愛憎は、とても簡単に反転する。
理由や原因やきっかけは、物語ならば、わかりやすくするため書かれてあることが多いが、実際はそんなものいらない。
感情に理由はいらない。
言葉を覚えてしまった大人は、その感情に対して、「事後的」に理由や原因やきっかけをつけて、安心する。犯罪の動機みたいなものだ。
言葉で指定できる何かがあって感情が動くのではない。
人間という機械が、呼吸をするように、血液を流すように、食物を消化するように、不随意筋を動かすように、感情は動く。
だから、意識で感情は御せない。論理で感情は押さえつけられない。
押さえつけられなくもない。意識で感情は御せられる。確かにそう思えることはある。役者の演技なんかはそういったものに近いだろう。
しかし違うのだ。
そもそも例えば愛憎というものは、根っこは同じものなのである。根っこにあるエネルギーが自我や超自我などで変換されて愛か憎になるだけのことである。超自我というくらいだから、この変換作業をするのは意識だけではなく、無意識も介入する。
わたしはそんな、感情のアウトプットとしての形を問うているのではない。
その根っこにある形になっていない、変換機械にインプットされるエネルギーを問題にしているのだ。
自我は変換機械の一部であるわけだから、意識が感情を御すことが可能だともいえるだろう。別にそんなことはそれでもいい。
問題は、その原料であるエネルギーが、言葉や言葉で指定できる何かによって左右されるのか、である。
食物の消化を考えれば、食物が胃や腸に送り込まれたという信号を受け取って消化液を分泌する。
そうであるならば、刺激がエネルギーの発生に関わることだって大いにありうる。
この刺激が言葉や言葉で指定されるものというのはすんなり頷ける話だ。
しかしもう少し考えてみよう。
エネルギーは変換機械を通して愛や憎しみといった形に変換される。
それならば、意識で受け取った言葉や言葉が意味するものという刺激が、そのままエネルギー発生領域に届くとは思えない。
エネルギーが感情の形を作るのとは逆方向の、自我や超自我といった変換機械を逆流する方向での、刺激であるのだ。
人を感動させる表現者は、この機械の逆方向の過程を予測しなければならない。
この機械は何も特別なものではない。この機械は、多少の違いはあれど、去勢を通過した人間なら誰しも持っているものである。
なので、他人を感動させるには、自分のこの機械を逆流することが一つの条件となる。
自我や超自我を逆流する作業。
それは自分を「掘り下げる」とかそんな言葉が適当だろうか。
ところで、この自我や超自我がうまく機能しないのが、神経症やパラノイアといった精神疾患でもある。
したがって、表現者あるいは受取手あるいは表現作品そのものの向かうべき領域は、狂気の領域と重なる。
しかし、表現者は狂人であるべきという話ではない。
なぜなら、人を感動させるために、形になってないエネルギーが感動の様々な形をとる変換システムを知るために、その変換機械を逆流することが目的だからである。
狂気の領域へと逆流する運動が大事なのであって、狂人の表現作品が到達点であるということではない。例えば文芸なら、狂人の書いたテクストが文芸が目指す結果である、というわけではない。精神疾患を患ったからといって、良い文芸作品が書けるというわけではない。
人を感動させるためには、狂気が大事なのではない。自我や超自我を逆流する運動が大事なのだ。