四コマすきすきー
2008/01/08/Tue
宮成楽さんの『晴れのちシンデレラ』が面白い。爺やがんばれ。
小池恵子さん連載増えて嬉しい。いやなんかこう四コマなのに無駄にうまいところが。イラスト的に。普通のマンガとしてそれがどうかしらないけど。かめさんがんばれ。薬師丸くんが作品横断してるな。イラストレーターと長女からませて欲しい。姑ものもいーのー。たぬき姑がんばれ。
安田弘之さんの『うたうめ』も好きだ。古川紀子さんの『おたやん。』『ほんわかぱっぱ』も。床屋のおいちゃんがんばれ。『有閑みわさん』の人の『ハトのハト子』ページくれ。松山花子さんカラスヤサトシさん深谷かほるさんのじんわり系もいい。東屋めめさんの新連載『リコーダーとランドセル』がいい予感。でもやっぱめめさんはサイトのマンガの方が面白いなー。あらい・まりこさんが息切れ感あってなんかひとりよがり的な心配。竹本泉さんや業田良家さんあたりの大御所系もいい。って今うぃきぺったら(うぃきったらというと怒る人がいる)竹本さんアニメ化されてないのね。いがいー。あんみつ姫は違うのか。原作ありってことかな。『まんがくらぶ』『まんがライフ』系はバランスがいいね。竹書房は西原理恵子さんがいろいろ書いてたのもあってわたしの勝手な偏見なのだがこうなんていうの? 厳しさ? というと変だな。癒しの裏のプロ根性? まあいいや言語化するほどのもんじゃないし。いや『まんがホーム』も好きだけど。『らいか・デイズ』とか。きららになるとなんかダメだー。いや面白いのあるけど。でも『まんがライフMOMO』の編集長が男になったら読まなくなるかもしれないけどまーそんなんで変わることもめったになかろうしどうでもいいや。
うにょーん。
でれでれ(媚びる擬音)。
こういう四コマ系癒しって、文章ではどうなるのだろう? それこそ垂れ流し日記系ブログになるのか。鬼嫁なんとかとか。金払うようなもんじゃねえ、ってなるのか。
うーん。
たとえばこういうマンガの絵だって、ラカン論ではイメージではなく、シニフィアンとなる。ソシュールのシニフィアンより意味が広範になってしまうのだ。それは、鏡像段階という言語を覚えていない時期に象徴的ファルス(Φ)というシニフィアンの軸みたいなもん(S1)が生じるってことになってるから、象徴的ファルスをシニフィアンと言い張るなら言語ではない領域もシニフィアンとしなきゃいけなくなるのだ。
とかいうとあれだけど、シンボルと考えればわかりやすいかもかも。
象徴界と想像界を、脳科学的な左脳と右脳に変換するのは、もっそい短絡的でわたしじゃない人がそんなこと書いてたら反論するか「ぷ、ナニいってんのコイツ」みたいに思っちゃうのだろうけど、今日は媚モードなので自分にも甘くGOなわけで、なんかのテレビでやってたけど、外国人は虫の声を騒音と感じるらしいのだが、日本人はそれに癒しを感じてしまうっていうのやってたのね。んでまーお約束の1/fゆらぎとかもやってたけど、一番は、日本人が虫の声を聞く時、左脳が働いているらしいのよ。外国人はそんなに働いてなかった。右脳しか働いてないのね。左脳は言語的領野としてもっそい大雑把に話進めるけど、まー虫の声を象徴化しているのね、日本人は。ゲージンと比べて。実は音楽なんてのもそうだったりする。左脳が働いているのね。右脳が芸術的領野とかあるけどもちろん左脳より右脳が強く働いているんだけどね、音楽も虫の声も。まー何がいいたいかって右脳的体感的刺激が「ある程度」象徴化されないと虫の声の叙情性なんて吹き飛んで「ガッデームナニコノノイズ」となるわけだ。音楽も象徴化されなければ「ひっこし! ひっこし! さっさとひっこし!」状態になっちゃう。
んで何がいいたいかっていうと、まあ一般的にイメージ的と言われている音楽や絵なんてものも、実はシンボル的な働きが、ってゆーか象徴界として関与しているんだよーって話。
四コマの絵も脳内でシンボル化されていて、だから癒されるわけ。単なる体感って刺激なわけで、刺激って単純に考えたら「不快」なのね。赤ちゃんなんてそうでしょ? 胎内と全く世界に生れ落ちて、受け取る全ての刺激が、「求めるだけ与えられる」胎内の世界を強く否定するわけだから。
