イメージとシンボルの中間
2007/04/10/Tue
言葉の世界が自己から離れてしまうことが「狂気」である。
ラカン論ならボロメオの輪の解体ということになろうか。とまれ、象徴界になんらかのトラブルが起きるのが「狂気」である。
そう、たかが言葉なのだ。たかが言葉が人を狂気に陥れるのだ。
しかし、狂気にも定型がある。それを構造と呼ぶなら別に構造主義と呼ばれても構わない。
構造主義の求めている構造は、超自我のそれだ。即ち象徴界の超越論的構造を求めている。
狂気の構造は、それとは全く別物だ。
構造であるならば、それは象徴化が施されている。ならば狂気も超自我の構造なのか?
そうとは言えない。
狂気の構造は象徴化したその瞬間、境界に生まれると同時に存在している構造だ。
シンボルという視点で考えるなら、イメージがシンボル化した最初の「意味」と「イメージとシンボルの中間」で成り立つ構造だ。
クリステヴァ女史はその領域を「ル・セミオティック」と名付けた。
東浩紀氏がラカン論批判として挙げているのが、この「イメージとシンボルの中間」層である。オタク文化はこの層を利用した表現文化になっているのではないか、と。
その主張通りなら、オタクは「狂気」一歩前の文化に身を浸していることになる。
オタク文化が狂気とは言えない。むしろ分析的には真っ当すぎるほど「正常」な人種だと思う。
従って斎藤環氏の論による、「イメージとシンボルの中間」にあるのはコンテクストであるという論に私は賛同する。
文脈性、シニフィアンの連鎖なのだ。クッションの刺し縫いを経ない、暗黙の了解によってシニフィアンがイメージを決定している。文脈に運ばれてくるイメージだ。反復性に依存した、半ばシンボル化したイメージなのだ。
狂気の構造における「イメージとシンボルの中間」は、シニフィアンの連鎖が解体されたところに生じる。
オタクの「イメージとシンボルの中間」は、シニフィアンの連鎖において、他の選択肢を「排除」して一方通行にした連鎖を積み上げたところにある。フェティシスムの文脈になぞらえるなら、象徴界に開いた穴を覗き込み、そこに映る想像的ファルスに魅せられてしまい、その周辺でしかシニフィアンが連鎖しなくなった状態だ。それは欲望の連鎖としては、停止していることになる。
象徴界に開いた穴から見えているのは想像界、即ちイメージの世界だ。だから、「イメージとシンボルの中間」となる。
オタクのそれは、フェティシスムの定型である。
狂気の定義など私は心底したくないが、フェティシスムも倒錯という狂気だと捉えるなら、確かにオタクも狂気に身を浸していると言えるだろう。しかしどっちでもいい。それならば人間みな狂気でいいじゃないか、とすら私は思う。
対象aとは糞便でもある。
私たちが欲望しているものは、汚物でもあるのだ。
ラカン論ならボロメオの輪の解体ということになろうか。とまれ、象徴界になんらかのトラブルが起きるのが「狂気」である。
そう、たかが言葉なのだ。たかが言葉が人を狂気に陥れるのだ。
しかし、狂気にも定型がある。それを構造と呼ぶなら別に構造主義と呼ばれても構わない。
構造主義の求めている構造は、超自我のそれだ。即ち象徴界の超越論的構造を求めている。
狂気の構造は、それとは全く別物だ。
構造であるならば、それは象徴化が施されている。ならば狂気も超自我の構造なのか?
そうとは言えない。
狂気の構造は象徴化したその瞬間、境界に生まれると同時に存在している構造だ。
シンボルという視点で考えるなら、イメージがシンボル化した最初の「意味」と「イメージとシンボルの中間」で成り立つ構造だ。
クリステヴァ女史はその領域を「ル・セミオティック」と名付けた。
東浩紀氏がラカン論批判として挙げているのが、この「イメージとシンボルの中間」層である。オタク文化はこの層を利用した表現文化になっているのではないか、と。
その主張通りなら、オタクは「狂気」一歩前の文化に身を浸していることになる。
オタク文化が狂気とは言えない。むしろ分析的には真っ当すぎるほど「正常」な人種だと思う。
従って斎藤環氏の論による、「イメージとシンボルの中間」にあるのはコンテクストであるという論に私は賛同する。
文脈性、シニフィアンの連鎖なのだ。クッションの刺し縫いを経ない、暗黙の了解によってシニフィアンがイメージを決定している。文脈に運ばれてくるイメージだ。反復性に依存した、半ばシンボル化したイメージなのだ。
狂気の構造における「イメージとシンボルの中間」は、シニフィアンの連鎖が解体されたところに生じる。
オタクの「イメージとシンボルの中間」は、シニフィアンの連鎖において、他の選択肢を「排除」して一方通行にした連鎖を積み上げたところにある。フェティシスムの文脈になぞらえるなら、象徴界に開いた穴を覗き込み、そこに映る想像的ファルスに魅せられてしまい、その周辺でしかシニフィアンが連鎖しなくなった状態だ。それは欲望の連鎖としては、停止していることになる。
象徴界に開いた穴から見えているのは想像界、即ちイメージの世界だ。だから、「イメージとシンボルの中間」となる。
オタクのそれは、フェティシスムの定型である。
狂気の定義など私は心底したくないが、フェティシスムも倒錯という狂気だと捉えるなら、確かにオタクも狂気に身を浸していると言えるだろう。しかしどっちでもいい。それならば人間みな狂気でいいじゃないか、とすら私は思う。
対象aとは糞便でもある。
私たちが欲望しているものは、汚物でもあるのだ。
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