わたしはアヴァン・ポップなるものがピンとこない。
もちろんわたしが勉強不足なことは否めない。ごめん興味ないことに関しては本当にアホウなのだ。わたしって。興味持つとスゴイらしいけど。「熱しやすく冷めやすい」みたいなカンジだけど、リアル友人に言わせると「あんたは熱くなって他人まで溶かして、こっちが溶けたら自分勝手に冷めてる」らしい。ケンカっぱやくて周りも巻き込むけど気がついたらケンカ相手と酒を飲んでる、みたいなカンジだろうか。自分でわかるから困る。B型サイキョー。
勉強不足なりにわたしが理解したその要約は、あらゆる要素を既に仮想なものとして捉え、それをアンチテーゼとし、そうすることで様々なミキシングが可能になり、新たな発想なり視点なり感動が生じる、みたいなカンジ。脱構築系? と思った。
うんうん。これはラカン論にも合致する。わたしたちが考える日常的現実は幻想であり、本当の現実である現実界は到達不可能であるということ、あるいは象徴界は平面であるということだ。
ところが、アヴァン・ポップという思想潮流と、メタフィクションなる概念は親近している。物事を俯瞰して見ることで新しい発想なり視点なり感動が得られる、ということだ。ラカン論では象徴界にメタなんぞないので、それはただの領域変移、視点移動に過ぎないとなるが、この上に向かう感覚というものが存在するのは認めなくてはならない。わたしは正直この「上に向かう」や「天に跳ぶ」という感覚がイマイチピンとこない。わからなくないこともないが、それは学問や芸術というわたしが勝手に神を設定している領域についてに限る。巷のメタフィクションというただの視点移動が何故「俯瞰」になるのかがピンとこないのだ。視点移動は平面内の移動に過ぎない。落ちるのはわかるけどね。木村敏論言うところのイントラ・フェストゥム状態だと、溺れる者が藁をつかむように、水面で息継ぎをしたがるように、上に向かう。要するに鏡像段階なりに近い領域へ退行していたなら、上に向かうという感覚はありだということ。夢分析において空を飛ぶということは言語世界への参入を比喩していることがわかっている。そーゆーカンジ。
それらを考えると、それについてニブチンなわたしの言葉になるが、クリステヴァ論のアブジェクトからどれだけ離れているかが上に向かう感覚となっているに過ぎない、となる。
ケガレた暗黒大陸からどれだけイカロスは高く飛んでいるか、それがメタフィクションということだろう。しかし言語世界には高さはないので、
一度飛び上がってしまうと平面から抜け出すのは困難なのだ。それこそ、狂気の領域に触れない限り。あるいは、だからメタの位置にある神は、人間には到達不可能なのだと。
この高く飛ぶことに意識が向いてしまうのは、鏡像段階の再帰であるエディプスコンプレックスが大きく関わっているように思える。鏡像段階あるいはその裏面としてのアブジェクシオンにより、主体は自他融合的即ちケガレた母子一体的な世界から飛び立つ。そのトラウマが再帰するエディプスコンプレックスでさらに浮上が加速する、というわけだ。
この平面は、
ここで田中和生氏が述べている、=====
だからと言ってその「二次元化」が不要なものだとは考えない。なぜならそのような二次元の言葉の起源にあるのは三次元で存在しているはずのわたしの文章であり、そうして「二次元化」された言葉からはじめる以外に、わたしたちは対話をすることができないからだ。
=====
「二次元化」に当てはまるだろう。いや単純にテクスト化されることを二次元って言っているのだろうか。そしたら笙野の言葉を全く理解していないってことになるが。パロールとかどうなるのだろう。ここでは笙野が言っている意味で二次元化を捉えよう。
この子
仲俣君と違って嗅覚が良くないのー。仲俣君は
二次元であることを自覚、理屈化できていなさそうだ。理屈能力的には田中君の方が上だけど、「感受性の制度」やらがあるらしいポモ的には仲俣君の方が上ってことじゃね。つーか君ら二人一組でそこそこいい評論家になれるんじゃないかね?
ラカン論では、二次元でしかないから「こそ」という話になる。この「こそ」がポモの真髄。後期デリダのキチガイ文章(わたしの主観ね)に着目した東浩紀はわかっていそう。二次元に安寧するためのポモじゃないよーってことだな。この二次元以外のところ、たとえば無意識とかに理屈で攻め込んだのが精神分析だ。ラカン論では無意識も言語のように構造化されているとなっちゃったけどな。だけど、ラカンは到達不可能な現実界という概念を設置している。平面だから「こそ」人間は平面の外の現実界に向かって「しまう」、現実界から失われた主体が回帰して「しまう」のだ、とね。
まーいーや。テーマからずれるけどさらっと田中君のこの文章について述べとこう。
こことか参照ヨロ。ちなみに今笙野がはまっているドゥルーズ=ガタリ論もわたしゃしっくりこない。元ネタのアルトーはわかるんだが。ゴッホ論とか「あ、この人
「物が悪意になっている世界」を見ているな」とピンとくる。もちろんアルトーが(ラカンが診察して匙を投げた)キチガイだってのは知ってたし、その影響もあるんだろうけどさ。
リゾームって根っこ、要は地中ってことでしょ? わたしも「大地母神」とかってシニフィアンを意識して「狂気に落ちる」とか書くが、これは自虐を込めてなのだ。この自虐感がドゥルージアンには感じられないから受けつけられない。自虐が自傷ではなくニヒリズムっぽくて(この違いわかるかなー、わかんなくていいよ)なんかダメだ。その点ラカン論はこの辺りをボロメオの輪やメビウスの輪に喩える。それに
ラカニアンはマゾヒスト多いっぽいし。
斎藤たまきんとか