んで、このシンボル性がもっとも純化されたものが言語なのよね。でも左脳的な、たとえば論理性とか数学の計算とか、癒されるどころかうぜーって思うじゃない。左脳的人間は感性の貧しい人間だーみたいなニセ科学。それはね、エディプスコンプレックスのせいなの。エディプスコンプレックスっていろいろ誤解されているみたいだけどいちいち説明するのめんどいから話進めるね。
前の記事で、エディプスコンプレックスって言葉コンプレックスと同値やんけーみたいなこと書いているけど、そういうことなの。言葉、言語構造が、父なのね。ここでいう父は実際のオヤジじゃなくて、父性とか、象徴的なもの、もっとざっくり言えば「父っぽいもの」と思って。
コンプレックスって言葉だけ聞くと、劣等感みたいなものを連想するけど、実は違うのね。それは劣等コンプレックスっていうの。コンプレックスの意味は、複合とかそんなんだけど、まあ今風(?)に言えば、「アンビバレンツなわたしの思い」みたいなものよ。アンビバレンツがわからなかったらぐぐってね。
つまり、惹かれているけど嫌悪する、みたいなことかな。ものすごーく単純化して言うとね。好きな子ほどいじめたくなるとかあるでしょ、あれみたいなものよ。
エディプスコンプレックスは、言葉とか、「父っぽいもの」に、「アンビバレンツな思い」を抱いちゃうことなのね。本当に興味のないことなら、そもそも嫌わないでしょ? どうでもいいってなる。もちろん自分の生死に関わることなら、興味がなくてもとか思うかもしれないけど、それは人間誰しも死に興味を持っているから、それが比喩的に連鎖して、自分の死を連想させるものを嫌悪しちゃうってことなの。「イヤヨイヤヨモスキノウチ」とかオヤジ臭くて実際そんなこと言う男はアホカなんてわたしは思うけれど、嫌いの反対が好きじゃなくて、嫌いと好きという興味が向いた状態と、無関心とか興味が湧かない状態が、反対なのね。
もちろん人なんてそれぞれだから、このエディプスコンプレックスって、浅はかな専門家に突っ込まれるの覚悟で言うと(がんがん反論しちゃうかも、てへ(はぁと))トラウマみたいなものだけど、トラウマ度が強い人と弱い人だっているわよね。傾向的には、まあいろいろ学問のオカタイ言葉で言い訳できるんだけど、女性より男性の方が、エディプスコンプレックスのトラウマ度は強くなるものなの。
話飛んじゃったけれど、自分が好きか嫌いかわからない、だけどそっち向いちゃうのって、ものすごくストレス溜まるじゃない? まあ大体悪いストレス(ストレスには良いストレスと悪いストレスがあるの)になるのは、嫌いなのにそっち向いちゃうってことが多いからなんだけど。ストレスが溜まるから、エディプスコンプレックスな人(これはもちろん正常な人ってことなんだけど)は、論理性や数学の計算とかを「うぜー」って思っちゃうのね。
というわけで、まとめると、基本は刺激を象徴化することが、マンガとか音楽とか絵とかの癒しとか美とか言われている状態で、象徴化されたものが、「二次的に」、その人のトラウマを刺激して、「父っぽく」つまり「えらそーなカンジ」に思えちゃうと、「うぜー」ってなるんだよほぉいという話でした。
なんか口調がキモイのはスルーして。気の迷い。妖怪からのオ・ネ・ガ・イ。
いや他に考えたいことあった気がするんだけど忘れちゃったから大したことじゃなかったんでしょ。機会があれば話せるしなければそのままってだけー。シンクロニシティー。ツレショーン(意味不明)。
っていうか、ユング派とか「フロイト派ってなんでもかんでもエディプスコンプレックスにしちゃうからつまんねー」とかっていうけど、エディプスコンプレックスの「ある程度の」普遍性は認めないといけないと思うのだけどねえ。体感的に。人類に「ある程度」共通的なエディプスコンプレックスというトラウマがあるからこそ、そういう統一性があるからこそ、母国語が違っても意思の疎通はできる、象徴の交換が可能になるわけなんだけど。ここを認められないのがユング派の中二病、もっとうがってみるとそのファロセントリスムの(学問というディスクール的に)なっさけないだだ漏れ感になっている気がするんだけど、まーわたしみたいなキチガイの言う言葉にゃ耳貸さないんでしょーねー。ファロセントリスムは潔癖症ってことでもあるからねー。きゃは。つーかなんのために精神分析学(深層心理学)やってんだろ? かーいいねー中二病。中二病擁護派の独り言ですた。
なんか読み返すとプリキュアの女の子がSQを説明している株系板の定番AAみたくてなんの感慨もないんだけどそれだけ。
