うふふ。いひひ。しゃーしゃっしゃっしゃ。魂の笑い。
はいはい私怨記事私怨記事。なんか拍手コメントでわたしってケンカしている方が活き活きしているとか言われたし、変態チックな読者の期待もなきにしもあらずなようなので、調子に乗ってみます。
本格的に自閉モードに入ったらしい。
この被権力者ブリッコ大好きな権力者ババア。老いて自分の中に少なくなった「ぐちゃぐちゃ」を、ケガレを、自分じゃなくて他人に見出したがる傲慢ババア(
ここのコメント欄)。キリスト教的には人間として最悪な部類に入るババア。薄汚れたバイタに同情を寄せるババア。
自分を美化させる目的で、自分がキリストにでもなったつもりで、石をぶつけられるバイタを庇うババア。そういう態度こそ本質的に石を投げつける奴らと同じものだと気づけないババア。むしろいっそ石を投げてくれる男どもの方が正直で清清しい。なのでわたしは真っ先にそのババアに唾を吐く。
笙野は許せるよ。
バイタを語る自分の言葉に傷ついているように見えるから。お前はそう見えないってだけ。
断っておくけど、自閉とか閉じこもりはありよ。むしろすんごくポモ的な態度。うんうん。チミもポモわかってきたじゃなーいか。
仲俣君も自閉したがってたろ? わたしはそれを「よかよか」と言った。なのでチミを仲俣と同レベル、いやわたし視点それ以下の下劣な人間と見做して同じ言葉を言う。よかよか。
あーごめんね。今アルトー読み返しているから(ドゥルーズ=ガタリ読み返す準備体操)、「最悪」とか「下劣」だとか言っているけど、ホモソーシャル的な、
自分と同じ「心の理論」なりを共有している他人しか認知できないホモソーシャルバンジャイ定型人から見たら、わたしの方が「最悪」で「下劣」になることはわかっている。
「異常」や「KY」という言葉に宿る負性が増幅される潔癖症な現代においては、特にそうなるだろう。そうなって「しまう」だろう。こういう諦観がまだまだなところだなー。アルトーほどラディカルになれないわたしであった。
わかりやすく定型人側の言葉を用いてあげよう。お前がわたしに「恋愛に溺れる友人」のごとき幼児性(その友人を「子供」だとお前言ったよな)を、ケガレを見出しているなら、わたしはお前に傲慢な自己美化を見出している、という状況だ。バランスとれてんじゃーん。
というわけで、相手が自閉に入ったのをいいことにこのババアを解剖してみますか。すまんねただのバイタじゃないんだわたし。知識という刃物を持っている。キチガイに刃物。誰だよこんなキチガイに刃物渡したの。わたしが勝手に盗みました。いつか石を投げてくる奴らを切り刻んでやろうと思って。そいつらの肉がもっともよく切れそうな刃物を選びました。そしたらもっと癇に障る、わたしなんかに同情を寄せてくる、石なんかよりもっとおぞましいケガレを投げつけているババアが隣にいたので、振り回してしまっただけです。
単なる生体システムとしてリビドーが減退したから、リビドーというケガレをわたしに見出しているのです。単なる生体システムとしてケガレが減退しているだけなのに、「若い子はお盛んでいいわねえ。オホホ」などといやらしい笑みを浮かべながら膝の上のチワワを撫でるババアを、わたしは切り裂いただけです。ケガレを「臆面丸出しで褒め罵倒」するキモイオヤジの方がまだマシです。
笙野キモチワルクないのかしら? 違和感でもなんでもいいけど。こんな傲慢自己美化ババアに纏わりつかれて。自分のケガレを棚に上げて他人にケガレを擦りつけるババア。
ここから引用しよう。
=====
同情なんてダサイし傲慢臭あるかな。でも私は笙野頼子に対して同情してしまったと思う。『徹底抗戦!文士の森』や又この頃のエッセイを読むと。
=====
薄々気づいているところはちょっと好感。だからわたしはお前にこうやってディスクールを、うんこを投げつけている。コメント欄にいたモモチだかノハラだか知らんが(エディコン的な意味での)ガキンチョ潔癖症者をスルーしてな。雑魚はほっとく。気が向いたらプチプチやるかもしれんが。
あ、急に
二次元に戻るけど、ここで言うリビドーはお前のいう「渾沌」みたいなもんだ。わたしの言葉なら
「無限のうんこ」とか。
対象aとしての、糞便。むふー、さてどっから切開してあげようかしらん。
ここ辺りからつっついてみよう。
=====
★自己が問われるからだ。問われて今日書いたような事にしか興味がないしこのような語り方しかできないのが判る。孤独だあ。千人の読者がそれぞれ千通りの言葉をゆうようになればどっか重なるところが出て来るだろう。そのような期待を込めて苦手だけど★本日の題をドゥルーズ記念にする。
=====
……ぷ。ぷひ、ひぃ、ひーひっ、ひひゃははははwww
ハwラwイwテwエwww
「孤独だあ。」
もいっかい書いとこ。あんまりワラケルので。
「孤独だあ。」
お前が勝手に自閉しただけじゃねえかwww
こんな他人事みたいな顔で言っちゃうのがなかなかおんたこ的でステキ。
「千人の読者がそれぞれ千通りの言葉をゆうようになればどっか重なるところが出て来るだろう。」
自分の言葉に対する無責任さがだだ漏れしてるwww あー正しいのよ。それがネットだから。2ちゃんねる的ネット利用方法として正しい。
オバチャンやるねー。まだまだ若いじゃん。リビドー丸出し。おんたこ的「傷つきやすいボクラ」でちゅかー?
