だらしない笑み
2008/01/05/Sat
キチガイを嫌悪するな、などというバカたちは相手にしない。
「キチガイにだって人権はある」という建前を信仰しキチガイを目の前に引きつった「穏やかな笑み」を作る作らなければならない作ってしまう神経症たち。
その方が、よっぽど狂気だ。
生理的嫌悪を催すのが、自動的に不安を生成してしまうのが、キチガイ性だ。嫌悪や不安や悪意そのものがそうだと言ってもいいくらいだ。
このキチガイ性をもっとも嫌悪し不安に思い死ぬほど恥ずかしく思い怖れているのは、キチガイ本人だ。自分の中のキチガイ性を。
そんなキチガイにキチガイ性を許容しようと笑みを作るバカども。
どちらが、キチガイだろう?
キチガイに自分のキチガイ性を許容しなさいと強制することは、人間を捨てろと言うことと、死ねと言うことと同値だ。
たまたま他人よりキチガイより鈍感に即ち人間性が貧しく生まれついたから、そんな笑みが出来るだけである。
鈍感であることは悪くない。人間性が貧しいのも仕方がない。人は鈍感で貧しくありたいのだ。大人になることとはそういうことである。神とは鈍感さの貧しさの境地である。だから神は美しいのだ。敏感さと過剰さの境地が、狂気なのだ。だから狂気は苦しいのだ。
その動物でも見抜けるような、見ているこっちが恥ずかしくなるような新人役者の演技のような、まさしく本当の意味でキチガイの、そのだらしない笑みをやめろ。その口に、はさみを突き立てそうになる。その舌が、切断しろとわたしに命令する。お前がわたしが許容したがっているのは、そういうことだ。
ただ、そういうことなだけだ。
「キチガイにだって人権はある」という建前を信仰しキチガイを目の前に引きつった「穏やかな笑み」を作る作らなければならない作ってしまう神経症たち。
その方が、よっぽど狂気だ。
生理的嫌悪を催すのが、自動的に不安を生成してしまうのが、キチガイ性だ。嫌悪や不安や悪意そのものがそうだと言ってもいいくらいだ。
このキチガイ性をもっとも嫌悪し不安に思い死ぬほど恥ずかしく思い怖れているのは、キチガイ本人だ。自分の中のキチガイ性を。
そんなキチガイにキチガイ性を許容しようと笑みを作るバカども。
どちらが、キチガイだろう?
キチガイに自分のキチガイ性を許容しなさいと強制することは、人間を捨てろと言うことと、死ねと言うことと同値だ。
たまたま他人よりキチガイより鈍感に即ち人間性が貧しく生まれついたから、そんな笑みが出来るだけである。
鈍感であることは悪くない。人間性が貧しいのも仕方がない。人は鈍感で貧しくありたいのだ。大人になることとはそういうことである。神とは鈍感さの貧しさの境地である。だから神は美しいのだ。敏感さと過剰さの境地が、狂気なのだ。だから狂気は苦しいのだ。
その動物でも見抜けるような、見ているこっちが恥ずかしくなるような新人役者の演技のような、まさしく本当の意味でキチガイの、そのだらしない笑みをやめろ。その口に、はさみを突き立てそうになる。その舌が、切断しろとわたしに命令する。お前がわたしが許容したがっているのは、そういうことだ。
ただ、そういうことなだけだ。
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