藤田さんとか恋人殺して自殺した人とか。いやたまきんは両刀使いか。いずれにせよ現実界という意味での現実をちゃんとわかっている。いやもちろんその理屈のお陰なんだろう。わたしはわたしであるために、二次元にすがりつくために彼らにも唾を吐くが。
要するに、地中に「昇る」でもいいんでねえの? って話。いやわたしはさっきもゆったように上も下もないって思ってるけど。わたしは地中に下半身ずぶずぶだから地面に落ちるって言えるだけで、平面に生きている人がこっちに「昇る」って言っているのがよくわからない。東洋思想系はそんなん多くて困る。おまえらこのおぞましさ本当にわかってんのか、とこっち向いている奴らにさえわたしは唾を吐いてしまう。うんこを投げつけてしまう。
笙野ファンブログに殴り込んだ理由もこの憎悪だ。
笙野は許せる。特に『二百回忌』ぐらい以前の笙野作品は、ピンと来る。言葉じゃないところ即ち二次元以外のところでな。華厳の極楽が見えているとは言わないけど少なくともこっちに歩み寄っている。いた、か。現在はまた向こう歩き出した。いいんだよ。こっち側をちょっと知っている人間だったらこっち側のおぞましさ恐ろしさ苦痛をわかってるはずだから。わたしはそれを知っているからこっち側じゃなくて二次元を挟んだ向こう側に神を設置する。事後的にね。向こうへ歩く笙野を羨ましく思い嫉妬もするけど許せる。それをエヴァ最終回の「おめでとう」みたくもてはやす周囲はキモイけど。
2ちゃんねるの方がまだマシ。また、笙野頼子という個人が「リゾーム」とかそれ以外の世界即ち象徴界たる「二次元」とかって言うのも構わない。このおぞましさは魅惑的なものでもあるので、一度こっちに寄った人間ならまたふらふらと戻ってくるのはわかってるから。来ないかもしないけど。
この子も短絡化ダイスキっ子みたいだから一応断っておくけど、別に狂気をわからない人間が評論家になるななんて言わないよ。理屈でそこに近づけている人間だっている。ラカン曰く「逆さまにかけたハシゴ」だな。
中沢新一あたりも「うわこいつこっすいな」と思うけど知っているように思う。理屈の飛躍の仕方でなんとなくわかる。故河合隼雄氏はよくわかんない。
木村敏氏はおぞましさをわかってないと断言できる。まあ自分でポスト・フェストゥム人間だっつってるからいいけど。論自体はパズル的にいいおもちゃになるし。理屈を持っていなくてもそういう嗅覚は誰でも持っている。男性性は傾向的にエディプスコンプレックスという固定観念増幅装置のせいで、その臭いに鈍感になりがちってだけ。君が笙野作品に感じた「不快」もその嗅覚であると言える。一面的な嗅覚ではあるが。
田中君は笙野について、
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ある種の自閉とともにすべての言葉を自己表現にくり込んでいくというのは、現在におけるポストモダニズムの典型的な方法である。
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とかって書いているが、
うんこの投げ合いに疲弊して自閉しちゃった仲俣君よりポモ思想がどういうものかわかっていないと感じるよ。典型でいいじゃない。ポモの元祖たる構造主義は、その典型はなんで典型即ち普遍っぽくなる(感じられる)の? って疑問から始まったんだし。
ミクロ視点しかできない人らしいから断っておこう。自閉するのが大事なわけじゃなくて、自閉もうんこの投げ合いもあり。クリステヴァ的に言うならレシもカーニバルも、モノローグもダイアローグもあり。そのせめぎ合いが面白いのであって、表層即ち二次元の話をしているのではないのだよ。
……つっかコイツ呆れるな。
=====
わたしは罵倒や惘喝を受けたいのではなく、あくまで評論家として小説家と対話をしたいと考えているので、
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とか、
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けれども驚いたことに、わたしの言葉を読んだ笙野頼子は、わたしが笙野頼子という作家やその作品の価値が高いと考えているという解釈だけはまったく疑わず、その浮かれているという「ふり」のところだけをとらえて人格攻撃をしてくる。
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とか。
罵倒や恫喝や人格攻撃がイヤなら科学でもやってろ。潔癖症キメエ。要するに、罵倒や恫喝や人格攻撃というパトスやケガレは、彼の世界に存在してはならないのだ。愛情や同情ならいいって? 笑わせるな。精神分析という科学が、
愛情や同情の本質は憎悪、否定性だと解明している。君は笙野を憎悪していると自分で思っているだろうが、それは愛しているのと同根なのだ。即ち、君は笙野を欲望しているわけだ。これは笙野だってわたしだって同じ。
オマエラ結婚しちゃえば? わたしは一瞬で飽きると思うからパス。君みたいな精神構造ならその辺にごろごろいるし。わたしってなんて「控えめな女性(笑)」なんだろ。
この潔癖症は仲俣君と同じ精神構造。いいから二人ともとっととパラノイアにおなり。こっちへいらっしゃいな。この辺とか
笙野も反論しているけど、被害妄想感ばりばり。
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1、自分の作品を自分の意図とは違う読み方をする評論家を存在できなくすることによって、文学全体はいったいどんな利益を得るのか
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潔癖症感も特徴的よね。仲俣君のとこでも書いたけどこの辺の人たち西村賢太氏とか読んで自分と同種だと気づけるのだろうか?
