女性的抑鬱症と男性的抑鬱症の構造論的差異
2008/02/05/Tue
なんかすごくいやーな問題に直面している。
基本的にわたしは抑鬱症者が嫌いである。特に男性のそれの根底に、過大なファロセントリスムを感じるからだ。抑鬱症者のほとんどは、他人を単純化して見ている気がする。単純化した、今風(そしてかるーく揶揄風)に言えばキャラ化した他者像を他者に押しつける傾向を強く感じる。単純化した他人はあくまでも主観の中の他人であり、現実では単純化されたもの以外の未知的な表出もあるだろう。それを過剰に防衛しているのが抑鬱症者たちなのではないか。そんな気がして虫唾が走るのだ。わたしの言葉で言えば、潔癖症ゆえの自閉性、虚弱体質性ということになろう。
これをラカン風に言えば、象徴的ファルスの強い比喩作用を受けたシニフィアン群で彼らの世界は構成されているゆえ、現実のちょっとした刺激にも対応できない、ということになるだろう。象徴的ファルスの影響が強いため無意識の言語構造が固定的になっているがゆえ、ちょっとの刺激で壊れてしまう。結果、喪の状態となる。
しかし、抑鬱症という病名としての観点で見れば、実際は女性の患者が多い。事実わたしも一度そう診断されたことがある。
木村敏氏の論によれば、前者の男性的抑鬱症は、ポスト・フェストゥムとして、ノエマ的自己の相で生きている者たち、という観点でうまく説明できる。うんうん。わたしも納得がいく。すとんと体感的認知と共合する。
氏の著作から引用しよう。
=====
メランコリー者(抑鬱症者)のポスト・フェストゥム的な時間の生きかたは、クラウスが指摘している「過剰な役割同一性との同一化傾向」と表裏一体をなすものである。彼らにとって自己の同一性は、共同体内部において与えられた役割を遂行する人物という同一性の中に完全に吸収されてしまっている。役割同一性の遂行にとっては、経験の積み重ねが何よりも重要である。彼らはそのつどの他者との「あいだ」を、自らの役割同一性を最もよく実現しうるような方向で課題として読みとる。
(『分裂病と他者』より。()内は筆者による)
=====
この「過剰な役割同一性」が、固定化されたノエマ的自己(の表出)ということになる。彼らがわたしと共有する「あいだ」に、彼らはその固定化された自己に基づいたものを投げ込んでくるから、わたしは彼らを男根主義的であると思ってしまうのだ。
しかししかし、この構造もどうも女性的抑鬱症にはうまく当てはまらない。
ノエマ的自己が不安定になると、木村論ではアンテ・フェストゥムになるという。分裂病の精神構造である。ノエマ的自己の不安定さゆえ、未知の「他者」に対し過敏に反応するのである、と。まあこれも納得がいく。自己の不安定さとは退行的なものである。このブログでも再三言っている「大人になるということは鈍感になることである」と共鳴する。
木村論は、「自己」と「他者」と「あいだ」が構造として基本になっている。この「あいだ」を生きてしまうのがたとえば境界例となる。これがイントラ・フェストゥム的なるものとなろう。これはクリステヴァの「ホットミルクにできる膜」としてのアブジェクシオンと合致する。事実木村氏は「他者」についてその未知性を強調し、それと対峙した時の主体の両価的感情にも言及している。アブジェクシオン論のキモはこの情動的両価性にある。
男性と女性の精神構造の、おおまかな傾向を論じるのであれば、女性の方が(しつこく言うが)傾向的に象徴的ファルスの比喩作用は弱いだろう。女性は去勢不安という去勢直前の準備段階が希薄なため、去勢というイベント性、トラウマ性が弱まってしまう。男性は去勢によりエディプスコンプレックスは終了するが、女性は去勢によりエディプスコンプレックス(エレクトラコンプレックス)が開始する、ということだ。
