正直なんかいろいろ飽きてきた。
2008/02/18/Mon
正直なんかいろいろ飽きてきた。胃がもたれている感じ。そんな時はさっぱりしたものがいーやねー。水炊きとか。ポン酢に大根おろしたっぷりいれて。
そんな感じで木村敏たん(以下びんたんorびんちょうたん)論で遊んでる昨今。ニントンってなんだっけ。さすがの猿飛か。いっとんにとんさーんとんデブ。うおようつべあった。なっつううう。でぶやとかの「動けるデブ」ってなんか安心できるのはこういうインプリティングがあったからか(嘘)。
いや、なんていうかラカンとかクリステヴァとかと比べると木村論ってさっぱり系に感じる。ユングもそっち系。ファロセントリスムばりばりのとてもわかりやすくシンプルな構図を強引に(というと語弊がありそうだけどいいや)当てはめてくる感じ。だから使う方もさっぱり使える。ラカンがフランス料理ならクリステヴァはアジアンでユングとかびんたんはバーベキューみたいな。焼くだけ。っていうかカッターナイフで切り刻んで殺すより銃一発撃って殺しちゃった方がさっぱりしてそうじゃん? 罪悪感っていうかそういうのも少ない気がする。いやそんな経験ないけどさ。というわけでBGMニントほほほぉぉン聞いてるから変な文章になってる気がするけど気にせずいってみまひょ。
アンテイントラポストーってなんの呪文? フェストゥムの呪文です。あなたはそこにいますか? 糞にまみれたあああ。実は実況スレにいた。アニメ板にもちょこちょこと。特別編もよかったとかそんなんどうでもいくて。この記事でもちらっと触れてるけど適当だからアンテ・フェストゥムとかそんなんでほろほろぐぐってね。びんたん本買えとまでは言わないけど。あーあとフェストゥムって打つのめんでえから以下アンテ、イントラ、ポストで短縮表記。
アンテは恐怖症とか分裂病とか分裂病質なカンジィ、イントラは癲癇とかボーダーとかってカンジィ、アンテはパラノイアとか鬱とか離人症とかってカンジィ、ぐらいは書いておこう。
はてさて。
ラカン論では人間皆神経症者あるいはパラノイアあるいは倒錯者ってことになるんだが、ラカン派では神経症者ってのは大体ヒステリーと強迫症と恐怖症に分けられる。っていうかボーダー(境界例)とかガンムシ。精神病と神経症の差異は父の名を排除しているかどうかできっちり分けられるーって主張だから、精神病との境界なんてアーアーキコエナーイしてるわけやね。いややってるラカン派もいるんだろうが。そういえばユング派も分裂病好きだな。びんたんは現象学的アプローチが分裂病と相性がいいとかゆってるけど、わたしから言わせればファロセントリスムの対極にあるのが分裂病だからに過ぎなくね? となる。まあ自分と全く異なるものに惹かれるのは必然ですしね。ラカンの欲望は欠如に向かうとかユングの補償とかやのー。本当の意味での異性愛。
ふいでー。
そもそもフロイト以来の伝統で精神分析は神経症を主に相手してて、分裂病とか鬱病とか内因性のもんって苦手。びんたんはなんか現象学的精神病理学って奴らしい。ほへーん。なんでラカンとびんたんくっつけるのってあんまり意味感じられないけど、神経症視点つまりフロイト-ラカン論視点からびんたん論覗いてみようかな、というお遊び。遊ぶにはちょうどいいおもちゃだ、びんたん論。
お遊びだし結論から言っちゃおう。ヒステリーはアンテ+イントラで、強迫症はポスト+イントラなんじゃないだろうか。
このぐらいなら既に誰か言ってそうだし補足するならば、アンテなりポストなりっていう磁場にいながら、イントラっていう「ガス抜き」みたいなところを持っているのがヒステリーあるいは強迫症なんじゃないだろうか、ってカンジ。
この記事にも書いてあるが、ポストとはノエマ的自己の安定度が高いことを言うらしい。ラカン的に言えばそれは象徴的ファルスの比喩作用がきちんと働いてシニフィアン群を構造化できている、ということである。悪く言えば固定観念が強いということだ。これは男性性的であると言える。強迫症に男性患者が多くヒステリーに女性患者が多いということとあっさりと符合する。構造論的にも症例的にも辻褄が合うわけだ。