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こうした部分から笙野頼子の批判の手法がまったく論理的ではなく、書き手の人格や品性がいかに下劣であるかということを仄めかすことによって、
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人格を貶めているのはどっちだ? 君は笙野だけではなく、論理的な即ち象徴的な即ち二次元の領域じゃないところを生きて「しまう」、下劣な品性を生きて「しまう」人間全てを貶めているのだよ? こっちを知っているわたしや笙野が言うならそれは自虐になる。自他の融合状態というケガレ、苦痛を知っているなら。君は自虐しながら「下劣」と言っているのかい? 自分自身を「下劣」だと思って言っているのかい? 違うだろ? 思ってないから反論しているわけだろ。
=====
なぜならそのような二次元の言葉の起源にあるのは三次元で存在しているはずのわたしの文章であり、
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ここのコメント欄を全てお読み。君は自分が「ある」と確信している主体であることを述べているわけだ。わたしの論に則るなら正直もうこれだけで反論は終了になるんだけど(笙野の言葉なら君が「反権力ブリッコする権力者である」ということの証明)、補足しとこう。君は、君の二次元以外の領域には、「わたし」しかいないと思い込んでいる。その証拠を挙げよう。
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ここで笹野頼子が「ニュー評論家」と呼ぶのはさしあたりわたしであり、「意図的な二次元化」をすると指摘しているのもわたしのことである。レトリック上「評論家は必要」でその「評論は誰がやっても」いいと言っているが、そこから除外されるのは笙野頼子が命名する「ニュー評論家」であり、笙野頼子が自らを棚上げして判断する「意図的な二次元化」をする人間であるから、実質的に存在していい評論と存在する必要のない評論を判断するのは笙野頼子自身である。つまり小説家が許容できる評論家以外は必要ないと言っているのだが、
=====
なんで「小説家が許容できる評論家以外は必要ない」という理屈しか連鎖しないのだろう? 連鎖してもいいが、笙野の主観だから別にいいじゃない。他人であるあなたにゃ関係ない。なのに何故反論するのか。笙野を欲望しているから。「向こうが言ってきたから」って言うなら笙野に欲望されたから欲望しているわけだ。
君は何故笙野の主観を許せないのか。二次元外の領域には「わたし」以外はいないと思っているからだ。自分の精神構造を投影させているのだよ。従って、そういう理屈に「しか」帰着できないし、自分の思想を笙野以外にも、たとえば次のように文学全体の思想と同一化してしまう。
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けれども現実には、小説と言えば自分の作品か藤枝静男ぐらいしか思いつかないような小説家が、自作を弁護する目的で、評論を自分に都合よく選別するためにそのイデオロギーに同調してしまうようなことが起きる。文学全体にとって、その損失は計り知れない。
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自分がこう思ってるからみんなこう思う=同調するに違いないってパラノイア的精神構造やね。たとえばわたしは笙野作品は評価しているがその思想からは一歩離れている。今わたしはクリステヴァはまってるけど笙野は嫌いらしい。君自身が確信したがり屋さん=同調したがり屋さん=
合意したがり屋さん=性器結合主義だから、「同調してしまうに違いない」と思って「しまう」わけだ。
いやええのよ、ラカン論なら人類皆神経症者かパラノイアか倒錯者である、だし、人格とはパラノイアのようなものなわけだから、そう考えてしまうあなたは多数派のキチガイという意味でマトモ。
とはいえ確かにこの性器結合主義は笙野ファンという共同体にも存在する(っていうか超自我や自我がある人間なら誰にでもそのケはある)わけで、そこはわたしが釘刺しといた。
笙野作品から立ち上がる笙野頼子という作家性については、わたしは懐疑したがり屋と判断する。あんな作品群を、君がやっているように単純化して読める精神構造がむしろ理解できない。『だいにっほんシリーズ』は単純化しやすいから騙されちゃったわけだね。あるある。君、詐欺に引っかかったことないかい?
君は、君が批判する「イデオロギーに同調してしまう人間」と同類なのだ。君の思考には、二次元の外に「わたしがある」ことを疑ってしまう人間が存在していない。少数派の懐疑したがり屋は黙っておけと言っているわけだ。理屈をやっている人間の風上にもおけないな。懐疑するからこそ人は理屈をこねるんだぜ?
ファルスを持つものはシニフィアンに纏わりつく死を自覚していなければならない。象徴的ファルスを疑って「しまう」、典型に「なれない」、二次元から落ちて「しまう」人間の、痛みを知れ。
嫉妬にかられて言うなら、笙野をこっち側に蹴落とすことになる田中君や仲俣君たちには「がんばれ」と言えなくもない。但しわたしは
芸術に神を信じているから言わないし、笙野を評価する。負的な言葉をあてはめてね。アンテ・フェストゥム人間はドッペルゲンガーを怖れてしまう。一方田中君は、笙野が自分にとって異物だから、怖れている。あ、田中君の方が多数派即ちマトモ即ち雑魚って意味にもなるからね、これ。
さてここ。
=====
現代思想に淫するポストモダニストにはラカンやフロイトの名前を出さねば理解できないかもしれないが、たとえばわたしたちが「りんごがなかった」と否定形で言うとき、「りんご」という言葉は消えない。代わりに残るのは、語り手が「りんご」を求めていたという欲望の痕跡である。
=====
ごめん、一応ラカン系ブログとしてはそこそこアクセスある方で、
有名どころからもリンクしてもらってるんだけど、何言っているのかわかんないw つっかこれ精神分析でもなんでもないwww 否定と肯定には同じ作用があるって意味ならわかるけど。「りんごがなかった」と「りんごがあった」は同じくりんごを欲望しているってことになりうるっしょ。理屈(否定か肯定か)を見るんじゃなくて文脈を見ろって奴やね。でも、否定が特別ってわけじゃない。
欲望の痕跡って対象aをつかみ損ね続けるってことじゃろか。それでも別に否定である必要ない。「ママーりんごちょーだーい」つってるその主体が欲望しているのはりんごではなくママに欲望されることだから、りんごをもらっても「バナナちょーだーい」などと言う。欲望には際限がない、ってこと? 言明することで落ちる真実という話なら、君が触れている蓮實の論と同値である。
=====
蓮實重彦の主張は、世界文学級の作家は「書けない理由」を書くものであり、高橋源一郎や笙野頼子は正しくその流れに連なる作家だという、そのことに尽きる。
=====
これ
仲俣君批判したとこで触れてる。=====
だから作者がある主張を読者にもっとも印象づける方法は、それを口にするやいなや否定してしまうことである。
=====
違うw 「ある主張を読者にもっとも印象づける方法」とは、その主張を言明しないことだw 比喩連鎖のスキマに落とすことだ。精神分析理論なら。これだと否認になる。否認にもいろいろあるが、確かに否認されたものは真実を指すことがある。あ、そっか、君否認について言いたかったのか。否定じゃねえwww つっか自分の言葉を否認するわけっしょ? 多分君が言いたいシチュエーションは、ぽろっと言ってしまった不注意さということが問題だ。不注意だから、それを否認する。錯誤行為は無意識の表出って奴。
それ以前に否認と否定はちげえwww
初歩だぞこんなん初歩。つっか君の文章は初歩以前。デタラメ。
あ、上でちょろっと書いた愛情の本質としての否定性も別物よ。これはクリステヴァ論。君にはちょっと難しいだろうから深く考えないでね。
笙野の場合なら、これは視点移動だから
換喩だな。視点移動が起きているわけだから、聞き手は引っかかるよな。この書き方が読者の目を引くってのは否定せんよ。視点移動限られているしね。つか女のおしゃべりなんてそもそもが換喩的なわけで、視点移動がガンガン起こると目も引かなくなるっしょ。「うるせえ」となるだけ。
つーかマンガで脳内天使と脳内悪魔が闘っているシーンとか見たことねえのか?
