ずうっと前の記事だが、今の日本の社会は、学校教育を中心とした母性原理と、資本主義的な父性原理が、あたかもヘドロの詰まったカプセルのように、母性が内的になって父性が外的になってしまっていると書いた(母性原理=ヘドロとしたのはわざとです。クリステヴァのアブジェクシオン論を意識してます)。
この論って、実は故河合隼雄先生の「日本文化の母性原理的傾向」や「中空構造」とリンクしまくってるんですね。つーか今読むと完全パクリに見える。
この時にちらりとユング論に触れているし、言い訳のように聞こえてしまうが、意識して書いてなかったのですよ……。マジデ。
いや言い訳のために記事を書こうと思ったわけじゃない。
トラバを頂いたこちらのブログで面白い記事があったので、記事数稼ぎがてら垂れ流してみようと思ったのだ。
どーせ断片的な思考しかできないんだから断片のまま垂れ流しちゃえってことです。便秘の時とか兎のそれみたいなのしか出てこないじゃない? ああいう感じの文章として書いてみようかと。
さっそく引用しよう。
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(1) まず全体を把握してから、全体を分割していって、部分を把握するやり方
(2) まず部分を把握してから、部分と部分とを結合して、全体を合成するやり方
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中沢新一氏のバイロジック論からの文脈にある文章だが、(1)は「切断」的であり、(2)は「包含」的である。そう、つまりこの対立軸は、河合論の父性原理と母性原理の対立軸と言い換えても良さそうである。(1)=父性原理、(2)=母性原理ということだ。
河合論によると、日本社会は(西洋文化と比して)母性原理主義的であるとなるのだから、(2)の思考様式が(西洋文化と比して)多数となろう、ということは予測できる。
個人的に中沢氏の論は、ラカン論を引用するとき(『愛と経済のロゴス』等)、現実界を、命の源的な、ゼルダの伝説の回復の泉的な、「とても美しいもの」として捉えているのがどうも気に入らない。ラカンは現実界について「命のしかめっ面」と呼んでいる。現実界とは、おぞましいもの・汚らしいもの=アブジェクシオンであるなどと短絡的なことは言わないが、中沢論は、ユング論で言うグレートマザーの負の側面であるテリブルマザー的なものを意識的にか無意識的にか「排除」してしまっている。クリステヴァの著作を翻訳している中沢氏のことだから、恐らくこれは意識的かつ戦略的にやってるのだろう。プロテスタントの聖霊偏重主義と言語偏重主義(合わせて言霊偏重主義と言い換えると非常にしっくりきて自分で驚いた)を、マルクス論を経由し資本主義に結びつけ、現代の「シニフィアンの無限再生・増殖」を『緑の資本論』で批判してはいるが、これは現実界の負の側面を表しているとは言えないだろう。その時点でそれは現実界ではなくなる。現実界においては正も負もないのだから。
端的に言うと、中沢論は、「男の前ではキタナイ素顔を見せるな」という言外のファロセントリズムがわたしには感じられる、ということだ。最近何故かフェミ的思考様式になっているので、こういうことを書いてしまったが、もっとわかりにくい比喩を用いるなら、彼の論からはイマジンを唄うジョン・レノンを一歩引いて見たときに感じるような胡散臭さ、キモさを感じてしまうのだ。
まあ印象論はともかくとして。
母性原理と父性原理は超自我としての無意識をも支配している。ラカン論では「無意識とは言語的に構造化されている」となるが、もっとも原初的な構造化=ニ分化=切断の一つとして、この父性原理と母性原理というのがあるのかもしれない。
そうなると、無意識にバイロジックの可能性を見て取っている先のブログと相反してしまう。
確かに中沢氏は「ポケモンは対象aである」などと言っているらしく(斎藤環氏著『生き延びるためのラカン』より)、不勉強なわたしでさえ苦笑せざるを得ない論を展開する人だ(わたしの論ならば、
「アニメキャラを対象aと言ってしまうオタクは既にアニメの世界を生きている」に当たるだろう)。
これらのことから、中沢氏の論にはどうしても、ジョン・レノンよろしく「想像してごらん。無意識では、母性原理も父性原理も一つになるだろう」みたいな胡散臭さを感じてしまうのだが、「だが」である。
わたしはどうもだめんずうぉーかーのケがあるらしい。
ちょっと前なら、「だめんずうぉーかーじゃんそれw」などと言われるとムキになって否認していたが、苦虫を噛み潰すがごとく、最近ようやく承認でき始めた。
そんなことはどうでもいいのだ。