小池恵子さん連載増えて嬉しい。いやなんかこう四コマなのに無駄にうまいところが。イラスト的に。普通のマンガとしてそれがどうかしらないけど。かめさんがんばれ。薬師丸くんが作品横断してるな。イラストレーターと長女からませて欲しい。姑ものもいーのー。たぬき姑がんばれ。
安田弘之さんの『うたうめ』も好きだ。古川紀子さんの『おたやん。』『ほんわかぱっぱ』も。床屋のおいちゃんがんばれ。『有閑みわさん』の人の『ハトのハト子』ページくれ。松山花子さんカラスヤサトシさん深谷かほるさんのじんわり系もいい。東屋めめさんの新連載『リコーダーとランドセル』がいい予感。でもやっぱめめさんはサイトのマンガの方が面白いなー。あらい・まりこさんが息切れ感あってなんかひとりよがり的な心配。竹本泉さんや業田良家さんあたりの大御所系もいい。って今うぃきぺったら(うぃきったらというと怒る人がいる)竹本さんアニメ化されてないのね。いがいー。あんみつ姫は違うのか。原作ありってことかな。『まんがくらぶ』『まんがライフ』系はバランスがいいね。竹書房は西原理恵子さんがいろいろ書いてたのもあってわたしの勝手な偏見なのだがこうなんていうの? 厳しさ? というと変だな。癒しの裏のプロ根性? まあいいや言語化するほどのもんじゃないし。いや『まんがホーム』も好きだけど。『らいか・デイズ』とか。きららになるとなんかダメだー。いや面白いのあるけど。でも『まんがライフMOMO』の編集長が男になったら読まなくなるかもしれないけどまーそんなんで変わることもめったになかろうしどうでもいいや。
うにょーん。
でれでれ(媚びる擬音)。
こういう四コマ系癒しって、文章ではどうなるのだろう? それこそ垂れ流し日記系ブログになるのか。鬼嫁なんとかとか。金払うようなもんじゃねえ、ってなるのか。
うーん。
たとえばこういうマンガの絵だって、ラカン論ではイメージではなく、シニフィアンとなる。ソシュールのシニフィアンより意味が広範になってしまうのだ。それは、鏡像段階という言語を覚えていない時期に象徴的ファルス(Φ)というシニフィアンの軸みたいなもん(S1)が生じるってことになってるから、象徴的ファルスをシニフィアンと言い張るなら言語ではない領域もシニフィアンとしなきゃいけなくなるのだ。
とかいうとあれだけど、シンボルと考えればわかりやすいかもかも。
象徴界と想像界を、脳科学的な左脳と右脳に変換するのは、もっそい短絡的でわたしじゃない人がそんなこと書いてたら反論するか「ぷ、ナニいってんのコイツ」みたいに思っちゃうのだろうけど、今日は媚モードなので自分にも甘くGOなわけで、なんかのテレビでやってたけど、外国人は虫の声を騒音と感じるらしいのだが、日本人はそれに癒しを感じてしまうっていうのやってたのね。んでまーお約束の1/fゆらぎとかもやってたけど、一番は、日本人が虫の声を聞く時、左脳が働いているらしいのよ。外国人はそんなに働いてなかった。右脳しか働いてないのね。左脳は言語的領野としてもっそい大雑把に話進めるけど、まー虫の声を象徴化しているのね、日本人は。ゲージンと比べて。実は音楽なんてのもそうだったりする。左脳が働いているのね。右脳が芸術的領野とかあるけどもちろん左脳より右脳が強く働いているんだけどね、音楽も虫の声も。まー何がいいたいかって右脳的体感的刺激が「ある程度」象徴化されないと虫の声の叙情性なんて吹き飛んで「ガッデームナニコノノイズ」となるわけだ。音楽も象徴化されなければ「ひっこし! ひっこし! さっさとひっこし!」状態になっちゃう。
んで何がいいたいかっていうと、まあ一般的にイメージ的と言われている音楽や絵なんてものも、実はシンボル的な働きが、ってゆーか象徴界として関与しているんだよーって話。
四コマの絵も脳内でシンボル化されていて、だから癒されるわけ。単なる体感って刺激なわけで、刺激って単純に考えたら「不快」なのね。赤ちゃんなんてそうでしょ? 胎内と全く世界に生れ落ちて、受け取る全ての刺激が、「求めるだけ与えられる」胎内の世界を強く否定するわけだから。
んで、このシンボル性がもっとも純化されたものが言語なのよね。でも左脳的な、たとえば論理性とか数学の計算とか、癒されるどころかうぜーって思うじゃない。左脳的人間は感性の貧しい人間だーみたいなニセ科学。それはね、エディプスコンプレックスのせいなの。エディプスコンプレックスっていろいろ誤解されているみたいだけどいちいち説明するのめんどいから話進めるね。
