女性はみんな中二病?
2007/04/16/Mon
フェミ以外の普通の女性からも石つぶてが飛んできそうで怖いタイトルだ……。
まあブログだし垂れ流しちまえー。
ということで。
フロイトによれば、「女性には超自我はない」ということになります。私が言ってるんじゃありません。フロイトが言っているんです。こういったところが精神分析はファロセントリズム(男根中心主義)だと呼ばれる所以です。私だってムッとこなくはありません。笙野頼子さんの小説なんか小気味がいいですね。シモーヌ・ド・ボーヴォワールとかクリステヴァを、あるいはそれにはまる自称知的女性を(ぐさっ)揶揄するキャラがいたり。好きです。まあそれはおいといて。
私は中二病という「症状」(おお、精神分析文脈じゃなくても意味が通じる)は、フェティシスムや同性愛(パラノイア的同性愛を除く)のような想像的去勢を否認し象徴的去勢は承認しているのと逆で、想像的去勢は承認して象徴的去勢は否認している状態、即ち社会に参入する際には誰でも経験する構造だと思っています。暴走族や不良系の古来(って言っても近代以降になるのかしらん。フィリップ・アリエスによると今の子供っていう観念は近代以降のものだから)から見られる伝統的な若者の反抗スタイルの基盤をなす構造と同じです。ちなみにモラトリアムも同様だと思っています。対象aの生成について書いた記事で、モラトリアムは幼児期の抑鬱態勢と似ている、と書きましたが、であるならば暴走族や中二病は妄想分裂態勢に対応するでしょう。モラトリアムの方が来るべき社会への参入に対して抑鬱的な不安を持っている、即ち暴走族や中二病と言った症状から、(社会的に)一歩成長した姿だと言えるかもしれません。社会への反抗という否定性から社会に対する抑鬱的な不安へ、という流れは妄想分裂態勢から抑鬱態勢への移行のトラウマ的反復である、と言えるかもしれません。不良たちは社会の否定性と同一化しようとして、モラトリアムたちは完全なる同一化が果たせないことを悟り、来るべきそれまでの自分との断絶に対し不安になり抑鬱的になってしまうのでしょう。
つまり、むしろ中二病や不良やモラトリアムという症状は、人間誰しも経験して然るべき症状なのです。以前にも書きましたがモラトリアムの若者などに見られる「自我同一性の拡散」という精神状態は、(ひどくならなければ)成長過程においては当然の症状だと私は考えます。社会への反抗、社会への不安という負的な感情は、社会に参入しようという(無意識的にしろ)志向があるから起こるものなのです。逆に「中二病カッコワルイ」という風潮に、私はスキゾ的仮面という超自我に抑圧されている主体を感じます。以前の記事でひきこもりもこのスキゾ的仮面という作法的なものが関係しているのではないか、と書きましたが、ひきこもりだけではなく、現代のいじめの精神的基盤もここにあるんじゃないでしょうか。「熱」や「うざさ」という人間であるならば本来的に持つ印象を超自我が抑圧してしまう、「スタイリッシュ主義」あるいは「クール主義」。そういった「熱」や「うざさ」をターゲットにすることは、宮台真司氏の言葉なら「「場の空気を読めない奴」へのイジメ」と呼応するでしょう。いじめは、スタイリッシュ主義的な(若者のにしろ大人のにしろ)社会へ参入させるイニシエーション的なものと私は考えます。批判すべきはどちらでしょう? 人工的に作られた「スタイリッシュ主義」という作法じゃないでしょうか。
しかしもちろん、その作法は社会的なものでもあるので、それを生み出したのは我々大人であるとも言えます。それをどうにかするとなると、象徴的外部構造の分析操作即ち社会学の範疇となるでしょうから、私はこれ以上言説が繋がりません。宮台氏などといった大人たちを信じるしかできません。
――以上は、「男性的」なる主体を念頭に置いて書かれたものです。
ならば、「女性的」なる主体は、どうなのか。
もちろんここでの男女というものは精神分析的な文脈によります。つまり、ペニスがあるだの子宮があるだのといった解剖学的性差から(関連はあるにしろ)一旦離れた場所での「性差」ということです。
フロイトの言葉を信じるなら、女性には超自我即ち象徴界がありません。しかし言葉は喋れますよね。なのでここは象徴界には参入しているけど象徴的去勢を否認している、という表現が正確になるでしょう。
