透明になれない擬似ロボットたち
2008/08/08/Fri
ああ妙なこと思い出した。
泣きそうになった。
腰が痛い。
この記事で、アスペルガー症候群者には「フレーム問題」が起こっている、と書いた。
自分で上手い喩えだと思わなくもなかったが、それほどなんていうか気合い入れて書いた記事ではなかった。それにしては微妙に関係者や当事者から反響がある。
ふむ。
他人のブログの話だが、こちらのコメント欄から引用する。
=====
自分のことを、Excelのように認識しています。自分で式を入れたりマクロを組んだりしないとただのセル。
対処出来ない事態が起こるとその度に、次に起こった時は対処出来るように式を考えて入れていくのですが、融通はきかないし、エラーは起こるし、新たに加えなければならない式がどんどん増えるし、過去に入れた式と矛盾することもあるし…。
=====
まさしくこれはフレーム問題的な状態を当事者が述べた言葉だと思える。
初めに断っておくが、わたしはアスペルガー症候群者ではない。
しかし、このコメント者が述べる、「自分のことを、Excelのように認識しています。」というのには、全く状況は違うが、わたしもそういう風に思っていた時期があった。
それは、それこそ、演劇で役者をやっていた頃だ。わたしは演技を、将棋やチェスのようなものだと思っていた。時間制限が厳しいチェス。だからどれだけ早く、脳内コンピューターを作動させ、最適な解としての演技、行為を繰り出すか、が演技の肝だと思っていたくらいだ。テレビゲームにも近い。
とはいえやはり相手は人間だ。大体の戦術はあっても、それに沿わないのが人間関係だ。台本はあっても、それに付加する肉は、誰も予測がつかないものになる。
ここでは、表情や言葉(セリフ)は、チェスの一つの駒に過ぎない。人間だってそうだ。稽古場と実際の舞台との違い、照明へのキッカケ、音響に合わせてする銃を撃つ演技……。
無限の選択肢が、本番前の演劇にはある。それを一つの形に固定化するために、稽古をする。同じシーンを繰り返して演じる。本番のための稽古で通常稽古じゃない方ね。
わたしは、よく演出家に、日によって演技が違い過ぎると言われていた。
逆に、本番のための稽古じゃない通常稽古で、エチュードという即興芝居をする稽古があったが、それは好きだった。
なので、どうも周りからは、わざとやっているように思われていたらしい。
もちろんわたしは言った。わざとじゃない、と。エチュードは好きだけどアドリブを入れているわけじゃない、と。
わたしが一番苦手だったのは、たとえば、当然稽古場と本番の舞台は全く違うのだが、それによって歩数が変わったりするだけで、全部の演技プランが崩壊するのだ。パニクってしまう。
これは結構ベテランの役者さんでもあることらしい。特に数歩歩いて見得を切る場合など。歩いて振り返る、という単純な動作でさえ、半歩違うと、振り返る向きは逆になる。右足が前に出ているのに右に振り返ったら明らかにおかしいだろう。じゃあ左に振り返ればいいじゃん、とはならない。何故なら左に振り返ることにより、客に背中を見せることになるからだ。別にそういう演技ならいいが、顔が客方向を向いていないと、声が届かない。小劇場でもそうなのだ。日常的な発声だと、客はセリフを聞き取れない。実際に客が入っているかいないかでも、音の響きは違う。観客自身が音を吸収してしまうのだ。人体って大体が水分だからね。
演劇というのは、そういう意味で、本当に機械作動的に成り立っている。演劇や工場の実存在を知らないドゥルーズ=ガタリなんかには絶対わからないことだろうが。
演劇人なら、多分、「フレーム問題」における「無限の可能性がある現実の前に解を収束できない」状態を、体感として知っていると思う。
それはともかく。
他の役者や演出家だって、わたしから見れば、昨日と演技や言っていることが違うのだ。わたしはそれに対応して、解を変えているに過ぎない。そういう意味ではわざとなんだよね。だけど、アドリブを入れようとしてやっているんじゃない。
パニックをどう隠すか、に腐心していた。パニックの原因が毎回違うのであって、パニックの隠し方が毎回異なってしまうのも当然なのである。