要するに、わたしという人格は、イマジンを唄うジョン・レノンを一歩引いて見た時に受ける、胡散臭さやキモさが好きな人らしい、ということだ。
ここでは、この記事に限っては、そういう風な「仮説」を採用しよう。
そんな「仮説」を採用するならば、わたしは中沢論に対して好意的になってしまう。
胡散臭いから、キモいからこそ、「想像してごらん。無意識では、母性原理も父性原理も一つになるだろう」論に拠って述べていこうと思う。
いや、好きか嫌いかなら、好きなのだ。中沢氏。ロジックは別にして。
断っておくが、先のブログを読めばわかるように、ブログ主は「母性原理と父性原理が一つになる」などと言っていない。
あくまで両方の原理が並立的に共存できる概念としての「バイロジック」を述べている。
父性原理=「切断」的原理、母性原理=「包含」的原理である。「包含」とは、包んでまとめて一つのものにすることだから、「統合」と言ってもよかろう。
これらの発生は、人格形成史のどの時点において生じるのだろう。
それは鏡像段階だと思われる。決定的かつ悲劇的な断絶を経験すると同時に、自分という「個」が統合される瞬間。悲劇たる「切断」と享楽たる「統合」を同時に体験するこの瞬間。このときに父性原理、母性原理なるものが芽生えているのだろう。むしろ、このときの経験が反復強制的に作用して、人間の思考様式の傾向として父性原理と母性原理なる対立的な原理が生じている、とも言える。
ではこれ以前の幼児の精神世界はどうであろうか。
この記事に詳述してあるが、クライン論によれば「妄想分裂態勢」「抑鬱態勢」となるだろう。
ラカン論であるならば、象徴界に参入済みである大人のわたしたち視点からいうと、それは/Sであり、現実界である、となろう。
無意識とは超自我であり、言語構造であるから、既に切断が生じており、(超自我としての)無意識とは父性原理的なものとなり、無意識だからと言ってもバイロジックは成立しない、と先に書いたが、舞台に現実界を加えると論は成り立つ。
理屈は適当にこういうことにしておこう。正直ラカン理論はそれに重心おきすぎると読まれないことが多いし、説明する方も苦労してしまう。
では現実界、あるいは/Sとは、一体なんなのだろう。
フロイトの言う「子供時代は、そのものとしては、もうない」の、「もうない」主体である。「もうない」からエスに斜線が引いてあるのだ(本来はSの上に斜線が乗っかる。フォントがないのでこう書く)。夢に現れるなら、それは黒い野菜などの形を取るのだろうか。
ともかく、だ。精神病の妄想などは、この現実界から「主体の恣意によらず」舞い戻ってくる。予測不可能的なのだ。
であるならば、バイロジックは現実界で成り立ちそうだから、現実界を利用しようぜ、という手法は成り立たない。そもそも到達不可能な領域が現実界なのだ。
到達不可能性については、このブログで何度も述べているがしつこく補足しておこう。要は、わたしたちが思っている現実は幻想と明確な区別はつけられないのだ。何故なら、わたしたちが思っている現実は、視覚や聴覚や触覚の刺激を受け取る器官を通じ、その信号を神経が伝達し、脳で処理しているものだ。その信号だけで現実と幻想の区別がつくであろうか。どういう経路にしろ信号として処理している時点で、わたしたちが思っている現実は幻想と論理的に区別がつかない。わたしたちが思っている現実の根拠は、現象学でいう「妥当」的な「エポケー」の領域にしかなく、ある意味、思い込みにしか過ぎないのだ。本当の現実とは、信号によらないで受け取る現実となるわけだが、そんなことは現実的に不可能だ。だから、現実界は到達不可能であるとなる。
ということで、多数派の一般人にとってみれば、現実界を利用してバイロジックを成立させるのは不可能そうだ。
先にも書いたように、精神病の症状は現実界からの舞い戻りであるので、先のブログの論のように、現実界に近い立ち位置にいる自閉症者や統合失調症者なら可能なように思える。しかし彼らに生じるのは症状であり、アクティングアウトだ。比喩的に言うなら、蕁麻疹の発作のような、(精神世界を根拠にしてはいるが)身体的なものなのである。意識的に制御できない「症状」を、言語的あるいは理論的に整除し直すのは相当の苦労が必要であろう。症状そのものの苦痛の上にそういう苦労もあると思われる。
とはいえ、多数派の人間から見れば、やはりこれは彼らに特権的な能力だとは言えると思う。先のブログ主の言葉なら、
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大昔には、自閉症者はシャーマン候補生として普通の子とは別に育てられた。…なーんてことも、あったかもしれないね。
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ということになるだろう。