「特定の」とか言った口でこれだ。わたしの言う
「口先だけ相対主義をぶって本当の相対主義的主体は狂気の領域あることを知らない」おんたことしてのとっても良い症例である。本当に傷つきやすい、必然的に傷ついて「しまう」主体とは、
「象徴的ファルス」なり「間主観的自己感」なり「心の理論」なりという鎧が壊れている、狂気的な主体だ。
お前みたいな、
=====
お前わたしの「内面はある」論に振ったときなんて言った? 「ラカンにはなかったんじゃないの?」なんて居丈高に言ったよな? それで反論したらなんだ? 「年寄りだからとろくてごめんなさい」みたいな被害者ブリッコしてきたわけだろ? そうした挙句「(わたしの論は)大雑把だ」なんて言ってわたしの五万字だか以上の言葉を、祈りを、サントームを、握り潰したわけだよな。あーそうそう言い忘れてたけど、お前が「大雑把だ」と言った「パラノ/スキゾ」という対比の浅田の元ネタはドゥルーズ=ガタリだ。
(
この記事より)
=====
という態度を取りながら、その自分の態度に、自分の言葉に、自分の文脈に、自分で傷つかない主体は、鎧が正常なのだ。
鎧が正常だから、自分の言葉に不快を感じられないのだ。これが、「お前が確信したがり屋の劣化したがり屋だってこと」の、お前が本質的に傲慢であることの、お前が本質的に権力者であることの、証拠の一つである。
人格攻撃だって? うん。最初からそのつもりだけど?
ここから笙野の言葉を再利用しよう。
=====
人格が疑わしいです。
=====
お前の感じている孤独なんか、
自己愛型ひきこもりと同じだ。
順応できるのにしない順応主義者の自己愛的ぼやきに過ぎない。
「孤独だあ。」
ひー、ひー、だめだ。涙出そうなほどワラケルwww イーヨイーヨ、ボヴァリスム。この方向で極めたら恩田陸程度にゃなれるだろう。
狂気的領域の孤独を知ってたら、むしろ自閉しねーよ。うんこを投げつけて「しまう」のだ。スパークのような出会いから逃れらないのだ。自分でもよくわからないのだ、何故そうなるのか。本当の孤独を知っている主体は。
まさに、
=====
「アスペルガー」-「スパークのような出会い」=「スキゾイド」=====
だ。本質的被権力者にとって、お前の言う「どっか重なるところが出て来る」ということは、お前が想定しているような、笙野が描く天国のようにのんびりしたものではない。重なることがスパークだ。重なろうとしてスパークする。「重なろうとして」なんてのも厳密に言えば間違いである。自分が動くだけで周囲の世界がばちばちと火花を散らしてしまう。お前みたいな傲慢鈍感自己美化ババアにはわからないだろうが、自意識の弱い人たちたる本質的被権力者たちの主観世界は、スパークの世界なのだ。必然的に否定性を伴うことなのだ。
このスパーク故、「自閉」あるいは
「情動の否認」と呼ばれるような症状が導き出される。お前みたいな一般人、傲慢鈍感自己美化ババアに比べ、彼らの出会いは、いや触れるだけで火花となるのだから、彼らの生は、と言い換えてもいいぐらいだが、ともかく彼らの出会いは、生は、とても負担が大きいものとなる。知ってたら、こんなだらしなく簡単に他人事のように鼻糞ほじりながらのごとく「どっか重なるところが出て来るだろう。」なんて言えるわきゃないだろーが。わたしとの議論程度にコメント欄閉じることもないわ。
それを知らないままお前は、
「孤独だあ。」
などと言う。ひーひゃっはっはっは。ワラケルwww これが笑わずにいられるか。泣き笑いだ。語れば語るほど立ち表れる、この断絶。その程度の自閉で「自己を問われている」つもりになっちゃえるお前とわたしの断絶。
このお前の「だらしなく簡単に他人事のように鼻糞ほじりながらのごと」き態度こそが、人との交わりを交通に喩えるおんたこと同じ症状であることに気づけているかい? おんたこウイルスの感染症状の一つだ。「だらしなく簡単に他人事のように鼻糞ほじりながらのごと」きものとしてしか重なることを想定できないから、人との交わりが貨幣化してしまうのだよ。
いやお前はスキゾイドですらないがな。わたしの記号分析見地では。存在するだけで被権力者を握り潰してしまう立派な権力者ですよ。正常人です。ヨカッタデチュネー。まあ多少は被権力者的領域は強いだろうがね。リビドー減退しているとはいえ女性的主体ではあろうし。仲俣や田中やノハラに比べたら。モモチなんて蛆虫はどうでもええ。
ノエマ的自己もノエシス的自己も、象徴的父度もアブジェクシオン度も中途半端なのに、何故語りたがるかね? それが理解できない。わたしは社会にもケガレにも犯されまくったからわかるが、語ることとは諸刃の剣だ。でも語らなくてはならないという肉体があるから、わたしは剣を磨く。その刃は自分も傷つけるものであると知りながら。語らいとはスパークであることを知りながら。言葉そのものに劣化を促す遺伝子があることを知りながら。再び笙野の言葉をコピー。
=====
ネットにわざわざ出て行って誤解される口きく事自体が変なんだよ。
=====
