ってコピペ昔あったよね。
リアルで目の当たりにするとは思わなかったのでヲチ仲間で大笑いした。
コメント欄の肋骨がーとかってとこ。まあ2ちゃんねらも心理カウンセラーもかわらんってことじゃね。
ジンルイミナキョーダイ。
後の方にもあるけど、なんでここの人って、自分のことを指摘されると「ボクの知り合いの方がスゴインダジョー」みたいなことを言いたがるのだろう?
ま、どーでもいいや。
どーでもいいとか言いつつ思考を走らせてみる。
個人はともかく、この一連のコメントを見て思ったのは、指摘された反論としての「お前はどうなんだ」というもの。わかるんだよね。気持ちは。精神分析は「完璧じゃない、理想的じゃない」人間を解析するもので、解析する側(観察者)も「完璧じゃない、理想的じゃない」人間である、という前提から始まっている。少なくともラカン論は。
なので、「あなたという個人を精神分析的な文脈で指摘するとこうですよ」という言葉に、「じゃああなたはどうなんだ」という反論するのは無意味である、となる。前提を振り回されても、ということだ。
よく精神分析的文脈で批評すると、「自分を精神分析しろ」という反応が帰ってくるが、人間の背中を解釈する道具が精神分析理論なのであり、分析者だって自分の背中は自分で見えないのだ。
また、そもそも会話というものが、「自分と同じ『人間』である」という想像的な領域から成り立つものである。他我と現実的な他人の間にある絶対的な断絶があるからこそ、人はそこを繋げようとする。つまり、精神分析に限らず、会話そのものが(比喩的連鎖の)前提的に「現実的な自分や断絶を一時的に棚上げしてしまう」「想像的に自分と相手を、境界例のそれのように混淆してしまう」ものなのである。コミュニケーションは、無意識的な領域を含めるとどうしても情動の同一化や
「対称性の原理」を伴ってしまう。「知り合いのスーパーハッカーが」的な言説も、自分と知り合いを対称的に混淆、同一化して語っているわけである。だから、知り合いの話が反論として形成されてしまうのだ。とかって方向で思考を進めていくとデリダのエクリチュール論になってしまいそうなので、極端な表現であることは認識しておく。
しかしこのことは、ラカンの言う、分析家は孤独じゃないと機能しないが、集団がなければ生きられないという矛盾、自らの集団に慎重でなければならないという論に繋がることでもあろう。
従って、コメントの中にある、わたしの言葉について「「言葉はうんこに過ぎない」の伏線も張」ることによって、負けを回避していると指摘する文章は、あながち間違っていない。彼の言葉を借りるならば、人間は純粋な言葉(「はじめに言葉ありき」の言葉)に対して、肉体を持っている限り負けざるを得ないのだ。
ここでの負けは、穢れや不浄と同値と思ってよいだろう。クリステヴァのアブジェクシオン論に依拠するならば、「浄/不浄」が「勝ち/負け」に隠喩されているのである。たとえばカースト制度などは、社会的階級という権力的な「勝ち/負け」の区分が彼らの「浄/不浄」の区分を定義する倫理観と密接に連関している。肉体的想像的な、パトス的な不浄を浄化するのが言葉であり、抑圧としての超自我である。
この辺りはクリステヴァの「供犠から禁忌へ」論が明るい。供犠というイメージ的なものから、言語的な拘束としての禁忌へ。これは哲学がロゴスと対立するものとしてパトスを排除してきたことと重なる。
わたしは、このブログで「わたしは糞便である」や「わたしは言葉フェチである」と既に言明している。このブログ主である「わたし」をもって語る限り、「お前は糞便だ」「お前はフェティシストだ」と指摘されても、「わたしの『キャラ』をわかってくれている」と思える。しかし、自分が自己への問いかけの中で見つけられなかったことを指摘されると、わたしは否認するだろう。
なので、彼らが、「あなたたちってこうじゃね?」という言葉に対して否認する気持ちもよくわかる。
こう書くと精神分析がもっとも嫌われる理由の一因である「それは否認であって、図星だから否定しているのですよ」という言説になってしまいそうだが、確かに言われたらむかつく言葉であるけども、間違ってはいない言説だとも思える。明らかに間違っている、あるいは正しいと認識している言葉に対しては、人は鈍感になるものである。コメディや漫才などの笑いのシステムがそうである。明らかに間違っている、ずらされている言葉だから、行為主体(たとえばバナナの皮で滑って転んだ人)にとっては悲劇的な出来事が笑えるのである。自分の見えない背中を指摘されるから、否認してしまうわけだ。
んー、まあ要は、否定したがっている時点で感情的=パトス=不浄=負けってことかな。もちろん「負け」というのはパトスの排除というルールを前提とした学術的(あるいは哲学的)なフィールドに限るけども。「おまえはどうなのだ」という反論や、勝ち負けに拘って「しまう」心理は、構造として自らのうんこを他人に投げつけているものである。いくら論理ぶっても構造は対称性による境界例の言説と変わりはしない。うんこの投げ合い楽しいけど。バフチンのカーニバル論とかディアロジスムやね。とは言ってもやっぱりうんこは不快なものだから、否認してしまう。いや、クリステヴァ論なら棄却になるのか。
2ちゃん的に言うと、「煽り耐性」や「スルースキル」ってことになろうが、先に挙げたようなこんな心理カウンセラーにかかるくらいなら、よっぽど2ちゃんの方がましな気がしてきたのは言ってはいけないことかもしれない。まあわたしは「煽り煽られが楽しいんじゃん」と思っている人だけど。
好意的に捉えるならば、他人の心をどうこうするのには慣れているけども、自分が弄ばれるのには慣れていないのが心理カウンセラーという部族である、と言えるかもしれない。まあ心理学や精神分析やってると、環境的に他人から自分の心をどうこうされるっていうことが少なくなるってのはわかるけどね。どうこうして欲しい人が圧倒的に多く周りに集まるわけだから。いや、それこそ精神分析の文脈では「会話とは前提として心を指摘され合うもの」なわけだから(意識上でそういうつもりはなくても)、他人から「あなたってこうじゃね?」みたいなことを言われ慣れていない状態になるのだろう。学問という家に守られた箱入り娘みたいなイメージ。そうならば、教育分析なりカウンセリングされる側っていうのは実習としてあるのだろうけど、全然ダメじゃん、とも(今回の会話を通じて)思えた。
そう考えると、文脈を知っている非治療者側の人間の言葉って、彼らのアキレス腱なのかもしれないねえ、と意地悪ににやついてしまうわたしであった。
いえ、中には誠実な方もいましたが。ブログ主さんなんかはまだ自覚的だと感じた。まあ自分のブログだから丸く収めたいっていうのもあるんだろうけども。
また最後に相手してくだすった方も、
>あなた『も』ラカンにフェティッシュでしょう? もちろん(^^)(『』は筆者による)
と仰ってますし、「あなたもわたしもうんこ(ここではフェティシスト=倒錯者)である」というわたしの初めの論で丸く収まってるようなので、よしとしましょう。
そんな感じー。
ぐえっぐえっぐげぶほぁ(意味はない)。