だから、わたしは演技はあまり上手くなかった。いやそもそもスタッフ志望で入団したんだし、といつも言っていた。ちゃんとスタッフもやってたしね。
エチュードは、パニックになる方が、ウケがよかった。「○○(わたしの本名)ワールド突入」とかいつも笑われた。
だけどだな。
また違う劇団の話で、なんかわたしと主宰が二本柱になってやっているようなしょぼい劇団だったんだが、まあありがちな主宰=作・演出って体制で、その主宰がいつもわたしを役者で使いたがったんだな。
「下手なところがいい」みたいなことを、悪意の本音を込めたお世辞で言われた。一回だけ制作兼役者でやった。端役だったし客にもそれほど印象は残っていないと思う。周りの役者も、わたしが役者をやると、何か脳内下克上が起きるらしく、「○○さん役者やらないんですかあ?」などとイヤミを言われた。
とっても人間関係ギスギスしててよい劇団でした。ええ。マジデ。
一つだけ印象に残っている役があってね。
フリーでいた時期なんだけど、中学生の役をやったのね。基本子供の役が多かった。背低いし。
だけど、子供の役をやっている時は、エチュードのように演技できたのだよね。台本があっても。かといってアドリブ入れまくりってわけじゃない。パニックにならなかったのだ。演技は安定していた(と自分で思う)。
その中学生役をやった芝居は、まあワークショップみたいなんも兼ねてて、某プロダクションに所属する中学生女子が出演してて、その友だちも見に来てたんだけど、その友だちが、「あの子どこ中?」とか聞いてきたらしいのだ。わたしのことを。現役中学生に交じって二十うん歳のババアが中学生役を演じていたわけだが、普通に中学生に見られていたのだな。現役中学生から。
すっごく嬉しかった。
演出家も評価してくれていた。稽古中、台本にはないセリフをどんどんくれた。
わたしは(天才の子役じゃなくて)子役の天才じゃないか、と冗談交じりに自惚れたものだ。
自慢よ自慢。いいじゃないわたしのブログなんだから。
エクセルの話から、こんな関係ない話を思い出しただけで、なんの理屈的統辞的構造をつけるつもりもないんだが、まあ続けよう。続けてたらなんか筋ができるだろう。
さっきわたしは、「子供の役ではパニックにならなかった」と書いたが、これは嘘だな、と思った。パニックにはなっていたのだ。いつもの下手な役者のままだったのだ。だけど、落ち着いてパニクっていられた。わーこういう矛盾する単語を繋げれば不思議とラカン用語に見えるわ、と今発見した。
だけど、なんて言えばいいのだろう。パニックが演技になるのだよね。子供役って。パニックを隠そうとするわたしの身体的反応が、子供らしさを代理表象する、あるいは子供っぽさというリアリティを付加する、みたいな。
それが、やってる自分でわかった。まさに「離見の見」。他我や自意識とは別物の、他者の立場から自分を見ること。
わかったのは、理屈的なところもあるし身体的な稽古のお陰とも言えるし実際に舞台に立った経験によるものとも言えるけど、演技しているわたしを見るわたしという他者は、本当に、機械的なのだ。世阿弥風に言うなら幽玄なのだ。透明な感じ。それは、ロボットと表現してもよい。透明なロボット。美もケガレも、共通項も差異も、ありのまま認知するロボット。ロボットというより、死者だ。
(わたしはそれが、大嫌いだ。)
自分を見る他者の立場にいるわたしには、色眼鏡があってはいけない。でも大体の人は、色眼鏡から逃れられない。逃れていないことに気づけない。色眼鏡をかけたまま、他者のわたしがわたしを見ることが、自意識だ。この文章なら「自慢よ自慢」あたりが色眼鏡のいい症例だな。要するに、自分という存在に対する感情移入が、色眼鏡ってこと。
(わたしという色眼鏡こそが、わたしである。他の人と違う色であっても。この色がわたしをわたしたらしめる。)
=====
どんな情報も見逃さないが
自分捕らえる機能はない
レーダーマン
=====
『レーダーマン』の歌詞すげえよな、って今頃になって言う。
色眼鏡の存在は、やっぱ役者の稽古を、実際の舞台に立ってみないと認知できないとさえ思える。って経験主義になるわけじゃないけどー。