とまあ、それがタイトルの言葉になったわけですが、この辺を少しだけ考えてみましょう。
男性と女性の精神世界の構造は、象徴的去勢即ちエディプスコンプレックス前後で分岐すると言われています。それについて述べた記事がこちらです。
この記事でも述べているように、女性は男性と比して象徴的去勢が曖昧に進みます。このことは象徴的去勢の否認という現象にも繋がるでしょう。象徴的去勢というイベントに進む根拠が曖昧だから過程も曖昧になる。この曖昧さが女性は象徴的去勢を否認している「ような」印象を持たせてしまうのです。
しかし、女性も曖昧とはいえ象徴界に参入していないわけではありません。
男性はエディプスコンプレックスの終焉により象徴界に参入しますが、女性は象徴界に参入してから父親を愛するエレクトラコンプレックスが始まるのです。象徴界の抑圧は象徴的父、即ち父性的なものです。男性はエディプスコンプレックスを反復する、即ち社会など象徴界を暗喩するものに対し反発することで象徴界的なるものに参入しますが、女性はそれを愛するようにそこに参入します。男性は反発というクッションがあるせいで、女性より社会(象徴界的なるもの)の抑圧に馴染むのが遅くなるでしょう。同い年の少年少女なら少女の方が大人っぽい、という一般的な印象の原因ですね。
では、女性は超自我がない(弱い)、という言葉とは逆じゃないか、と思われるかもしれません。それは、超自我との「関係性」の男女差に起因するものだと思います。
男性は象徴界的なるものに反発してからそれに参入します。個人が社会的なものに打ち勝つのは英雄ぐらいでしょう。個人は社会に反発し敗退します。男性は象徴的父に一度は負けてしまうわけですね。そういった過程で超自我が発達します。言い方は悪いかもしれませんが、超自我の軍門に下る、あるいは「従属」するわけです。これが男性と超自我の関係性です。
一方、女性は象徴的父即ち超自我を愛しています。エレクトラコンプレックスの解消も曖昧に進むので、その影響で超自我に愛されたいと欲望してしまうのです。この愛されたいという欲望は他者の享楽的なものです。女性は欲望に従ってかつ受動的に超自我に取り込まれていくのです。超自我を「受容」するわけですね。これが女性と超自我の関係性と言えるでしょう。
しかし、超自我の役割とは、自我や主体を「抑圧」することです。「従属」という形で超自我に従う男性は、超自我の命令は直接的に「抑圧」となるでしょう。しかし女性は、超自我に命令されること自体を欲望し、受容しているので、「抑圧」という形になりにくいのです。
超自我が「抑圧」するものは「欲望」です。抑圧されること自体が欲望ならば、抑圧する力は表面的には無化しているように見えてしまうでしょう。
超自我の役割を「抑圧」と捉えるなら、確かに女性は「超自我がない」という印象になってしまうでしょう。しかしこれは、超自我の表出が「抑圧」という形で表れない、ということを意味しているのです。
従って、女性は象徴的去勢を承認してはいるが、抑圧はされてい(るように見え)ない、という言い方になるでしょうか。
「中二病」というものを「症状」と捉えるならば、抑圧に反発しているわけですから、抑圧はされてい(るように見え)ない女性は女性である限り「中二病」である、ということにもなります。しかし精神世界の構造を見ると、それは男性の中二病とは違った構造をしているのです。
「抑圧」に視点を置くならば、女性は中二病的と言えるでしょうし、内的構造に視点を置くならば、女性は中二病的ではない、ということになるのです。
では、女性の象徴的去勢の否認はどういった症状を示すのでしょう。
それは女性同性愛となります。愛する象徴的父に幻滅し、女性を愛するというアクティングアウトを示すのが女性同性愛です。女性ならば誰しも覚えがあるのではないでしょうか。学生時代、そういった同性愛的なものに惹かれた時期があるのを。
しかしここで疑問が湧きます。
ヒステリーと女性同性愛について書いた記事では、女性同性愛とは想像的去勢の否認であり象徴的去勢は承認している、と書いてあります。去勢の承認の構造が逆になっていますね。