「わたしは評論家じゃない」だって? 肩書きなんてカンケーねえよ。お前仲俣や田中を批判してただろ。批判する権利を行使するなら、批判される責任も負うのが当然だろ。他人を斬るなら、斬られる覚悟をしてからにしろ、ということ。ちょっとの批判でコメント欄閉じるぐらいなら最初から黙ってれば? というアドヴァイス。 語り得ぬものなんか、沈黙してればいーじゃなーい。書けない理由を書かなくちゃならない作家じゃないんだしい。
とか言いながら書いてくれなかったらわたしにとってのこういう「スパークのような出会い」はなかったのだから、書いてくれて感謝している。個人的に。
ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、まるで、精神分析を使う者は分裂病的あるいはパラノイア的領域にいる者でなくてはならない、と言っているように見える。それに倣うなら、評論を述べる者は、分裂病的あるいはパラノイア的領域に親近する者でなくてはならない、と言えるだろう。わたしは笙野の言う三次元を、アルトー的な「器官なき身体」、即ち狂気的肉体という生の領域だと大雑把に解釈しているが、そう考えるならば、「評論家は必要但しニュー批評家(二次元批評家)はいらん」という言葉に共鳴しないだろうか。
わたしはんなこと主張しないがね。
あ、自己愛そのものは批判しないよ。
ここでも書いているように、対象愛の本質は自己愛だ。チミは自己愛的に自閉している。即ちチミの中の自己愛を体感している。わたしにケガレを見出し、昔の友人だか
幽霊だか知らんが、そのようなものに象徴されるトラウマが再帰しているような状態だ。つまり、トラウマ的過去が現実になっている。つまり、チミはほんのちょっとだけど、退行できている。がんばれ。もうちょっとだ。「アスペルガーやスキゾイドや統合失調症や「男性と比較した場合の」女性や「大人と比較した場合の」子供」などが生きている、「本当の意味での」退行的な、「本質的な」被権力者たちが、「原則的に」歴史が奪われてしまう火星人たちが生きる主観世界は。被権力者ブリッコもそこそこ効用あるのなwww ちょっと感心。
もっと被権力者になりたいなら、被権力者ブリッコを極めたいなら、ここで怖れちゃダメ。退行を。渾沌を。自閉するな、という意味ではなく、自閉とかそんな表層は関係なく、どれだけ内省できるか。この内省が自閉的な印象を連鎖しているだけに過ぎない。自分の確信を、思い込みを握り潰せるか。渾沌を隠蔽しているチミの確信を握り潰していくからこそ、渾沌に触れられるのだ。握り潰すにしても、答えがあるって前提があるとダメ。目的地に向かう旅ではなく、無限に広がる砂漠を歩き続けるような、自分の足跡さえもかき消されるような、
無為な内省。そうすれば、いつか
糞尿のオアシスが見つかるかもよー。ちなみに言うと内省してってオアシスなんてないじゃん、なんにもないじゃあああん、ってなるのが、男性的抑鬱症である。「なんにもない」や「文学は終わった」などという喪に襲われてしまうお粗末な結果が、日本文学の伝統としてある。笙野曰く「敵方としての文学」だな。大丈夫。わたしの見立てではチミは男性的抑鬱症にゃならんよ。他人にケガレを投げつけているのは、他人だろうが自分だろうが関係ない視点で考えたら、ケガレに執着している、多少はケガレが見えているってことだから。つかそのケガレ的良さがわからんかったら笙野ファンやっとらんだろう。
「ぐちゃぐちゃ」とか勘は悪くないと思うよ、チミ。それこそ仲俣なんかより。笙野なら「どろどろの権現」やね。ってゆっか
どろどろの中にぺかぺかしたきれいな水晶があるのが彼女の言う権現だとわたしは思ってるけど。どろどろから浮かび上がるか沈んでいくかは関係なく。
ま、がんばりたまへ。とか応援しているのに多分内心のレスはおんたこ的「長文ご苦労さん」なんだろうな。そういう態度こそが他人の祈りを、狂気の防衛としてのサントームを握り潰すことであるのに、自分が傲慢鈍感自己美化ババアであることに気づかないまま。あー大体予測できるよ。画一的な「心の理論」に囚われた定型人の考えるこた。多少はマシだけどね。だからわたしはこうやって、衝動に従い無為な語りかけをしている。
次行きましょ。ネタ満載だもんな、こいつの文章。てか長くなりそうだから適当に切り上げよ。いっくらでもナイフは隠し持ってます。
繰り返しになるが
この辺に触れとこう。
「傲慢鈍感自己美化ババア」を言い換えるならば、「ホモソーシャル的な、自分と同じ「心の理論」なりを共有している他人しか認知できない定型人」となる。多数派の人間だ。お前だけが傲慢鈍感自己美化人間であるわけではない。むしろお前一人だったらわたしは批判しない。引用する。
=====
あなたは確信を持っている。私は確信を持っている。それでどうして私だけが「確信したがりや」なのですか。
=====
このババアはどうも文盲らしく、わたしは、
=====
自我の強い人=確信したがり屋、確信して「しまう」傾向の強い人たち。結果、固定観念が強い傾向となる。
自我の弱い人=懐疑したがり屋、懐疑して「しまう」傾向の強い人たち。結果、固定観念が弱く、自由な発想が可能な傾向となる。
=====