お前ラカンやらフロイトやら名前出してるけど、何も理解してないな。
蓮實の論というヒントがあるんだからもうちょっとましなこと書いてくれよ。
ラカンやフロイトの名を騙って デタラメ言ってんじゃねえドアホウ!!!「現代思想に淫するポストモダニスト」からの、「この子ラカンやフロイトわかってないよ」という反論ですな。やめてくれよー、君みたいな子がラカンやフロイト語るのー。もぐら叩きはもう飽きた。つっかもぐら叩きにすらなっていない。反論するのもバカバカしいわ。笙野関係しているから触れたけど。あーほんまチョーキメエ。自分のデタラメ論補強するためにラカンとかフロイトの名を使ってるわけでしょ?
学者として最悪なことしでかしているぞ君。 わかってるのかい?この文章がラカン、フロイト論によると言明していないことがまた狡猾よね。ラカン、フロイト論じゃない理屈だとも受け取れる。……うわあ。
ホントお前ってカスだな。
っていうかこの「淫する」の使い方も潔癖症丸出しで笑える。「あられもない「二次元化」」とかウケルw セックスを怖がる中学生みたいだw 田中君の目キラキラしてるなあ。仲俣君と一緒。
エモエモ。こことか象徴的よね。
=====
自分の頭の上にはヘビが生えていてそれはヒーローもののレンジャーのようなものの表われだと説明することでもわかる。作者はあくまで「悪」と戦う「正しい」正義の味方であり、その「悪」には責任がない。
=====
君それグロいって思わなかったの? へえ。つかまさに「ネタにマジレスを~」だな。こんなに見事に釣られる評論家ってある意味貴重だとすら思った。むしろグロいとあるいは不快に思ったから、「淫する」なんてステキな言葉を論敵の位置に持ってきてるんじゃないの?
これが君が潔癖症である、ケガレを見えていない証拠だ。ケガレのない幻想しか見えていない。ちなみにケガレとはおぞましくもあり魅惑的なものだ。両価的なのだね。グロテスクってそういうもんでしょ?
ところが君は善悪二元論でしか考えてられない。この辺考えるなら仲俣君のこの文章の方がまだ読めていると判断できる。
=====
『だいにっほん~』はある意味で、十分に面白い小説だった。もちろんこの「面白い」という感想には、【複雑な気持ち】が含まれている。
(【】筆者による)
=====
うんうん。両価的だから、即ち情動的に複雑、複合的だから、心的外傷に、トラウマに、コンプレックスに、即ち深い感動になるのです。
この辺理解できないのは、二次元でしか生きられないからなんだけど、仕方ないんだろうね。男性性のそういうところ、エディプスコンプレックスという固定観念増幅装置を背負ってしまうところは、可哀相にも思うよ。君じゃなくて、そこを乗り越えようと、ケガレに近づこうと必死な阿部和重君とか中原昌也君とか中村文則君とか車谷長吉氏とか見ていると。中上健次とかは、その生い立ちのこともあるだろうけど、そこに肉薄していると言ってよいだろね。
=====
論理的な考察というフィルターなしに! 私はこれを「ノー・ファクト・ゾーン」と呼んでます。
=====
をやっているのは、笙野であり、
ケガレを連鎖する「女」というシニフィアンを背負ってしまった女性作家たちであり、
ケガレあるいは現実(ラカン的な意味で)あるいは実存(マロニエの根っこ)を見ようと必死な男性作家たちなのであって、君ではないのだ。
君は、確信したがり屋さんである故に、潔癖症的なフィルターを通してしかモノが見えていない。その証拠が、「罵倒や惘喝」や「人格攻撃」や「下劣」や「あられもない」や「淫する」や「善悪」というシニフィアンの使い方だ。ケガレに対する過剰反応。君、赤面恐怖症のケないかい? 君の文章は、「他人にこう思われているとボクが思っているボク」と「実際に他人が思っているボク」の違いに過剰に敏感であると言える。笙野作品に出演して喜んで見せているところとか、こことか。
=====
2、自分の言葉が相手に思ったように伝わらない場合、その責任はつねに相手にあると確信できるのはなぜかというものだ。
反論を読んでいてわたしが不思議に思うのは、笙野頼子が望むような読み方をわたしができないのは、すべてわたしの責任にされてしまうということである。
=====
君は、「笙野に望まれるような読み方をするボク」をわざわざ仮設し、それができない場合について考察している。
ブービートラップについては2ちゃんだったら最悪板レベルの釣りだけど、これらを見てわかるように、君「他人にこう思われているとボクが思っているボク」に固執しているわけじゃない? これ赤面恐怖症の特徴。他人の顔色に振り回されるわけやね。いや、思春期には多くの子がなる精神状態だけど。大人になっていろんな経験すれば、他人から受ける多少の誤解は笑い飛ばせるようになるもの。
何そんなびくびくしてんのよw
自分の読みに自信があるなら、「わたしの責任」にされていいじゃない。読者に責任はないと思うなら、「お前の言葉が思ったようにわたしに伝わらなかった」と言えば済む話。問題は、何故彼は「責任」という言葉に拘っているのか。ここには
「過剰な役割同一性との同一化傾向」が読み取れる。まあ典型的なポスト・フェストゥム人間やね。人格攻撃じゃなくて分析よ。赤面恐怖症者を貶めることなんてしません。わたしにとってはむしろ親近感が湧く。多少であれこっち側に歩み寄っている人たちだからね。精神分析をテクストに応用した記号分析ってことですよ。
君の無意識は、だだ漏れしている。
君の思想は、近代以前に逆戻りしていると言える。いやいいんでない? いろいろいた方が面白いから。それを自覚しなさい、ってことやね。フェミニズムやらポモやら以前にボクは戻りたいんだい! って言えばよい。そうすればフェミやポモを理解する妥当性なんてないし、トンチンカンな言葉でも「あーそういう思想の人だから」って思われる。「フェミを越えて」とか言っちゃうから、ちょっとフェミの理屈を知っている人に「プ、何こいつ低レベル」と笑われる。大塚英志とか(自分で言っているから言うけど)文学を知らないから重宝されたわけでしょ。それでいいじゃない。石原慎太郎とか賛同してくれるかもよ。逆戻り。
あ、もいっこ。
====
原理的に反論ができなくなっている
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反論してるじゃん。原理じゃないのにそれを「原理」だと言う。わたしなら「理屈的に」とか言うけどねえ。それは何故だろう? 君が確信したがり屋さんだから、そう言ってしまうのだ。わたしの言葉なら
「パラノ節炸裂」である。
君の憎悪は単なるエディプスコンプレックスだ。中二病的に「「下劣」とか「淫する」とかキタネエ」つってニキビ面を振り回しているだけ。笙野をアメリカ大統領に喩えているところなんか特徴的よね。象徴的父として典型。この辺ももろそうね。
=====
けれども無垢で正しいポストモダン的な主体による国家批判は、それがどれだけ論理的に正しく、さらには声高な罵倒であったとしても、「国家的なもの」には届かないし、現実をなにも変えない。
=====
君の現実って「国家的なもの」なんだ。君いくつだっけ?