男性同性愛を少し考えて見ましょう。男性同性愛は、パラノイア的同性愛即ち想像的去勢、象徴的去勢双方否認している状態と、想像的去勢は否認して象徴的去勢は承認しているという非男性化的同性愛があります。想像的去勢を否認することで想像的ファリックマザーと同一化します。ここで留まればパラノイア的症状に向かうことはありません。ローゼンフェルトの言葉なら「(男性)同性愛はパラノイアの防衛である」となります。
しかし女性はどうでしょう? 女性も想像的同一化しようとする対象は「母」です。男性と違って同性なのですね。象徴的去勢の承認とは、自らの「性の記号」を受け入れることでもあります。即ち、男という言葉、女という言葉に属することです。となると、女性の象徴的去勢の承認は、想像的去勢の否認を促進することになります。女性にとっては象徴的去勢と想像的去勢は密接に繋がっているものだと言えるでしょう。逆に言うなら、象徴的去勢の否認は想像的去勢の承認とシンクロしている、という表現になるでしょうか。
従って、学生時代の女性同性愛、ここでは青年性女性同性愛とでも言いましょうか、それはパラノイア的な精神世界の構造と類似したものになっているのではないか、と考えられます。男性ならば、想像的去勢の承認と象徴的去勢の承認が一つのコース上に段階的に存在しますが、女性の成長過程においては、それらの否認が交錯的に生じる傾向があるのではないだろうか、ということです。
しかしパラノイアの症状が表れるには拒絶、即ち現実的去勢の否認も経なければなりません。そもそも青年期のモラトリアムや反抗態度は、象徴的去勢の否認というよりも、否認から承認への過程と言った意味もあります。パラノイアの「絶対的に自分が正しい」「宇宙人に狙われている」「神を見た」などといった言説に象徴される象徴的ファルスとの同一化とは度合いが違うように思います。ベクトルは確かに否認の方を向いていますが、それは来るべき承認への緩衝材のようなものなのです。つまり、青年期における中二病やモラトリアムや青年性女性同性愛は一過性のものだということです。
女性同性愛においては、「パラノイア的な青年性同性愛を経て非男性化的同性愛に向かう」となるでしょうか。女性の青年期における「反抗」は必然的にパラノイアに類似した精神性に近しくなってしまうのです。それはアイドルのおっかけやオタク文化の押しかけ厨には女性が多いということなどにも関連しているでしょう。
「スタイリッシュ主義」は「うざいもの」アレルギーとも言えます。潔癖症のような印象です。それは他者との同一化に恋焦がれるパラノイア的言動へのアレルギーとも言えるでしょう。ラカンは「人格とはパラノイアである」というようなことまで言っています。そういった「人間臭さ」を、ルールやシステムを偏重することで抑圧する、それが「スタイリッシュ主義」だと思います。宮台氏が言う「ギャルが受けている<システム>を生きる痛み」。それは、女性は不可避的にパラノイア的言動になってしまうにも関わらず、スタイリッシュ主義による抑圧を受けてしまうことが原因なのではないでしょうか。
憎悪と愛情は表裏一体です。それを憎悪すればするほどそれに取り込まれてしまいます。憎悪しているものと同一化してしまうのですね。これを端的に表しているのが境界性人格障害の症状です。パラノイア的なるものをアレルギー的に拒否する身振りが大きくなればなるほど、彼ら自身パラノイア的なるものになっていくでしょう。深淵は、覗き返してくるのです。
私がこの記事で述べているのは、青年期以降の「定着した」女性同性愛のことです。彼女たちは、男性同性愛においては「パラノイアの防衛」となる非男性化的即ち母化的同性愛なわけです。
彼ら彼女たちは、同性愛を選択することで欲望の原因の領域にある「母と子の関係」を手に入れた、とも言えるでしょう。
私のようなヘテロが同性愛者たちに視線を向けてしまうのは、そういった関係性を直感的に感じているからかもしれません。早い話、羨ましいのでしょう。過去の同性愛に対する迫害や禁制も、そういった妬みみたいなものがあったのかもしれませんね……。
