化としては詩的言語より進んだ論理的言述の方が美しいではないか。
曖昧なものをそぎ落とした余りとして対象a的な美が生まれるのである。論理的言述と詩的言述なら、論理的言述の方が美しいのだ。
では何故詩的言述の方が「芸術的」なのだろう。
はっきり言おう。詩的言述の方が「汚い」ものを表現できるからである。「汚い」という言葉がお嫌いならば、ぬるぬるでもいい。ぐちょぐちょでもいい。ねばねばでもいい。べたべたでもいい。知的にいうなら自他未分化的などと言ってもいい。境界が曖昧であるなんて言い方もいいだろう。
アブジェクシオンという概念がある。
abjectとは仏語で「棄却」とか「排除」という意味を持つ。
簡単にいうなら、ぬるぬるしてぐちょぐちょしてねばねばして自他未分化で境界が曖昧な、人に恐怖や不快を感じさせる根源となるものだ。
これは対象aの現実界的な顔と言っていいだろう。
ラカンは現実界を「命のしかめっ面」と呼んだ。
欲望の根源であり、人が手に入れられないからこそ目指す対象aの現実的な顔が、アブジェクシオンだ。それは女性の化粧やファッションに幻想を抱き、行為の後すっぴんの顔を見て幻滅する男性の気持ちに比喩できるだろう。アブジェクシオンは幻想を纏うと聖母のような美女に変身するのだ。そして男性はその幻想に欲望する。
もうおわかりだろうか。
論理的言述より詩的言述の方が美しいという人は、アブジェクシオンの化粧に騙されているのだ。
詩的言述は、対象aの化粧をはぎとるものだ。
詩的言述は、恐怖や不快を感じさせる、聖母のすっぴんの顔を炙り出すためにあるのだ。
それは、決して美しいものではない。
すっぴんが美しいはずだと思いこみたがる人は、想像的去勢を否認している、即ち、フェティシストだ。彼らは、聖母にペニスがあると信じてやまない。彼らは、人間だって動物であることを忘れている。
美とは、幻想である。美という幻想の中で留まりたがっているのが彼らだ。彼らは、母親が常に自分に母乳を与えてくれる存在だと未だに信じているのだ。
従って、文芸の範疇でいうならば、文体に美しさなどない、と言える。美しさを求めるなら、論文を書けばいい。むしろ、美しさの裏にあるすっぴんを暴くのが、文芸における文章の役割だ。
しかめっ面をした対象aの素顔を信じたくない気持ちが、フェティシスムを生む。
気がつくべきだ。愛とは幻想であり、幻想が愛なのだと。本当の現実は、私たちを愛していないのだと。
幻想は、象徴的思考により成り立つ。中沢氏の言葉なら流動的知性だ。象徴的思考を複雑化せしめるのが言語という道具だ。言語という道具を手に入れたから、人類は妄想を逞しくさせた。
私たちを愛しているのは、人類が言葉という道具で作り上げた、幻想だけなのだ。
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