君は笙野(という作家性)や「国家的なもの」を象徴的ファルスに近い位置に連鎖させているだけなのだよ。現実とは「国家的なもの」であるという固定観念から逃れられていない。いやそういう捉え方もありだと思うよ。わたしゃ仲俣君よか笙野を読めてないと判断するけど。逆に言えば仲俣君よか「男の子らしい(笑)」ってことでもあるのよ?
なんに現実を感じるかなんて、人それぞれだから。
その人のトラウマの回帰の仕方の違いによる。だからといって芸術の普遍性に関して君が言っているように「ない」と言うわけではない。
つかさ、
=====
4、現在の「国家的なもの」が「悪」であり「不自由」を生み出しているとして、その現実を変えるためにはだれにどんな言葉を届ければよいのか
=====
別にラカンとは言わないからポモでもなんでもいいからオベンキョして、自分で考えなさい。センセーに言われませんでしたか? 宿題は自分でやらないとダメって。
現実を「国家的なるもの」に関連するものに限っている自分の思想に何故懐疑を持たないのかが不思議でならない。いや別にいいのよ。誰がどう思おうが。でも君は少なくともこの質問の時点で、「議論の相手も、読者も「国家的なるもの」に現実を感じている」という前提を確信して疑っていないわけだよね。それって「ボクがこう思っているからみんなこう思っているに違いない」というパラノイア的構造だよってさっき言ったか。
君は、「空を見上げる少年(笑)」のように、異国の大統領たる笙野が、自分が現実と感じる「国家的なもの」の中で暴れている怪獣映画を見ているだけなのだ。潔癖症という真っ白なスクリーンに映し出される幻想の中で、君だけの正義の味方の登場を待ちわびている、夢見る少年なのだ。
あー……そりゃオコチャマ番組ネタを真に受けるわなあ……。なんか君がカワイク思えてきた。
二次元をよくわかってるねえ。さすが。
君の、象徴的ファルスに近いところにある「笙野」や「国家的なるもの」に対する憎悪は、始原的な、野生的な、妄想分裂態勢的な、狂気的な笙野の憎悪とは違う。その直後に起こる世界の大激動である鏡像段階が回帰したのがエディプスコンプレックスであり、君の憎悪の正体はその更なる回帰である。君のコンプレックスからはケガレが排除されていることがその証拠である。笙野の憎悪はパトスの本質的なところにあるもので、だから理由がない。憎まれて「じゃあどうすればいいの?」に答えなんてない。そこにあるのは物自体的な悪意だからだ。少なくともオコチャマ番組の善悪だなんてちゃちい判断基準は存在しない。強いて言うなら、笙野オリジナルの文芸の神による。そこを説明しようと最近はやっきになっとるね。仏教的自我とかそんなカンジ。神が神として機能しているわけだな。つまり、笙野固有の、外から与えられたものではない、内面から湧き上がった倫理がそこにある。
それに比べ君の憎悪は、底が浅い。そこらにありふれた、古代ギリシャからある(文献に残っている)「典型の」憎悪でしかないから、つまんない。あ、嘘。なんか分析的に読んでると君の少年のまま大人になった姿が見えてきてちょっと面白い。実際年齢とのギャップがまたツボるw むしろ六十歳とかでこれならまだわかるのにw いやホントに。笑いが止まらんwww 笙野あんまいじめたげないでこの子。お遊びでデンキアンマとかしたら泣き出しちゃうタイプだわ。
ともかく、エディプスコンプレックスという意味では普遍的ってことでもあるが、人格発達過程を顧みるなら笙野の憎悪が方が普遍的になるって話。ごめん君の少年っぽさが面白くて理屈粗くなってる。いやホンマおもれえw 特に後半のショタ度と言ったらw あーだめだウラミズモ国民化してしまう。
あのね、これは君のためを思って言うんだけど、エディプスコンプレックスに固着するならもうちょっとがんばりなさい。ケガレは誰でも不快なもの。魅惑的なものでもあるけれど。具体的にどうすればいいかって? うーん……、2ちゃんで煽り耐性や釣りテクや荒らしテクやスルースキルを学ぶとか(ギャグだけど結構マジよ)?
