「欲望する父」と「抑圧する父」
2007/04/06/Fri
最初に断っておきたい。この文章における「父」とは具体的な父親のことではなく、「父性」などのような、象徴的な父のことを指す。
この象徴的父は超自我でもある。象徴的ファルスΦが大文字の他者Aに及ぼす暗喩作用そのものと言ってもいいだろう。超自我は抑圧を役割としているので、これを象徴的父の一つの側面として捉え、「抑圧する父」と呼ぶことにしよう。象徴的父を「一」という固有性に凝縮したのが「父-の-名」である。
男性にとっての象徴的父は、この「抑圧する父」的な側面の印象が強くなるだろう。男性はエディプスコンプレックスを「父の名」による去勢で終焉するからだ。それは、男性の精神世界においては「トラウマ的な」イベントとなる。
しかし、女性は違う。
女性は原抑圧によってエディプスコンプレックス(エレクトラコンプレックス)が始まる。象徴界に参入してから父親を愛するようになる。そこで、象徴的父から与えられた、象徴的少女とも呼んでもいいシンボルの下(/Laという)性の登録が行われる。女性はそのシンボルの位置から、象徴的父を愛する。象徴的父は自らに対し/Laというシンボルを与えてくれた。象徴的父は私を欲望している、と象徴的少女は考える。
そう、女性は男性と違って、象徴的父が欲望することを知っている。
象徴的父のこの側面を「欲望する父」と呼ぼう。
即ち、象徴的父には、去勢を行う「父の名」に象徴される「抑圧する父」と、女性に/Laというシンボルを与え象徴界に登録させる「欲望する父」の二つの側面があるということだ。男性は「欲望する父」に気づきにくいが、女性は象徴的父の「欲望する父」と「抑圧する父」という二つの側面を知っているのだ。
ここで、ヒステリーと女性同性愛を考える。
これの基本構造はフェティシストと同じだ。象徴的去勢を承認しつつ想像的去勢を否認する。彼らはペニスを持った母親やペニス化した母親や正常な(ペニスのない)母親や父親などといったようなイメージ的区別が明確になっていない。想像的ファルスの未分化な前景とも言えるだろうか。この父とも母ともつかないイメージをさらに遡ったものを精神分析学では「原光景」と呼ぶ。それは象徴的には父親と母親の性交している光景と言える。人間誰しも父母の性交するイメージに対し嫌悪感を覚えるだろう。それはそれが原光景を象徴しているからである。フェティシストやヒステリーや強迫神経症や男女同性愛(パラノイア的男性同性愛は除く)は、その原光景的なイメージに囚われている人たちである。想像的去勢の否認とは、原光景の分化あるいは他者化がうまくいっていないことであるとも言える。
ヒステリーや女性同性愛も、原光景を未だに自らの内に留めている。同一化している。
原光景はペニスを持った母親やペニス化した母親や普通の母親父親どれにでも姿を変える。以降は、ヒステリーも女性同性愛も想像的な女性に表れた症状と仮定して話を進めよう。つまり、彼女の原光景は「父」的なイメージを取ることが多いだろう、ということだ。
よろしい、彼女たちにとって原光景は「父」的である。それが彼女たちの想像的ファルス(即ちペニス)である。彼女たちは「父」的な想像的ファルス即ち「想像的父」と同一化(しようと)している、としよう。
ではヒステリーと女性同性愛の違いはなんだろう?
