わたしは、このブログで何度も(元)2ちゃんねらだと公言しているが(たとえば
この記事)、2ちゃんねる論的なものを今まで書いたことがない。オタク論はこのブログの前半を占めるほど書いているにも関わらず。
その理由(言い訳)として、まずあるのが情報科学なるものにイマイチ胡散臭さを感じているからだ。胡散臭さを感じているのに2ちゃんねらなんかい、とつっこまれそうだが、胡散臭さが好きだから2ちゃんねらなのだ。ひろゆきの名言「嘘を嘘と~」が体感的によくわかるのだ。
まあ、こんなパトス的なものが(カッコつけていうなら情状性)が先行しているから、情報科学に引っかかるようなことを書いても笑われるだけだろうし、意味ないだろうと思っているわけなのですよ。
んなところに、
この記事で「間違ったことを言う」と宣言したお陰もあってか、まあ別にただのうらびれたブログだし何一人気張ってんの、みたいに思って、垂れ流すことにした次第。
長々と前フリしているけど大したこと言わないよ。自分でそう思うもん。
さて、まあネットから語らないといけないのか。
わたしはどうも、巷に語られている「ネット」なる概念(独我論ではモノだって主観的概念になっちゃう)は、主観的にファロセントリックに区分けをすると、三つに分かれていると思える。
一つは、道具としてのネット。これはまー王道じゃね。情報「科学」の対象。まあ皆ここを目指して語っているのだと思う。巷のネット論は(いあ批判じゃなくてね、とわざわざ言ってしまう小心者のわたし)。
だけど、概念即ち言葉というのは、いくらパトスを排除しようとしても、野山で遊んでいるといつの間にかどこかに引っかけたりして血が出て気がついたら染みになっているがごとく、ロゴス(言葉)にべっとりと付着しているものだ。それは他の学問でもそうである。ギリシャ哲学の時代から、学問はロゴスと二項対立するものとしてのパトスを排除してきた。血を洗い落とそうとしてきた。しかし、バルトじゃないけど肉体を持っている主体が語り聞く言葉である限り、ハイデガーじゃないけどパトス的なものは言葉に付着する。構造主義が魁となり、本格的に(
ヒステリー的主体に身を投じてまでというとわたし的解釈過ぎるのでカッコに入れとく。いあ批判じゃなくてね)その領域を暴こうとしたのがデリダである。ラカン的にはここんところはー……まんまS2になるのか。
ということで、「道具としてのネット」=唯物論的なネットというモノ=独我論的には概念即ち言葉、に付着する、その血に言及してみたい。まーそういうのが期待されてそうだし。精神分析とか語っちゃってるのだから。さっき三つといったけど、残りの二つがそこんとこになるのだろう。道具としての、単なるシニフィアンとしての一つ目の「ネット」が、精神世界において受肉したのが以下の二つの「ネット」になる、ってことかな。新語はみんな結構似た運命を辿るのかもしれない(蓮實重彦の『物語批判序説』を思い出しながら。うろ覚え)。「ネット」って言葉ほどデフォルメされてはいないだろうけど。
二つ目は、「世界は一冊の書物である」的な、唯一神的万能感の仮託先の代理表象としての「ネット」。これはまー簡単に言ったら、「ネットで世の中が変わる」みたいなもの。事実唯物論的にも独我論的にも変わっている、変わりつつあるのだし、そう思って「しまう」ことは否定しない。「ネット」という概念が、道具というより、人間を支配すると言うとサイバーパンク的だが、そういう比喩が可能な言説もちらほら見える。普通に売ってる書籍でも。小説とかじゃなく、社会学とネットの関わりを論じている本やwikipedia信仰者なんかにこういう「派閥」は多い(いあ批判じゃ(ry と思ったが先に言ったわたしの感じる胡散臭さはここに由来してそうなので略しておく)。「ネット」というシニフィアンが