木村論のノエマ的自己を、そのまま象徴的ファルスの比喩作用により構築(固定化)されたシニフィアン群に当てはめるのは短絡的過ぎよう。そのシニフィアン群の(一の線による)骨格などになるのだろうか。シニフィアン構造の基礎となるイデア的なるもの、などとなるのだろうか。
しかしここはブログ。糞便を垂れ流すトイレ。短絡的でゴーゴーなのれす。うるろにょーん(最近媚が楽しくなってきたらしい)。
短絡的にがぎょーんとここをくっつけて、と。
ノエマ的自己の安定度は、そのそれこそペニスのようにそそり立つ軸たる象徴的ファルスの比喩作用に左右されるであろう。ということは、傾向的に(しつこく言うよっ)女性のノエマ的自己の安定度は男性より弱い、となる。
となると、傾向的に(しつこ(ry、もーええわ)女性の方が男性よりアンテ・フェストゥム的な世界を生きている、ということになる。
これは言い換えれば、男性は、その象徴的ファルスの作用影響により超自我構造が固定化し、結果、「他者」という未知性、あるいはアブジェクシオンそのもの、あるいはテリブルマザーが投げつけてくる糞尿に対して脆弱になる傾向がある、ということである。この脆弱さを過敏と呼ぶのも構わないだろう。この過敏さが原因となって抑鬱症の特徴であるシニフィアンの否認に繋がる。
一方女性は、象徴的ファルスの作用影響が弱いため超自我構造そのものが脆弱となる。これは言い換えれば、「他者」やアブジェクシオンやテリブルマザーの糞尿という刺激に対し、柔軟性があるということである。しかし、絶対的未知性としての「他者」に対峙した時は、脆弱とは言え超自我構造は構成されているため、それに対し過敏となるだろう。
要するに、構造の固定化による過敏なのか、構造そのものの柔軟性による過敏なのか、という違いである。これは木村論と合致する。前者は既知性を根拠にしているからポスト・フェストゥム的となり、後者は未知性が背景になっているからアンテ・フェストゥム的という具合に。
女性抑鬱症の幻想(夢や自由連想)には、食人などといった死の欲動的な攻撃性、倒錯性がよく見られる。この死の欲動的なるものがアクティングアウトとして表出したのがボヴァリスムなどと言う奴であろう。
絶対的未知性に対する反応として、全て(構造)を失って喪的症状が強く表れるのが男性的抑鬱症であり、逆に原初的なファルスを構築しようとするのが(もちろん喪的症状と並行して)女性的抑鬱症である、と言えるだろうか。
あるいは、分裂病における鬱症状と親近性があるのが女性的抑鬱症だと言えよう。
と文章であるからにはなんとなくでも統辞的構造をつけようと先のような文章を書いているわけだが、やっぱりしっくりいかない。体感的認知とズレがある。
そもそも木村論のノエマ的自己の不安定さが女性的なるものとしている(いやわたしがそうしているだけだが)のがしっくりこない。これでは分裂病的なるもの=女性的なるもの、という論理に連鎖する。
むしろ、女性のノエマ的自己は「他者」あるいは絶対的未知性を内在している、と言った方がまだわかる。
まあ要約すると、木村論には、女性的なるものが内包するものとしての、死の欲動的あるいは倒錯的なものとしての、「他者性」が欠落しているように思えるのだ。この欠落を象徴するのが、女性的抑鬱症であるように、わたしには思える。
木村氏は、前掲書の中で(失敗の論だと言っているが)、ノエマ的自己を能記(シニフィアン)的自己と読み替えている。
シニフィアンの群れとしての、S2の構造としての超自我。
なるほど、シニフィアンであるならば男性的抑鬱症者の構造が正しいように思える。S2という幻想の迷宮を遊ぶのが生の欲動だからだ。
しかし、超自我とは、死の欲動が根底にあって初めて生じるものでもあるのだ。
――っていうかそろそろこういうの飽きてきた。なんかもっと違う刺激くれ。
ぐぎゃぎゃぎゃ(ランダ的無意味な笑い)。