余談になるが、この特権は自閉症または精神病にだけあるものでもなさそうだ。
ラカン論における「ヒステリー者の語らい」によると、語らいの能動者として/Sが設置されている。現実界からの言葉を仮に「生の言葉」と言うならば、ヒステリー者も、シャーマンのような「生の言葉」を喋っているのだろう。
言葉に限らなければ、神経症の症状も現実界の舞い戻りとなるが、彼らにおいては「父の名」という「無」は存在しており、それが反転してファルスとなり、全てのシンボルに隠喩作用を及ぼしていることから、言葉としては生の言葉とはならないだろう。
ヒステリーとは、性的トラウマ(事実かどうかは関係ない)が「脱性化された性器とエロス化する身体」という形で症状化されるのだが、現実界の舞い戻り場所(反復先)が身体表層的なのがヒステリーである(舞い戻り場所が外的対象なのが恐怖症であり内的対象だと強迫症となる)、と言えるだろう。ここで、ヒステリー者のアクティングアウトとして言語活動が生じた場合を考えるならば、その言語は現実界の舞い戻り、即ち「生の言葉」となっているのではないだろうか。代理表象できない現実界を代弁する、それがシャーマンの仕事だったのかもしれない。確かに憑依状態などは今では解離性障害と診断される。
「生の言葉」が「キモイ」「ウザイ」と敬遠されるクール主義的な現代においては、まさにシャーマンが必要とされているのではないだろうか。
ではバイロジックとは、自閉症でも統合失調症でもヒステリーでもない多数派の人間にとって、机上の理想論だろうか。
ここからを理屈で言うのは正直言ってためらわれる。それこそ中沢論のようになってしまいそうだ。
なので、あくまで勘のようなものとして文章を垂れ流しておく。
象徴界から現実界への接近は、ファルス的享楽でしか行われないのか。ここでいうファルス的享楽とは、名付けることによって「物自体」が消滅してしまう、(本人にとっても対象にとっても)暴力的なものだ。自分が求める真実に近づこうと象徴化すると、真実そのものが失われてしまう。真実を把握するには象徴化以外の道はない。この象徴化は父性原理的=切断である。区切りをつけることで把握が可能になるが、同時に区切りは切断を意味する。
では象徴界から現実界への接近はファルス的享楽以外の接近法はないのだろうか。
ここで、サントームという概念を持ち出したい。
サントームにおいて重要となるのはS(/A)(大文字の他者の欠如としてのシニフィアン)である。欠如とあるようにこれは「無」的なものである。
こちらの記事に書いてあるクリステヴァの「想像的父」や「アガペー」に通じるものかもしれない。わたしの論としては
この記事で「無為の為」という言葉を切り口にしている。
サントームとは、対象aの周りを、フェティシストがするように立ち止まるのではなく、生の欲動、死の欲動という逆方向のベクトルによってくるくる回ることで、「工夫」することで近づくことができ、またその行為そのものにより生成されるものである。螺旋状に高みに上るというイメージで考えるなら、ヘーゲル哲学的なものが連想できる。
生成物としてのサントームは第四の輪と表現される。象徴界、想像界、現実界の三次元がばらばらになることを、第四の輪が偽の輪を作ることで阻止する。
ラカンはサントームの例として作家のジェイムズ・ジョイスについて論じている。ベケットはジョイスの作品について、「氏の文章は何かについて書いたものではなく、その何かそのものである」と述べている。これはまさに「生の言葉」即ち現実界「的」な表現と言えないだろうか。
つまり、象徴界から現実界への接近法として、サントーム的なやり方があるのではないだろうか、また、これを通じてバイロジックなるものが生じるのではないだろうか、ということである。父性原理主義でもバイロジックが生ずる可能性、みたいなものだろうか。
と、ここまで述べておいてあれだが、バイロジックの片割れである対称性原理とは、実は一般のわたしたちでも普通に経験する(事後的に意識化される)ことだと思う。
短絡的に結びつけることはできないが、対称性原理とはクライン論の投影同一化によって成り立っているのではないか、ということである。「わたし」(の一部)を対象に投げつけることで同一化する。これにより、「pならばq」から「qならばp」を推測して「しまう」対称性が生じるのではないだろうか。