だからわたしは、心理カウンセラーたちに、役者やってみれば、と勧めている。結構本気で。クライアントを観察する自分自身の色眼鏡に気づけてない人多過ぎるもん。クライアントを心的にどうこうするには、観察者は透明でいなくてはならない。倫理的に。色眼鏡って曲解するってことだからねー。
お前ら全然ダメ。ダメ出し以前の問題。わたし演技するのは下手だが見抜くのは上手いよ。新人役者レベル。見ているこっちが恥ずかしい。かゆくなる。いやマジデ。ホントニ。ここでもそう言っている。
話を戻そう。
子供といってもいろいろある。フレーム問題にパニクるアスペルガー症候群の症状が、一般の子供にも見て取れる、なんて単純な論をぶりたいわけじゃない。
そもそもわたしは、アスペルガー症候群の問題は、象徴的ファルス(スターン論なら間主観的自己感、バロン=コーエン論ならSAM)にある、という立場を取っている。これは、大体生後十八ヶ月やそこらで形成されるものである。そこらで形成されるのが定型発達者という正常人である。
だから、一般に中学生ともなれば立派な定型人であり、正常な大人である、と言える。フレーム問題なんて起きるわけがない、という理屈になるが、そうとも言えないと思う。
何故なら、象徴的ファルスが形成される鏡像段階とは、一つのトラウマとして現実界に排除されているものであり、主体にはどうにもできないなんらかのキッカケにより、回帰したりするものだからだ。
主体にはどうにもできない、と書いたが、所詮人間という個体は、他の個体と大体の共通項を持つ存在でもある。肉体的に共通な何かがキッカケとなって、それが回帰する症例が「傾向的に」多くなる、ということも考えられる。
まあ要するに第二次性徴みたいなことを言いたいのだな。
第二次性徴という生物学的人間に大体傾向的に共通するキッカケによって、鏡像段階というファルスが形成され所有される心的外傷的事件が、PTSD的に回帰したのが、第二次反抗期、っていうのはどこにでもある論だからあえて説明したくもなかったんだけど一応しておく。
鏡像段階がPTSD的に回帰した思春期のニキビ少年少女は、象徴的ファルスが「壊れている」とは決して言えないが、「揺らいでいる」くらいはしているのではないだろうか。
(これらは全く別物だ。その判断基準として、「生々しさ」を挙げておく。あるいは精神医学界で都市伝説のごとく残存する「プレコックス感」でもよい。)
そうなると、フレーム問題的にパニクってしまいそれを隠そうとする身体的クセから逃れられなかったダメ役者のクセが、たまたま第二次反抗期の汗臭い少年少女たちに傾向的に共通するクセと、構造的に一致した、と言ってもいいのではないか。
(という精液に塗れた話。)
そういう話なんだけど、こういう話をしたかったわけじゃないのは一応言っておこう。
痛いんだよね。
その痛みを、快楽原則的にそらしてみた、定型発達的に隠蔽してみた、って記事。
いいじゃんたまにはこういう天国があってもさ。ただの休憩所だけど。
さっきまでのわたしは、わたしじゃない。五分後のわたしは、わたしじゃないかもしれない。
あなたを好きなわたしは、今たまたまあるだけ。一分前のわたしは嫌いだった。一分後はどうなっているかわからない。
あなたが好きなわたしは、そういったいろいろなわたしを、あなたという統計的に平均された仮設的なあなたを基準に、統計的に平均されたわたしであって、大体今のわたしと合致しないことが多い。
一分前のわたしも、一分後のわたしも、今のわたしも、平均されたわたしにより、否定される。
存在させられなくなる。
今のわたしは、一分後のわたしを否定したり、一分前のわたしを否定して成り立つわけだから、否定されることは構わない。それはわたしにとって苦痛だから、否定して欲しい。
だけど、今のわたしも一分後のわたしも一分前のわたしも全て存在させられなくなるのは、とても怖い。
ただの平均を、ただの仮設を、全て自分だと思い込めるあなたの愛により、わたしは殺される。
あなたがわたしを否定するのは正しい。それがわたしの成立条件だから。
だけど、平均された仮設のあなたが否定すると、わたしの成立条件たるわたしのわたしに対する否定が、全否定される。それがとても怖い。痛いくらい怖い。本当に痛い。
わたしが愛しているあなたは、何? どこに存在しているの?
