ハイブリッド「うんこ」
2008/03/30/Sun
なんか気が向いたのでこのブログの最初の方の記事を読んでいた。
チャット仲間には「最初の頃はカタイよねー」と笑われた記事たちである。
うわあ、はがゆい……。
と自分でも思う。恥ずかしはがゆい。
いやそんなのは置いといて。
今読んでもっていうか大分経って読んだからだろうけど、今一番自分でぐっとくる記事がこれだ。ぐっとくるっていうか笑える。
最近のこの記事と読み比べるとなお笑える。
最初の方の記事のわたし自身が、まさに後の記事で唾を吐いている「キモチワルイババア」だったのだ。
前者の記事の能の件のところだけ読むと、後の記事の「透明な沈黙」にうっとりするババアとなんら変わらない。
うきゃきゃ。おもれー。
いやー、まあいいんだけど。
言い訳を並べるなら、お能の「幽玄」ってことかなあ。
この記事でアブジェクシオンと怪談感の繋がりに触れているけど、幽玄と怪談って微妙に繋がらなくない? いや「幽」って言葉だけやんけ、と自分で思って不安になった。
ということでネット辞書引いてみた。あーこれこれ。
=====
(イ)正徹の歌論、世阿弥の能楽論では、優雅・妖艶な情趣。
=====
優雅はまあ置いといて、妖艶は演歌的女の情念との繋がりを示した記事の文章と連鎖可能だ。
記事中では、2ちゃん的なものの元祖である「あやしいわーるど」をもじって「ぁゃιさ」とか書いているけど、「妖しさ」よね、要は。
今読み返すとお祭りっていう背景も作用してたんだろうね。お祭りって妖しい感じするじゃん。性的にも。ぶっちゃけるとその時飲んでた(はずだ)し。
わたしは、木村敏氏の著作中の言葉なら、「自他の融合状態」を探る思考を続けてきたと言える。ブログ当初の論ならば、「確かなもの/曖昧なもの」二項論理の「曖昧なもの」を探求してきたわけだ。中沢新一氏の対称性論ならば、「非A≠A」の「≠」としての曖昧なもの。「≠」の領域は(存在するならば)非AでもありAでもあるのだから、この領域に視点を設定することで、非AとAが交換可能な対称性が産出される。
思考を重ねるにつれ、それはまるっきり美しいもの、正しいものというわけではなく、むしろ汚らしいもの、おぞましいものであることがわかった。
「愛とは不潔なもの」という中二病的感覚と同種だな。退行バンザイ。
この点について、デリダもラカンもプラトニックシナジー論も、道具として物足りないものに思えた。裏切られたみたいなカンジ。彫刻刀にしろ絵筆にしろ楽器にしろ演技メソッドにしろ、使っているうちに「あれえ?」みたいな、突然しっくりこなくなることってあるじゃない。身体の一部だったものが急に異物になってしまうような。いや別にデリダもラカンもプラトニックシナジー論も裏切ったわけじゃないんだけどね。わたしが自分勝手にそう感じただけ。てかこの記事きめえ。
まあそんな思考の中で超イイカンジに利用できる論としてクリステヴァのアブジェクシオン論を見つけたわけやねえ。
この「自他の融合状態」の、負的なアブジェクシオン面のシンボルとして、わたしは「糞便」という言葉を用いるようになった。
いささかあざと過ぎると自分でも思うが、男性的な(最近のお気に入り言葉では「きれいな目をしたジャイアン」的な)「きれいなグレートマザーあるいはアニマしか見えましぇん」に対抗するには、ここまで言わなくてはならないと今でも思う。要するに、セックスの最中に言う「あんたってキモイ」と同種なものとしての、「愛とはうんこである」だ。
しかも、部分欲動としては大人になった後でももっとも元の輪郭を残しているのが肛門欲動なわけだし、この「自他の融合状態」は欲望的なものではなく欲動的なものであるという意味も付与できる。また、正的な欲望的な面も、ラカンの「対象aとしての糞便」でカバーできるし。「自他の融合状態とはうんこである」なら。欲望でもあり欲動でもある、みたいな。