投影同一化を手がかりにするなら、ラカンの鏡像段階やスターンの間主観的自己感の形成期、即ち生後半年ぐらいには、既に対称性原理を手にしているだろう、と推測できる。わたしの論ではこの段階は「断片の世界」から「個の世界」の移行となる。個の世界で幼児は、母という個と「情動的に」同一化しようとする。具体的に言うならば、母あるいは養育者の情動を物真似するのだ。まるで鏡像段階による断絶を埋め合わせるかのように。現実界的な「妄想分裂態勢」期の名残としてのこの「切断の埋め合わせ」が、投影同一化という心的状態あるいは幻想を「引きずってしまい」、対称性原理という「無意識の思考様式」が形成されるのではないだろうか(そもそもスターン論では、間主観的自己感以前の中核自己感や新生自己感にしろ、それらは層状に積み重なるもので、成人後も残っているとなる)。
この後幼児は、ラカンなら象徴界への「本格的な」参入(鏡像段階で既に象徴的ファルスは手にしている)、スターンなら言語的自己感の形成期を迎える。投影的な同一化は言語によって代理表象することが可能になる。あるいは間主観的自己感を利用して情動的な物真似で代理可能である。投影同一化しなくても情動や言語で表現できてしまうのだ。
コミュニケーションの際、投影同一化的な言動が多く見られる人は、間主観的自己感の形成不全があるのではないか、と推測できる。わかりやすく言えば、間主観的自己感による情動的な物真似、即ち「空気を読む」能力が一般より劣っている、ということである。ただし、ここでの「優劣」は、乳児期の発達過程ベクトルにおけるものである。このベクトルを直線的に成人後にも延長する思考様式が、近代的自我主義なるものだろう。この「空気を読む」能力を根拠に他人に優劣(好き嫌いでも可)をつけたがる人間は、言語的自己感に固着している、即ちエディプスコンプレックスに固着していると言える。フロイト派がエディプスコンプレックスを論の主軸にしたのは、それなりの理由があったと理解できるだろう。
要するに、対称性原理を生きることは、言語を覚えた大人から見ると「退行」と思われることになる、ということだ。「退行」という言葉に感情的になられても困るので付言するならば、ユング論においてはこの退行が創造力の要件である、となる。間主観的自己感を形成し、言語的自己感を形成した一般人から見ると、この投影同一化は自分を根拠づける間主観的自己感なり言語的自己感を揺り動かし脅かすものである。揺り動かされ脅かされるからこそ、新たな創造が生じるのだが。
ともかく、間主観的自己感や言語的自己感の形成期を通常に通過した一般人から見ると、投影同一化的傾向がある人は、幼児的に思われると同時に畏れられてしまう、ということである。アンビバレントな感情を引き起こす対象となることが多いのだ。結果、一般人から見ると、そういう人たちは不快に思われてしまうことが多くなるわけだ。
また、鏡像段階以前の自己への退行と言うならば、鏡像段階が最初のファルス的享楽なので、先に述べた論とも繋がるかもしれない。投影同一化的な心情を振り回す人の言説は、破壊的、暴力的に見られることもありえるだろう(本人にとっても暴力的なのだが。諸刃の剣のようなものである)。
この投影的な同一化は普通の大人にも見られるし、境界例の症状としても浮かび上がることである。日常の世界でも経験ある人は多いだろう。自分とは全く関係のない(と思っている)ミスの責任を投げつけられ、自分には理解できない、不本意な批判に晒されたりすることを。こういう時わたしたちは相手の人間を「不快」に思う。日本の集団における「連帯責任」は対称的であり、投影同一化的である。父性原理的な立場から見ると、それは「責任のなすりつけ合い」即ち責任の所在を曖昧にしてしまっていると捉えられる。これは、父性原理的な者にとっては、「不快」なこととなる。
そもそも投影同一化とは、むしろ不快や悪意を誘引するものである。クライン論で言うならば、「悪い乳房」を取り込んでしまうのが投影同一化なのだ。
バイロジックが何故一般人の意識上では成立しにくいのか、そういうことも考える必要があるだろう。
まとめよう。対称性原理とは、アクティングアウトとして捉えるならば、決して「きれい」なものではないと、わたしは思うのだ。
こちらの記事では比喩ではあるが、対称性原理を「うんこ」とわたしは表現している。また、「対称性人類学」を提唱している中沢氏の言う「対称性」も、マテ‐ブランコの分裂病の研究から拝借したものである。分裂病と言えば「プレコックス感」である。言語化できない「不快」な感じ。
だからと言って、対称性原理やバイロジックの研究を批判するわけではない(
こちらの中野昌宏氏の研究も近いものだろう)。むしろ現代において重要な概念であることは中沢氏や中野氏に同意する。
しかし、無意識の原理も大事だが、意識の論理も大事だと思うのだ。
この意識主義は近代的自我主義として、わたしも批判するところはある。だが同時に、曖昧さを不快に思ってしまうことや、自我が人間らしさを自己規定することも認識しておかなければならない、とわたしは考える。