象徴的ファルス(Φ=S1)「っぽく」なっちゃってる、ってことかなー。S2がS1方向へにじり寄ってる、みたいな。まあ象徴的ファルスであると信じ込んじゃうと(後付けすると)パラノイアになるんだけど、世の英雄や著名政治家や「強力な支配者」となる人たちは大体パラノイアっぽいところはある。だから後年他人を信じられなくなって部下を殺しまくったりするわけだけど。
三つ目は、母性原理的な、
アブジェクシオン的な共同体あるいは「場」の代理表象としての「ネット」。これって実は今の人たちにはあまりピンと来ないかもしれない。わたしはここの領域を示すのに、アングラと呼ばれていた「2ちゃんねる」が、「ネット」を取り巻くシニフィアンの連鎖の中で、もっとも象徴的だと思えるのね。綿矢りさの『インストール』とか、小説で語られがちな「ネット」もここに入りそう。二つ目が「正的・父性的・真理的な概念としてのネット」なら、これは「負的・母性的・場(コーラ)的な概念としてのネット」となる。その人によってどっちかもあるし両方あってどっちかが強いっていうのはあるだろうけど。ラカン的にはー、んー……S2から現実界的なものとしての対象a、じゃないな、S(/A)ににじり寄っている、ってことになるのかなあ。ちょうどアブジェクシオンってホットミルクの膜みたいな「境界」なわけだし、S(/A)のがロジックはすっきりするにゃー(猫ひろし的に)。そうやってわたしの中で対象aはどんどん「お化粧(とか古代人なら刺青)」になっていくのであった。
実はわたしは、「2ちゃんねるというアングラサイトは怖いところだ。アクセスするだけでクラックされる」的な「迷信」を、信じていたというと変だけど、そういうものとして「ネット」を見ていた。迷信的な感覚を持っていたからこそ、「嘘を嘘と~」が体感的にわかるのね。わたしにとっての「ネット」という概念あるいは言葉には、「2ちゃんねる」に象徴される三つ目のパトス的なものが強く付着していたわけ。要するに、
「ぁゃιぃわーるど」としての「ネット」だったってこと。
っていうか、2ちゃんって「便所の落書き」とか「(ネット)犯罪とか犯罪予告の温床」言われているけど、こういう連想がまさにアブジェクシオン感を示している。罪とか敗北はケガレなわけだから。後者はある意味事実だけど、そうなっていることが、2ちゃねらが2ちゃんのアブジェクシオンに惹かれて集いそういう場を作ったことを示している。これらはラカン的に言うと、
対象aとしての糞便みたいな。フロイトならまんま原光景かもねー。ファリックマザー。2ちゃん批判している人の文章は大体潔癖症か恐怖症の文脈で読み解けるのかも(批判じゃなくてね、人類皆神経症者かパラノイアか倒錯者なのです)。
わたしなんかは便所の落書きだからこそ2ちゃんねるだとすら思う。便所の落書きとか言ってる人ってよっぽど潔癖症なんだなーって。潔癖症これ即ち虚弱体質。一方アブジェクシオンと思っててそれに近づくわたしなんかは倒錯者(スカトロジスト? げ!)ってことになるんだけど(汗)。まーどっちもどっちか。
……えっと、それだけ。
あう、ゆったやん、大したこと言わないって。
いや、あのね、うーん。
なんでこんな話をしようと思ったのかは先にゆったけど、ほんとはね、車谷長吉読んでて思ったことなの。あと岩井志麻子の『夜啼きの森』。『夜啼き~』はもろホラー(怪談系)なんだけど、なんていうか、車谷って(まだ『鹽壺の匙』しか読了してないけど)、解説で吉本が『ルックルックこんにちは』の「女の喉自慢コーナー」を連想したって書いているんだけど(
参考。蛇足だけどこのサイトのラカンところは読み流すが吉。アブジェクシオン関係は連想が鋭い。なんかエラソー、いあわたしが)、それはすごく同意するんだけど、わたしは「怪談」だと思ったのね。モチーフである「狂気」と「死」なんてまさにそうじゃない。女のどろどろとした演歌的な情念と怪談話に感じる感覚は根っこは同じだと言ってもいいくらい。んでも、それだけじゃ説明し切れない何かがあって、それが「迷信」感あるいは「怪談」感あるいは「ぁゃιぃ」感だ、と思ったわけ。呪術的感覚というか。んで、なんやらたらたら連想してると、さっきの対比として区分された三つ目が似てるなー、と。もちろん今の2ちゃんにそんな怪談的なもの呪術的なものなんて感じない、というのもわかる。あくまでアングラだったころの2ちゃんを知っている人間の「主観」です。