「うんこ」って超便利ー。超便ってなんかカコエエな。いやむしろ超糞か。
いやまあ、個人的には「物とは悪意である」の方がきれいで好きなんだけどね。なんだかんだゆって潔癖症なわたしであった。
結構無理して使ってるのよ、「うんこ」。別にスカトロマニアでもないし。と言っておきたい。ここだけは。自分可愛さ故に。
クロスワードパズルの解答としての「うんこ」みたいな。
要するに、「うんこ」ってものすごく中途半端な意味を、即ち(情動的に)多様な意味を持てるのよね。クリステヴァは度々アブジェクシオンを「ホットミルクの膜」とかって喩えているけど、そういった境界的なもの=中途半端状態も見事にカバーできる。さらに言えば、神話において「うんこ」と「女性」は比喩的に連鎖していることを、東ゆみこ氏の著作『クソマルの神話学』が明らかにしている。今風に良く言えば「ハイブリッドな意味としてのうんこ」。
後はまあ、ぶっちゃけるとインパクト勝負?
「モノ自体とは悪意である。従って、モノ自体に昇華された、日常的現実という幻想の中のあなたとわたしが心中する以外に決して到達することのできない、ラカン的な意味での現実のあなたとわたしは、悪意である。あるいは、独我論的にわたしの中にあなたが存在する、その中にあなたの愛するわたしが存在する、ラカン論ならば外密という言葉で要約可能な、あなたを愛している、あなたに愛されているという現実は、悪意である」
なんてヤロウに言ってもピンと来るわけないじゃん。基本男って単純だし。いいとこ「いやよいやよも好きのうち」というオヤジ臭に塗れた糞つまんねえ言葉でしか要約できないもんだ。まあせいぜいラカンの「現実界とは命のしかめっ面である」程度だろうな。
んなのより、
「あんたのセックスって、うんこよね」
ぐらい言った方がインパクトあるし、意味のハイブリッド性でいろんな言い訳ができる。いやわたしは言い訳しないがね。っていうかそもそもリアルでんなこと言うわけなかろうもん。その分ブログでぶちまけているのかもしれない。
ちょうど今見てた『CSI:マイアミ4』でこんなシーンがあってな。単に男が女口説いてるだけのなんでもないシーンなんだけど。
男「女性について色々知りたいんだ。(女性としての)君は、純愛とセックス、どっちが欲しい?」
女「両方」
あーそうそう、みたいな。
この「両方」を代理表象するのに、再表象するのに「うんこ」ほどいろんな言葉がぶら下がる言葉はないと思うのだよね。思想として言語を再生産するのにこれほど都合のいい言葉はない、と。
まあリアルならんな女「ビッチ!」と言われて終了なんだろうけどさ。
うんこじゃないけど、ケガレとしての麻薬に溺れている(白血病の痛み止めって言い訳は付加されてるけど)デルコの姉ちゃんとホレイショ様付き合うことになったしなあ。つか躊躇するホレイショ様かわええ(既に末期)。
うー、なんかあざといカンジはするけど。この辺。どう見ても鬱展開フラグです。ありがとうございました。てなカンジでますますオクサマ向けっぽい。
いやCSIはどうでもよくて。
ここまで読み返すと、笙野頼子氏の短編『アケボノノ帯』(『二百回忌』所収)みたいだなあと自分でオモタ。
うー、別にうんこを神聖化してるつもりはないんだけどなあ。わたしがうんこを汚らわしいものだと思っている限り、この言葉は意味を持つ、ってカンジかなあ。いやいつ神聖化しちゃうかわからないけど。