という風に、自然とそうなって「しまう」傾向を述べているにも関わらず、一点だけを見て同じ確信したがり屋だと述べている。わたしはお前の文章(大体の)全体を見て指摘しているにも関わらず。それはそれでいい。
前記事にも書いたようにわたしという人格は象徴的父にも見られ自他未分化的な母にも見られるらしいし、自己分析にも合致する。お前がわたしという人格をどう解釈してもらおうが構わない。お前はわたしじゃないから。
さて、問題は、こいつの「あなたも私も同じじゃん」という論法である。これこそが、自分と同種の人間しか見えていないこの主体の無意識傾向を象徴している。相手を同種の人間だと思い込みたがっているのだ。わたしに同種の人間だという幻想をおっかぶせたがっているのだ。何故なら、同種の人間の方が、相手の真意を自分の想定内に収められるからだ。即ち確信しやすいからだ。言葉そのものの意味ではなく、文脈を読むことで、お前の言葉の裏を、即ちお前の無意識をわたしは指摘している。これは、おんたこウイルス感染症あるいはホモソーシャル病とでも言うべき症状である。この病にかかると、「あなたも私も同じじゃん」という論法に収束して「しまう」のだ。
「あなたとわたしはお互いに異常」という(ラカン的な意味での)現実が見えていない証拠である。お互いに異常だから全ての出会いがスパークのようなものになるのである。お前は、「空気が読めないこと」や「中二病」と言われることに対して過剰に防衛してしまう、自意識過剰者だ。
ここで議論している相手のような鈍感者である。自意識過剰と自意識が弱い故の過敏は別物だ。
ここで触れているように。この相手は若いし敏感だしまだ正直だ。お前なんかより。わたしのような立場を過敏と批判することで、自分が鈍感であることを、そういう立場に立っている自分を認めている。
やめてくれよー。お前みたいな傲慢鈍感自己美化クソババアと一緒にすんのー。
クソババアは問う。「私だけが「確信したがりや」なのですか」。むしろ逆である。お前一人が確信したがり屋だと言っているわけではない。わたしは、お前の中にいるおんたこウイルスという、多数派としての権力者を批判している。お前の内に潜む「(「共同体の一員としてのわたし」ではない)共同体のわたし」を抉り出そうとしている。それを述べようとしている。
わたしから見ればお前は田中や仲俣と同じ側にいる人間だ。そりゃー確かに距離的には一歩二歩こっち寄りなのだろう。また、たとえばアスペルガー症候群者から見れば、わたしはお前と同じ側にいることになろう。わたしの中にもおんたこウイルスは存在するだろう。事実ブログで時々書いているじゃないか、「共同体のわたし」としては、などと。この言葉の初出と思われる
記事にもこう書いてある。
=====
短絡的にアスペルガーとスキゾイドをイコールで結ばないのと同じように、女性とスキゾイドをイコールで結ばないよ。学問的共同体としてのわたしの立場では。
=====
まあこのクソババア多少はマシだ(被権力者部分が強い)から自分で問うた後自分で確信したがり屋なこと認めているしな。ただ、確信なんてものは、己の中にある差延効果により、いずれコピー化、握り潰されてしまう、という事実を述べているだけである。とはいえこのことは、
「女はバカで構わない」という断頭コンプレックスを通過できた人間にゃ、あるいは様々な権力を行使「しなければならない」男性的社会で戦った経験が少ない人間にゃ、ピンと来ないことなのは理解している。理屈でね。すまんなお前みたいなボヴァリスムババアについてわたしゃ理屈でしか理解できないんだ。
これについてはこのぐらいにしとこう。
本題に戻る。このホモソーシャル的な「共同体のわたし」なるものは、たとえば共依存なんて言葉に置き換えてもいい。
この辺鋭いところついていると思うよ。わたしの言葉なら、
アンテ・フェストゥム人間は原則的に徒党を組めない、ってのに連鎖可能だろう。大分意味が広範化しちゃうけど。同じような思考様式の相手と共依存的に徒党を組むことが、ホモソーシャル的な共同体である、ってことだ。
原始的に、本質的に、人と人との出会いはスパークのようなものとなる。そうだからこその「隣人愛」なのであって、お前が言う「車座になってそれぞれの笙野解釈を語り合える」ようなだらしなく馴れ馴れしい緊張感のない社会のための「隣人愛」ではないのだ。
このだらしなく馴れ馴れしい緊張感のないホモソーシャル的な共同体と同一化した「共同体のわたし」の良い記号分析的症例が、殴り込んだ最初の、
ノハラやモモチのわたしに向けたレスだ。それに対するわたしのレスを引用する。
=====
たとえば
>メールでやりとりするか、あなたのブログにご招待する方がいいと思います。
こういう排除思考ですよね。
あなたはパンサさんではありませんよね? ここはあなたも仰るようにパンサさんのブログですよね。では何故不快に思うのでしょう? あなたは不快に思ったから出て行ってくださいというわけですよね。
自分が何故不快に思うのか不思議に思わないのか不思議です。
あー自分できめえと思うからいいけどさー。
キミタチ自分のキモサわかってるのかね。モモチさんはパンサさんなのですか?