あとさ、
=====
フェミニズムとは、近代において不平等となった男性と女性の関係を可能なかぎり平等なものに近づけていくという運動だと考えれば
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この一文でちょっと真面目に思想やっている人は君のこと低レベルだと見抜いたと思うよ。やっちゃったねえってカンジ。ありがちだけどさ。
フェミニズムとは、「男女を平等に近づけていく運動」だけではなく、「何故男女は不平等なのか、不平等が存在するのか」という問いに纏わる学問領域でもある。君の論には後者の「何故」が欠けているよね。
疑えていないわけだ。
君先に言ってるじゃん、パトス抜きで即ち二次元平面上で論じたいと。つまり学問的領域よりのところで話したいってことだよね? ならば後者を語るべきなのに、君はできていない。なんでだろうねえ? わかんない? わかんないなら君もうダメだ。学問領域でも。
だから笙野にバカにされているのだよ? 「学者じゃない作家のわたしですら」みたいな。いや社会学系のフェミにここんところ誤解しているのがいるのは認めるが。蛇足だけどわたしの「何故」っていう態度知りたいならこのブログ読んでね。関連記事いろいろあり過ぎてリンクすんのめんどい。あーでも「四手内径堂」とか言わないよ。わたしは笙野頼子じゃないから。こんなうらびられたブログ目を皿にして読んでなんのメリットが、って気持ちわかるもん。但し読んでなくて反論してきたら「プ、こう書いてあるだろうがw アホウ」とやり返すけど。それだけのこと。
あ、でもここだけは同意。
=====
現在の日本文学における「神」とは、おそらくポストモダニズムとフェミニズムなのである。
=====
うんうん。だからわたしは二次元平面だけで=字面だけで「信仰」したり(一部のフェミや笙野ファン)「反-信仰」したり(チミ)している奴らを憎悪し批判しているわけだな。三百六十度敵になるが。思想なんてただの言葉の羅列なのにね。道具としてどう用いるかなんてその人によるさ。わたしなんかは精神分析理論を逆利用している。即ち、他人や自分の狂気を悪化させるために利用している。
君タイプの理屈聞くなら浅田彰や竹田青嗣でいいや。正直君レベル低いよ。連想領域が狭い。隠喩構築が下手ってこと。パズル度では仲俣君より上だけどさあ、あずまんとか斎藤たまきん辺りとのこの大きな隔たりってなんだろうってむしろ不思議に思う。要するに韜晦テクニックってことなのか。韜晦文章書いていると知らず知らずのうちにキチガイ領域に接近しているもの。ノエマ的自己が不安定になるから。自分の書いた文章の呪術にはまっちゃうわけやね。蓮實みたいに韜晦テクが熟練してなければ。
笙野論を書いていると肛門がきゅうっとなると
この記事で書いた。対して浅田やたけぽんやあずまんやたまきん辺りの文章は
脳門がきゅうっとなる。蓮實に対してはコンプレックスを自覚してるから除外。田中君の文章には両方が不足している。だから笑っちゃう。つーか最近笙野論ばっかで飽きてきたことも関係しているんだろうけどね。
=====
この、人を絶句させるほど困難な問いからはじめる以外に、閉塞する現実をなにも変えないまま被害者としてその現実を利用しつづけるという悪循環に陥っている
=====
これ、君の文章のことだよね(わざとゆってるよ)? 抑鬱症に怯える哀れな中学二年生男子のぼやきみたいでカワイクすら思えるw
(笑い堪えるからちょっと待って)……っぷは。
ま、そんなカンジで頑張ってヘーゲル的「止揚」あるいはニーチェ的「力への意志」を、潔癖症を貫いてください。イヤミじゃなくてマジで言っている。
「父の名」に疎い日本ではパラノイアになる可能性高いけど。おいでおいで。
反権力ブリッコなんてやめて、ね。
笙野やわたしとかって「下劣」を権力者=象徴的父に見立ててないでとっとと高みに飛びなさい。少年はいつか大人になってしまうのです。悲しいかな。わたしはそんな君をセミオティックから見送りながら「プ、所詮二次元なのにw」と揶揄するでしょう。笙野は知らん。ラカンかドゥルーズか迷ってるならドゥルーズの方が良さそうだ。チミ。がんばってポモを理屈でひっくり返してー。正直わたしもポモうざいし。ポストモダニスト(笑)だけど。これが自傷系ってことか。
こっち方面はわたしががんばってうんこ投げとくから。自傷しながら。自他の融合=アブジェクシオン=セミオティック=ケガレバンジャーイ領域では。もちろんこっち近づいてきたら君に限らず誰彼問わずうんこ投げるよ。わたしの手の届く範囲なら上からも叩き落す。おぞましい母でもあり抑圧する父でもある。それがファリックマザー=テリブルマザー。カーニバルダイスキ。「煽り煽られが2ちゃんの華」です。2ちゃんじゃないけど。
先にわたしは「君は笙野が異物だから怖れている」と書いたよな。だから笙野を異国の大統領に喩えたりしているわけだろ?
その嗅覚は、正しいよ。
狂気は、おぞましくもあり魅惑的だから、畏怖してしまうのだ。この畏怖が、超自我を生み、隠喩を育む。幻想は豊かになる。ケガレに近づくからこそ、あるいは抑圧されるからこそ、幻想は豊かになるってことだ。あ、わたしが君にショタを見出したのも幻想よw 君も笙野に「脳内笙野」とか言われてるじゃん。よかよか、幻想は豊かな方が生は楽しくなる。多様性が生まれる。君の「力への意志」は強くなる。エディプスコンプレックスという呪縛から、横並びから頭一つ抜け出せる。パラノイアと診断されるかもしれんが。いいじゃなーい。人類皆キチガイだ。狂気に超自我や自我という狂気を被せてマトモだっつってるだけ。安心の二重構造。マトモになりたがる理由は、ケガレた母から逃れるため、エディプスコンプレックス以降は抑圧する父に立ち向かうため。そういう構造に過ぎんよ。とってもシンプル。男性性の精神構造ってね。傾向的に。
笙野が、君みたいな少年を感情的に恫喝してしまうのは、とっても母性的な行為だと、わたしは感じてしまう。
テ リ ブ ル マ ザ ー だ け ど な 。
……くっそ「黒い少女」なんとかしねえと笙野越えられねえな。テリマザ度。
つかさ、マジデこんなレベルだとは思わなかった。評論家の良し悪しなんてわからんから、ただテクストとして面白いかどうかをわたしは判断するわけだけど、それ以前の、精神年齢的な(ry。この点まだ仲俣君のがまだ大人だよね。さすがに。理屈に弱いなりに自分で何かをつかみ取ろうとはしてるわけじゃん。田中君は『ニュー・シネマパラダイス』の子みたいな。わざと美化してるけど。
あーおもれえw
ライトノベル作法研究所っつーおんたこたちが集まるサイトがいるんだが、そこのチャットに君交じってても違和感ないわー。ホントに。いやそれ以下だな。ラカン、フロイトって名の悪用。
えー、文芸界ってこんなわっかりやすい症状も判断できないの? わっけわからんな。笙野がムキになる理由もわかったわ。田中君個人がひどいって話でもあるけれど、文芸界全体としての、病根は深いかもね。いや確かに相対的に
文学者って天使が多いのは知ってるけど。そりゃーあずまんやたまきんっていう外部のマジモンがもてはやされるわけだわな。ということは意外と観客は見抜けてると思うけどねえ。そこらの知名度の差を考えたら、いいカンジに比例してそうだ。源ちゃんも笙野ももちっとわたしたち信じてもよくないかい?