最近の、媚びじゃないけど馴れ馴れしくだらしない口調はそういうことなんだろうねえ。「うんこ」という言葉を吐く場合、形式ばった、潔癖症的な学問的口調じゃ(思考あるいは比喩連鎖のテンポに)間に合わない、みたいな。
学問なんてなホントただのパズルなのよねえ。全体の絵を知っているのにピースを組み立てなきゃいけないジグソーパズル。
っていうかこの短編の登場人物、うんこを神聖視する龍子は『水晶内制度』とか『おんたこシリーズ』にも関与してるんだよね。
あーなるほどなー。わたしはウラミズモの人間だったのか。
ウラミズモの人間でいうなら、わたしは人形愛派になるんだろうなあ。「あなたじゃないあなた」なんて言い方はまさにそんなカンジ。
そんなこんなで最近「双子母娘」という一昔前流行った概念を思索している。
文脈飛んでいるように思えるけどわたしの中では繋がっているからまあ酔っ払いの会話みたいなもんだと思って。
結論から言っちゃうと、双子母娘の「娘」たちって、女性同性愛というより、「母」をキャラ化しているんじゃなかろうか、と。女性的抑鬱症より男性的抑鬱症に近い精神構造をしているんじゃなかろうか、と思ったのだ。アンテ・フェストゥム人間はむしろドッペルゲンガーを恐れる、みたいなカンジ。
精神分析の理屈では、女性同性愛は異性愛となる。「女性」という言葉そのものに、自分と異なる性質という意味での「異性」なる意味が含まれるからだ。びんたん論ならば絶対的未知性としての他者。女性にとっても「女性」とは暗黒大陸なのだ。だからラカン派の藤田博史氏なんかは完全なる異性愛としてやや興奮気味にレズビアンを語っている。
そういう意味では、双子母娘の愛情関係は、(精神分析的な、女性同性愛としての、本当の言葉の意味としての)異性愛というより、(自分と類似した性質を愛してしまう)同性愛に近いものじゃないだろうか、と思えてきたのだ。もっと言うなら、ウラミズモ国民。愛情の始原にいる母を、アニメキャラに対するがごとく、ぬいぐるみや人形に対するがごとく愛する女たち。いやむしろ自分もアニメキャラに、ぬいぐるみや人形になっているのか。わたしもそうなのだろう。「うんこ」という言葉を捨てたならば。うんこを神聖視する龍子になってしまったならば。セックスの最中に「あんたってキモイ」と言わなくなれば。チャット仲間によく言われる「ツンデレ」というキャラを享受したならば。
まあ、「うんこ」が自虐じゃなくなったら、ってことかのう。
糞袋である人体より、ぬいぐるみや人形の方がきれいに決まっている。だからこそ、ぬいぐるみを裂くのだ。それが自分であるのか愛するあなたであるのかは関係ない。わたしの中のあなたを、あなたの中のわたしを裂くのだから。ただ、糞袋ではないと、あるいは糞袋であると歓喜、絶望するために。ただ、現実を享楽するために。
『水晶内制度』の作中の笙野氏は、愛する人形を燃やしてしまった。
本当に、紙一重だ。
他人をキャラ化して見るということは、他人の汚らわしいところを見て「あげない」ということでもある。そういう意味では、とてもマナーの良い人付き合いとなる。原則的に。双子母娘の人たちってなんとなく潔癖症っぽいじゃない、って強引か。
しかし悪く言うのなら、それは他人を単純化して見ていることになる。他人の様々な情動を意味する複雑で曖昧で微妙な表情の変化を、まるでアニメのセル画のごとく単純化させてしまうことになる。
ああそういう意味での「オタクは天使である」なのかあ。
あーなんか、好きな方選べばいいんでね? と思ってきてしまった……。
なんかただそういうことなだけで、どっちでもいいやー、みたいな。モノは言い様、ってだけで。
うーんいかんなー、最近飽きるの早いなあ……。
つーかクリステヴァの描く女性抑鬱症ってなんでこんなにアスペあるいはスキゾっぽいのだろう?
