アルカイックスマイルの霊性
2008/01/20/Sun
仏像のアルカイックスマイルを「慈悲的だ」とか「優しい」とかの言葉でしか表現できない奴は、仏像を、アルカイックスマイルを全くわかっていない奴だと思ってよろしい。端的に言うと、そいつらは屈託のない鈍感者たちなのだから、哀れんであげればよい。
アルカイックスマイルとは曖昧な笑みだ。意味の始原にあるカオスとしての笑みだ。それは見方を変えれば「狡猾な」ようにも見えるし「胡散臭く」もあり「あやしい」笑みである。揶揄的に言うならば胡散臭いものマニアのみうらじゅんが惹かれた仏像である。
「わざわざそんなことを言うのは野暮ってものだ」
ああ確かに野暮だろう。わたしもそう思う。
しかしである。野暮な言葉というのは直言という意味もある。即ち真理をあっさり言い当てることによりそれを真理の位置からずらす作用がある。
どういうことか。
アルカイックスマイルは「慈悲的」であり「優しい」笑みでもある。意味の始原にある笑みなのだからそういう解釈だって許容する笑みであるだけのことである。
しかし、「穏やかでなければならない強迫症者」が支配する現代においては、「アルカイックスマイルは慈悲的で優しい笑みである」という言語構造が、超自我的に、わかりやすくいうなら固定観念的に、個人を抑圧している。
わたしの「アルカイックスマイルとは胡散臭い笑みだ」という言葉に対し、「わざわざそんなこと言われなくてもわかっている」と、あなたたちは本当に言えるのか? 本当に「わかっていた」のか? 「わかっていることをわざわざ言っている」からわたしの言葉に「野暮だ」と言ったのではないか? 「わかっていなかったら」わたしの言葉は野暮とはならないはずである。つまりここでの「野暮」という言葉は、本来の意味から外れて、わたしのような異端の意見を「排除」あるいは「否認」する意味を帯びているのだ。
排除や否認してしまう言葉は、その主体にとって、真理なのだ。こういうやり方を押しつけると精神分析って屈折した学問だなーってなりかねないのであんまり言いたくないし精神分析派の人たちも狡猾にこういうこと言わないもんね。「ふむふむそれがこの人の真理なのだな」と思ってニヤニヤ笑ってるだけさー。だからあんまり種明かししたくないんだけどね。あはん。つーか精神分析学とか持ち出さずとも、んな大したもんじゃなくて、マンガとかでもよくあるだしょ、少年がムキになって反論しているのを見て「あ、やっぱ図星なんだ」と意地悪く笑うおねぃさん、みたいな。単なるアレ。
あなたたちは、わかっていなかったのではないか? それが強迫症という症状なのである。
「だってえ、みんなが慈悲的だー優しいーとかゆってるからあ、慈悲的で優しいものなんだと思っちゃいましたあ、テヘッ」という他人に責任をなすりつける無策で厚顔な(つまり狡猾ですらない)思考をしてしまうことこそが、「穏やかでなければならない強迫症」という症状なのである。
アジャセコンプレックスという、死語となりつつある概念がある。
これは、エディプスコンプレックスが、「法」的な父性に対しコンプレックスを持つことと対置的に、ブッダのアルカイックスマイルに象徴される、母性的な「許し」に対しコンプレックスを持つことを示している。
コンプレックスという概念をもう一度おさらいしよう。コンプレックスという言葉は複合とかそういう意味を表す。即ち、「慈悲的」や「優しい」などという一面的な感情ではコンプレックスとならない。「慈悲的かつ狡猾」、「優しいかつ胡散臭い」というような、エディプスコンプレックスならば「(父に)反発してしまうけど同一化したい」というような、両価的な感情が複合している状態がコンプレックスなのである。感情を一面的に処理できないからこそ、コンプレックスとなり、その主体の心に強く影響するのである。そういったコンプレックスを解消することが鈍感な大人になる要件である。大人になることとは、あるいは正常な人間であることとは、心を鈍感化させることと等値である。なのでわたしは鈍感化を(哀れみ侮蔑はするが)批判しない。
