だらしない話
2008/01/04/Fri
飯野文彦氏の『バッド・チューニング』が「このミス」で13位だったそうだ。
微妙な順位に思わずにやにやしてしまった。
大森氏が言うようにこれが1位になるっていうのは、さすがにどうかなーと思う意外と保守的なわたし。
13位っていいんでないでしょうか。つまはじきにされている感があって。つまはじきは排除されていないからつまはじきに遭う。排除されているかされてないかはキチガイにとって大事。キチガイを見ている人たちにとっては別にどっちでも構わないっていうか区別すら難しいことだけど。排除していることと排除していないことの。フーコーじゃないけどさ。
まあ、(ラカン的な意味ではない)現実のすっきりさ、悪く言えば単純さが見えていいと思いました。
というわけで最近は王道の貴志祐介を読んでたり。車谷とかと並行して。
やっぱ、ミステリってこの情報公開主義な世の中では、ジャーナリスティックさが大事なのかなーとかぼんやり思ってたりもしてますが。ミステリのトリックっていうかそういうところにあるネタがジャーナリズムになっている。ならざるを得ない、みたいな。
あ、貴志氏ウマイし面白いと思ったよ。『青の炎』しか読了してないけどさ。トリックの整合性じゃなくて(それも含むかもしれないけど)物語の構造的なきっちり感が、きれいっていうと誤解ありそうだけど。
なんていうんだろう、京極夏彦とか三津田信三とか(大体民俗系の人ってそうかもしれない)は、貴志と比べると「粗い」。みたいな。それは作家性として浮き上がる(テクストを)「語る主体」が持っている(持って「いそうな」)知識が粗いというわけではなく。
なんていうんだろう、民俗系ってロマンチシズムを感じるからってこともあるかもしれないけど、リアリスト(貴志)とロマンチスト(京極とか三津田とか)? んーちょっと違うなあ。貴志もロマンチストなのよね。っていうか小説を書くことってそういうことかもしれないけど。そうじゃなければ素直にジャーナリストになればよい。
でも、リアリズムってことなら、わたしは京極とか三津田の「粗さ」にそれを感じる。粗さというか汚れている感が。絵画でもジオラマでもそうじゃない。「ヨゴシ」をどう入れるかで、リアリティというか、実存感、アクチュアリティが決まる。
人の語らい、ディスクールってそういうものがあると思う。粗さ、何かが語らいの中から欠如しているから、むしろ語られていることにリアリティというかアクチュアリティを感じるもの。学問さえも、たとえば科学もディスクールになるわけだけど、科学の知に「隙間なく」覆われた現代だから、(ディスクールに敏感な)若者たちがよく言う「現実が希薄に感じてしまう」みたいなことと同じ。ニセ科学ってのもそうよね。現実を隙間なく覆っている「はず」の科学っぽい言い方だから信じちゃう、みたいな。もちろん科学の知だって完全じゃないわけだから、隙間はあるんだけど。隙間を頭でわかるんじゃなくて、体でわかっているかどうか? まあそんなのどうでもいい。
と言いつつ、完全さ、完全無欠なきっちりさを求めてしまう人間の業も否定しない。だから人は語らい続ける。壊すのも大事だけど守るのも大事。だから環境に適応できる。っていうかだって守るべきでないものを壊すのって面白くないじゃん。カタルシスがない。ギャグならすべる。両極的な、二項対立的なその二つがせめぎ合っているのが面白いのだ。それはバランス論ではない。バランスという言葉なら葛藤という言葉の方が正しい。という最近わたしの決まり文句になっていて飽きつつある結論になりそうだからやめよっと。
貴志はきっちり感もきれいで、内容も面白い。なんか、リアリストの哀切とかって書くとリアリストのロマンチシズムという矛盾的な表現に連鎖するけど、そこが面白い。きっちりしているのに「隙間」に惹かれている語る主体というか。きっちりしているけどすっきりしなさ? あーなんか自分的にいい表現だと思ったけどわかってもらえそうにないのでどうでもいいや。ってちょっと読み返して科学の話だったけれど「業」という言い方に通じているのかもかも。
ボウヤだからさ。それはガルマ。
いや、貴志も京極も三津田も面白いよ、というだらしない話なんだけどね。