一つだけ補足しておきましょう。暴走族。これにはレディースと呼ばれる女性の団体もありますね。これは「反抗」なのに同性愛的ではないじゃないか、と思われるかもしれません。しかしよく考えてみてください。エレクトラコンプレックス期の女性においては超自我に「抑圧」されることが「欲望」なのです。となると社会的抑圧に反抗する彼女たちは自らの欲望に反抗していることにもなります。今で言う「ツンデレ」みたいなものでしょうか。しかし、です。彼女たちは、大人の社会ルールではない、男性暴走族たちの固有ルールに従います。彼女たちはそこで欲望に従っているのです。男性にとってのルールとは「一」つのものでなくてはなりません。だから男性暴走族は、自分たちのルールを押し通すために社会的ルールに反抗するわけです。しかし、女性はルールこそが欲望の対象ですから、転移できます。つまり女性にとってのルールとは複数であって構わないのです。彼女たちのそれは「反抗」ではなく、「転移」なのです。女性暴走族の方が女性的であると言えるでしょう。事実、元ヤン女性は大人になると、「妻」や「母」などのような(私などから見ると)模範的な女性へと化しますね。
――そうです。女性は不可避的に象徴的去勢と想像的去勢の承認が両立しにくいのですが、子供を産むことで現実的に「母」と同一化できるのが女性なのです。現実的に同一化できたならば、それは去勢の否認とは言えません。
しかし、私は女性は「母」であるべき、という論を簡単には取りません。ならば子供を産めない、産まない女性はどうなのだ、と。どちらかと言えば私はそちらの立場です。
精神分析では、男性的なるものとは男性性でしかありませんが、女性的なるものには男性性と非男性性が混在している、ということになります。ラカンの悪名高き言葉、「女性は存在しない」ですね。
非男性性とは何か、という問題になりますが、それは「女性性」などと一つの言葉で括れるものではありません。女性性と仮に呼べるものは無限であり開放集合となります。結果集合としての「個」は「無」になるからです。だから、「非男性性」となるわけです。
そういうことで、何が言いたいのか。
――私にもよくわかりません。
とりあえず私の内部の触れてはいけないところに触れた気がしたので、関係していると思えたところを述べてみました。ただ、それだけです。
ラカンは言いました。
「あの素晴らしい女性たち、アンナ・Oやドラなど、昔のヒステリーたちは一体どこに行ってしまったのだろうか?」
とまあ、そんな垂れ流しでした。
まあブログだし垂れ流しちまえー。
ということで。
フロイトによれば、「女性には超自我はない」ということになります。私が言ってるんじゃありません。フロイトが言っているんです。こういったところが精神分析はファロセントリズム(男根中心主義)だと呼ばれる所以です。私だってムッとこなくはありません。笙野頼子さんの小説なんか小気味がいいですね。シモーヌ・ド・ボーヴォワールとかクリステヴァを、あるいはそれにはまる自称知的女性を(ぐさっ)揶揄するキャラがいたり。好きです。まあそれはおいといて。
私は中二病という「症状」(おお、精神分析文脈じゃなくても意味が通じる)は、フェティシスムや同性愛(パラノイア的同性愛を除く)のような想像的去勢を否認し象徴的去勢は承認しているのと逆で、想像的去勢は承認して象徴的去勢は否認している状態、即ち社会に参入する際には誰でも経験する構造だと思っています。暴走族や不良系の古来(って言っても近代以降になるのかしらん。フィリップ・アリエスによると今の子供っていう観念は近代以降のものだから)から見られる伝統的な若者の反抗スタイルの基盤をなす構造と同じです。ちなみにモラトリアムも同様だと思っています。対象aの生成について書いた記事で、モラトリアムは幼児期の抑鬱態勢と似ている、と書きましたが、であるならば暴走族や中二病は妄想分裂態勢に対応するでしょう。モラトリアムの方が来るべき社会への参入に対して抑鬱的な不安を持っている、即ち暴走族や中二病と言った症状から、(社会的に)一歩成長した姿だと言えるかもしれません。社会への反抗という否定性から社会に対する抑鬱的な不安へ、という流れは妄想分裂態勢から抑鬱態勢への移行のトラウマ的反復である、と言えるかもしれません。不良たちは社会の否定性と同一化しようとして、モラトリアムたちは完全なる同一化が果たせないことを悟り、来るべきそれまでの自分との断絶に対し不安になり抑鬱的になってしまうのでしょう。