ユングはフロイトに対し、「近親相姦などという言葉から、霊性を削ぎ落とした」と批判した。
いささか短絡的ではあるが、ここでの霊性を、(あるシニフィアンが)コンプレックスとなって心に強く影響すること、と置き換えてみると、先に述べたような状況は、以下のように要約できる。
アルカイックスマイルについて、「慈悲的で優しい笑顔である」という一面的な見方を、多数派の権力をもって押しつけることで、彼らは仏像が持つ霊性を削ぎ落としているのである。「慈悲的で優しいものである」という一面的な評価を支配的抑圧的に浸透させることで、己の母子相姦欲望を隠蔽しようとするマザコン野郎たちのせいで、仏像本来が持つ霊性が削ぎ落とされているのである。
仏像を、「慈悲的で優しくて母性的である」として宣伝している本人たちが、マザコン野郎どもが自らのマザコンというアブジェクシオンを隠蔽する目的で行っている言説こそが、日本伝統の仏教的文化を破壊しているのである。
その証拠として、アジャセコンプレックスが死語化している状況があるのだ。
精神分析理論においては、人間は男女問わず多かれ少なかれマザコンである(ここでの「マザコン」は揶揄として用いている)。しかしそれはマザコンであることを許されたわけではない。精神分析学は単なる学問であり道具に過ぎない。許しや真理としての解答を与えるものではない。
現代若者たちのマザコン性をそりゃー批判できないわな。批判できてもそりゃートンチンカンな言説になるわな。こういう大人は。
てめえらがマザコンなんだもんな(言わずもがな揶揄です)。
こういう自らのマザコン性を否認的に隠蔽する野郎どもこそが、わたしが生理的嫌悪を感じる「母性的な化粧をしたがる父性」の体現者なのである。彼らは母性的なるものと父性的なるものを(ユング論的)「統合」しているのでは全くない。ただの性欲の発露としての女装に過ぎない。というと女装趣味の人に失礼かとすら思う。むしろ女装趣味な人間の方が、リビドー(心的エネルギー)を飼い慣らせている、即ち己というものを「統合」できていると言える。
あーキモチワル。
――あ、媚びるの忘れてた……。
アルカイックスマイルとは曖昧な笑みだ。意味の始原にあるカオスとしての笑みだ。それは見方を変えれば「狡猾な」ようにも見えるし「胡散臭く」もあり「あやしい」笑みである。揶揄的に言うならば胡散臭いものマニアのみうらじゅんが惹かれた仏像である。
「わざわざそんなことを言うのは野暮ってものだ」
ああ確かに野暮だろう。わたしもそう思う。
しかしである。野暮な言葉というのは直言という意味もある。即ち真理をあっさり言い当てることによりそれを真理の位置からずらす作用がある。
どういうことか。
アルカイックスマイルは「慈悲的」であり「優しい」笑みでもある。意味の始原にある笑みなのだからそういう解釈だって許容する笑みであるだけのことである。
しかし、「穏やかでなければならない強迫症者」が支配する現代においては、「アルカイックスマイルは慈悲的で優しい笑みである」という言語構造が、超自我的に、わかりやすくいうなら固定観念的に、個人を抑圧している。
わたしの「アルカイックスマイルとは胡散臭い笑みだ」という言葉に対し、「わざわざそんなこと言われなくてもわかっている」と、あなたたちは本当に言えるのか? 本当に「わかっていた」のか? 「わかっていることをわざわざ言っている」からわたしの言葉に「野暮だ」と言ったのではないか? 「わかっていなかったら」わたしの言葉は野暮とはならないはずである。つまりここでの「野暮」という言葉は、本来の意味から外れて、わたしのような異端の意見を「排除」あるいは「否認」する意味を帯びているのだ。