わたしの目の前にいるあなたは、仮設の存在に過ぎない。
証拠のあるアリバイで構築された、言い訳の存在としての、あなた。
あなたという完全犯罪。
見よう見真似で、わたしは犯罪を犯す。
四六時中、あなたに犯されている。
わたしはわたしである、あるいはわたしはわたしじゃない、という犯罪が、日常の礎石になっている。
わたしも、あなたも。
自らを言語によって語ることとは、自分の歴史を語ることとは、統計的に平均されたわたしが、瞬間のわたしを殴り殺すことだ。統計的な平均が、わたしの本性を隠蔽することだ。
最近それを痛感する。
再度言うが、わたしはアスペルガー症候群者ではない。
しかしアスペルガー症候群者の存在に、引っかかってしまう。これは表層的には興味を覚えると同じようなものではあるが、むしろわたしのトラウマを惹起させるような形で、不快な感じをもって、わたしに引っかかってくる。
わたしは、自閉症者たちの存在が、不快なのだ。
昔からそうなのだが、わたしは子供がとても気持ち悪くて、よく「子供は天使」などと言うが、あんたたち現実見ているのかね? といつも思っていた。彼らから言わせると、現実を見ないで自分の妄想に溺れているのがわたしということになろうが。
この子供に対する気持ち悪さと、とても似ている。
なのに、自分の子供のような身体的反応が許容される場でしか、わたしはわたしになれない。それは演技の世界であるが、わたしにとっては真実に近い世界だった。
アスペルガー症候群当事者の情報として、よくここのブログを見に行く。そこでこんな記事を見つけた。
=====
自閉症の事を、早幼期発達障害と言う人たちによると、指はチューリップの様に中指側に曲がっていたり、
足指の先端が刃物で切り取られたように直線に並んでいたり、
或いは、上顎が犬や猫のようにとんがっていたりする事が報告されています。
=====
わたしの手の指は、中央に向かって曲がっている。彼の手の写真と思われるものがアップされているが、小指に関しては、彼のよりもっと内側に曲がっている。女友だちに言わせると、わたしの握り拳は「カワイイ」のだそうだ。手首でくびれていない。握り拳が小さい。
足指はよくわからない。多少外反母趾気味。
尖口については、ない。若干出っ歯だろうか。でも、鼻と口には特徴がない。と本人は思っている。
目も普通。似顔絵を描かれる時、よく西原理恵子の絵のように、●(黒丸)で描かれる。ああもっとわかりやすいのあるじゃん。やる夫の目。
ぶるヴぃっちゃ!
泣きそうになった。
腰が痛い。
この記事で、アスペルガー症候群者には「フレーム問題」が起こっている、と書いた。
自分で上手い喩えだと思わなくもなかったが、それほどなんていうか気合い入れて書いた記事ではなかった。それにしては微妙に関係者や当事者から反響がある。
ふむ。
他人のブログの話だが、こちらのコメント欄から引用する。
=====
自分のことを、Excelのように認識しています。自分で式を入れたりマクロを組んだりしないとただのセル。
対処出来ない事態が起こるとその度に、次に起こった時は対処出来るように式を考えて入れていくのですが、融通はきかないし、エラーは起こるし、新たに加えなければならない式がどんどん増えるし、過去に入れた式と矛盾することもあるし…。
=====
まさしくこれはフレーム問題的な状態を当事者が述べた言葉だと思える。
初めに断っておくが、わたしはアスペルガー症候群者ではない。
しかし、このコメント者が述べる、「自分のことを、Excelのように認識しています。」というのには、全く状況は違うが、わたしもそういう風に思っていた時期があった。
それは、それこそ、演劇で役者をやっていた頃だ。わたしは演技を、将棋やチェスのようなものだと思っていた。時間制限が厳しいチェス。だからどれだけ早く、脳内コンピューターを作動させ、最適な解としての演技、行為を繰り出すか、が演技の肝だと思っていたくらいだ。テレビゲームにも近い。
とはいえやはり相手は人間だ。大体の戦術はあっても、それに沿わないのが人間関係だ。台本はあっても、それに付加する肉は、誰も予測がつかないものになる。
ここでは、表情や言葉(セリフ)は、チェスの一つの駒に過ぎない。人間だってそうだ。稽古場と実際の舞台との違い、照明へのキッカケ、音響に合わせてする銃を撃つ演技……。