恐怖症はあれ。びんたんはアンテだっつってるけど、わたしは(成人の)対人(赤面)恐怖症なんか抑鬱症に近いと思うしパラノイアに似ているっていうのもわかるけれど、分裂病質だとは思えない。とはいえクリステヴァのアブジェクシオンにおける恐怖症などは、フロイトのハンス事例を基にしているのを見てもわかるように、幼児性的な恐怖症が土台になっている。夜怖いーお化け怖いーなんでも(言い過ぎ)怖いーってカンジの。こういうのは確かに分裂病質的だと思う。だからアンテもポストもありー、みたいな。っていうかヒステリーと強迫症の土台が恐怖症ってのがラカンの構図だしね。
精神分析的なヒステリーと強迫症と恐怖症の違いをざっくり説明しておこう。フロイト、ラカン、クリステヴァ各論ごちゃ混ぜにして(クリステヴァはフロイト派だけど)。
こういったものは、原光景的な、主体にとっては耐えられないほど不快(かつ魅惑的)な、トラウマ即ちアブジェクシオン的な領域をどこに設置するかで変わる。強迫症はそれを内部に、恐怖症は外部に、ヒステリーは内外の中間、比喩的にいうなら皮膚とか身体表層に設置する。だからヒステリーは「身体はエロス化し性器は非エロス化する」みたいなカンジになる。普通の人の「いつもは服着てるけどエッチする時は服を脱ぐ」みたいなんと逆っぽくなる。マンガでありがちキャラで喩えると見た目エロイ女教師が実は純情だったとかそんなん。外見エロの割に内面の意外な純心とか(おえっ)。具体的に言うならシャナのマージョリーとかナウシカのクシャナとかあんなん。二人ともトラウマを明確に設定してるし。クシャナの「我が夫になる者はもっと恐ろしいものを見るだろう(とかだっけ?)」とかはばっちりトラウマ即ちアブジェクシオン即ちおぞましさを皮膚に乗っけてますわな。そう考えるとクシャナのキンキラキンなコスチュームも納得がいくというもの(強引)。
……いかんいかん。ヒステリーは他人事のように思えんのでつい語っちまった。どーせヒステリーっぽいよ、わたしゃ。
強迫症は内部におぞましいものを設置するから反復行為即ちシニフィアンでそれを覆い隠そうする。恐怖症は外部即ち他者に設置するから他者が怖くなる。
では何故トラウマを他者に設置するのが土台になるかっていうのの説明は、トラウマから原光景を連鎖してそっからアブジェクシオンに繋げば理解できる。アブジェクシオンは棄却を意味する。これは自己から外に放り捨てることである。アブジェクシオンの構造はラカンの鏡像段階と相互関係にある。放り捨てなかったものをラカンは説いたわけだ。つまり、人間という個を持つ原因が鏡像段階になるのだが、少なくとも獣ではなく人間という個を持っている人間なら、みんながみんなアブジェクト(棄却すべきおぞましきもの)を一旦は自己の外部に放り投げてしまっているのだ。
神経症はその回帰の仕方によって症状が変わる、という理屈である。外部だから、他者に回帰するのがもっとも主流となろう。この外部は精神世界的な、独我論的な外部であるので、身体表層に回帰したり自己内部に回帰することもあろう。そういうカンジの話である。
んで。びんたん論の話だっけか。
さっきわたしは「ガス抜き」と書いた。ガスってなんだろうって普通思わない? 何を抜くのよって。思わないか。いや別にいいんだけど、このガスがアブジェクシオンってカンジになるのかもね。
このアブジェクシオンは情動というより欲動に近いものである。おぞましくかつ魅惑的な欲動といえば(負的な方に重心があるのは自覚して言うが)肛門欲動である。となると、ガス抜きとは比喩的に言えば放屁みたいなものである、と言えよう。イントラ・フェストゥムとは肛門が緩んでいる傾向にあると喩えられる(汚い比喩であることはわかっている。しかしこういう言い方をしないとアブジェクシオン論が接続できない)。
ともかく、ヒステリーや強迫症は、純正アンテの分裂病質や純正ポストの抑鬱症と比して、アンテかポストか定め難い。それはイントラ的領域を含んでいるからである、ということを言いたかったのだ。
前の記事の繰り返しになるが、このイントラ的領域について、びんたん論では正的な側面しか述べられていないのがわたしは気に入らない。
