「賢者モード」という無意味への志向。あるいはファクティッシュ。
2008/08/09/Sat
ああそっか。
「精液」という言葉のリアクションを見て、どうもわたしの言いたいことが伝わってないなあ、と思ってしまう。定型発達者あるいはファロセントリックな人たちのリアクション。わたし視点、ね。
わたしは確かに象徴的ファルスへの批判として、その想像的側面を「精液」と揶揄的に表現している。それは認める。
しかし、批判や揶揄を目的として、そう表現しているのではない。
わたしはわたしの心的事実をもって、それを、その不快さをどう表現したらいいか、と考え、「精液」という言葉がたまたま一致したから、用いているのだ。
わたしという存在が、何故象徴的ファルスに、それが生む自我や超自我というパラノイアックな狂気に馴染めないのか、を考えているのである。正常人たちに感じる、倫理的にもわたしという存在自体に関係するモノとしても、明らかに「異常な」それを、どう言語化するかもがいているのである。その結果としての「精液」という表現である。また、ここで言う言語化も、定型発達的に、「誰かを伝えるのを目的として」言語化していると思われたら、反論する。確かに伝えたいという気持ちはあるが、それが目的なのではない。
正常人たちは、わたしの言動に、常になんらかの目的を当てはめたがる。パラノイアックに。権力者的に。
「人格とはパラノイアである」
この言葉が実感としてわかるまでは、ラカン論は絶対理解できないとすら思える。
お前たち正常人は、わたしから見て、パラノイアックなキチガイなのだ。
「精液」という表現には、確かにファロセントリスムに対する批判や揶揄を含んでいる。それはいい。しかし、だからといって、たとえば
「では象徴的ファルスが一切存在しなくなったら困るだろう」
のような反論を返されても、困る。むしろ、こんな反論が形成されるのが、パラノイアックな「正常という狂気」の一症状と言える。
わたしは、精液に塗れたいのだ。
正常人になりたいのだ。
だけどなれない。何故なれないのか。
わたしは正常人たちの、ある精神障害的症状を不快に思っている。
それを、「精液」と表現している。
それがたまたま、統合失調症者や自閉症者が正常人たちに対して感じる不快さと、症例や論文を調べているうち、似ているとわかった。
わたしが不快に思う統合失調症者や自閉症者たちの症状に、だ。
わたしは、精液に塗れたいのだ。
何故塗れられないのかを考えているのだ。
わたしは、何を棄却できていないかを考えているのだ。
だから、
「じゃあ精液がなくなったらお前はどうするんだ? 社会はどうなるんだ?」
などという反論は、意味がない。
定型発達者たちの言葉は、常に非生産的だ。無意味に親近する領域から逃れられない。
お前たちの言葉は、事物から現実感を剥奪する方向に、常に縛られている。
狂気という現実感に苦しむわたしにとって、それらはなんら意味を持たない。
わたしは、お前たちパラノイアと合意したくて、論じているわけではない。わたしの内部にもあるパラノイアックな部分と妥協したくて、論じているわけではない。
合意とは、自身が持つ意味を、お互いに隠蔽するものである。妥協という名の隠蔽。よって合意主義は、無意味を志向する。
射精後に生じると言われている「賢者モード」と何も変わらない。
わたしは、合意ではなく、共有できる、なんらかの不動なものを求めている。
倫理から、現実感が、説得力が、剥落している現代社会。
それは、お前たち自身の、自我や超自我の、快楽原則や現実原則のせいなのだ。
お前たちの言葉が常に無意味を志向している故、そうなっているのだ。
正常人たちがこぞって賢者になりたがるあまり、世の中が精液塗れになっているのだ。
だからといって、スキゾフレニックな狂気に苦しむ人間をダシにして語ればいいという話ではない。
スキゾフレニックな狂気は、お前たちの内部にもある。
この問題の原因は、お前たちのパラノイアックな人格にある。
スキゾフレニックな狂気を隠蔽するお前たちの自我や超自我にある。
倫理に説得力を取り戻したければ、お前たちは、己の自我や超自我を解体すればよいのだ。自傷的に。マゾヒスティックに。
そう、ちょうどラカンがやっているように。
答えは、こちらの世界には、ない。
悪人正機という考え方は、キチガイをダシにしているだけなのだ。己の射精への言い訳なのだ。
そう、ちょうど吉本隆明がやってきたような。
ああ、どんどん小乗仏教(わざと言ってるよ)的になっていく自分の文章がイヤだ……。
はいはい解釈機械モードへ移行。
小乗仏教でもないんだよなー。まあラカン的やり口だとは思うけど。
密教的な、現世利益を求める、になるんだけど、それも違うんだな。
現世しかわからないから、現世にしか利益がないのだ。
死にながら生きてける去勢済みなお前たちにゃ絶対わからないことだろうが。
現世とかって考え方が既に顕教的な思考故存在する幻想なんだよな。
「極楽」とか「地獄」とかって幻想を基軸にして、それに対する「現世」となる。現世が幻想化されている。
そこには、現実的な現世を生きるアンテ・フェストゥムたちが常に対峙している苦痛が、存在しない。
ほーんと、「現存在の姿勢」(リンク先音注意)主義になっちゃうよなー。グノーシス(笑)バンジャーイ。
幻想で生きることの、大事さ? 切実さ?