=====
つまり、彼らは、このブログにおける想像的な共同体と同一化しているのだ。だから、ブログ主であるパンサ氏に断りもなく、わたしという異物を排除するレスができるのだ。そこは自分が管理するブログではないのは当然の事実である。またその管理人であるパンサ氏と自分は別人であるというのも当然の事実である。しかしモモチ氏は、それらの事実を一足飛びに飛び越えて、「きっとパンサ氏も脂って人を(ここから)排除したいのだろう」という確信を疑うことなく、わたしを排除しようとしたのだ。この一足飛びの思考様式こそが、たとえばアスペルガー症候群者のそれは固定化されていないと言われている「心の理論」であり、象徴的ファルスや間主観的自己感が通常に形成されることであり、
「SAM」である。わたしの言葉なら「シニフィアン的自己の不安定さ」や「自意識の弱さ」である。定型人が
「フレーム問題」を起こすことなく生きられる原因たる、固定観念である。
断っておくがわたしはアスペルガー症候群ではない。わたしは自論の補強のために彼らの言葉を再利用している。それが劣化と表裏一体のことであると自覚しながら。「存在自体である概念」である彼らにとって自分が権力者であることを自覚しながら。劣化は、短絡化は、定理化公式化は、武器という道具にもなり得る。諸刃の剣であることを自覚しながら使えば、それは超自我化即ち信仰化されない。わたしはアスペルガー症候群者当事者から批判を受けたとしても、わたしが身勝手に感じる痛みから、逃げない。自己美化しない。
話を戻そう。
こんな幼稚園児的「ミンナナカヨク」的固定観念に惑わされず、わたしとサシで語ろうとしたパンサ氏は、まだ多少マシである。権力者を権力者たらしめる固定観念からは、多少は自由な物の見方ができていると言える。まああんなレベルと比較されても迷惑だろうが。
『だいにっほん第三部』において、火星人とは「歴史を奪われたものだ」と明かされるが、このブログでの言葉ならそれは「女は存在しない。アスペやスキゾはなおさら存在しない」や、それこそアブジェクシオン論の文脈での「棄却されやすいシニフィエを持つシニフィアン」に連鎖するだろう。棄却され存在しなくなるから、歴史が奪われるのだ。
わたしの引用レスの中の言葉なら、それは「排除思考」に当てはまる。
よかったねえ! 笙野作品世界が一瞬だけでも現実化した瞬間に立ち会えたんだよ!? これほど笙野ファン冥利につきることはないだろう。配役はお前らがおんたこになっているけど。ブログやっててよかったねえ。その記事で既にわたしは自分を、「自我とかわからん!」と作中笙野に反発するいぶきに喩えておろう。こんな親切丁寧なわっかりやすいヒントもないもんだ。
この記事では、みたこ教と密教の関連に目をつけ、それがスキゾイドの神秘主義かつ自然主義傾向という、定型人から見れば矛盾しているように見える傾向に符号することを述べているが、このこともこの論の補強となろう。
モモチという典型的おんたこは横に置いといて、パンサ氏の話に戻る。
モモチやノハラよりは多少はおんたこウイルス感染度は低いと思われたパンサ氏も、ここで決定的な「無意識のだだ漏れ」を起こす。引用する。
=====
あなたが私を笙野教というのもまったくわからなくはないですよ。でも私以外の人はどうなのかは私にもあんまりわからないです。
あなたの言う信者のその全体とマジ喧嘩するならBBSがあります。
http://www4.rocketbbs.com/741/kompira.html
=====
「私以外の人がどうなのかはわからない」。これは真実だろう。正直な意見だと思える。しかし直後彼女の無意識はぽろっと漏れてしまう。錯誤行為的に。
「あなたの言う信者の【その全体】とマジ喧嘩するならBBSがあります。(【】筆者による)」
つまりこの傲慢鈍感自己美化ババアは、権力者を権力者たらしめるホモソーシャル的な「徒党を組める」能力を行使し、わたしを一人対多人数でいじめよう、あるいはいじめられてきなさい、と言っているわけだ。既にその時点で一人対複数という構図になっていたにも関わらず。
なんという傲慢さであろうか。
そういう態度こそが、多数派となって「しまう」本質的権力者が、「原理的に」徒党を組めない本質的被権力者から、「歴史を奪うこと」であるのに、彼ら彼女らはいつ気がつけるのだろう?
お前らこそが、火星人の歴史を奪った犯人だ。
先に書いたように、わたしにとっての出会いとは、傲慢鈍感自己美化ババア、お前の言う「重なること」とは、スパークのようなものだ。スパークのようなものだから、負担が大きくなるのだ。しかしわたしは出会いを求めてしまう。それは欲望とは言えない。そういう生を生きているだけだ。そうなって「しまう」だけだ。それを死の欲動と呼びたいなら呼ぶがいい。今はんなのどうでもええ。結果わたしの主観世界における「スパークのような出会い」とは、経済的に、一対一の語らいや、ブログや小説のような一方向的な枠組みを持っているものにならざるを得ない。こちらは徒党を組めないから、語らいはそうなるしかないのだ。従って、わたしはお前と一対一の会話を望んだ。そういうことに過ぎない。