びんたん論では他者を絶対的未知性として捉え、確かなものとしての、確信できる「わたし」としての自己をノエマ的自己とし、そのノエマ的自己と他者の「あいだ」をノエシス的自己と表現し、このノエマ的自己とノエシス的自己のズレあるいは接続不良が精神疾患の原因である、としている。本人は失敗の論だとし、確かにその文章にはぎこちなさが感じられるものの、ノエマ的自己をシニフィアン的自己、ノエシス的自己をシニフィエ的自己と読み替えている。つまりそれらは各々象徴界、想像界に対応し、絶対未知性の他者とは到達不可能なものとしての現実界に対応していると言えよう。
びんたん論における「自他の融合状態」とは、現実界や想像界の象徴界への侵犯として解釈できるわけだが、彼はそれを「透明な沈黙」や、それこそ癲癇発作の「恍惚感」として捉えている。確かに癲癇発作に多幸感や恍惚感が伴うことは多々言われていることだが、それは不安や恐怖などと背中合わせのものである。
これについてはクリステヴァのアブジェクシオン論が明確に交通整理できている。セミオティックという象徴界の境界領域。その侵犯としてのアブジェクシオン。それは情動的には両価的なものとして現れる。
びんたん論は、この両価的側面の、正的な側面しか述べていない。彼の論は、(分裂病であろうが癲癇であろうが)自らのキチガイ性をもっとも恐れているのはキチガイ自身であるという「現実」をなおざりにしているのだ。
「悲劇のヒロイン症候群」なる揶揄的言葉がある。
これを女性的なるものの特徴として捉えるならば、女が不幸や恐怖を感じるから「こそ」それに惹かれてしまう、そこに触れてしまうことについて、もっとも原初的かつ人間的反応であると言わなければならない。女は「男って単純ね」という言葉を返せばよいのだ。
そう、「びんたんって単純ね」ということだ。
両価的な情動を理解できない人間は、人間の心について語ってはいけないとすらわたしは思う。そういう「男」たちは、常に精神の構造について負的な側面を「棄却」して「物語って」しまうからである。
わたしはこのブログで常々(精神分析学、深層心理学の中で)ユング論がもっともファロセントリックであると述べてきた。木村氏の「他者・あいだ・自己」論とユングの層状の無意識論と比べると、なんともそっくりではないか。まるで少年活劇漫画の設定のごとく「明瞭でシンプル」なものである。勧善懲悪のごとくである。
――だから、わたしは「びんたん」って呼んじゃうんだけどね。
かーええのう、中二病のオトコノコって。
そんな感じで木村敏たん(以下びんたんorびんちょうたん)論で遊んでる昨今。ニントンってなんだっけ。さすがの猿飛か。いっとんにとんさーんとんデブ。うおようつべあった。なっつううう。でぶやとかの「動けるデブ」ってなんか安心できるのはこういうインプリティングがあったからか(嘘)。
いや、なんていうかラカンとかクリステヴァとかと比べると木村論ってさっぱり系に感じる。ユングもそっち系。ファロセントリスムばりばりのとてもわかりやすくシンプルな構図を強引に(というと語弊がありそうだけどいいや)当てはめてくる感じ。だから使う方もさっぱり使える。ラカンがフランス料理ならクリステヴァはアジアンでユングとかびんたんはバーベキューみたいな。焼くだけ。っていうかカッターナイフで切り刻んで殺すより銃一発撃って殺しちゃった方がさっぱりしてそうじゃん? 罪悪感っていうかそういうのも少ない気がする。いやそんな経験ないけどさ。というわけでBGMニントほほほぉぉン聞いてるから変な文章になってる気がするけど気にせずいってみまひょ。
アンテイントラポストーってなんの呪文? フェストゥムの呪文です。あなたはそこにいますか? 糞にまみれたあああ。実は実況スレにいた。アニメ板にもちょこちょこと。特別編もよかったとかそんなんどうでもいくて。この記事でもちらっと触れてるけど適当だからアンテ・フェストゥムとかそんなんでほろほろぐぐってね。びんたん本買えとまでは言わないけど。あーあとフェストゥムって打つのめんでえから以下アンテ、イントラ、ポストで短縮表記。
アンテは恐怖症とか分裂病とか分裂病質なカンジィ、イントラは癲癇とかボーダーとかってカンジィ、アンテはパラノイアとか鬱とか離人症とかってカンジィ、ぐらいは書いておこう。
はてさて。