TPOで対称性原理を用いればいいじゃないか、という反論があるかもしれないが、意識化できないから「無意識の思考」となっていることを忘れてはならない。
――うーん、まあ、学術的になるとどうしてもパトス的なものが落ちてしまって、それはそれでいいんだけど、それに勝手に短絡化や浄化を施して「信仰」してしまう人が多いから、一言言いたかった、という記事かしらん、と他人事のように言っておこう。
あ、あと
先のブログで、わたしの記事における「死の欲動」について指摘を頂いてますが、イヤーなところを突かれたなあ、と。死の欲動って言葉は、提唱者のフロイトも「思弁である」ことを強調してますし、とても使い辛いのですね。わたしは言葉って再生産されてこそと思ってますので(誤解を気にせず)がんがん使ってますが。
この記事に書いてあるように、生後間もなくの赤ちゃんにとっては、フロイトの言う「憎しみが愛に先んずる」的な「死の欲動」が、「生きる」という欲動になっていると思うのです。これが反転するのは、「自己」という一生背負わなければならない世界との「断絶」が発生するためである、というアウトラインで考えてます。記事を引用すると、
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つまり、赤ん坊にとっては否定性を帯びる「死の欲動」こそが「生への欲動」なのだ。
この赤ん坊にとっての「生への欲動」である「否定性」が、大人の視点で言う「死の欲動」に反転するのは、鏡像段階以降である。フロイトが一歳六ヶ月の幼児を観察して見出した「糸車遊び」がその象徴となるだろう。
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ということでしょうか。
ざっくり説明しますと、胎児の世界においては、世界と自分は同一的であり、出産直後の赤ちゃんはそういう世界と同一化するやり方でしか生きられない、ということです。しかし生まれ落ちた世界は胎内の世界と全く違います。この世のほとんど全てのもの(感覚や刺激と言い換えてもいいでしょう)が胎内の世界を「否定」するものになります。しかし赤ちゃんはその否定性とも同一化しようとします。そういうやり方でしか生きられないから。だから、クラインの言う「悪い乳房」とも同一化(取り込み)してしまうわけですね。やがて赤ちゃんは鏡像段階あるいは間主観的自己感の形成により、自己と世界の間に「決定的な断絶」を経験します。自己と世界との関わり方が大きく変わるのですね。言語を(本格的に)習得することもそれに追い討ちをかけます。これにより、赤ちゃんにとっての「生きるやり方」は、「大人視点で言う」死の欲動に反転する、とわたしは考えています。
では、逆に「大人視点での」生の欲動って何? ということになりますが、ごく単純に言うならば、シニフィアン(言語などの代理表象)で構成された幻想を生きること、となります。このブログでも何度も言っていますが、わたしたちが現実だと思っている世界は言語的な虚構の世界であり、そういう意味では虚構と現実の区別は明確につけられない、ということです。では本当の現実とは、となると、それは到達不可能な現実界である、ということになります。先の記事から引用しましょう。
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「現実界」について少し説明しておこう。人間というシステムは、器官を通してしか物事を認知できない。器官が刺激を受けその信号を脳で処理して初めてそれを認知できる。そうやって脳で再構成された世界と妄想の区別なんてつけられないのだ。器官や脳を経ないで刺激を発する世界、即ち「本当の現実」を認知するには、器官のない身体でないと認知できない。しかしそれは矛盾となる。従って、「本当の現実」=「現実界」は到達不可能な世界であることがわかる。言葉という象徴的思考の道具もなく、器官が未発達な生まれたばかりの赤ん坊にとっての世界が、現実界に近似しているということがわかるだろう。
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――まあ要するに、わたしの言う死の欲動は、ブログ主さんの言う「野生」と似たようなものじゃないかなあ、と自分勝手に解釈してたりしてます。
ああ、
風魔の小次郎おもれえなあ……。
麗羅くんはやく出てこーい。
(本文とは関係ありません)
げ、有閑倶楽部も実写化だあ? 主人公ミロク? えええ。
国生がやってたのは見た記憶だけあるけど中身覚えてないやー。
オカルトやってくれんかなあ……。あと飲み込んだカプセル出させるために下剤飲ます話も。
(本文とはry)