基本的にわたしは抑鬱症者が嫌いである。特に男性のそれの根底に、過大なファロセントリスムを感じるからだ。抑鬱症者のほとんどは、他人を単純化して見ている気がする。単純化した、今風(そしてかるーく揶揄風)に言えばキャラ化した他者像を他者に押しつける傾向を強く感じる。単純化した他人はあくまでも主観の中の他人であり、現実では単純化されたもの以外の未知的な表出もあるだろう。それを過剰に防衛しているのが抑鬱症者たちなのではないか。そんな気がして虫唾が走るのだ。わたしの言葉で言えば、潔癖症ゆえの自閉性、虚弱体質性ということになろう。
これをラカン風に言えば、象徴的ファルスの強い比喩作用を受けたシニフィアン群で彼らの世界は構成されているゆえ、現実のちょっとした刺激にも対応できない、ということになるだろう。象徴的ファルスの影響が強いため無意識の言語構造が固定的になっているがゆえ、ちょっとの刺激で壊れてしまう。結果、喪の状態となる。
しかし、抑鬱症という病名としての観点で見れば、実際は女性の患者が多い。事実わたしも一度そう診断されたことがある。
木村敏氏の論によれば、前者の男性的抑鬱症は、ポスト・フェストゥムとして、ノエマ的自己の相で生きている者たち、という観点でうまく説明できる。うんうん。わたしも納得がいく。すとんと体感的認知と共合する。
氏の著作から引用しよう。
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メランコリー者(抑鬱症者)のポスト・フェストゥム的な時間の生きかたは、クラウスが指摘している「過剰な役割同一性との同一化傾向」と表裏一体をなすものである。彼らにとって自己の同一性は、共同体内部において与えられた役割を遂行する人物という同一性の中に完全に吸収されてしまっている。役割同一性の遂行にとっては、経験の積み重ねが何よりも重要である。彼らはそのつどの他者との「あいだ」を、自らの役割同一性を最もよく実現しうるような方向で課題として読みとる。
(『分裂病と他者』より。()内は筆者による)
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この「過剰な役割同一性」が、固定化されたノエマ的自己(の表出)ということになる。彼らがわたしと共有する「あいだ」に、彼らはその固定化された自己に基づいたものを投げ込んでくるから、わたしは彼らを男根主義的であると思ってしまうのだ。
しかししかし、この構造もどうも女性的抑鬱症にはうまく当てはまらない。
ノエマ的自己が不安定になると、木村論ではアンテ・フェストゥムになるという。分裂病の精神構造である。ノエマ的自己の不安定さゆえ、未知の「他者」に対し過敏に反応するのである、と。まあこれも納得がいく。自己の不安定さとは退行的なものである。このブログでも再三言っている「大人になるということは鈍感になることである」と共鳴する。
木村論は、「自己」と「他者」と「あいだ」が構造として基本になっている。この「あいだ」を生きてしまうのがたとえば境界例となる。これがイントラ・フェストゥム的なるものとなろう。これはクリステヴァの「ホットミルクにできる膜」としてのアブジェクシオンと合致する。事実木村氏は「他者」についてその未知性を強調し、それと対峙した時の主体の両価的感情にも言及している。アブジェクシオン論のキモはこの情動的両価性にある。
男性と女性の精神構造の、おおまかな傾向を論じるのであれば、女性の方が(しつこく言うが)傾向的に象徴的ファルスの比喩作用は弱いだろう。女性は去勢不安という去勢直前の準備段階が希薄なため、去勢というイベント性、トラウマ性が弱まってしまう。男性は去勢によりエディプスコンプレックスは終了するが、女性は去勢によりエディプスコンプレックス(エレクトラコンプレックス)が開始する、ということだ。