つまり、むしろ中二病や不良やモラトリアムという症状は、人間誰しも経験して然るべき症状なのです。以前にも書きましたがモラトリアムの若者などに見られる「自我同一性の拡散」という精神状態は、(ひどくならなければ)成長過程においては当然の症状だと私は考えます。社会への反抗、社会への不安という負的な感情は、社会に参入しようという(無意識的にしろ)志向があるから起こるものなのです。逆に「中二病カッコワルイ」という風潮に、私はスキゾ的仮面という超自我に抑圧されている主体を感じます。以前の記事でひきこもりもこのスキゾ的仮面という作法的なものが関係しているのではないか、と書きましたが、ひきこもりだけではなく、現代のいじめの精神的基盤もここにあるんじゃないでしょうか。「熱」や「うざさ」という人間であるならば本来的に持つ印象を超自我が抑圧してしまう、「スタイリッシュ主義」あるいは「クール主義」。そういった「熱」や「うざさ」をターゲットにすることは、宮台真司氏の言葉なら「「場の空気を読めない奴」へのイジメ」と呼応するでしょう。いじめは、スタイリッシュ主義的な(若者のにしろ大人のにしろ)社会へ参入させるイニシエーション的なものと私は考えます。批判すべきはどちらでしょう? 人工的に作られた「スタイリッシュ主義」という作法じゃないでしょうか。
しかしもちろん、その作法は社会的なものでもあるので、それを生み出したのは我々大人であるとも言えます。それをどうにかするとなると、象徴的外部構造の分析操作即ち社会学の範疇となるでしょうから、私はこれ以上言説が繋がりません。宮台氏などといった大人たちを信じるしかできません。
――以上は、「男性的」なる主体を念頭に置いて書かれたものです。
ならば、「女性的」なる主体は、どうなのか。
もちろんここでの男女というものは精神分析的な文脈によります。つまり、ペニスがあるだの子宮があるだのといった解剖学的性差から(関連はあるにしろ)一旦離れた場所での「性差」ということです。
フロイトの言葉を信じるなら、女性には超自我即ち象徴界がありません。しかし言葉は喋れますよね。なのでここは象徴界には参入しているけど象徴的去勢を否認している、という表現が正確になるでしょう。
とまあ、それがタイトルの言葉になったわけですが、この辺を少しだけ考えてみましょう。
男性と女性の精神世界の構造は、象徴的去勢即ちエディプスコンプレックス前後で分岐すると言われています。それについて述べた記事がこちらです。
この記事でも述べているように、女性は男性と比して象徴的去勢が曖昧に進みます。このことは象徴的去勢の否認という現象にも繋がるでしょう。象徴的去勢というイベントに進む根拠が曖昧だから過程も曖昧になる。この曖昧さが女性は象徴的去勢を否認している「ような」印象を持たせてしまうのです。
しかし、女性も曖昧とはいえ象徴界に参入していないわけではありません。
男性はエディプスコンプレックスの終焉により象徴界に参入しますが、女性は象徴界に参入してから父親を愛するエレクトラコンプレックスが始まるのです。象徴界の抑圧は象徴的父、即ち父性的なものです。男性はエディプスコンプレックスを反復する、即ち社会など象徴界を暗喩するものに対し反発することで象徴界的なるものに参入しますが、女性はそれを愛するようにそこに参入します。男性は反発というクッションがあるせいで、女性より社会(象徴界的なるもの)の抑圧に馴染むのが遅くなるでしょう。同い年の少年少女なら少女の方が大人っぽい、という一般的な印象の原因ですね。
では、女性は超自我がない(弱い)、という言葉とは逆じゃないか、と思われるかもしれません。それは、超自我との「関係性」の男女差に起因するものだと思います。
男性は象徴界的なるものに反発してからそれに参入します。個人が社会的なものに打ち勝つのは英雄ぐらいでしょう。個人は社会に反発し敗退します。男性は象徴的父に一度は負けてしまうわけですね。そういった過程で超自我が発達します。言い方は悪いかもしれませんが、超自我の軍門に下る、あるいは「従属」するわけです。これが男性と超自我の関係性です。
一方、女性は象徴的父即ち超自我を愛しています。エレクトラコンプレックスの解消も曖昧に進むので、その影響で超自我に愛されたいと欲望してしまうのです。この愛されたいという欲望は他者の享楽的なものです。女性は欲望に従ってかつ受動的に超自我に取り込まれていくのです。超自我を「受容」するわけですね。これが女性と超自我の関係性と言えるでしょう。