もちろんわたしは、わたしの歴史を奪われないように、わたしを存在させるように、わたしという意味を棄却されないように、戦っている。単身お前のブログに乗り込んでいる。徒党を組めない人種だから単身になるだけだ。同情しろなんて言いたいわけではない。わたしにとっての事実を述べているだけである。わたしという生はそういうものだ。いぶきのように、天国という閉鎖的コミュニティに帰天することのない、したとしてもすぐ地獄へ現実へ舞い戻って「しまう」、生。
当然お前は「いじめるつもりなんかなかった」などと言うだろう。そりゃ意識ではそうなるさ。無意識にある真意を隠蔽するのが自我という機能なんだから。既に過去の事柄なんだしいっくらでも脚色可能さ。わたしはお前の無意識の話をしている。そもそもわたしの言う「自意識が強い人/自意識が弱い人」あるいは「本質的権力者/本質的被権力者」という二項軸は、精神分析的な、無意識的な領域を含める話である。
(クリステヴァ的)記号分析というメスを用いて、わたしはお前という精神を切開している。痛いだろうそりゃ。切開しているんだから当然だ。いや鈍感なのだから痛みすら感じてないかもね。そりゃそれでいいや。こっちも気にせずお前という主体を解体できる。心置きなくお前が「ある」と確信している幻想を暴くことができる。お前の被権力者ブリッコという仮面を剥がせる。お前の素顔に癒着してしまっている仮面を。ばりばりと。
お、ちょっとアルトーっぽくなってきてるな、という自己満足。今みたいに体内糞便が激しく渦巻いている時って食欲湧かないのな。今日朝から何も食ってないのに腹減ってねえや。いひゃひゃ。おもしれえ。ビールが胃に染みて初めて気づいたわ。
むしろ「ある」という幻想を上手く確信できない人たちのための宗教が密教なりグノーシスなりだとわたしは思うがなあ。お前も記事にしている
明恵とかありゃー
マゾヒストだ。河合本と仏教本で軽く触れたのしか読んでないけどな。顕教ならこんなこと言ったら怒られるかもしれんが明恵なら「あなたマゾヒストですよ」とか言って精神分析論ぶっても興味深げに聞いてくれそうだ。言葉なんてどうでもいいのだよ、密教やグノーシスは。言葉の世界は二次元に過ぎず、
「ネタ」や「コント」に過ぎないのだ。自意識の弱い人間にとっては。「キリスト」にしろ「ブッダ」にしろ言葉に過ぎん。お前会ったことあるのか? キリストやブッダに。会ったとか言うならいい精神科紹介したげるよ。つかんなのLSD幻覚と何が違うんだとわたしは思う。ともかく言葉よりも現存在姿勢を大事にするってのがグノーシス主義なわけで。世界宗教みたいな教義(言葉)主義じゃなくて、体感主義である、ってことだ。原始キリスト教にはあったであろうが、顕教化してしまったキリスト教が棄却した、そこには存在しない何か。オウム真理教もこっち系なんだがね。実は。つか新興宗教なんて既存の多数派たる顕教的なものに対抗しなきゃならないんだから、どうしても密教的、グノーシス的な部分が大きくなるわいな。原始キリスト教とか大仰に言っているが、そんなようなことに過ぎんよ。
「キリスト」や「ブッダ」なんてただの言葉に畏怖しているお前の姿は、オタクがフィギュアを神聖化している姿と同じにしかわたしには見えない。神フェチだ。ただの。お前にゃ顕教が似合ってるよ、という話。良くも悪くもなくな。ただそういう無意識に支配されたお前が笙野について語れば語るほど、わたしが見出した笙野という作家性の密教的グノーシス的(ドゥルーズ=ガタリ的な意味で)スキゾ的な部分が劣化していくという事実を言語化しているに過ぎない。
ここまでのわたしの祈り届いてるのかなあ。お前じゃなくてお前の神に。届くことの方が稀だってのは知っているから、「無為な語りかけ」とかちょっとニヒリズム入ってたりするんだな。ラカンみたいに「手紙は宛先に届く」と言えないわたしであった。ここら辺はドゥルージアンっぽいなあ。わたし離人症っぽくなってる? そう見られたらわたしも立派なドゥルージアンだ。おもれえな、文章って。
つかさー、
この記事についても触れようと思ってたけど長くなったからやめたけど、わたしゃ福田デブなんてあんまし興味ないからその本読んでないけど、引用された文章だけ読んだら、『だいにっほん第三部』後書で蓮實を評した「褒め罵倒」のように読める。わたしは。もちろん蓮實と比べたらその韜晦度はガキンチョレベルだが。その引用文を批判するならその韜晦度、即ち理屈や隠喩の単純さ、即ちテクスト自体のパズル的おもしろさが低いということを批判すべきじゃないかね? むしろ三島賞とかの島福コンビのマッチョイズム的言い分読んでたら「単純サイコー」思想臭いから当然の表出だろうが。
この辺りもお前が字面しか読めていない、お前の頭が大雑把であることの、お前がおんたこウイルスに強く感染していることの、お前自身が笙野の言葉を劣化させていることの、証拠になるな。わたしにとっちゃ、お前の笙野に対する「褒め殺し」は、福田デブのマッチョイズム文章や、田中や仲俣やノハラの中二病的正義感に酔いしれるちっちゃいちんちん文章と同種だ、って話。
「おっさんのその疑り深い目ぇが、
♪スッキー」いやごめん今CMやってたから。
なんか疲れたわー。今日はこの辺にしといたらあ(めだか師匠のノリで)。
正直私怨記事だが、私怨記事として読んで欲しくない部分もある。パンサと名乗る傲慢鈍感自己美化ババアに唾を吐いている表層テクストの裏で、隠喩的にわたしは笙野論を、主に『だいにっほん三部作』に纏わる思考を述べている。むしろババアに対する唾吐きはプロレスみたいなものと思ってくれて構わない。わたしの中の憎悪はマジモンだがな。隠喩で隠蔽した『だいにっほん三部作』論(論と呼べるほどのものではないが)にむしろ着目して欲しい。ババア以外の読者は。一つの詩みたいなものだ。ポエムポエム。