長くなったので今日はこれでオシマイ。
さて、アヴァン・ポップに戻ろう。
あるアスペルガーの方は、「(自分たちと違う)定型人はネタを生きている」と言う。別のアスペの方は、「大人になることとは、コントを無意識的に演じられるようになること(筆者超意訳)」などと言う。
アスペルガーとスキゾイドを短絡的に結びつけることはできないので、わたしが勝手に現代文化がスキゾイド的な人間として理想人格と考えていると思っている柄谷行人氏の、その行き当たりばったり的な、次々と新しい思想をとっかえひっかえしていることを思い出してもいいだろう。常に新しい思想をとっかえひっかえして「しまう」こと。これは常に新しい発想なり視点なり感動なりを求めていることでもある。
アンテ・フェストゥムを考えるならば、用語自体の定義であるところの、ノエマ的自己が不安定である(固定が弱い)ことを考慮すればよい。
これらは先に言った、「あらゆる要素を既に仮想なものとして捉え、それをアンチテーゼとし、そうすることで様々なミキシングが可能になり、新たな発想なり視点なり感動が生じる」ことそのまんまである。アスペルガーやスキゾイドやアンテ・フェストゥム人間たちが生きている当たり前の世界をわざわざ大声で主張してくれたのがアヴァン・ポップ思想であると言える。
つまるところ、この思想も「現代社会はスキゾイドが適応しやすいらしいからみんなスキゾになろうぜ」のヴァリアントなのだ(ここで言うヴァリアントは神話学的なそれであって、神話全てが変奏でありオリジナルはない、規定しないという意味を含む)。
では果たして、アスペルガーなりスキゾイドなりという人格を育てているその親たちに、アヴァン・ポップなる作品群を見せて、「これが彼らの世界ですよ」などと言ったならば、納得してもらえるのだろうか。
まずありえない。
何故なら、定型人と違う世界を生きてしまう彼らの「痛み」や「苦労」が、そこにないからだ。
痛みや苦労なんて前面に出したら「ポップ」にならないじゃーん。
うん。その意見もわかる。でもここが問題だと思うのだ。「ポップ」というシニフィアンにぶら下がる、このカンジ。
ポップ=俗だからこそ痛みや苦労がある? バカ言っちゃいけない。それで失敗しているのが現状、即ち動物になりきれなかった動物化(by東浩紀)だろうが。
わたしは「俗」を信じられない。痛みや苦労を、即ちケガレを含む「卑俗」ならその存在を、実存を感じるが。要するに
ケガレがあるかないか。とはいえケガレが全てになってしまったらアウトサイダーアートになってしまう。アール・ブリュという方向性はわたしは批判しないが、アウトサイダーアートとアートは区別されるべきという立場をわたしは取っている。わたしはまだ芸術に神を信じている。だからこそその領域で無神論を述べる。精神分析なり科学なりという武器を振り回す。自分も血を流しながら、とか言うとカッコつけ過ぎなので言い直す。うんこに塗れながら。
ここはわたしのブログだからわたしのうんこをじゃなかった言葉を勝手に垂れ流す。痛みを抜いた世界でスキゾ化ぶっている奴らや、アスペやスキゾではない定型人のひきこもりや、スキゾ仮面を被っているだけの現代オタク文化や、エディプスコンプレックスからの逃避のためにスキゾ演技をしているニュー評論家たちへの憎悪をもって。
お前らみたいなのがいるから、この苦痛がネタにしかされないのだと。ネタの世界に即ち二次元の世界にしか生きられない人間たちのやることだから仕方ないとはわたしは思ってるけどね。どうどう(自分に向けて)。
もちろん、全てのアヴァン・ポップがそうだと言うわけではない。この「痛み」とはアブジェクシオンに纏わる痛みなのだが、アブジェクシオン論を経由すると、たとえばそれは
「妖しさ」に連鎖可能である。すると、アヴァン・ポップには妖しさが不足している、という言葉が生成される。
それでもやはり、アヴァン・ポップという言葉に関連して提示される作品群を見ると、わたしは妖しさや痛みを感じられないことが多い。
とはいえ、それをアヴァン・ポップと呼ばれるのが妥当かどうかは知らんが、わたしは舞踏家の伊藤キム氏の大ファンだった時期がある。彼の舞台はむちゃくちゃ妖しかった。その流れでは大駱駝艦や田中泯氏などの舞台も見ているが、いや当然感動はしたけれども、やっぱりキム様ラブだった。
また、この「痛み」は対称性原理における始原的痛みでもあるので、自他融合的であり、結果それは「攻撃性」に連鎖することも可能である。
なるほどアヴァン・ポップは、ポップ文化への対抗心が生んだものとも言えるだろう。しかしそれだと始原的攻撃性とは呼べない気がする。即ちコピーっぽく思えてしまう。
所詮世の中はコピーでしか成り立っていない、と言う意見もわかる。真の
アウラなるものは存在しないと。というか、アンテ・フェストゥム人間にとってはそれが普通の世界なのだ。むしろ何故他の人がアウラなき世界をアウラがあるような顔をして生きられるのかがわからないのだ。ラカン論ならこのコピーとはシニフィアンということになろうが、大体の人がつまずくのはここになるのだろう。
コピーと戯れることを、ラカン論風に言うなら連鎖するシニフィアン群(S2)で構成された迷宮を遊ぶことの楽しさを否定するわけではない。
こういったコピーの氾濫、シニフィアンの増殖は、文芸では形式性の過剰さという表現方法が一般的であろう。こういう連想だとどうも阿部和重氏が真っ先に連想されてしまって困ったもんだ。いやあーゆうのも好きなんだよね。「ネタにマジレスを~」の氾濫。B級な軽い要素を、それをコピーと自覚しながら積み重ねて、積み重ねることで奥にある何かわからないけど世の中に蔓延する何かに対するイライラ感みたいなものが透けて見えるようになっている。そんな深読みでさえ「ネタにマジレスを~」と言われそうなぐらい阿部氏は徹底している。この裏切られそうな感じが、弱くはあるが先に言った攻撃性に繋がっているように思う。もちろんエディプスコンプレックスっぽいのだが、ビキニパンツに締めつけられたちんちんのようで、面白い。