幻想で生きることができない者が対面している断絶を、認めること?
幻想でしか生きられないあるいは幻想で生きていられる定型発達的な己を、自覚すること?
この断絶は、わたしにとって非常に大事だ。この断絶がないとされると、キチガイと正常人の間はグラデーションになっているとされると、わたしが感じている苦痛が、正常人になろうとしている努力が、今この瞬間のわたしが、無化されてしまう。殺される。
「大人になれば、去勢されれば、幻想を生きちゃえば、死にながら殺されながら生きちゃえばいーじゃなーい」
というファロセントリックなバカ男たちの、ちっちゃなちんちんたちの、精液に従わざるを得ない。彼らに殺されざるを得ない。
自分が過去に殺されたからってわたしを殺す権利はお前にはない。
周りのみんな殺されてきたのだからってわたしが殺されなければならない道理はない。
こんな単純なことに気づけられないのが、定型発達という精神障害なのだ。
こういうちっちゃなちんちんに限って、実際にキチガイを目の前にすると、緩んでいた肛門がすぼまる。それがいいってヤロウもいるかもしれないが。
よって、この断絶を無き物にしたがる『アンチ・オイディプス』の「語る主体」に、わたしは殺意を覚える。
わたしは、殺されたいのだ。しかし、わたしを殺す資格は、少なくともドゥルーズ=ガタリなどといった下劣なちんちんには、ない。
ここで、はめられたように、誘導尋問のように、ラカン論が立ち現れる。
ラカン論は、精神病と神経症の間に、「父の名の排除」という断絶を設定している。ここがクライン論と違うところだ。だからラカン派はボーダーを認めたがらない。
とはいえ、わたしはクライン論や(フロイト派だが明らかにクライン論の影響が強い)クリステヴァ論に依拠する立場も取っている。つまり、狂気と正常の間に、断絶即ち欠如を敷いてない論の立場を取っている。それは、彼女らの言説には、この断絶における苦痛が描かれているからだ。理屈ではなく文芸的な読みとして。その断絶を、不快なものやおぞましいものや悪意的なものとして描いている故、この断絶を描く=存在させる=断絶を無き物にする彼女たちの文章に、現実感を感じる。現実感という意味では、ラカン論は乏しい。それをわたしは「ラカンは冷たい」と表現する。一方ガタリは、この断絶の苦痛すらオイディプスのせいにする。彼らにとっては、分裂症者が訴える苦痛と中二病者が訴える苦痛は同じものなのだ。狂人を正常人の範疇に飲み込もうとしている。帝国主義者が未開文明を植民地化するように。これは、わたしの臨床によれば、定型発達という精神障害に顕著な症状である。よってわたしはガタリの症状を、定型発達と診断している。
要するに、「器官なき身体」も「身体なき器官」も、机上の空論でしかない、という立場を取っているわけだ。人間という主体には全て狂人も正常人も住んでおり、純粋な狂人も純粋な正常人も、存在しない。いくら狂人があるいは正常人が跳躍しても、断絶の向こう側には到達できない。断絶に飲み込まれるだけ。ラカン論ならば、「現実界は到達不可能なものである」ということであり、現実界という机上の空論的概念を設置することで、この断絶は欠如から享楽と読み替えられる。
ラカンでもクラインでもクリステヴァではないわたしは、これを「破壊と構築との、あるいは狂人部分と正常人部分との、妥協ではなくせめぎ合いが、享楽である」と表現したりする。
このせめぎ合いは、当然苦痛なものである。ここから再掲する。
=====
過去だか未来だか知らないが、ただの幻想で加工された苦痛をもってして、他人のその瞬間の苦痛を隠蔽抑圧することこそが、もっとも倫理に反することである。これはわたしの倫理である。初心忘るべからずである。
=====
幻想で加工されるくらいなら、冷たく「存在しない」と言われる方が、マシだ。
正常人たちは、わたし(の狂人部分)を殺している。殺しているのだから、「死ね」と言っている方が、信用できる。
ファルス的享楽の自覚、とでも言おうか。
クラインやクリステヴァは、他者の享楽の自覚と言ってもいいかもしれない。
享楽とは、心中のようなものである。ラカンは殺している。クラインやクリステヴァは殺されている。心中の瞬間が、到達不可能な現実界に触れる瞬間である。