んでこの怪談感なるものは、母性原理とか、参考に挙げたサイトにも書いてあるけど(多分筆者は非潔癖症タイプじゃないかと見た。ラカンとか哲学関係よりアブジェクシオン関係や迷信とか怪談チックなシニフィアンの連鎖の方が豊かだもん)アブジェクシオンに繋がるなー、と思ったのね。いやそれだけなんだけど。っていうかラカンとか(一部の)学問にもそんな嫌悪的だけど惹かれてしまう両価的なアブジェクシオン、平たく言うなら「ぁゃιさ」を感じるわたしの言うことだからまあそんな話だと思っといて。
でも、なんていうか、アブジェクシオンを嫌悪し惹かれるのは人間の普遍性であると思うから(
エディプスコンプレックスなんかよりよっぽどね)、2ちゃんねるからアブジェクシオン性が削ぎ落とされてもまた新しいアブジェクシオン的な「場」が生ずるだけなんじゃないでしょうか、というありきたりな予測しか立ちませんですた。ちょっと昔ならアングラ小劇場とかあったしそんな感じ。それに一応「ぁゃιぃわーるど」もまだあるわけやし。「2ちゃんねるは浄化された」ってなんか一瞬カッケーとおもたけどそれほどでもなかた。浄化っつーかトイレ掃除だもんねー。
あ、一応自分勝手な感情論で補足させてもらうと、二つ目と三つ目を、「正的・父性的・真理的な概念としてのネット」と「負的・母性的・場(コーラ)的な概念としてのネット」っていう風に対称的に論じているけど、全然対称じゃないからね。ラカン的に言うと現実界寄り、ユング的に言うと退行的、フロイト的に言うと原光景的なのが三つ目。んでその非対称的なところをクリティカルに論じているのがアブジェクシオンじゃないか、ってことだけ。ここ無視して論じたらそれこそユング派の「対称バンジャーイ自己バンジャーイマンダラバンジャーイ」的な「女はキタネエ素顔見せんな」的な潔癖症的中二病的(「無意識の一番奥にある普遍的無意識」とかラノベの設定みたいじゃない)ファロセントリスムになっちゃうから。でもノイマンは許す。テリブルマザー即ちアブジェクシオン的なものにきっちり近づいているから。それに因果無視して相で見たら対称的でもいいんだけど。レヴィレヴィのブリコラージュとか? 別にどうでもよくなっちゃった。ゆってて。っていうか中村雄二郎さんの『魔女ランダ考』とかもっそいクリティカルなのよね。岩井志麻子さんもクリティカルよね、思想トレンド的に。演歌的な情念と怪談とという和式便所(いあ批判じゃないのまじであれなら
こことか東ゆみこさんの『クソマルの神話学』とかしどろもどろ)じゃなくて和式アブジェクトを直撃したって感じ。ホラーっていう場がよかった。っていうかユングがフロイトを批判した「(近親相姦などという)概念から霊性を削ぎ落とした」って言葉の「霊性」ってまさにわたしの言う呪術的感覚、中村雄二郎さんならパトスの知、即ちアブジェクシオンだと思うんだけどなあ。ちなみにクリステヴァはフロイト派ー。いあ、削ぎ落として正しいのよ、精神分析だって学問なんだから。学問がパトスを削ぎ落としてきたのにもワケがあるさー。
とゆうクリステヴァ的には理論派ではなく神秘家寄りになりつつあるぁゃιぃわたしでしたっと。
あ、こんなこと言ってるけどリアル怪談嫌いだし(だから迷信感覚で「ネット」を見ている。迷信をあえて否定しようっていうのは精神分析的意地悪さで言っちゃうと、その人は怖がっているからこそ否定したがっているの。わたしもそうだもん)オカルトどうかと思ってる人。一応ね。反荒俣反中沢ー。いあ人間的には好きなのかも知れないけど。
げげろんひょ(ゴマカしてみた)。
ああ、自分の口調がキモイ……(じゃあすんな)。
やっぱムリっす。媚ツライっす。;;
1ポンドの福音ドラマ化だあ?
ほへー……。