つーか彼女の著作『黒い太陽』でもっとも重要なんは女性的抑鬱症だろうが。事実最後の一章割いて述べてるんだし。それをなんだ? キリスト教的鬱(「オレたちゃ人間である限りケガレなんだー、鬱だ死のう」)がテーマだとか。アホか。んなもんとっくに『恐怖の権力』で述べておろうが。アウトラインとして示したものの、新約聖書に纏わるところについての具体的事例を書いてるだけじゃん。よっぽど学問という場は「女」が嫌いらしい。嫌いつか見えてないのだろうな。「女=うんこ」なのだから仕方ないか。わざわざトイレの中のうんこを覗き込む物好きはいないやな。いや確かに女にとっても「女」はわからんちん、っていうのは同意できるが。わからんちん、っていうのは言語化ムズカシーって意味でな。
ポスト・フェストゥムどもの言葉はお腹いっぱいです。しょーじき飽きた。だあってみんなおんなじじゃない。
そっくりだけどちがう。ちがうけどへいき。なぜなぜへいきなの? そっくりだから。
そりゃあ自己の拠り所がシニフィアン的自己なわけだから似かよるのは必然なのだろうなあ。多数派の人間として生まれちゃった業なので諦めてください。
食人だとかという倒錯的幻想、ある意味「黒い」少女幻想的なもの、それが問題じゃないのかね。たとえば黒ミサや悪魔や鬼や地獄に惹かれてしまう少女とか、そんな「黒い少女」。少女マンガでも推理小説でもオタク世界でも王道だろうが。谷山浩子とか聞いてみろ、あほんだらども。蛇足としてそれがそのまま大人になった事例を挙げておこう。ゆっとくが聖飢魔IIファンとかは「黒い少女」じゃないからな。あんなので黒さが満足できるヤツァよっぽど脳内お花畑なんだろう。わたしはお笑いとして好きだったけど、っていつの時代の人間なんだわたしゃ。むしろリストカッターに近いのだろうな。「黒い少女」ってな。
あ、この「あほんだら」は精神分析的言説を固定観念ばりばりでしか読めない文学者どもに向けてな。フロイト-ラカン理解できないなら読むな、とさえ言いたひ。いや読んでもいいが学者面して語るなと言いたひ。キチガイの言葉を理解するための学問を固定観念ばりばりで読めるわけなかろうが。この辺の奴らは女であっても「きれいな目をしたジャイアン」どもだ。自分がケガレだという思考が身体に落ちていない奴ら。自己を美化するのがとてもお上手な方たち。自己を美化することは他者を侮蔑することと表裏一体のものだと気づけない脳内お花畑な人たち。まさに「異常という方が異常」と言うことが「異常者」を貶めていることであるのに気づけない幸せな鈍感者たち。
ポスト・フェストゥム人間がこっちの領域に近づくには、人一倍の努力が必要ってことだ。
ポスト人間にとって、「人類皆ケガレである⊃私はケガレである」という思考が終着点ならば、アンテ人間は、女性的抑鬱症者たちは、黒い少女たちは、常に自虐してしまう悲劇のヒロイン症候群の女たちは、ヒステリーは、アスペルガーは、スキゾイドは、幼児性恐怖症としてのハンス坊やは、キチガイは、笙野頼子は、「私は、世界はケガレである」という体感が出発点なのだ。
……そこからどこ向かうかはそれぞれ違うんだろうけどね。
きれいなジャイアンフィギュア5040円かあ……。
リカのポケットはいつもふくらんでいる。キャラメルやチョコレートやチューインガム。
べたべたの甘い夢で。
リカのポケットにある日スキマができた。少し油断をしてよそ見してたとき。
暗闇がなだれこんだ。
……おうちにはとても帰れない。
デュラスの『太平洋の防波堤』を読んでわからなかったら、谷山浩子でも聞けばよいのだ。
びヴっちょもっ!(自分への景気づけ)