そう、それが「抑圧する父」と「欲望する父」の違いである。彼女が同一化(しようと)している想像的ファルスが、象徴的に「抑圧する父」なのか「欲望する父」なのかの違いなのである。女性は象徴的去勢後にエレクトラコンプレックスが開始される。言語の恣意性により、去勢前は「原光景」的に父母未分化だった想像的ファルスが、事後的に「想像的父」という形を取るのだ。
女性同性愛は「欲望する父」に象徴される想像的ファルスと同一化しようとしている。象徴的に「陰核手淫」と呼ばれる男性コンプレックスを、女児は誰しも経験する。言い方は悪いが、誤解を恐れず簡単に言うと、男の子っぽくふるまう(攻撃性が強い)時期が女児には誰しもあるだろう。それを男性コンプレックスと呼ぶ。これは想像的ファルスの分化が十分でないから起こる。即ちその時の女児にとっての想像的ファルスは原光景の名残を残しているから、自らにファルスがあるような振る舞いをするのである。
ヒステリーも女性同性愛もこの男性コンプレックスのぶり返しであるという表現ができる。何度も言うようだが、「陰核手淫」や「男性コンプレックス」という言葉が誤解を多く生みそうなのであえて繰り返すと、一般的な文脈での意味ではなく、あくまで精神分析理論の文脈だと捉えて欲しい。具体的なそれを指すのではなく、比喩的な「シンボル」としてそういう記号で表現している、ということだ。
女性同性愛においては、陰核手淫が継続される。彼女にとっての象徴的父は「欲望する父」である。彼女は「欲望する父」と同一化しようとしていると言える。
しかし彼女たちは大人になるにつれ、男性一般や社会の本質を知る。象徴的父に対して「幻滅」してしまうのだ。幻滅する原因はいろいろあるだろう。注意しておきたいのは、この「幻滅」は「否認」ではない、ということだ。どういうことかと言うと、ラカンは女性同性愛について「騎士道的愛」と表現している。これにのっとって比喩的に説明しよう。愛する国(君主だと「父の名」になってしまいそうなのでこうした)が腐敗していくのを目の当たりした騎士(女性同性愛者)は、国を愛するが故自らの国へと挑戦状を叩きつけるのだ。(象徴的去勢の)「否認」は、この記事でも述べているように「去勢不安」のぶり返しとなる。つまり自らの象徴的ファルスへの自己愛的撞着が原因となっている。
ともかく、彼女たちは象徴的去勢は承認している。彼女たちの象徴的役割とは「母」になることである。また成長するにつれ自らの体が現実的に「母」へと近似されていくだろう。こうして彼女たちは必然的に想像的母との同一化へ向かう、即ち想像的去勢を否認してしまう。否認すると、想像的父というイメージに分化されていたそれが、原光景へと巻き戻しされる。即ち父母未分化なイメージ、ファリックマザーとなる。「欲望する父」が否認されて、原光景と近い位置でそれは「ペニスを持つ母親」化してしまうのだ。彼女たちはそれと同一化してしまう。その位置から対象aを欲望する。即ち、女性を欲望する。
女性同性愛の関係は、「ペニスを持つ母親」と「子」の関係であると言えよう。しかしその役割はたびたび交換されていると考えられる。何故なら彼女たちは両者とも、「ペニスを持つ母親」であり「子」であるのだから。
ヒステリーにおいては、抑圧を受けて陰核手淫が制止される。彼女は「抑圧する父」を愛しているから、陰核手淫を制止するのだ。即ち、「抑圧する父」に同一化しようとしている。だから、彼女の欲望は「抑圧されること」である。彼女たちの欲望は「欲望が不満足に終わること」なのだ。そういった状態は、「彼女たちの非性器的身体はエロス化し、性器的身体は非エロス化する」という言葉で表現される。彼女たちは「抑圧する父」と身体的表層で同一化しているのだ。精神エネルギーが渦巻く領域を、皮膚に転換したのが彼女たちだ。私はその状態を「空っぽのペニス」化した状態、と呼んだりする。
彼女たちは女性同性愛と違って象徴的父を幻滅してはいないが、同様に大人になる。「母」に近い位置へと成長する。想像的去勢の否認となる。彼女たちの愛した「抑圧する父」もファリックマザーとなる。この場合、「ペニス化した母親」となる。彼女たちはそれと想像的に同一化しているのだ。
ヒステリーは欲望の様式そのものがパラドックスであると言える。リビドーのベクトルに流されて望む対象がリビドーを抑圧するものなのだ。これは超自我に従う人類そのものにもあてはまることでもある。このパラドックスなり葛藤がオーバーシュートして、その舞台が身体的に転換されるとヒステリー、思考に転換されると強迫神経症となる。
人間という存在においては、必ず葛藤が起きる。それは一言で言うなら自己言及の不完全性だろうか。死の欲動(構造の無化)と生の欲動(構造化)という逆方向のベクトルに起因するもの、という言い方もいいだろう。「ないものを求める」のが欲望だから、欲望は永遠に満たされない。欲望そのものに葛藤が潜んでいる。「ないもの」を「あるもの」と幻想して得たとしても、自分の記憶の中でその「ないもの」を失ってしまう。一般には逆の方がわかりやすいかもしれない。失って初めてその「ないもの」が実感できるという具合に。
人間は、常にすでに葛藤に苦しんでいる。人間の生とは葛藤を生きることだ。この葛藤を常にせめぎあいながら欲望を維持するのだ。
しかし、この葛藤が逃れるために、人はいろんな様式でそれを「隠蔽」したり「停止」したり「分離」したり「転換」したりする。その様式には四つある、とラカンは言っている。精神疾患の症状を象徴として用い、その四種を表現している。