無限の選択肢が、本番前の演劇にはある。それを一つの形に固定化するために、稽古をする。同じシーンを繰り返して演じる。本番のための稽古で通常稽古じゃない方ね。
わたしは、よく演出家に、日によって演技が違い過ぎると言われていた。
逆に、本番のための稽古じゃない通常稽古で、エチュードという即興芝居をする稽古があったが、それは好きだった。
なので、どうも周りからは、わざとやっているように思われていたらしい。
もちろんわたしは言った。わざとじゃない、と。エチュードは好きだけどアドリブを入れているわけじゃない、と。
わたしが一番苦手だったのは、たとえば、当然稽古場と本番の舞台は全く違うのだが、それによって歩数が変わったりするだけで、全部の演技プランが崩壊するのだ。パニクってしまう。
これは結構ベテランの役者さんでもあることらしい。特に数歩歩いて見得を切る場合など。歩いて振り返る、という単純な動作でさえ、半歩違うと、振り返る向きは逆になる。右足が前に出ているのに右に振り返ったら明らかにおかしいだろう。じゃあ左に振り返ればいいじゃん、とはならない。何故なら左に振り返ることにより、客に背中を見せることになるからだ。別にそういう演技ならいいが、顔が客方向を向いていないと、声が届かない。小劇場でもそうなのだ。日常的な発声だと、客はセリフを聞き取れない。実際に客が入っているかいないかでも、音の響きは違う。観客自身が音を吸収してしまうのだ。人体って大体が水分だからね。
演劇というのは、そういう意味で、本当に機械作動的に成り立っている。演劇や工場の実存在を知らないドゥルーズ=ガタリなんかには絶対わからないことだろうが。
演劇人なら、多分、「フレーム問題」における「無限の可能性がある現実の前に解を収束できない」状態を、体感として知っていると思う。
それはともかく。
他の役者や演出家だって、わたしから見れば、昨日と演技や言っていることが違うのだ。わたしはそれに対応して、解を変えているに過ぎない。そういう意味ではわざとなんだよね。だけど、アドリブを入れようとしてやっているんじゃない。
パニックをどう隠すか、に腐心していた。パニックの原因が毎回違うのであって、パニックの隠し方が毎回異なってしまうのも当然なのである。
だから、わたしは演技はあまり上手くなかった。いやそもそもスタッフ志望で入団したんだし、といつも言っていた。ちゃんとスタッフもやってたしね。
エチュードは、パニックになる方が、ウケがよかった。「○○(わたしの本名)ワールド突入」とかいつも笑われた。
だけどだな。
また違う劇団の話で、なんかわたしと主宰が二本柱になってやっているようなしょぼい劇団だったんだが、まあありがちな主宰=作・演出って体制で、その主宰がいつもわたしを役者で使いたがったんだな。
「下手なところがいい」みたいなことを、悪意の本音を込めたお世辞で言われた。一回だけ制作兼役者でやった。端役だったし客にもそれほど印象は残っていないと思う。周りの役者も、わたしが役者をやると、何か脳内下克上が起きるらしく、「○○さん役者やらないんですかあ?」などとイヤミを言われた。
とっても人間関係ギスギスしててよい劇団でした。ええ。マジデ。
一つだけ印象に残っている役があってね。
フリーでいた時期なんだけど、中学生の役をやったのね。基本子供の役が多かった。背低いし。
だけど、子供の役をやっている時は、エチュードのように演技できたのだよね。台本があっても。かといってアドリブ入れまくりってわけじゃない。パニックにならなかったのだ。演技は安定していた(と自分で思う)。
その中学生役をやった芝居は、まあワークショップみたいなんも兼ねてて、某プロダクションに所属する中学生女子が出演してて、その友だちも見に来てたんだけど、その友だちが、「あの子どこ中?」とか聞いてきたらしいのだ。わたしのことを。現役中学生に交じって二十うん歳のババアが中学生役を演じていたわけだが、普通に中学生に見られていたのだな。現役中学生から。
すっごく嬉しかった。
演出家も評価してくれていた。稽古中、台本にはないセリフをどんどんくれた。
わたしは(天才の子役じゃなくて)子役の天才じゃないか、と冗談交じりに自惚れたものだ。
自慢よ自慢。いいじゃないわたしのブログなんだから。
エクセルの話から、こんな関係ない話を思い出しただけで、なんの理屈的統辞的構造をつけるつもりもないんだが、まあ続けよう。続けてたらなんか筋ができるだろう。