チャット仲間には「最初の頃はカタイよねー」と笑われた記事たちである。
うわあ、はがゆい……。
と自分でも思う。恥ずかしはがゆい。
いやそんなのは置いといて。
今読んでもっていうか大分経って読んだからだろうけど、今一番自分でぐっとくる記事がこれだ。ぐっとくるっていうか笑える。
最近のこの記事と読み比べるとなお笑える。
最初の方の記事のわたし自身が、まさに後の記事で唾を吐いている「キモチワルイババア」だったのだ。
前者の記事の能の件のところだけ読むと、後の記事の「透明な沈黙」にうっとりするババアとなんら変わらない。
うきゃきゃ。おもれー。
いやー、まあいいんだけど。
言い訳を並べるなら、お能の「幽玄」ってことかなあ。
この記事でアブジェクシオンと怪談感の繋がりに触れているけど、幽玄と怪談って微妙に繋がらなくない? いや「幽」って言葉だけやんけ、と自分で思って不安になった。
ということでネット辞書引いてみた。あーこれこれ。
=====
(イ)正徹の歌論、世阿弥の能楽論では、優雅・妖艶な情趣。
=====
優雅はまあ置いといて、妖艶は演歌的女の情念との繋がりを示した記事の文章と連鎖可能だ。
記事中では、2ちゃん的なものの元祖である「あやしいわーるど」をもじって「ぁゃιさ」とか書いているけど、「妖しさ」よね、要は。
今読み返すとお祭りっていう背景も作用してたんだろうね。お祭りって妖しい感じするじゃん。性的にも。ぶっちゃけるとその時飲んでた(はずだ)し。
わたしは、木村敏氏の著作中の言葉なら、「自他の融合状態」を探る思考を続けてきたと言える。ブログ当初の論ならば、「確かなもの/曖昧なもの」二項論理の「曖昧なもの」を探求してきたわけだ。中沢新一氏の対称性論ならば、「非A≠A」の「≠」としての曖昧なもの。「≠」の領域は(存在するならば)非AでもありAでもあるのだから、この領域に視点を設定することで、非AとAが交換可能な対称性が産出される。
思考を重ねるにつれ、それはまるっきり美しいもの、正しいものというわけではなく、むしろ汚らしいもの、おぞましいものであることがわかった。
「愛とは不潔なもの」という中二病的感覚と同種だな。退行バンザイ。
この点について、デリダもラカンもプラトニックシナジー論も、道具として物足りないものに思えた。裏切られたみたいなカンジ。彫刻刀にしろ絵筆にしろ楽器にしろ演技メソッドにしろ、使っているうちに「あれえ?」みたいな、突然しっくりこなくなることってあるじゃない。身体の一部だったものが急に異物になってしまうような。いや別にデリダもラカンもプラトニックシナジー論も裏切ったわけじゃないんだけどね。わたしが自分勝手にそう感じただけ。てかこの記事きめえ。
まあそんな思考の中で超イイカンジに利用できる論としてクリステヴァのアブジェクシオン論を見つけたわけやねえ。
この「自他の融合状態」の、負的なアブジェクシオン面のシンボルとして、わたしは「糞便」という言葉を用いるようになった。
いささかあざと過ぎると自分でも思うが、男性的な(最近のお気に入り言葉では「きれいな目をしたジャイアン」的な)「きれいなグレートマザーあるいはアニマしか見えましぇん」に対抗するには、ここまで言わなくてはならないと今でも思う。要するに、セックスの最中に言う「あんたってキモイ」と同種なものとしての、「愛とはうんこである」だ。
しかも、部分欲動としては大人になった後でももっとも元の輪郭を残しているのが肛門欲動なわけだし、この「自他の融合状態」は欲望的なものではなく欲動的なものであるという意味も付与できる。また、正的な欲望的な面も、ラカンの「対象aとしての糞便」でカバーできるし。「自他の融合状態とはうんこである」なら。欲望でもあり欲動でもある、みたいな。