その四種とは、強迫神経症とヒステリー、パラノイア、性倒錯、である。強迫神経症とヒステリーを神経症で括るなら、三種になる。ラカンは、人は必ずこのどれかの傾向があるとしている。だから、「人は皆神経症である」や「人格とはパラノイアである」みたいな言葉になるわけだ。もちろんこの傾向を複数持っていても構わない。多重人格について述べた記事でも書いたが、多重人格はヒステリー(解離)とパラノイアの症状の混淆ではないか、と私は思う。ヒステリー(解離)とSM的な性倒錯が交差するとリストカットなどのような行為を表象するのかもしれない。金原ひとみ氏の『蛇とピアス』などを読むと、刺青や身体改造を望む登場人物たちについてパラノイアとSM的性倒錯が混淆している印象を私は持ってしまう。ともかく、人格がこの四種にきっちり分けられるというわけではない、むしろ複数の症状を兼ね備えているのが普通だ、ということを述べたかった(ヒステリーと強迫神経症については同根であるのでこの二つが重なることはないように思うが)。この分類は精神世界の構造を理論化するための一つのベンチマークのようなものと思って欲しい。あくまで、「シンボル」だ。
私は以前、人間の精神世界の「正常」を平均台に喩えたことがある。平均台の下にはコーヒーゼリーみたいなものが敷き詰められている。平均台の上にいる間は、その表面は鏡面のような美しさを保っているだろう。しかし片足でもそこに落ちてしまうと、自他未分化などろどろべたべたしたものに変わる。人は実は結構平均台から落ちている。少し落ちてはまた平均台の上に戻る。戻れば、コーヒーゼリーの地面は足を突っ込んだところ以外、鏡面を保っていることがわかる。
コーヒーゼリーに片足つっこんで、鏡面が破壊され、「汚い」ものになった、構造が無化された、自他未分化なぐちょぐちょべたべたしたその状態が、アブジェクシオンだ。
このアブジェクシオンを日本文化内で象徴化したのが、鬼子母神や般若などといった「女性的な鬼」ではないかというのはふと思っただけで、また別の機会に書くかもしれないが、ここは置いておこう。
平均台から落ちない人間は、多分一人もいない、と私は思う。朝、雪が積もっていて、そこに一つも足跡がついていないなら、その鏡面的な世界を壊したくなる、即ち足跡をつけたくなる欲動。そんな気持ちを、人は誰でも持っているものだと思う。
多分、そういうことだ。
この象徴的父は超自我でもある。象徴的ファルスΦが大文字の他者Aに及ぼす暗喩作用そのものと言ってもいいだろう。超自我は抑圧を役割としているので、これを象徴的父の一つの側面として捉え、「抑圧する父」と呼ぶことにしよう。象徴的父を「一」という固有性に凝縮したのが「父-の-名」である。
男性にとっての象徴的父は、この「抑圧する父」的な側面の印象が強くなるだろう。男性はエディプスコンプレックスを「父の名」による去勢で終焉するからだ。それは、男性の精神世界においては「トラウマ的な」イベントとなる。
しかし、女性は違う。
女性は原抑圧によってエディプスコンプレックス(エレクトラコンプレックス)が始まる。象徴界に参入してから父親を愛するようになる。そこで、象徴的父から与えられた、象徴的少女とも呼んでもいいシンボルの下(/Laという)性の登録が行われる。女性はそのシンボルの位置から、象徴的父を愛する。象徴的父は自らに対し/Laというシンボルを与えてくれた。象徴的父は私を欲望している、と象徴的少女は考える。
そう、女性は男性と違って、象徴的父が欲望することを知っている。
象徴的父のこの側面を「欲望する父」と呼ぼう。
即ち、象徴的父には、去勢を行う「父の名」に象徴される「抑圧する父」と、女性に/Laというシンボルを与え象徴界に登録させる「欲望する父」の二つの側面があるということだ。男性は「欲望する父」に気づきにくいが、女性は象徴的父の「欲望する父」と「抑圧する父」という二つの側面を知っているのだ。
ここで、ヒステリーと女性同性愛を考える。
これの基本構造はフェティシストと同じだ。象徴的去勢を承認しつつ想像的去勢を否認する。彼らはペニスを持った母親やペニス化した母親や正常な(ペニスのない)母親や父親などといったようなイメージ的区別が明確になっていない。想像的ファルスの未分化な前景とも言えるだろうか。この父とも母ともつかないイメージをさらに遡ったものを精神分析学では「原光景」と呼ぶ。それは象徴的には父親と母親の性交している光景と言える。人間誰しも父母の性交するイメージに対し嫌悪感を覚えるだろう。それはそれが原光景を象徴しているからである。フェティシストやヒステリーや強迫神経症や男女同性愛(パラノイア的男性同性愛は除く)は、その原光景的なイメージに囚われている人たちである。想像的去勢の否認とは、原光景の分化あるいは他者化がうまくいっていないことであるとも言える。
ヒステリーや女性同性愛も、原光景を未だに自らの内に留めている。同一化している。
原光景はペニスを持った母親やペニス化した母親や普通の母親父親どれにでも姿を変える。以降は、ヒステリーも女性同性愛も想像的な女性に表れた症状と仮定して話を進めよう。つまり、彼女の原光景は「父」的なイメージを取ることが多いだろう、ということだ。
よろしい、彼女たちにとって原光景は「父」的である。それが彼女たちの想像的ファルス(即ちペニス)である。彼女たちは「父」的な想像的ファルス即ち「想像的父」と同一化(しようと)している、としよう。
ではヒステリーと女性同性愛の違いはなんだろう?