外国行って「ああやっぱ自分は日本人だなあ」って思うのも、ちっぽけではあるが、この自覚に通じるものかもしれない。ちっぽけではあるが、己の自我や超自我の解体、即ち(殺害とまでは言えないので)自傷と言えるかもしれない。異文化と自文化の軋轢、だねー。
そこでやっと、極楽で見える幻想の事物としてのフェティッシュではなく、未開文明人たちが崇める、ささやかな共同幻想を支える小石としての、ファクティッシュが生じる、のか(事実この概念は、異文化の中で生きる異邦人たちが引き起こす精神疾患についての論に援用されている)。
三島由紀夫にとっての天皇。
笙野頼子が祈りの際握り締める小石。
溺れる者が掴む藁としての、幻想。
統合失調症者がする、正常人が生きる幻想に立ち返る跳躍としての、幻覚すれすれの幻想。
これこそが、意味が生成された瞬間だ。シニフィアンスの機制だ。
幻想(想像的か象徴的かは問わない)と現実が離接した瞬間だ。
よってそれは、一つの享楽的なものと言えるだろう。享楽的なフェティッシュが、ファクティッシュだ。
三島は天皇により享楽する。笙野は小石により享楽する。享楽的である故、彼らが(他の人ではダメなのだ)「天皇」「小石」と表現する時、そこには「狂気の伝染」的な「強度の丘」が立ち現れる。彼らのテクストに、現実感が付与される。
少なくとも、それらの幻想は、合意を目的としていない。合意を目的としていないから、「天皇」でも「小石」でも「あり」なのだ。それらは、せめぎ合いを、苦痛を原因としているに過ぎない。
「天皇」は射精しているけどね。わたし視点。老化した精液かもしれないが。
やっぱりわたしは阿部定だ。
たった一人の、愛すべき人の、ペニスを求めている。
言葉の中に。
あ、今気づいたけど、解釈機械モードな時ほど文中リンク多いかもしれない。
つまんねえ発見でした。
「精液」という言葉のリアクションを見て、どうもわたしの言いたいことが伝わってないなあ、と思ってしまう。定型発達者あるいはファロセントリックな人たちのリアクション。わたし視点、ね。
わたしは確かに象徴的ファルスへの批判として、その想像的側面を「精液」と揶揄的に表現している。それは認める。
しかし、批判や揶揄を目的として、そう表現しているのではない。
わたしはわたしの心的事実をもって、それを、その不快さをどう表現したらいいか、と考え、「精液」という言葉がたまたま一致したから、用いているのだ。
わたしという存在が、何故象徴的ファルスに、それが生む自我や超自我というパラノイアックな狂気に馴染めないのか、を考えているのである。正常人たちに感じる、倫理的にもわたしという存在自体に関係するモノとしても、明らかに「異常な」それを、どう言語化するかもがいているのである。その結果としての「精液」という表現である。また、ここで言う言語化も、定型発達的に、「誰かを伝えるのを目的として」言語化していると思われたら、反論する。確かに伝えたいという気持ちはあるが、それが目的なのではない。
正常人たちは、わたしの言動に、常になんらかの目的を当てはめたがる。パラノイアックに。権力者的に。
「人格とはパラノイアである」
この言葉が実感としてわかるまでは、ラカン論は絶対理解できないとすら思える。
お前たち正常人は、わたしから見て、パラノイアックなキチガイなのだ。
「精液」という表現には、確かにファロセントリスムに対する批判や揶揄を含んでいる。それはいい。しかし、だからといって、たとえば
「では象徴的ファルスが一切存在しなくなったら困るだろう」
のような反論を返されても、困る。むしろ、こんな反論が形成されるのが、パラノイアックな「正常という狂気」の一症状と言える。
わたしは、精液に塗れたいのだ。
正常人になりたいのだ。
だけどなれない。何故なれないのか。
わたしは正常人たちの、ある精神障害的症状を不快に思っている。
それを、「精液」と表現している。
それがたまたま、統合失調症者や自閉症者が正常人たちに対して感じる不快さと、症例や論文を調べているうち、似ているとわかった。
わたしが不快に思う統合失調症者や自閉症者たちの症状に、だ。
わたしは、精液に塗れたいのだ。
何故塗れられないのかを考えているのだ。
わたしは、何を棄却できていないかを考えているのだ。
だから、
「じゃあ精液がなくなったらお前はどうするんだ? 社会はどうなるんだ?」
などという反論は、意味がない。
定型発達者たちの言葉は、常に非生産的だ。無意味に親近する領域から逃れられない。