「うんこ」って超便利ー。超便ってなんかカコエエな。いやむしろ超糞か。
いやまあ、個人的には「物とは悪意である」の方がきれいで好きなんだけどね。なんだかんだゆって潔癖症なわたしであった。
結構無理して使ってるのよ、「うんこ」。別にスカトロマニアでもないし。と言っておきたい。ここだけは。自分可愛さ故に。
クロスワードパズルの解答としての「うんこ」みたいな。
要するに、「うんこ」ってものすごく中途半端な意味を、即ち(情動的に)多様な意味を持てるのよね。クリステヴァは度々アブジェクシオンを「ホットミルクの膜」とかって喩えているけど、そういった境界的なもの=中途半端状態も見事にカバーできる。さらに言えば、神話において「うんこ」と「女性」は比喩的に連鎖していることを、東ゆみこ氏の著作『クソマルの神話学』が明らかにしている。今風に良く言えば「ハイブリッドな意味としてのうんこ」。
後はまあ、ぶっちゃけるとインパクト勝負?
「モノ自体とは悪意である。従って、モノ自体に昇華された、日常的現実という幻想の中のあなたとわたしが心中する以外に決して到達することのできない、ラカン的な意味での現実のあなたとわたしは、悪意である。あるいは、独我論的にわたしの中にあなたが存在する、その中にあなたの愛するわたしが存在する、ラカン論ならば外密という言葉で要約可能な、あなたを愛している、あなたに愛されているという現実は、悪意である」
なんてヤロウに言ってもピンと来るわけないじゃん。基本男って単純だし。いいとこ「いやよいやよも好きのうち」というオヤジ臭に塗れた糞つまんねえ言葉でしか要約できないもんだ。まあせいぜいラカンの「現実界とは命のしかめっ面である」程度だろうな。
んなのより、
「あんたのセックスって、うんこよね」
ぐらい言った方がインパクトあるし、意味のハイブリッド性でいろんな言い訳ができる。いやわたしは言い訳しないがね。っていうかそもそもリアルでんなこと言うわけなかろうもん。その分ブログでぶちまけているのかもしれない。
ちょうど今見てた『CSI:マイアミ4』でこんなシーンがあってな。単に男が女口説いてるだけのなんでもないシーンなんだけど。
男「女性について色々知りたいんだ。(女性としての)君は、純愛とセックス、どっちが欲しい?」
女「両方」
あーそうそう、みたいな。
この「両方」を代理表象するのに、再表象するのに「うんこ」ほどいろんな言葉がぶら下がる言葉はないと思うのだよね。思想として言語を再生産するのにこれほど都合のいい言葉はない、と。
まあリアルならんな女「ビッチ!」と言われて終了なんだろうけどさ。
うんこじゃないけど、ケガレとしての麻薬に溺れている(白血病の痛み止めって言い訳は付加されてるけど)デルコの姉ちゃんとホレイショ様付き合うことになったしなあ。つか躊躇するホレイショ様かわええ(既に末期)。
うー、なんかあざといカンジはするけど。この辺。どう見ても鬱展開フラグです。ありがとうございました。てなカンジでますますオクサマ向けっぽい。
いやCSIはどうでもよくて。
ここまで読み返すと、笙野頼子氏の短編『アケボノノ帯』(『二百回忌』所収)みたいだなあと自分でオモタ。
うー、別にうんこを神聖化してるつもりはないんだけどなあ。わたしがうんこを汚らわしいものだと思っている限り、この言葉は意味を持つ、ってカンジかなあ。いやいつ神聖化しちゃうかわからないけど。
最近の、媚びじゃないけど馴れ馴れしくだらしない口調はそういうことなんだろうねえ。「うんこ」という言葉を吐く場合、形式ばった、潔癖症的な学問的口調じゃ(思考あるいは比喩連鎖のテンポに)間に合わない、みたいな。