ラカン論では人間皆神経症者あるいはパラノイアあるいは倒錯者ってことになるんだが、ラカン派では神経症者ってのは大体ヒステリーと強迫症と恐怖症に分けられる。っていうかボーダー(境界例)とかガンムシ。精神病と神経症の差異は父の名を排除しているかどうかできっちり分けられるーって主張だから、精神病との境界なんてアーアーキコエナーイしてるわけやね。いややってるラカン派もいるんだろうが。そういえばユング派も分裂病好きだな。びんたんは現象学的アプローチが分裂病と相性がいいとかゆってるけど、わたしから言わせればファロセントリスムの対極にあるのが分裂病だからに過ぎなくね? となる。まあ自分と全く異なるものに惹かれるのは必然ですしね。ラカンの欲望は欠如に向かうとかユングの補償とかやのー。本当の意味での異性愛。
ふいでー。
そもそもフロイト以来の伝統で精神分析は神経症を主に相手してて、分裂病とか鬱病とか内因性のもんって苦手。びんたんはなんか現象学的精神病理学って奴らしい。ほへーん。なんでラカンとびんたんくっつけるのってあんまり意味感じられないけど、神経症視点つまりフロイト-ラカン論視点からびんたん論覗いてみようかな、というお遊び。遊ぶにはちょうどいいおもちゃだ、びんたん論。
お遊びだし結論から言っちゃおう。ヒステリーはアンテ+イントラで、強迫症はポスト+イントラなんじゃないだろうか。
このぐらいなら既に誰か言ってそうだし補足するならば、アンテなりポストなりっていう磁場にいながら、イントラっていう「ガス抜き」みたいなところを持っているのがヒステリーあるいは強迫症なんじゃないだろうか、ってカンジ。
この記事にも書いてあるが、ポストとはノエマ的自己の安定度が高いことを言うらしい。ラカン的に言えばそれは象徴的ファルスの比喩作用がきちんと働いてシニフィアン群を構造化できている、ということである。悪く言えば固定観念が強いということだ。これは男性性的であると言える。強迫症に男性患者が多くヒステリーに女性患者が多いということとあっさりと符合する。構造論的にも症例的にも辻褄が合うわけだ。
恐怖症はあれ。びんたんはアンテだっつってるけど、わたしは(成人の)対人(赤面)恐怖症なんか抑鬱症に近いと思うしパラノイアに似ているっていうのもわかるけれど、分裂病質だとは思えない。とはいえクリステヴァのアブジェクシオンにおける恐怖症などは、フロイトのハンス事例を基にしているのを見てもわかるように、幼児性的な恐怖症が土台になっている。夜怖いーお化け怖いーなんでも(言い過ぎ)怖いーってカンジの。こういうのは確かに分裂病質的だと思う。だからアンテもポストもありー、みたいな。っていうかヒステリーと強迫症の土台が恐怖症ってのがラカンの構図だしね。
精神分析的なヒステリーと強迫症と恐怖症の違いをざっくり説明しておこう。フロイト、ラカン、クリステヴァ各論ごちゃ混ぜにして(クリステヴァはフロイト派だけど)。
こういったものは、原光景的な、主体にとっては耐えられないほど不快(かつ魅惑的)な、トラウマ即ちアブジェクシオン的な領域をどこに設置するかで変わる。強迫症はそれを内部に、恐怖症は外部に、ヒステリーは内外の中間、比喩的にいうなら皮膚とか身体表層に設置する。だからヒステリーは「身体はエロス化し性器は非エロス化する」みたいなカンジになる。普通の人の「いつもは服着てるけどエッチする時は服を脱ぐ」みたいなんと逆っぽくなる。マンガでありがちキャラで喩えると見た目エロイ女教師が実は純情だったとかそんなん。外見エロの割に内面の意外な純心とか(おえっ)。具体的に言うならシャナのマージョリーとかナウシカのクシャナとかあんなん。二人ともトラウマを明確に設定してるし。クシャナの「我が夫になる者はもっと恐ろしいものを見るだろう(とかだっけ?)」とかはばっちりトラウマ即ちアブジェクシオン即ちおぞましさを皮膚に乗っけてますわな。そう考えるとクシャナのキンキラキンなコスチュームも納得がいくというもの(強引)。
……いかんいかん。ヒステリーは他人事のように思えんのでつい語っちまった。どーせヒステリーっぽいよ、わたしゃ。
強迫症は内部におぞましいものを設置するから反復行為即ちシニフィアンでそれを覆い隠そうする。恐怖症は外部即ち他者に設置するから他者が怖くなる。