そう、それが「抑圧する父」と「欲望する父」の違いである。彼女が同一化(しようと)している想像的ファルスが、象徴的に「抑圧する父」なのか「欲望する父」なのかの違いなのである。女性は象徴的去勢後にエレクトラコンプレックスが開始される。言語の恣意性により、去勢前は「原光景」的に父母未分化だった想像的ファルスが、事後的に「想像的父」という形を取るのだ。
女性同性愛は「欲望する父」に象徴される想像的ファルスと同一化しようとしている。象徴的に「陰核手淫」と呼ばれる男性コンプレックスを、女児は誰しも経験する。言い方は悪いが、誤解を恐れず簡単に言うと、男の子っぽくふるまう(攻撃性が強い)時期が女児には誰しもあるだろう。それを男性コンプレックスと呼ぶ。これは想像的ファルスの分化が十分でないから起こる。即ちその時の女児にとっての想像的ファルスは原光景の名残を残しているから、自らにファルスがあるような振る舞いをするのである。
ヒステリーも女性同性愛もこの男性コンプレックスのぶり返しであるという表現ができる。何度も言うようだが、「陰核手淫」や「男性コンプレックス」という言葉が誤解を多く生みそうなのであえて繰り返すと、一般的な文脈での意味ではなく、あくまで精神分析理論の文脈だと捉えて欲しい。具体的なそれを指すのではなく、比喩的な「シンボル」としてそういう記号で表現している、ということだ。
女性同性愛においては、陰核手淫が継続される。彼女にとっての象徴的父は「欲望する父」である。彼女は「欲望する父」と同一化しようとしていると言える。
しかし彼女たちは大人になるにつれ、男性一般や社会の本質を知る。象徴的父に対して「幻滅」してしまうのだ。幻滅する原因はいろいろあるだろう。注意しておきたいのは、この「幻滅」は「否認」ではない、ということだ。どういうことかと言うと、ラカンは女性同性愛について「騎士道的愛」と表現している。これにのっとって比喩的に説明しよう。愛する国(君主だと「父の名」になってしまいそうなのでこうした)が腐敗していくのを目の当たりした騎士(女性同性愛者)は、国を愛するが故自らの国へと挑戦状を叩きつけるのだ。(象徴的去勢の)「否認」は、この記事でも述べているように「去勢不安」のぶり返しとなる。つまり自らの象徴的ファルスへの自己愛的撞着が原因となっている。
ともかく、彼女たちは象徴的去勢は承認している。彼女たちの象徴的役割とは「母」になることである。また成長するにつれ自らの体が現実的に「母」へと近似されていくだろう。こうして彼女たちは必然的に想像的母との同一化へ向かう、即ち想像的去勢を否認してしまう。否認すると、想像的父というイメージに分化されていたそれが、原光景へと巻き戻しされる。即ち父母未分化なイメージ、ファリックマザーとなる。「欲望する父」が否認されて、原光景と近い位置でそれは「ペニスを持つ母親」化してしまうのだ。彼女たちはそれと同一化してしまう。その位置から対象aを欲望する。即ち、女性を欲望する。
女性同性愛の関係は、「ペニスを持つ母親」と「子」の関係であると言えよう。しかしその役割はたびたび交換されていると考えられる。何故なら彼女たちは両者とも、「ペニスを持つ母親」であり「子」であるのだから。
ヒステリーにおいては、抑圧を受けて陰核手淫が制止される。彼女は「抑圧する父」を愛しているから、陰核手淫を制止するのだ。即ち、「抑圧する父」に同一化しようとしている。だから、彼女の欲望は「抑圧されること」である。彼女たちの欲望は「欲望が不満足に終わること」なのだ。そういった状態は、「彼女たちの非性器的身体はエロス化し、性器的身体は非エロス化する」という言葉で表現される。彼女たちは「抑圧する父」と身体的表層で同一化しているのだ。精神エネルギーが渦巻く領域を、皮膚に転換したのが彼女たちだ。私はその状態を「空っぽのペニス」化した状態、と呼んだりする。