しかし、超自我の役割とは、自我や主体を「抑圧」することです。「従属」という形で超自我に従う男性は、超自我の命令は直接的に「抑圧」となるでしょう。しかし女性は、超自我に命令されること自体を欲望し、受容しているので、「抑圧」という形になりにくいのです。
超自我が「抑圧」するものは「欲望」です。抑圧されること自体が欲望ならば、抑圧する力は表面的には無化しているように見えてしまうでしょう。
超自我の役割を「抑圧」と捉えるなら、確かに女性は「超自我がない」という印象になってしまうでしょう。しかしこれは、超自我の表出が「抑圧」という形で表れない、ということを意味しているのです。
従って、女性は象徴的去勢を承認してはいるが、抑圧はされてい(るように見え)ない、という言い方になるでしょうか。
「中二病」というものを「症状」と捉えるならば、抑圧に反発しているわけですから、抑圧はされてい(るように見え)ない女性は女性である限り「中二病」である、ということにもなります。しかし精神世界の構造を見ると、それは男性の中二病とは違った構造をしているのです。
「抑圧」に視点を置くならば、女性は中二病的と言えるでしょうし、内的構造に視点を置くならば、女性は中二病的ではない、ということになるのです。
では、女性の象徴的去勢の否認はどういった症状を示すのでしょう。
それは女性同性愛となります。愛する象徴的父に幻滅し、女性を愛するというアクティングアウトを示すのが女性同性愛です。女性ならば誰しも覚えがあるのではないでしょうか。学生時代、そういった同性愛的なものに惹かれた時期があるのを。
しかしここで疑問が湧きます。
ヒステリーと女性同性愛について書いた記事では、女性同性愛とは想像的去勢の否認であり象徴的去勢は承認している、と書いてあります。去勢の承認の構造が逆になっていますね。
男性同性愛を少し考えて見ましょう。男性同性愛は、パラノイア的同性愛即ち想像的去勢、象徴的去勢双方否認している状態と、想像的去勢は否認して象徴的去勢は承認しているという非男性化的同性愛があります。想像的去勢を否認することで想像的ファリックマザーと同一化します。ここで留まればパラノイア的症状に向かうことはありません。ローゼンフェルトの言葉なら「(男性)同性愛はパラノイアの防衛である」となります。
しかし女性はどうでしょう? 女性も想像的同一化しようとする対象は「母」です。男性と違って同性なのですね。象徴的去勢の承認とは、自らの「性の記号」を受け入れることでもあります。即ち、男という言葉、女という言葉に属することです。となると、女性の象徴的去勢の承認は、想像的去勢の否認を促進することになります。女性にとっては象徴的去勢と想像的去勢は密接に繋がっているものだと言えるでしょう。逆に言うなら、象徴的去勢の否認は想像的去勢の承認とシンクロしている、という表現になるでしょうか。
従って、学生時代の女性同性愛、ここでは青年性女性同性愛とでも言いましょうか、それはパラノイア的な精神世界の構造と類似したものになっているのではないか、と考えられます。男性ならば、想像的去勢の承認と象徴的去勢の承認が一つのコース上に段階的に存在しますが、女性の成長過程においては、それらの否認が交錯的に生じる傾向があるのではないだろうか、ということです。
しかしパラノイアの症状が表れるには拒絶、即ち現実的去勢の否認も経なければなりません。そもそも青年期のモラトリアムや反抗態度は、象徴的去勢の否認というよりも、否認から承認への過程と言った意味もあります。パラノイアの「絶対的に自分が正しい」「宇宙人に狙われている」「神を見た」などといった言説に象徴される象徴的ファルスとの同一化とは度合いが違うように思います。ベクトルは確かに否認の方を向いていますが、それは来るべき承認への緩衝材のようなものなのです。つまり、青年期における中二病やモラトリアムや青年性女性同性愛は一過性のものだということです。
女性同性愛においては、「パラノイア的な青年性同性愛を経て非男性化的同性愛に向かう」となるでしょうか。女性の青年期における「反抗」は必然的にパラノイアに類似した精神性に近しくなってしまうのです。それはアイドルのおっかけやオタク文化の押しかけ厨には女性が多いということなどにも関連しているでしょう。