さっきわたしは、「子供の役ではパニックにならなかった」と書いたが、これは嘘だな、と思った。パニックにはなっていたのだ。いつもの下手な役者のままだったのだ。だけど、落ち着いてパニクっていられた。わーこういう矛盾する単語を繋げれば不思議とラカン用語に見えるわ、と今発見した。
だけど、なんて言えばいいのだろう。パニックが演技になるのだよね。子供役って。パニックを隠そうとするわたしの身体的反応が、子供らしさを代理表象する、あるいは子供っぽさというリアリティを付加する、みたいな。
それが、やってる自分でわかった。まさに「離見の見」。他我や自意識とは別物の、他者の立場から自分を見ること。
わかったのは、理屈的なところもあるし身体的な稽古のお陰とも言えるし実際に舞台に立った経験によるものとも言えるけど、演技しているわたしを見るわたしという他者は、本当に、機械的なのだ。世阿弥風に言うなら幽玄なのだ。透明な感じ。それは、ロボットと表現してもよい。透明なロボット。美もケガレも、共通項も差異も、ありのまま認知するロボット。ロボットというより、死者だ。
(わたしはそれが、大嫌いだ。)
自分を見る他者の立場にいるわたしには、色眼鏡があってはいけない。でも大体の人は、色眼鏡から逃れられない。逃れていないことに気づけない。色眼鏡をかけたまま、他者のわたしがわたしを見ることが、自意識だ。この文章なら「自慢よ自慢」あたりが色眼鏡のいい症例だな。要するに、自分という存在に対する感情移入が、色眼鏡ってこと。
(わたしという色眼鏡こそが、わたしである。他の人と違う色であっても。この色がわたしをわたしたらしめる。)
=====
どんな情報も見逃さないが
自分捕らえる機能はない
レーダーマン
=====
『レーダーマン』の歌詞すげえよな、って今頃になって言う。
色眼鏡の存在は、やっぱ役者の稽古を、実際の舞台に立ってみないと認知できないとさえ思える。って経験主義になるわけじゃないけどー。
だからわたしは、心理カウンセラーたちに、役者やってみれば、と勧めている。結構本気で。クライアントを観察する自分自身の色眼鏡に気づけてない人多過ぎるもん。クライアントを心的にどうこうするには、観察者は透明でいなくてはならない。倫理的に。色眼鏡って曲解するってことだからねー。
お前ら全然ダメ。ダメ出し以前の問題。わたし演技するのは下手だが見抜くのは上手いよ。新人役者レベル。見ているこっちが恥ずかしい。かゆくなる。いやマジデ。ホントニ。ここでもそう言っている。
話を戻そう。
子供といってもいろいろある。フレーム問題にパニクるアスペルガー症候群の症状が、一般の子供にも見て取れる、なんて単純な論をぶりたいわけじゃない。
そもそもわたしは、アスペルガー症候群の問題は、象徴的ファルス(スターン論なら間主観的自己感、バロン=コーエン論ならSAM)にある、という立場を取っている。これは、大体生後十八ヶ月やそこらで形成されるものである。そこらで形成されるのが定型発達者という正常人である。
だから、一般に中学生ともなれば立派な定型人であり、正常な大人である、と言える。フレーム問題なんて起きるわけがない、という理屈になるが、そうとも言えないと思う。
何故なら、象徴的ファルスが形成される鏡像段階とは、一つのトラウマとして現実界に排除されているものであり、主体にはどうにもできないなんらかのキッカケにより、回帰したりするものだからだ。
主体にはどうにもできない、と書いたが、所詮人間という個体は、他の個体と大体の共通項を持つ存在でもある。肉体的に共通な何かがキッカケとなって、それが回帰する症例が「傾向的に」多くなる、ということも考えられる。
まあ要するに第二次性徴みたいなことを言いたいのだな。
第二次性徴という生物学的人間に大体傾向的に共通するキッカケによって、鏡像段階というファルスが形成され所有される心的外傷的事件が、PTSD的に回帰したのが、第二次反抗期、っていうのはどこにでもある論だからあえて説明したくもなかったんだけど一応しておく。
鏡像段階がPTSD的に回帰した思春期のニキビ少年少女は、象徴的ファルスが「壊れている」とは決して言えないが、「揺らいでいる」くらいはしているのではないだろうか。
(これらは全く別物だ。その判断基準として、「生々しさ」を挙げておく。あるいは精神医学界で都市伝説のごとく残存する「プレコックス感」でもよい。)