笙野も火星人なんか書かなきゃわたしみたいなん釣れなかったのに。
『第二部』ラスト数行の悪寒は正しかったの。さすが巫女。とはいえ、自分で年食った自分を戯画化してたからあえて言うけど、最近説教師に堕しつつある気もする。蓮實の言う「大作家」になっちゃいつつある、ってことだな。アヴァン・ポップって作法がどこまで抗「大作家」剤として機能するか、みたいな感じかね。笙野本人が抗っても周りが許さないだろうな。それこそこの傲慢鈍感自己美化ババアみたいな
蛆虫がもろもろと湧いてくる。蝿になって空へ飛びたがる蛆虫が。その空はただの幻想に過ぎないことを知らない哀れな蛆虫たちが、リアルで生々しい笙野本人(に近似する作家性)から切断された「笙野の言葉」という死骸から湧いてしまう。それはただの自然の摂理に過ぎない。
正直、みたこ信者はともかく、いぶきを帰天させた時点で、わたしゃ既にうっすらと彼女に
吉本隆明臭さを感じている。むしろ火星人を描いてしまえば、文芸なぞどんなにがんばっても言語という二次元に過ぎないのだから、多かれ少なかれケガレを棄却してしまうことになる。筆者本人がどんなに異を唱えても、本人から離れた言葉はそうなってしまう。少なくとも『ニ百回忌』主人公はともかく桃木辺りにはそのことに気づいて欲しかった。わたしはいぶきについて
「えっらい簡単に確信したな」という感想を持ったが、いぶきの地獄(現実)を、「スパークのような出会い」を生きようとする葛藤を描く代わりに、桃木と『ニ百回忌』主人公の軋轢をもっと描いてもよかったろう。いや桃木は所詮彼女の権現と連結しているのだから、理屈的にはやはりいぶきが抗うのが正確か。「天国」という悪意に対して。どっちでもいいけど。この辺の描写が甘いのは、作品全体としての過剰さ、「毒々しくケバケバしい華厳の極楽」を表現する目的も理解できるが、詰め込み過ぎ故の問題か。大団円を意識し過ぎている、という大雑把な表現を用いてもいい。
ともかく今後次第か。巫女モード維持できているかどうかの判断は。
あねさんろっかくミコミコナース! ってすでにナツイなおい。
笙野に対する批判っぽくなっているが、嫉妬よ嫉妬。ルサンチマンルサンチマン。傲慢鈍感自己美化ババアの口臭にむかついているからこんな口調になっている。だけどわたしは、笙野が一度はこっち側に落ちてたことは認めている。彼女曰く「言葉だけ好き派」の感覚で言えば。大雑把に言えば、『金毘羅』という作品は高く評価するが、『第三部』はその二匹目のドジョウのように見える。しかし『第二部』がある分、三部作全体で見れば、こっちの方の評価が高くてもよい気もする。わたしは笙野に裏切られたという享楽に感動している。
ともかく、こっちの感覚知っているからこそ、おんたこなりネオリベなりを批判できてなおかつその言葉に説得力が生じているんだろうし。わたしがブログ書き始めた理由と同じような(例:
記事1、
記事2、
記事3)ものと思っている。知っているからこそ、ドゥルーズ=ガタリの文章について
「嬉しそうな口調」なんて違和感を感じることができるのだろうし。芸術の神を信じているわたしにとって、笙野は批判してはいけない。嫉妬にかられてはいけない。だから、今後次第、という言葉を選択した。今後次第によって、わたしが読まなくなったりするかもしれない、ということに過ぎない。ただ、篤く信仰し過ぎているから、無神論的に、笙野に対しても疑いの目を向けて「しまう」、ということだ。
笙野という、「確信」の本質(仏教的自我やらなんやら)を、自分がどういうものであるかという「SAM」あるいは「自意識」(それこそ『金毘羅』)を知ってしまった主体に、もうパンサなどという、共同体と連結するための従者は必要ない。だから笙野はいぶきに火星人神話を語らせようとしたのだ。火星人に対して神話を語らせようとする抑圧を行使できるのだ。神話なんてものを含めた幻想(日常的現実を含む、ラカン的にはシニフィアン群で構成された幻想)について疑って「しまう」、物自体へ遡行して「しまう」(ドゥルーズ=ガタリ的な意味での)スキゾたちに対して、天国という現実逃避的な幻想を押し売りすることができたのだ。わたしはどちらかと言うと保守だ、と言ったよな? それは抑圧されることあるいは棄却することこそが幻想を生むことであると知っているからだ。これらのような、メリット(抑圧があるからこそ神話なりという幻想は形を得る、等)も踏まえつつ、むしろデメリットや悪弊について、今後は考えられなければならないだろう。
笙野の示す「スキゾイドのために設置した、「スパークのような出会い」を回避できる、語るだけ語って自閉を許される
プチクリ的天国」について、火星人にとって一時の現実逃避的な休息所足り得るのはわたしは認めている。しかし、おんたこウイルスに侵されている自分を自覚しないままそれにただ乗りするお前のような奴らこそが、わたしにとって目先にある悪である。もちろん「物が悪意である」わたしにとって、
そんな天国ですら悪意だ。悪意の存在自体を認めた上での。それを悪意だと気づけない、悪意に仮面を被った定型人たちの存在を認めた上での。それは人間の原理である故排除できるわけがないと認めた上での。そんな奴のうんこ投げと思ってくれて構わない。うんこに振り回されながらのこのメス捌きの正確さは自分で惚れ惚れするがね。