お前たちの言葉は、事物から現実感を剥奪する方向に、常に縛られている。
狂気という現実感に苦しむわたしにとって、それらはなんら意味を持たない。
わたしは、お前たちパラノイアと合意したくて、論じているわけではない。わたしの内部にもあるパラノイアックな部分と妥協したくて、論じているわけではない。
合意とは、自身が持つ意味を、お互いに隠蔽するものである。妥協という名の隠蔽。よって合意主義は、無意味を志向する。
射精後に生じると言われている「賢者モード」と何も変わらない。
わたしは、合意ではなく、共有できる、なんらかの不動なものを求めている。
倫理から、現実感が、説得力が、剥落している現代社会。
それは、お前たち自身の、自我や超自我の、快楽原則や現実原則のせいなのだ。
お前たちの言葉が常に無意味を志向している故、そうなっているのだ。
正常人たちがこぞって賢者になりたがるあまり、世の中が精液塗れになっているのだ。
だからといって、スキゾフレニックな狂気に苦しむ人間をダシにして語ればいいという話ではない。
スキゾフレニックな狂気は、お前たちの内部にもある。
この問題の原因は、お前たちのパラノイアックな人格にある。
スキゾフレニックな狂気を隠蔽するお前たちの自我や超自我にある。
倫理に説得力を取り戻したければ、お前たちは、己の自我や超自我を解体すればよいのだ。自傷的に。マゾヒスティックに。
そう、ちょうどラカンがやっているように。
答えは、こちらの世界には、ない。
悪人正機という考え方は、キチガイをダシにしているだけなのだ。己の射精への言い訳なのだ。
そう、ちょうど吉本隆明がやってきたような。
ああ、どんどん小乗仏教(わざと言ってるよ)的になっていく自分の文章がイヤだ……。
はいはい解釈機械モードへ移行。
小乗仏教でもないんだよなー。まあラカン的やり口だとは思うけど。
密教的な、現世利益を求める、になるんだけど、それも違うんだな。
現世しかわからないから、現世にしか利益がないのだ。
死にながら生きてける去勢済みなお前たちにゃ絶対わからないことだろうが。
現世とかって考え方が既に顕教的な思考故存在する幻想なんだよな。
「極楽」とか「地獄」とかって幻想を基軸にして、それに対する「現世」となる。現世が幻想化されている。
そこには、現実的な現世を生きるアンテ・フェストゥムたちが常に対峙している苦痛が、存在しない。
ほーんと、「現存在の姿勢」(リンク先音注意)主義になっちゃうよなー。グノーシス(笑)バンジャーイ。
幻想で生きることの、大事さ? 切実さ?
幻想で生きることができない者が対面している断絶を、認めること?
幻想でしか生きられないあるいは幻想で生きていられる定型発達的な己を、自覚すること?
この断絶は、わたしにとって非常に大事だ。この断絶がないとされると、キチガイと正常人の間はグラデーションになっているとされると、わたしが感じている苦痛が、正常人になろうとしている努力が、今この瞬間のわたしが、無化されてしまう。殺される。
「大人になれば、去勢されれば、幻想を生きちゃえば、死にながら殺されながら生きちゃえばいーじゃなーい」
というファロセントリックなバカ男たちの、ちっちゃなちんちんたちの、精液に従わざるを得ない。彼らに殺されざるを得ない。
自分が過去に殺されたからってわたしを殺す権利はお前にはない。
周りのみんな殺されてきたのだからってわたしが殺されなければならない道理はない。
こんな単純なことに気づけられないのが、定型発達という精神障害なのだ。
こういうちっちゃなちんちんに限って、実際にキチガイを目の前にすると、緩んでいた肛門がすぼまる。それがいいってヤロウもいるかもしれないが。
よって、この断絶を無き物にしたがる『アンチ・オイディプス』の「語る主体」に、わたしは殺意を覚える。
わたしは、殺されたいのだ。しかし、わたしを殺す資格は、少なくともドゥルーズ=ガタリなどといった下劣なちんちんには、ない。
ここで、はめられたように、誘導尋問のように、ラカン論が立ち現れる。
ラカン論は、精神病と神経症の間に、「父の名の排除」という断絶を設定している。ここがクライン論と違うところだ。だからラカン派はボーダーを認めたがらない。