そうなると、フレーム問題的にパニクってしまいそれを隠そうとする身体的クセから逃れられなかったダメ役者のクセが、たまたま第二次反抗期の汗臭い少年少女たちに傾向的に共通するクセと、構造的に一致した、と言ってもいいのではないか。
(という精液に塗れた話。)
そういう話なんだけど、こういう話をしたかったわけじゃないのは一応言っておこう。
痛いんだよね。
その痛みを、快楽原則的にそらしてみた、定型発達的に隠蔽してみた、って記事。
いいじゃんたまにはこういう天国があってもさ。ただの休憩所だけど。
さっきまでのわたしは、わたしじゃない。五分後のわたしは、わたしじゃないかもしれない。
あなたを好きなわたしは、今たまたまあるだけ。一分前のわたしは嫌いだった。一分後はどうなっているかわからない。
あなたが好きなわたしは、そういったいろいろなわたしを、あなたという統計的に平均された仮設的なあなたを基準に、統計的に平均されたわたしであって、大体今のわたしと合致しないことが多い。
一分前のわたしも、一分後のわたしも、今のわたしも、平均されたわたしにより、否定される。
存在させられなくなる。
今のわたしは、一分後のわたしを否定したり、一分前のわたしを否定して成り立つわけだから、否定されることは構わない。それはわたしにとって苦痛だから、否定して欲しい。
だけど、今のわたしも一分後のわたしも一分前のわたしも全て存在させられなくなるのは、とても怖い。
ただの平均を、ただの仮設を、全て自分だと思い込めるあなたの愛により、わたしは殺される。
あなたがわたしを否定するのは正しい。それがわたしの成立条件だから。
だけど、平均された仮設のあなたが否定すると、わたしの成立条件たるわたしのわたしに対する否定が、全否定される。それがとても怖い。痛いくらい怖い。本当に痛い。
わたしが愛しているあなたは、何? どこに存在しているの?
わたしの目の前にいるあなたは、仮設の存在に過ぎない。
証拠のあるアリバイで構築された、言い訳の存在としての、あなた。
あなたという完全犯罪。
見よう見真似で、わたしは犯罪を犯す。
四六時中、あなたに犯されている。
わたしはわたしである、あるいはわたしはわたしじゃない、という犯罪が、日常の礎石になっている。
わたしも、あなたも。
自らを言語によって語ることとは、自分の歴史を語ることとは、統計的に平均されたわたしが、瞬間のわたしを殴り殺すことだ。統計的な平均が、わたしの本性を隠蔽することだ。
最近それを痛感する。
再度言うが、わたしはアスペルガー症候群者ではない。
しかしアスペルガー症候群者の存在に、引っかかってしまう。これは表層的には興味を覚えると同じようなものではあるが、むしろわたしのトラウマを惹起させるような形で、不快な感じをもって、わたしに引っかかってくる。
わたしは、自閉症者たちの存在が、不快なのだ。
昔からそうなのだが、わたしは子供がとても気持ち悪くて、よく「子供は天使」などと言うが、あんたたち現実見ているのかね? といつも思っていた。彼らから言わせると、現実を見ないで自分の妄想に溺れているのがわたしということになろうが。
この子供に対する気持ち悪さと、とても似ている。
なのに、自分の子供のような身体的反応が許容される場でしか、わたしはわたしになれない。それは演技の世界であるが、わたしにとっては真実に近い世界だった。
アスペルガー症候群当事者の情報として、よくここのブログを見に行く。そこでこんな記事を見つけた。
=====
自閉症の事を、早幼期発達障害と言う人たちによると、指はチューリップの様に中指側に曲がっていたり、
足指の先端が刃物で切り取られたように直線に並んでいたり、
或いは、上顎が犬や猫のようにとんがっていたりする事が報告されています。
=====
わたしの手の指は、中央に向かって曲がっている。彼の手の写真と思われるものがアップされているが、小指に関しては、彼のよりもっと内側に曲がっている。女友だちに言わせると、わたしの握り拳は「カワイイ」のだそうだ。手首でくびれていない。握り拳が小さい。
足指はよくわからない。多少外反母趾気味。
尖口については、ない。若干出っ歯だろうか。でも、鼻と口には特徴がない。と本人は思っている。
目も普通。似顔絵を描かれる時、よく西原理恵子の絵のように、●(黒丸)で描かれる。ああもっとわかりやすいのあるじゃん。やる夫の目。
ぶるヴぃっちゃ!
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