排除や否認してしまう言葉は、その主体にとって、真理なのだ。こういうやり方を押しつけると精神分析って屈折した学問だなーってなりかねないのであんまり言いたくないし精神分析派の人たちも狡猾にこういうこと言わないもんね。「ふむふむそれがこの人の真理なのだな」と思ってニヤニヤ笑ってるだけさー。だからあんまり種明かししたくないんだけどね。あはん。つーか精神分析学とか持ち出さずとも、んな大したもんじゃなくて、マンガとかでもよくあるだしょ、少年がムキになって反論しているのを見て「あ、やっぱ図星なんだ」と意地悪く笑うおねぃさん、みたいな。単なるアレ。
あなたたちは、わかっていなかったのではないか? それが強迫症という症状なのである。
「だってえ、みんなが慈悲的だー優しいーとかゆってるからあ、慈悲的で優しいものなんだと思っちゃいましたあ、テヘッ」という他人に責任をなすりつける無策で厚顔な(つまり狡猾ですらない)思考をしてしまうことこそが、「穏やかでなければならない強迫症」という症状なのである。
アジャセコンプレックスという、死語となりつつある概念がある。
これは、エディプスコンプレックスが、「法」的な父性に対しコンプレックスを持つことと対置的に、ブッダのアルカイックスマイルに象徴される、母性的な「許し」に対しコンプレックスを持つことを示している。
コンプレックスという概念をもう一度おさらいしよう。コンプレックスという言葉は複合とかそういう意味を表す。即ち、「慈悲的」や「優しい」などという一面的な感情ではコンプレックスとならない。「慈悲的かつ狡猾」、「優しいかつ胡散臭い」というような、エディプスコンプレックスならば「(父に)反発してしまうけど同一化したい」というような、両価的な感情が複合している状態がコンプレックスなのである。感情を一面的に処理できないからこそ、コンプレックスとなり、その主体の心に強く影響するのである。そういったコンプレックスを解消することが鈍感な大人になる要件である。大人になることとは、あるいは正常な人間であることとは、心を鈍感化させることと等値である。なのでわたしは鈍感化を(哀れみ侮蔑はするが)批判しない。
ユングはフロイトに対し、「近親相姦などという言葉から、霊性を削ぎ落とした」と批判した。
いささか短絡的ではあるが、ここでの霊性を、(あるシニフィアンが)コンプレックスとなって心に強く影響すること、と置き換えてみると、先に述べたような状況は、以下のように要約できる。
アルカイックスマイルについて、「慈悲的で優しい笑顔である」という一面的な見方を、多数派の権力をもって押しつけることで、彼らは仏像が持つ霊性を削ぎ落としているのである。「慈悲的で優しいものである」という一面的な評価を支配的抑圧的に浸透させることで、己の母子相姦欲望を隠蔽しようとするマザコン野郎たちのせいで、仏像本来が持つ霊性が削ぎ落とされているのである。
仏像を、「慈悲的で優しくて母性的である」として宣伝している本人たちが、マザコン野郎どもが自らのマザコンというアブジェクシオンを隠蔽する目的で行っている言説こそが、日本伝統の仏教的文化を破壊しているのである。
その証拠として、アジャセコンプレックスが死語化している状況があるのだ。
精神分析理論においては、人間は男女問わず多かれ少なかれマザコンである(ここでの「マザコン」は揶揄として用いている)。しかしそれはマザコンであることを許されたわけではない。精神分析学は単なる学問であり道具に過ぎない。許しや真理としての解答を与えるものではない。
現代若者たちのマザコン性をそりゃー批判できないわな。批判できてもそりゃートンチンカンな言説になるわな。こういう大人は。
てめえらがマザコンなんだもんな(言わずもがな揶揄です)。
こういう自らのマザコン性を否認的に隠蔽する野郎どもこそが、わたしが生理的嫌悪を感じる「母性的な化粧をしたがる父性」の体現者なのである。彼らは母性的なるものと父性的なるものを(ユング論的)「統合」しているのでは全くない。ただの性欲の発露としての女装に過ぎない。というと女装趣味の人に失礼かとすら思う。むしろ女装趣味な人間の方が、リビドー(心的エネルギー)を飼い慣らせている、即ち己というものを「統合」できていると言える。
あーキモチワル。
――あ、媚びるの忘れてた……。
スポンサーサイト