とはいえ、わたしはクライン論や(フロイト派だが明らかにクライン論の影響が強い)クリステヴァ論に依拠する立場も取っている。つまり、狂気と正常の間に、断絶即ち欠如を敷いてない論の立場を取っている。それは、彼女らの言説には、この断絶における苦痛が描かれているからだ。理屈ではなく文芸的な読みとして。その断絶を、不快なものやおぞましいものや悪意的なものとして描いている故、この断絶を描く=存在させる=断絶を無き物にする彼女たちの文章に、現実感を感じる。現実感という意味では、ラカン論は乏しい。それをわたしは「ラカンは冷たい」と表現する。一方ガタリは、この断絶の苦痛すらオイディプスのせいにする。彼らにとっては、分裂症者が訴える苦痛と中二病者が訴える苦痛は同じものなのだ。狂人を正常人の範疇に飲み込もうとしている。帝国主義者が未開文明を植民地化するように。これは、わたしの臨床によれば、定型発達という精神障害に顕著な症状である。よってわたしはガタリの症状を、定型発達と診断している。
要するに、「器官なき身体」も「身体なき器官」も、机上の空論でしかない、という立場を取っているわけだ。人間という主体には全て狂人も正常人も住んでおり、純粋な狂人も純粋な正常人も、存在しない。いくら狂人があるいは正常人が跳躍しても、断絶の向こう側には到達できない。断絶に飲み込まれるだけ。ラカン論ならば、「現実界は到達不可能なものである」ということであり、現実界という机上の空論的概念を設置することで、この断絶は欠如から享楽と読み替えられる。
ラカンでもクラインでもクリステヴァではないわたしは、これを「破壊と構築との、あるいは狂人部分と正常人部分との、妥協ではなくせめぎ合いが、享楽である」と表現したりする。
このせめぎ合いは、当然苦痛なものである。ここから再掲する。
=====
過去だか未来だか知らないが、ただの幻想で加工された苦痛をもってして、他人のその瞬間の苦痛を隠蔽抑圧することこそが、もっとも倫理に反することである。これはわたしの倫理である。初心忘るべからずである。
=====
幻想で加工されるくらいなら、冷たく「存在しない」と言われる方が、マシだ。
正常人たちは、わたし(の狂人部分)を殺している。殺しているのだから、「死ね」と言っている方が、信用できる。
ファルス的享楽の自覚、とでも言おうか。
クラインやクリステヴァは、他者の享楽の自覚と言ってもいいかもしれない。
享楽とは、心中のようなものである。ラカンは殺している。クラインやクリステヴァは殺されている。心中の瞬間が、到達不可能な現実界に触れる瞬間である。
外国行って「ああやっぱ自分は日本人だなあ」って思うのも、ちっぽけではあるが、この自覚に通じるものかもしれない。ちっぽけではあるが、己の自我や超自我の解体、即ち(殺害とまでは言えないので)自傷と言えるかもしれない。異文化と自文化の軋轢、だねー。
そこでやっと、極楽で見える幻想の事物としてのフェティッシュではなく、未開文明人たちが崇める、ささやかな共同幻想を支える小石としての、ファクティッシュが生じる、のか(事実この概念は、異文化の中で生きる異邦人たちが引き起こす精神疾患についての論に援用されている)。
三島由紀夫にとっての天皇。
笙野頼子が祈りの際握り締める小石。
溺れる者が掴む藁としての、幻想。
統合失調症者がする、正常人が生きる幻想に立ち返る跳躍としての、幻覚すれすれの幻想。
これこそが、意味が生成された瞬間だ。シニフィアンスの機制だ。
幻想(想像的か象徴的かは問わない)と現実が離接した瞬間だ。
よってそれは、一つの享楽的なものと言えるだろう。享楽的なフェティッシュが、ファクティッシュだ。
三島は天皇により享楽する。笙野は小石により享楽する。享楽的である故、彼らが(他の人ではダメなのだ)「天皇」「小石」と表現する時、そこには「狂気の伝染」的な「強度の丘」が立ち現れる。彼らのテクストに、現実感が付与される。
少なくとも、それらの幻想は、合意を目的としていない。合意を目的としていないから、「天皇」でも「小石」でも「あり」なのだ。それらは、せめぎ合いを、苦痛を原因としているに過ぎない。
「天皇」は射精しているけどね。わたし視点。老化した精液かもしれないが。
やっぱりわたしは阿部定だ。
たった一人の、愛すべき人の、ペニスを求めている。
言葉の中に。
あ、今気づいたけど、解釈機械モードな時ほど文中リンク多いかもしれない。
つまんねえ発見でした。
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