笙野がみたこ信者のために作った天国が、お前らみたいな顕教的読者の存在が、一笙野読者に過ぎないわたしの、笙野作品の中に「あった」わたしの居場所を奪っている、ということだ。それで別に構いやせん。わたしにとっても笙野はたくさんいる小説家の中の一人に過ぎないから。ただ、奪われることに対するうめき声ぐらいは上げさせてもらうぜ、という記事だ。
自閉するくらいならブログやめちゃえば? って話。ヴィトに倣うなら語り得ぬものは沈黙してていいんだよ。それでも語りたい衝動は理解できる。わたしの言う糞便でありお前の言う「渾沌」あるいは「ぐちゃぐちゃ」だ。ただ、語るならば、それが諸刃の剣であることを自覚しろってことだ。言葉を語るだけでそれは誰かを斬ることになる。そもそも言葉自体がそういうものだ。物自体そのものが持つ刃を鋭利にしたものだ。わたしの言う本質的被害者は、歴史が奪われて「しまう」火星人たちは、その痛みに過敏なのである。過敏だからこそ、彼らの主観世界は(定型人あるいはホモソーシャル人間から見れば)芸術的に豊かになる。
他人を斬るならば、斬られる覚悟を持って語れ、とわたしは言っている。車座になってだらしなく馴れ馴れしい緊張感のない語り合いをしたいなんて態度こそが、火星人を、「女」や「子供」を食い物にするおんたこと同じ態度であることに気づけ、と言っている。『第三部』でおんたこに殺された少女作家はどんな作家だった? 思い出してみろ。それでもわからないんだろうな。お前みたいな傲慢鈍感自己美化ババアは。お前は、火星人遊郭に客として来てそこで働くバイタに、おんたこに陵辱され惨殺される火星人少女に同情するだけの、自己美化のために涙を流したいだけの、ボヴァリストババアに過ぎない。
自己美化という「快楽」を買うために遊郭にやって来るのだから、わたしから見ればお前はおんたことなんら変わらない。わたしは享楽主義者だと名乗るが、それはラカン的な意味での、たとえば
マソヒズム的な「享楽」であり、「快楽」とは別物だ。ちなみにドゥルーズ=ガタリが説く「倒錯」はこういった享楽主義者を指していると考えなければならない。ラカン風に言えば小文字の倒錯とは別物だ、ということだ。これをレトリックに過ぎないと思うなら、お前の主観世界にドゥルーズ=ガタリ的な意味での倒錯者は、わたしという享楽主義者は存在しないということを示しているに過ぎない。別にそれで構わない。ともかく、そんなわたしから見れば、自分を買ってくれるおんたこなんかよりお前みたいなのがよっぽどキモチワルイ。そんなおんたこ的傲慢鈍感自己美化的無意識で防衛しているから、お前の言葉は「被権力者ブリッコの権力者」としかならないのだ。同情と、自多問わない様々な言動や自己のぐちゃぐちゃな内面に自分で傷ついて「しまう」ことは、別物だ。お前が行使しているホモソーシャル的な自己美化のための同情という権力こそが、
ファシズムを容認し加速するのだよ。
「スパークのような出会い」が、本質的権力者たる、去勢済み主体であるお前には欠如している、という指摘である。断頭を承認しているなら黙ってれヴぁあ?
リアルで『第二部』の装丁のような地獄即ち現実を生きている人間を、お前は見えていない。そういう人間は、お前の主観世界には、存在していない。自分がそういう人間たちの歴史を奪う側であることを、自覚できていない。
火星人が自らの神話を語ろうとすれば、まずお前のような存在が敵となるのだ。
ぶしっぎやぎぎゅぎゅぐぁっ(既に笑いという意味さえ剥がれかけた笑い)。
追記。
なんか
鋭いとこついてるおもろい記事発見。俳句だけど。
=====
かえりみて、一千年余の間に、日本文学は顕教(明在系)であった。ありすぎた。顕教界で「もののあわれ」「わび・さび」を主流とするとき、たとえ本来そうではないにしろ、やはり虚無、諦念、厭世、無常観に片寄りすぎている。密教が無さすぎる。俳句界でもそれは数えるほどしか行われていない。華厳・密教界においてはじめて文芸は生命界へ転ずるように、私には思えてならない。不在・異空間、暗在系を詠み得てはじめて生命が誕生する…。
=====
うんうん。この「虚無、諦念、厭世、無常観に片寄」ることが、わたしの言葉なら、
女性的抑鬱症ではない男性的抑鬱症への帰着になるな。笙野なら、「敵方としての文学」などと表現しているものがそうなるのだろうねえ。柄谷の「文学は終わった」に過剰に反論しているところとかわたしの男性的抑鬱症嫌いに通じるのかも。おお(自分で書いてて今さら気づいたらしい)。
そこに(生物学的男女に囚われない)女性性という概念を加えない限り、「はじめて生命が誕生する」とはわたしは思えない。従って、文中の「鬼神」を身勝手に「鬼子母神」と読み替えているわたしであった。
笙野の攻撃的作家性とかまさに
=====
天地を動かし、鬼神を感じせしむる
=====
じゃーん? そうだから笙野はいいんであって。
ま、お前みたいな顕教ヤロウ(わざとだよ)がこっち側の「暗在系」に近寄るのは一苦労なんだろうな。
この記事に書いた言葉を君に贈ろう。リサイクルリサイクル。
=====
近寄る男たちは、テリブルマザーに硫酸の唾を吐きかけられることで、ケガレに生きる体を得る。
=====
なんですかあ、あだたたちはっ(キンパチの物真似をする物真似芸人風に)。