「スタイリッシュ主義」は「うざいもの」アレルギーとも言えます。潔癖症のような印象です。それは他者との同一化に恋焦がれるパラノイア的言動へのアレルギーとも言えるでしょう。ラカンは「人格とはパラノイアである」というようなことまで言っています。そういった「人間臭さ」を、ルールやシステムを偏重することで抑圧する、それが「スタイリッシュ主義」だと思います。宮台氏が言う「ギャルが受けている<システム>を生きる痛み」。それは、女性は不可避的にパラノイア的言動になってしまうにも関わらず、スタイリッシュ主義による抑圧を受けてしまうことが原因なのではないでしょうか。
憎悪と愛情は表裏一体です。それを憎悪すればするほどそれに取り込まれてしまいます。憎悪しているものと同一化してしまうのですね。これを端的に表しているのが境界性人格障害の症状です。パラノイア的なるものをアレルギー的に拒否する身振りが大きくなればなるほど、彼ら自身パラノイア的なるものになっていくでしょう。深淵は、覗き返してくるのです。
私がこの記事で述べているのは、青年期以降の「定着した」女性同性愛のことです。彼女たちは、男性同性愛においては「パラノイアの防衛」となる非男性化的即ち母化的同性愛なわけです。
彼ら彼女たちは、同性愛を選択することで欲望の原因の領域にある「母と子の関係」を手に入れた、とも言えるでしょう。
私のようなヘテロが同性愛者たちに視線を向けてしまうのは、そういった関係性を直感的に感じているからかもしれません。早い話、羨ましいのでしょう。過去の同性愛に対する迫害や禁制も、そういった妬みみたいなものがあったのかもしれませんね……。
一つだけ補足しておきましょう。暴走族。これにはレディースと呼ばれる女性の団体もありますね。これは「反抗」なのに同性愛的ではないじゃないか、と思われるかもしれません。しかしよく考えてみてください。エレクトラコンプレックス期の女性においては超自我に「抑圧」されることが「欲望」なのです。となると社会的抑圧に反抗する彼女たちは自らの欲望に反抗していることにもなります。今で言う「ツンデレ」みたいなものでしょうか。しかし、です。彼女たちは、大人の社会ルールではない、男性暴走族たちの固有ルールに従います。彼女たちはそこで欲望に従っているのです。男性にとってのルールとは「一」つのものでなくてはなりません。だから男性暴走族は、自分たちのルールを押し通すために社会的ルールに反抗するわけです。しかし、女性はルールこそが欲望の対象ですから、転移できます。つまり女性にとってのルールとは複数であって構わないのです。彼女たちのそれは「反抗」ではなく、「転移」なのです。女性暴走族の方が女性的であると言えるでしょう。事実、元ヤン女性は大人になると、「妻」や「母」などのような(私などから見ると)模範的な女性へと化しますね。
――そうです。女性は不可避的に象徴的去勢と想像的去勢の承認が両立しにくいのですが、子供を産むことで現実的に「母」と同一化できるのが女性なのです。現実的に同一化できたならば、それは去勢の否認とは言えません。
しかし、私は女性は「母」であるべき、という論を簡単には取りません。ならば子供を産めない、産まない女性はどうなのだ、と。どちらかと言えば私はそちらの立場です。
精神分析では、男性的なるものとは男性性でしかありませんが、女性的なるものには男性性と非男性性が混在している、ということになります。ラカンの悪名高き言葉、「女性は存在しない」ですね。
非男性性とは何か、という問題になりますが、それは「女性性」などと一つの言葉で括れるものではありません。女性性と仮に呼べるものは無限であり開放集合となります。結果集合としての「個」は「無」になるからです。だから、「非男性性」となるわけです。
そういうことで、何が言いたいのか。
――私にもよくわかりません。
とりあえず私の内部の触れてはいけないところに触れた気がしたので、関係していると思えたところを述べてみました。ただ、それだけです。
ラカンは言いました。
「あの素晴らしい女性たち、アンナ・Oやドラなど、昔のヒステリーたちは一体どこに行ってしまったのだろうか?」
とまあ、そんな垂れ流しでした。
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