微妙な順位に思わずにやにやしてしまった。
大森氏が言うようにこれが1位になるっていうのは、さすがにどうかなーと思う意外と保守的なわたし。
13位っていいんでないでしょうか。つまはじきにされている感があって。つまはじきは排除されていないからつまはじきに遭う。排除されているかされてないかはキチガイにとって大事。キチガイを見ている人たちにとっては別にどっちでも構わないっていうか区別すら難しいことだけど。排除していることと排除していないことの。フーコーじゃないけどさ。
まあ、(ラカン的な意味ではない)現実のすっきりさ、悪く言えば単純さが見えていいと思いました。
というわけで最近は王道の貴志祐介を読んでたり。車谷とかと並行して。
やっぱ、ミステリってこの情報公開主義な世の中では、ジャーナリスティックさが大事なのかなーとかぼんやり思ってたりもしてますが。ミステリのトリックっていうかそういうところにあるネタがジャーナリズムになっている。ならざるを得ない、みたいな。
あ、貴志氏ウマイし面白いと思ったよ。『青の炎』しか読了してないけどさ。トリックの整合性じゃなくて(それも含むかもしれないけど)物語の構造的なきっちり感が、きれいっていうと誤解ありそうだけど。
なんていうんだろう、京極夏彦とか三津田信三とか(大体民俗系の人ってそうかもしれない)は、貴志と比べると「粗い」。みたいな。それは作家性として浮き上がる(テクストを)「語る主体」が持っている(持って「いそうな」)知識が粗いというわけではなく。
なんていうんだろう、民俗系ってロマンチシズムを感じるからってこともあるかもしれないけど、リアリスト(貴志)とロマンチスト(京極とか三津田とか)? んーちょっと違うなあ。貴志もロマンチストなのよね。っていうか小説を書くことってそういうことかもしれないけど。そうじゃなければ素直にジャーナリストになればよい。
でも、リアリズムってことなら、わたしは京極とか三津田の「粗さ」にそれを感じる。粗さというか汚れている感が。絵画でもジオラマでもそうじゃない。「ヨゴシ」をどう入れるかで、リアリティというか、実存感、アクチュアリティが決まる。
人の語らい、ディスクールってそういうものがあると思う。粗さ、何かが語らいの中から欠如しているから、むしろ語られていることにリアリティというかアクチュアリティを感じるもの。学問さえも、たとえば科学もディスクールになるわけだけど、科学の知に「隙間なく」覆われた現代だから、(ディスクールに敏感な)若者たちがよく言う「現実が希薄に感じてしまう」みたいなことと同じ。ニセ科学ってのもそうよね。現実を隙間なく覆っている「はず」の科学っぽい言い方だから信じちゃう、みたいな。もちろん科学の知だって完全じゃないわけだから、隙間はあるんだけど。隙間を頭でわかるんじゃなくて、体でわかっているかどうか? まあそんなのどうでもいい。
と言いつつ、完全さ、完全無欠なきっちりさを求めてしまう人間の業も否定しない。だから人は語らい続ける。壊すのも大事だけど守るのも大事。だから環境に適応できる。っていうかだって守るべきでないものを壊すのって面白くないじゃん。カタルシスがない。ギャグならすべる。両極的な、二項対立的なその二つがせめぎ合っているのが面白いのだ。それはバランス論ではない。バランスという言葉なら葛藤という言葉の方が正しい。という最近わたしの決まり文句になっていて飽きつつある結論になりそうだからやめよっと。
貴志はきっちり感もきれいで、内容も面白い。なんか、リアリストの哀切とかって書くとリアリストのロマンチシズムという矛盾的な表現に連鎖するけど、そこが面白い。きっちりしているのに「隙間」に惹かれている語る主体というか。きっちりしているけどすっきりしなさ? あーなんか自分的にいい表現だと思ったけどわかってもらえそうにないのでどうでもいいや。ってちょっと読み返して科学の話だったけれど「業」という言い方に通じているのかもかも。
ボウヤだからさ。それはガルマ。
いや、貴志も京極も三津田も面白いよ、というだらしない話なんだけどね。
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