学問なんてなホントただのパズルなのよねえ。全体の絵を知っているのにピースを組み立てなきゃいけないジグソーパズル。
っていうかこの短編の登場人物、うんこを神聖視する龍子は『水晶内制度』とか『おんたこシリーズ』にも関与してるんだよね。
あーなるほどなー。わたしはウラミズモの人間だったのか。
ウラミズモの人間でいうなら、わたしは人形愛派になるんだろうなあ。「あなたじゃないあなた」なんて言い方はまさにそんなカンジ。
そんなこんなで最近「双子母娘」という一昔前流行った概念を思索している。
文脈飛んでいるように思えるけどわたしの中では繋がっているからまあ酔っ払いの会話みたいなもんだと思って。
結論から言っちゃうと、双子母娘の「娘」たちって、女性同性愛というより、「母」をキャラ化しているんじゃなかろうか、と。女性的抑鬱症より男性的抑鬱症に近い精神構造をしているんじゃなかろうか、と思ったのだ。アンテ・フェストゥム人間はむしろドッペルゲンガーを恐れる、みたいなカンジ。
精神分析の理屈では、女性同性愛は異性愛となる。「女性」という言葉そのものに、自分と異なる性質という意味での「異性」なる意味が含まれるからだ。びんたん論ならば絶対的未知性としての他者。女性にとっても「女性」とは暗黒大陸なのだ。だからラカン派の藤田博史氏なんかは完全なる異性愛としてやや興奮気味にレズビアンを語っている。
そういう意味では、双子母娘の愛情関係は、(精神分析的な、女性同性愛としての、本当の言葉の意味としての)異性愛というより、(自分と類似した性質を愛してしまう)同性愛に近いものじゃないだろうか、と思えてきたのだ。もっと言うなら、ウラミズモ国民。愛情の始原にいる母を、アニメキャラに対するがごとく、ぬいぐるみや人形に対するがごとく愛する女たち。いやむしろ自分もアニメキャラに、ぬいぐるみや人形になっているのか。わたしもそうなのだろう。「うんこ」という言葉を捨てたならば。うんこを神聖視する龍子になってしまったならば。セックスの最中に「あんたってキモイ」と言わなくなれば。チャット仲間によく言われる「ツンデレ」というキャラを享受したならば。
まあ、「うんこ」が自虐じゃなくなったら、ってことかのう。
糞袋である人体より、ぬいぐるみや人形の方がきれいに決まっている。だからこそ、ぬいぐるみを裂くのだ。それが自分であるのか愛するあなたであるのかは関係ない。わたしの中のあなたを、あなたの中のわたしを裂くのだから。ただ、糞袋ではないと、あるいは糞袋であると歓喜、絶望するために。ただ、現実を享楽するために。
『水晶内制度』の作中の笙野氏は、愛する人形を燃やしてしまった。
本当に、紙一重だ。
他人をキャラ化して見るということは、他人の汚らわしいところを見て「あげない」ということでもある。そういう意味では、とてもマナーの良い人付き合いとなる。原則的に。双子母娘の人たちってなんとなく潔癖症っぽいじゃない、って強引か。
しかし悪く言うのなら、それは他人を単純化して見ていることになる。他人の様々な情動を意味する複雑で曖昧で微妙な表情の変化を、まるでアニメのセル画のごとく単純化させてしまうことになる。
ああそういう意味での「オタクは天使である」なのかあ。
あーなんか、好きな方選べばいいんでね? と思ってきてしまった……。
なんかただそういうことなだけで、どっちでもいいやー、みたいな。モノは言い様、ってだけで。
うーんいかんなー、最近飽きるの早いなあ……。
つーかクリステヴァの描く女性抑鬱症ってなんでこんなにアスペあるいはスキゾっぽいのだろう?