前の記事で、エディプスコンプレックスって言葉コンプレックスと同値やんけーみたいなこと書いているけど、そういうことなの。言葉、言語構造が、父なのね。ここでいう父は実際のオヤジじゃなくて、父性とか、象徴的なもの、もっとざっくり言えば「父っぽいもの」と思って。
コンプレックスって言葉だけ聞くと、劣等感みたいなものを連想するけど、実は違うのね。それは劣等コンプレックスっていうの。コンプレックスの意味は、複合とかそんなんだけど、まあ今風(?)に言えば、「アンビバレンツなわたしの思い」みたいなものよ。アンビバレンツがわからなかったらぐぐってね。
つまり、惹かれているけど嫌悪する、みたいなことかな。ものすごーく単純化して言うとね。好きな子ほどいじめたくなるとかあるでしょ、あれみたいなものよ。
エディプスコンプレックスは、言葉とか、「父っぽいもの」に、「アンビバレンツな思い」を抱いちゃうことなのね。本当に興味のないことなら、そもそも嫌わないでしょ? どうでもいいってなる。もちろん自分の生死に関わることなら、興味がなくてもとか思うかもしれないけど、それは人間誰しも死に興味を持っているから、それが比喩的に連鎖して、自分の死を連想させるものを嫌悪しちゃうってことなの。「イヤヨイヤヨモスキノウチ」とかオヤジ臭くて実際そんなこと言う男はアホカなんてわたしは思うけれど、嫌いの反対が好きじゃなくて、嫌いと好きという興味が向いた状態と、無関心とか興味が湧かない状態が、反対なのね。
もちろん人なんてそれぞれだから、このエディプスコンプレックスって、浅はかな専門家に突っ込まれるの覚悟で言うと(がんがん反論しちゃうかも、てへ(はぁと))トラウマみたいなものだけど、トラウマ度が強い人と弱い人だっているわよね。傾向的には、まあいろいろ学問のオカタイ言葉で言い訳できるんだけど、女性より男性の方が、エディプスコンプレックスのトラウマ度は強くなるものなの。
話飛んじゃったけれど、自分が好きか嫌いかわからない、だけどそっち向いちゃうのって、ものすごくストレス溜まるじゃない? まあ大体悪いストレス(ストレスには良いストレスと悪いストレスがあるの)になるのは、嫌いなのにそっち向いちゃうってことが多いからなんだけど。ストレスが溜まるから、エディプスコンプレックスな人(これはもちろん正常な人ってことなんだけど)は、論理性や数学の計算とかを「うぜー」って思っちゃうのね。
というわけで、まとめると、基本は刺激を象徴化することが、マンガとか音楽とか絵とかの癒しとか美とか言われている状態で、象徴化されたものが、「二次的に」、その人のトラウマを刺激して、「父っぽく」つまり「えらそーなカンジ」に思えちゃうと、「うぜー」ってなるんだよほぉいという話でした。
なんか口調がキモイのはスルーして。気の迷い。妖怪からのオ・ネ・ガ・イ。
いや他に考えたいことあった気がするんだけど忘れちゃったから大したことじゃなかったんでしょ。機会があれば話せるしなければそのままってだけー。シンクロニシティー。ツレショーン(意味不明)。
っていうか、ユング派とか「フロイト派ってなんでもかんでもエディプスコンプレックスにしちゃうからつまんねー」とかっていうけど、エディプスコンプレックスの「ある程度の」普遍性は認めないといけないと思うのだけどねえ。体感的に。人類に「ある程度」共通的なエディプスコンプレックスというトラウマがあるからこそ、そういう統一性があるからこそ、母国語が違っても意思の疎通はできる、象徴の交換が可能になるわけなんだけど。ここを認められないのがユング派の中二病、もっとうがってみるとそのファロセントリスムの(学問というディスクール的に)なっさけないだだ漏れ感になっている気がするんだけど、まーわたしみたいなキチガイの言う言葉にゃ耳貸さないんでしょーねー。ファロセントリスムは潔癖症ってことでもあるからねー。きゃは。つーかなんのために精神分析学(深層心理学)やってんだろ? かーいいねー中二病。中二病擁護派の独り言ですた。
なんか読み返すとプリキュアの女の子がSQを説明している株系板の定番AAみたくてなんの感慨もないんだけどそれだけ。
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