彼女たちは女性同性愛と違って象徴的父を幻滅してはいないが、同様に大人になる。「母」に近い位置へと成長する。想像的去勢の否認となる。彼女たちの愛した「抑圧する父」もファリックマザーとなる。この場合、「ペニス化した母親」となる。彼女たちはそれと想像的に同一化しているのだ。
ヒステリーは欲望の様式そのものがパラドックスであると言える。リビドーのベクトルに流されて望む対象がリビドーを抑圧するものなのだ。これは超自我に従う人類そのものにもあてはまることでもある。このパラドックスなり葛藤がオーバーシュートして、その舞台が身体的に転換されるとヒステリー、思考に転換されると強迫神経症となる。
人間という存在においては、必ず葛藤が起きる。それは一言で言うなら自己言及の不完全性だろうか。死の欲動(構造の無化)と生の欲動(構造化)という逆方向のベクトルに起因するもの、という言い方もいいだろう。「ないものを求める」のが欲望だから、欲望は永遠に満たされない。欲望そのものに葛藤が潜んでいる。「ないもの」を「あるもの」と幻想して得たとしても、自分の記憶の中でその「ないもの」を失ってしまう。一般には逆の方がわかりやすいかもしれない。失って初めてその「ないもの」が実感できるという具合に。
人間は、常にすでに葛藤に苦しんでいる。人間の生とは葛藤を生きることだ。この葛藤を常にせめぎあいながら欲望を維持するのだ。
しかし、この葛藤が逃れるために、人はいろんな様式でそれを「隠蔽」したり「停止」したり「分離」したり「転換」したりする。その様式には四つある、とラカンは言っている。精神疾患の症状を象徴として用い、その四種を表現している。
その四種とは、強迫神経症とヒステリー、パラノイア、性倒錯、である。強迫神経症とヒステリーを神経症で括るなら、三種になる。ラカンは、人は必ずこのどれかの傾向があるとしている。だから、「人は皆神経症である」や「人格とはパラノイアである」みたいな言葉になるわけだ。もちろんこの傾向を複数持っていても構わない。多重人格について述べた記事でも書いたが、多重人格はヒステリー(解離)とパラノイアの症状の混淆ではないか、と私は思う。ヒステリー(解離)とSM的な性倒錯が交差するとリストカットなどのような行為を表象するのかもしれない。金原ひとみ氏の『蛇とピアス』などを読むと、刺青や身体改造を望む登場人物たちについてパラノイアとSM的性倒錯が混淆している印象を私は持ってしまう。ともかく、人格がこの四種にきっちり分けられるというわけではない、むしろ複数の症状を兼ね備えているのが普通だ、ということを述べたかった(ヒステリーと強迫神経症については同根であるのでこの二つが重なることはないように思うが)。この分類は精神世界の構造を理論化するための一つのベンチマークのようなものと思って欲しい。あくまで、「シンボル」だ。
私は以前、人間の精神世界の「正常」を平均台に喩えたことがある。平均台の下にはコーヒーゼリーみたいなものが敷き詰められている。平均台の上にいる間は、その表面は鏡面のような美しさを保っているだろう。しかし片足でもそこに落ちてしまうと、自他未分化などろどろべたべたしたものに変わる。人は実は結構平均台から落ちている。少し落ちてはまた平均台の上に戻る。戻れば、コーヒーゼリーの地面は足を突っ込んだところ以外、鏡面を保っていることがわかる。
コーヒーゼリーに片足つっこんで、鏡面が破壊され、「汚い」ものになった、構造が無化された、自他未分化なぐちょぐちょべたべたしたその状態が、アブジェクシオンだ。
このアブジェクシオンを日本文化内で象徴化したのが、鬼子母神や般若などといった「女性的な鬼」ではないかというのはふと思っただけで、また別の機会に書くかもしれないが、ここは置いておこう。
平均台から落ちない人間は、多分一人もいない、と私は思う。朝、雪が積もっていて、そこに一つも足跡がついていないなら、その鏡面的な世界を壊したくなる、即ち足跡をつけたくなる欲動。そんな気持ちを、人は誰でも持っているものだと思う。
多分、そういうことだ。
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