つーか彼女の著作『黒い太陽』でもっとも重要なんは女性的抑鬱症だろうが。事実最後の一章割いて述べてるんだし。それをなんだ? キリスト教的鬱(「オレたちゃ人間である限りケガレなんだー、鬱だ死のう」)がテーマだとか。アホか。んなもんとっくに『恐怖の権力』で述べておろうが。アウトラインとして示したものの、新約聖書に纏わるところについての具体的事例を書いてるだけじゃん。よっぽど学問という場は「女」が嫌いらしい。嫌いつか見えてないのだろうな。「女=うんこ」なのだから仕方ないか。わざわざトイレの中のうんこを覗き込む物好きはいないやな。いや確かに女にとっても「女」はわからんちん、っていうのは同意できるが。わからんちん、っていうのは言語化ムズカシーって意味でな。
ポスト・フェストゥムどもの言葉はお腹いっぱいです。しょーじき飽きた。だあってみんなおんなじじゃない。
そっくりだけどちがう。ちがうけどへいき。なぜなぜへいきなの? そっくりだから。
そりゃあ自己の拠り所がシニフィアン的自己なわけだから似かよるのは必然なのだろうなあ。多数派の人間として生まれちゃった業なので諦めてください。
食人だとかという倒錯的幻想、ある意味「黒い」少女幻想的なもの、それが問題じゃないのかね。たとえば黒ミサや悪魔や鬼や地獄に惹かれてしまう少女とか、そんな「黒い少女」。少女マンガでも推理小説でもオタク世界でも王道だろうが。谷山浩子とか聞いてみろ、あほんだらども。蛇足としてそれがそのまま大人になった事例を挙げておこう。ゆっとくが聖飢魔IIファンとかは「黒い少女」じゃないからな。あんなので黒さが満足できるヤツァよっぽど脳内お花畑なんだろう。わたしはお笑いとして好きだったけど、っていつの時代の人間なんだわたしゃ。むしろリストカッターに近いのだろうな。「黒い少女」ってな。
あ、この「あほんだら」は精神分析的言説を固定観念ばりばりでしか読めない文学者どもに向けてな。フロイト-ラカン理解できないなら読むな、とさえ言いたひ。いや読んでもいいが学者面して語るなと言いたひ。キチガイの言葉を理解するための学問を固定観念ばりばりで読めるわけなかろうが。この辺の奴らは女であっても「きれいな目をしたジャイアン」どもだ。自分がケガレだという思考が身体に落ちていない奴ら。自己を美化するのがとてもお上手な方たち。自己を美化することは他者を侮蔑することと表裏一体のものだと気づけない脳内お花畑な人たち。まさに「異常という方が異常」と言うことが「異常者」を貶めていることであるのに気づけない幸せな鈍感者たち。
ポスト・フェストゥム人間がこっちの領域に近づくには、人一倍の努力が必要ってことだ。
ポスト人間にとって、「人類皆ケガレである⊃私はケガレである」という思考が終着点ならば、アンテ人間は、女性的抑鬱症者たちは、黒い少女たちは、常に自虐してしまう悲劇のヒロイン症候群の女たちは、ヒステリーは、アスペルガーは、スキゾイドは、幼児性恐怖症としてのハンス坊やは、キチガイは、笙野頼子は、「私は、世界はケガレである」という体感が出発点なのだ。
……そこからどこ向かうかはそれぞれ違うんだろうけどね。
きれいなジャイアンフィギュア5040円かあ……。
リカのポケットはいつもふくらんでいる。キャラメルやチョコレートやチューインガム。
べたべたの甘い夢で。
リカのポケットにある日スキマができた。少し油断をしてよそ見してたとき。
暗闇がなだれこんだ。
……おうちにはとても帰れない。
デュラスの『太平洋の防波堤』を読んでわからなかったら、谷山浩子でも聞けばよいのだ。
びヴっちょもっ!(自分への景気づけ)
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