木村論のノエマ的自己を、そのまま象徴的ファルスの比喩作用により構築(固定化)されたシニフィアン群に当てはめるのは短絡的過ぎよう。そのシニフィアン群の(一の線による)骨格などになるのだろうか。シニフィアン構造の基礎となるイデア的なるもの、などとなるのだろうか。
しかしここはブログ。糞便を垂れ流すトイレ。短絡的でゴーゴーなのれす。うるろにょーん(最近媚が楽しくなってきたらしい)。
短絡的にがぎょーんとここをくっつけて、と。
ノエマ的自己の安定度は、そのそれこそペニスのようにそそり立つ軸たる象徴的ファルスの比喩作用に左右されるであろう。ということは、傾向的に(しつこく言うよっ)女性のノエマ的自己の安定度は男性より弱い、となる。
となると、傾向的に(しつこ(ry、もーええわ)女性の方が男性よりアンテ・フェストゥム的な世界を生きている、ということになる。
これは言い換えれば、男性は、その象徴的ファルスの作用影響により超自我構造が固定化し、結果、「他者」という未知性、あるいはアブジェクシオンそのもの、あるいはテリブルマザーが投げつけてくる糞尿に対して脆弱になる傾向がある、ということである。この脆弱さを過敏と呼ぶのも構わないだろう。この過敏さが原因となって抑鬱症の特徴であるシニフィアンの否認に繋がる。
一方女性は、象徴的ファルスの作用影響が弱いため超自我構造そのものが脆弱となる。これは言い換えれば、「他者」やアブジェクシオンやテリブルマザーの糞尿という刺激に対し、柔軟性があるということである。しかし、絶対的未知性としての「他者」に対峙した時は、脆弱とは言え超自我構造は構成されているため、それに対し過敏となるだろう。
要するに、構造の固定化による過敏なのか、構造そのものの柔軟性による過敏なのか、という違いである。これは木村論と合致する。前者は既知性を根拠にしているからポスト・フェストゥム的となり、後者は未知性が背景になっているからアンテ・フェストゥム的という具合に。
女性抑鬱症の幻想(夢や自由連想)には、食人などといった死の欲動的な攻撃性、倒錯性がよく見られる。この死の欲動的なるものがアクティングアウトとして表出したのがボヴァリスムなどと言う奴であろう。
絶対的未知性に対する反応として、全て(構造)を失って喪的症状が強く表れるのが男性的抑鬱症であり、逆に原初的なファルスを構築しようとするのが(もちろん喪的症状と並行して)女性的抑鬱症である、と言えるだろうか。
あるいは、分裂病における鬱症状と親近性があるのが女性的抑鬱症だと言えよう。
と文章であるからにはなんとなくでも統辞的構造をつけようと先のような文章を書いているわけだが、やっぱりしっくりいかない。体感的認知とズレがある。
そもそも木村論のノエマ的自己の不安定さが女性的なるものとしている(いやわたしがそうしているだけだが)のがしっくりこない。これでは分裂病的なるもの=女性的なるもの、という論理に連鎖する。
むしろ、女性のノエマ的自己は「他者」あるいは絶対的未知性を内在している、と言った方がまだわかる。
まあ要約すると、木村論には、女性的なるものが内包するものとしての、死の欲動的あるいは倒錯的なものとしての、「他者性」が欠落しているように思えるのだ。この欠落を象徴するのが、女性的抑鬱症であるように、わたしには思える。
木村氏は、前掲書の中で(失敗の論だと言っているが)、ノエマ的自己を能記(シニフィアン)的自己と読み替えている。
シニフィアンの群れとしての、S2の構造としての超自我。
なるほど、シニフィアンであるならば男性的抑鬱症者の構造が正しいように思える。S2という幻想の迷宮を遊ぶのが生の欲動だからだ。
しかし、超自我とは、死の欲動が根底にあって初めて生じるものでもあるのだ。
――っていうかそろそろこういうの飽きてきた。なんかもっと違う刺激くれ。
ぐぎゃぎゃぎゃ(ランダ的無意味な笑い)。
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