閉塞性の統一
2008/02/16/Sat
思うに、「あーわかるわかるう」はわかりやすいが、「人それぞれ」を言いたがる人間も、同じ寂しがり屋ゆえ、そう言ってしまうのではないか。昔と比べて現代は、非常に多くの他人とすれ違わなければならない。渋谷ハチ公前のあの雑踏には、僕は、目眩と吐き気のようなものすら覚えた。実際に出会わなくても、携帯電話やインターネットで、誰かとはすれ違ってしまう。一方、自分と他人との間には、越えがたい距離がある。城壁がある。他人によって城壁の高さを変えていると、現代では人付き合いを処理できない。よって、自分と他人との距離を一定に保ちたがる。現代人の自閉性は、寂しがり屋が、多数の他人と繋がりを保持するための、妥協の産物なのではないだろうか。だから、「あーわかるわかるう」や「人それぞれ」を使いたがり、かつ、それらが同じような意味に染まっているのではないだろうか。ある年の芥川賞で、若い女性作家二人が(片方は史上最年少だった)受賞し、話題を呼んだ。その時の東京都知事の選評に、こんな文章があった。「現代における青春とは、なんと閉塞的なものなのだろうか。どの作品の登場者を眺めても、誰しもが周りに背を向け、孤独や無関心、あるいは無為の内に自分を置いてどうにか生きているという観を否めない」。この言葉は間違っている。寂しがり屋だから、即ち閉塞性を避けたいからこそ、距離を一定に保ちたがるのだ。自分と他人との距離を、他人とのそれに合わせることで、寂しさを紛らわせているのだ。結果、社会の傾向として、自分と他人との距離は、画一的になってしまう。そういう状態こそが「閉鎖的なもの」であると言われれば、「まあそういう考え方もあるでしょうね」と返す他ないが。何が言いたいかというと、現代の青春の中にいる者から言わせると、女性二人の受賞作品も同様だが、彼らは全く「周りに背を向け」られていないように、僕には思えるのだ。むしろ、周りにびくびく気を遣いながら、周りと同じ距離感を保とうと必死なのだ。そうすることでしか、自分の居場所を確保できないのだ。糞尿の大地にも落ちず、太陽に近づき過ぎることもない居場所に、赤信号を渡る「みなさん」と同じ居場所に、身を落ち着ける以外に術はないのだ。だからこそ、ライトノベルのような、自閉性の按配を統一してくれるような、毒にも薬にもならない小説が流行っているのではないか。
――昔書いた駄文から抜粋。
バカ丸出しの言葉でいうなら、構造主義からこっち、ポストモダンと一括りにしてもよいが(バカ丸出しで)、それは、父性原理主義と母性原理主義のせめぎ合いの状態である。西洋のように一度父性原理を徹底している文化であれば、それは母性原理という他者の統合と叙述可能な過程となろう。
しかし日本はどうであろうか。
父性原理主義にしても、河合隼雄氏の言うような中空構造を基底とした文化であるならば、母性原理が父性原理を統合するのか、父性原理が母性原理を統合するのか定まらないように思う。むしろどちらが主体なのかは関係ないようにすら思う。
日本文化は、ポストモダンという時流を、他文化より徹底してこなすべき、あるいは必然的にそこに留まってしまう文化なのではないだろうか。
いや別に名前はなんでもいいんだけどね。ポモだろーがなんだろうが。
ぶぢぇヴぃれっちょ、とかでも可。
――昔書いた駄文から抜粋。
バカ丸出しの言葉でいうなら、構造主義からこっち、ポストモダンと一括りにしてもよいが(バカ丸出しで)、それは、父性原理主義と母性原理主義のせめぎ合いの状態である。西洋のように一度父性原理を徹底している文化であれば、それは母性原理という他者の統合と叙述可能な過程となろう。
しかし日本はどうであろうか。
父性原理主義にしても、河合隼雄氏の言うような中空構造を基底とした文化であるならば、母性原理が父性原理を統合するのか、父性原理が母性原理を統合するのか定まらないように思う。むしろどちらが主体なのかは関係ないようにすら思う。
日本文化は、ポストモダンという時流を、他文化より徹底してこなすべき、あるいは必然的にそこに留まってしまう文化なのではないだろうか。
いや別に名前はなんでもいいんだけどね。ポモだろーがなんだろうが。
ぶぢぇヴぃれっちょ、とかでも可。
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