この阿部氏のような「ネタにマジレスを~」感はまさに2ちゃんねる的感覚なのだが、2ちゃんは文芸のように作者の恣意が強く影響する表現作品ではない。たくさんの名無しが、名無しであることにより、自分の無意識を鏡面反射し、無数の匿名の無意識が渦巻いているようにわたしには思えるのだ。自分にとって他者である無意識は、他者であるが故不確定要素も持ちながら定型もあるように見える。もちろんここで言う他者はポスト・フェストゥム人間向けへの翻訳だ。わたしは不確定要素なり絶対的未知性なりを他者の位置に持ってくる彼らの言説に違和感を感じている。がそんな話は置いておいて、そのような感じということだ。ただでさえノエマ的自己が不安定なアンテ・フェストゥム人間が2ちゃんを見ると、その不安定さを増幅することになろう。「だがそれがいい」のである。アンテ人間は、不安定さに対してとても敏感に不安に不快におぞましく思っているが、それは不安や不快やおぞましさが大きいほど魅惑的なものにもなる。何故ならそこにあるのは、ポスト・フェストゥム人間が渇望する、渇望する故にその負性が見えなくなっている、自他の融合状態即ちアブジェクシオンだからである。
さて、「アヴァン・ポップ」「攻撃性」「2ちゃんねる」というキーワードが出揃ったところで、読者の方には「もうええわ」と言われそうだが、笙野頼子という作家を挙げておきたい。
彼女は
アヴァン・ポップ作家を自称し、作品内で2ちゃん語を多用し、その攻撃性については言うに及ばずだろう。
「妖しさ」はどうであろうか? 確かに『二百回忌』になると、幽霊などを描いているにも関わらず、そこに感じるのは妖しさというより西原理恵子的な、(自らのか他者のかは問わない)悪意に対する極悪な笑み、あるいは虚しさを帯びた笑みを連想させる。しかし『レストレス・ドリーム』などはわたし的には妖しさ満点と言ってもよい。個人的には『なにもしてない』の方により妖しさを感じてしまうのだがここは置いておこう。
思うに、笙野自身の「極私的言語の戦闘的保持」などと言った言葉に表れている「攻撃性」が「妖しさ」と強く共鳴しているように思う。「攻撃性」という言葉はアブジェクシオン論の重要タームである「否定性」と強く関連するから、「攻撃性」というシニフィアンが重要な位置を占めているだけか、と自分で納得。確かに『二百回忌』は(現実的評価がどうか知らんが)わたしにとっては笙野作品の中では大衆向けのように思える。
要約すると、阿部和重氏をアヴァン・ポップ作家だというのはまあ理解できなくもないが、笙野頼子氏をアヴァン・ポップ作家だというのは、他のアヴァン・ポップと呼ばれている作品群と比較すると、違うのではないか、とわたしは思うのだ。本人が自称しているにも関わらずこういうことを言ってしまうわけだが、ここはわたしのブログだ。わたしがルールだ。
「痛み」や「苦労」はなべて不快なものである。
この記事にも書いてあるように、不快という情動は根源を探ると筋肉の収縮と癒着している。この「筋肉の収縮」よりに「不快」を言い換えるならば、「刺激」と括ってもよかろう。大人の世界では刺激が即不快なものだとは限らないが、この文章ではコピーの氾濫、シニフィアンの増殖に対照するオリジナル即ちアウラを軸にして統辞的構成を施したいので、オリジナルに近い領域での連鎖構造を採用する。即ち、不快とは刺激のことである、と。
笙野作品は、確かにメタ構造などはアヴァン・ポップと言えるかもしれないが、刺激に満ち溢れている。先に述べたように評価が賛否両論明確に別れていることがその証拠である。万人ウケする作品なぞ、刺激としては弱いものばかりである。何故なら刺激は根源的に不快なものだからだ。
これまでアヴァン・ポップと呼ばれていた潮流が、清涼飲料水だとすると、笙野の作品は、あたかも炭酸飲料水のように思える。
しかし、この刺激は刺激であればよいというわけではない。
誤解が多い点でもあるが、出産直後の乳児は、完全に母子一体的であるというわけではない。何故ならそこは、胎内にいたころの世界とは全く違う刺激に満ちた世界であり、それまでいた世界を否定する世界だからだ。つまり、否定性の中を乳児は生きている。
この否定性、言い換えるなら攻撃性に、説得力があるかどうかが、問題なのではないか。
その攻撃性が、本質的なパトスによるものか、演技によるものか、トラウマの回帰で再生産され変形されたものか、という判断は、総合的な視点からでしか得られないだろう。とはいえ一点だけポイントがあるように思う。
それは、「悪い乳房の取り込み」である。
完全なる母子一体化ではないが、大人であるわたしたちから見るとその時代の乳児は、自他融合的な世界を生きていると言える。
即ち、自他融合的な攻撃性。
これは、鏡像段階及びエディプスコンプレックスを通過した主体には、むしろ難しい精神状態だと言える。何故なら、鏡像段階及びエディプスコンプレックスを通過することで、自他の融合状態というケガレが、ケガレでなくなるからだ。母を諦めることで、自他の融合状態は幻想化される。浄化される。
具体的には、主体がディスクールの中で攻撃的な言葉を吐いている時、その言葉は同時に主体を傷つけているかいないか。車谷氏などは、それを公言している。では笙野は、
自分の言葉に傷ついているのかどうか。その答えが、
『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』の、最後の数行に表れていると、わたしは思うのだ。
……うっわ後半雑っ!
田中君批判で疲れちゃった……。勘弁。
つーわけで笙野関係はこれで一区切り。ごめんよ男性読者たち。