では何故トラウマを他者に設置するのが土台になるかっていうのの説明は、トラウマから原光景を連鎖してそっからアブジェクシオンに繋げば理解できる。アブジェクシオンは棄却を意味する。これは自己から外に放り捨てることである。アブジェクシオンの構造はラカンの鏡像段階と相互関係にある。放り捨てなかったものをラカンは説いたわけだ。つまり、人間という個を持つ原因が鏡像段階になるのだが、少なくとも獣ではなく人間という個を持っている人間なら、みんながみんなアブジェクト(棄却すべきおぞましきもの)を一旦は自己の外部に放り投げてしまっているのだ。
神経症はその回帰の仕方によって症状が変わる、という理屈である。外部だから、他者に回帰するのがもっとも主流となろう。この外部は精神世界的な、独我論的な外部であるので、身体表層に回帰したり自己内部に回帰することもあろう。そういうカンジの話である。
んで。びんたん論の話だっけか。
さっきわたしは「ガス抜き」と書いた。ガスってなんだろうって普通思わない? 何を抜くのよって。思わないか。いや別にいいんだけど、このガスがアブジェクシオンってカンジになるのかもね。
このアブジェクシオンは情動というより欲動に近いものである。おぞましくかつ魅惑的な欲動といえば(負的な方に重心があるのは自覚して言うが)肛門欲動である。となると、ガス抜きとは比喩的に言えば放屁みたいなものである、と言えよう。イントラ・フェストゥムとは肛門が緩んでいる傾向にあると喩えられる(汚い比喩であることはわかっている。しかしこういう言い方をしないとアブジェクシオン論が接続できない)。
ともかく、ヒステリーや強迫症は、純正アンテの分裂病質や純正ポストの抑鬱症と比して、アンテかポストか定め難い。それはイントラ的領域を含んでいるからである、ということを言いたかったのだ。
前の記事の繰り返しになるが、このイントラ的領域について、びんたん論では正的な側面しか述べられていないのがわたしは気に入らない。
びんたん論では他者を絶対的未知性として捉え、確かなものとしての、確信できる「わたし」としての自己をノエマ的自己とし、そのノエマ的自己と他者の「あいだ」をノエシス的自己と表現し、このノエマ的自己とノエシス的自己のズレあるいは接続不良が精神疾患の原因である、としている。本人は失敗の論だとし、確かにその文章にはぎこちなさが感じられるものの、ノエマ的自己をシニフィアン的自己、ノエシス的自己をシニフィエ的自己と読み替えている。つまりそれらは各々象徴界、想像界に対応し、絶対未知性の他者とは到達不可能なものとしての現実界に対応していると言えよう。
びんたん論における「自他の融合状態」とは、現実界や想像界の象徴界への侵犯として解釈できるわけだが、彼はそれを「透明な沈黙」や、それこそ癲癇発作の「恍惚感」として捉えている。確かに癲癇発作に多幸感や恍惚感が伴うことは多々言われていることだが、それは不安や恐怖などと背中合わせのものである。
これについてはクリステヴァのアブジェクシオン論が明確に交通整理できている。セミオティックという象徴界の境界領域。その侵犯としてのアブジェクシオン。それは情動的には両価的なものとして現れる。
びんたん論は、この両価的側面の、正的な側面しか述べていない。彼の論は、(分裂病であろうが癲癇であろうが)自らのキチガイ性をもっとも恐れているのはキチガイ自身であるという「現実」をなおざりにしているのだ。
「悲劇のヒロイン症候群」なる揶揄的言葉がある。
これを女性的なるものの特徴として捉えるならば、女が不幸や恐怖を感じるから「こそ」それに惹かれてしまう、そこに触れてしまうことについて、もっとも原初的かつ人間的反応であると言わなければならない。女は「男って単純ね」という言葉を返せばよいのだ。
そう、「びんたんって単純ね」ということだ。
両価的な情動を理解できない人間は、人間の心について語ってはいけないとすらわたしは思う。そういう「男」たちは、常に精神の構造について負的な側面を「棄却」して「物語って」しまうからである。
わたしはこのブログで常々(精神分析学、深層心理学の中で)ユング論がもっともファロセントリックであると述べてきた。木村氏の「他者・あいだ・自己」論とユングの層状の無意識論と比べると、なんともそっくりではないか。まるで少年活劇漫画の設定のごとく「明瞭でシンプル」なものである。勧善懲悪のごとくである。
――だから、わたしは「びんたん」って呼んじゃうんだけどね。
かーええのう、中二病のオトコノコって。
スポンサーサイト