わたしは、わたしという物語を、物語れない。
2008/08/10/Sun
過去記事読み返して、ここのコメントに心が痛んだ。
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あぶらさんのブログ、あぶらっこいけど胃にもたれない、オメガ3脂肪酸(てきとう)みたいですきです。
=====
ごめんなさい最近の記事は無茶苦茶胃にもたれてそうですね。
いえ自分で読んでてわかります。自分で胃がムカムカします。
定型発達者のわたしでてこーい。パラノイアなわたしカムバーック。
というわけで四コママンガ本を大量購入してきた。
やっぱ竹書房系がおもろいの多いな。さすが西原をこき使えるほど裏社会に馴染んだ会社。褒め言葉ですよええ褒め言葉。
社会人時代、抑鬱状態やらパニ障やら診断されたわけだが、わたしは自分の症状を「物語恐怖症」と表現してた時期がある。
実際そうなのだ。テレビドラマや映画の予告編を見るだけで吐き気がする。血の気が引く。気が遠くなる。粘ついた汗が出る。マンガもシリアス系はダメ。ギャグもストーリーのあるものはダメ。小説なんて論外だ。
なので、論文やらエッセイやら雑誌ばっか読んでた。活字は。後2ちゃんとか四季報とか。
今は治ったけどね。
正直そんなわたしから見ると、「大きな物語がなくなった」って言説は、実はよくわからない。いや共産主義と資本主義の対立というドラマがなくなった、みたいなのはわかるし、男の子が大好きなイデオロギーによるドラマがなくなった、っていうのは、なんとなくわかる。大塚英志論やね。
だけど、わたし視点、全然「大きな物語」はなくなっていない。
今の物語たちは、全然「小さな物語」の乱立になっていない。蜘蛛の子のような感じ。それらは個体としては別々だが等しく蜘蛛という「大きな物語」だ。
今なら、この蜘蛛を「定型発達」や「神経症」や「正常人」などと表現できるかもしれない。
そう、うん、みんながみんな、定型発達であり過ぎるのだ。狂人という多様性が存在しなくなっているのだ。
だから、発達障害を疑われるような人生を生きてきたわたしは、物語恐怖症になった、というようなことだろう。
ほんと、『レーダーマン』だわ。
=====
右も左もレーダーマン
仲間同士で情報交換
何から何までおんなじ構造
わたしと同じあなたがそこに
あなたと同じ誰かがそこに
プリントされた記憶と知識
レーダーマン
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そんな中、唯一大丈夫だったのが四コママンガだった。
そこには、それこそ「プリントされた記憶と知識」が氾濫している。
なのに、四コママンガだけは大丈夫だった。
多分、「プリントされた記憶と知識」が消費できるからだと思う。気軽に物語の本質部分と接することができる。気軽に「プリントされた記憶と知識」を握り潰すことができる。
四コママンガっていうのは、実際の流通状態がどうとかという話ではなく、芸術ジャンルとして、人間の精神性における「消費」なるものを、ピンポイント的に背負っているものだと思う。
だから、わたしの「物語恐怖症」は、四コママンガによって治療された、とわたしの心的事実をもって言う。ここでの治療は定型発達者化ってことだけどね。
病んでいるわたしが許容できた数少ない精液の内の一つ、と言い換えてもいい。
ここでスターン論の物語的自己感なる概念を当てはめて考えてみるのもよかろうが、それなら中沢新一の『芸術人類学』に示されたレヴィ=ストロースの神話公式についての解釈の方を選択する。
何故なら、わたしにとって物語とは、退行促進剤に他ならないからだ。
スターン論においては、物語的自己感は主観形成の最終段階に当たる。
人間は、主観の形成発達の極みにおいて、退行を促される。
従って、物語に固執した二階堂奥歯を、退行的だとわたしは表現する。
この「プリントされた記憶と知識」を自覚しないで生きられるのが、定型発達という精神障害だ。
かといって、アスペルガー症候群者や発達障害者などといった非定型発達者が「プリントされていない(あなたがお望みなら「独自の」なんて言葉を付け足してもよいが)記憶と知識」を生きている、などという理屈にはならない。
非定型発達者も定型発達者と等しく「プリントされた記憶と知識」を生きている。
たまたまそれを自覚できるのが、非定型発達者である、という話だ。
この自覚も頭で理解するということではない。そのぐらいなら自覚できている定型発達者はゴマンといるだろう。
頭だけではなく、実感を伴って認知できるのが、非定型発達者である。いや、彼らは認知して「しまう」のだ。心的あるいは身体的苦痛を伴って。
何故なら、プリント機能が壊れているから。
アンテ・フェストゥムたちはドッペルゲンガーを怖れる。ポスト・フェストゥムたちは怖れない。
ポスト・フェストゥムたちは、プリント機能が発達しているから。
=====
擬似ロボット高性能
識別不可能
レーダーマン
=====
プリント機能に不調をきたしていたわたしは、四コママンガレベルじゃないと、消費できなかったのだろう。
サバルタンは、自分を語れない。
これは、自分を物語ることができない、と言い換えてもよいように思える。あるいは、自分の歴史を語れないのが、サバルタンである、と。
わたしは、子供の頃よくひきつけを起こした。このひきつけが、記憶機能になんらかの障害を与えたと思っている。
というのは、わたしの記憶と、周りの人の記憶が、合致しないことが多いからだ。
たとえば、祖父に対するイメージ。たとえば、わたし自身の子供時代のイメージ。これだけではない。わたしが楽しかったと思っている記憶でも、親には「ものすごくイヤがっていた」などと言われる。親だけではない。わたしは自分を理系脳だと思っている。事実小中高と数学を初め理数系の方が成績が良かったし、理系に進んだ。しかし中学校の担任は、「お前は文系に行くものとばかり思っていた」とわたしを評する。同窓会では、わたしが自分で馴染んでいたと思っていたグループからは「浮いていた」と言われ、自分で肌が合わなかったと思っていたグループから馴れ馴れしく思い出を語られる。
周りからそう言われると、そうだったかもしれない、などと思ってしまう。自分で自分の子供時代を「手のつけられない子供だった」と思っているのに、親に「すごく大人しかった」と言われると、大人しかったような記憶が惹起される。理数系の方が成績が良かったはずなのに、現国はいつもトップクラスで、数学の成績にはムラがある。高校に入ったばかりの頃の数学の成績は惨憺たるものだった。現国と物理は大体安定していたが、古文と日本史と化学は一貫してダメだった。体育は体力テストで級外だったが、剣道部では団体戦のレギュラーだった(部員数少なかったけど)。
周りの人の記憶だけではなく、事実にも、矛盾がある。
わたしは、わたしの歴史を語れない。わたしという物語を語れない。語るためのアリバイが、その証拠が、揃っていない。
自分の記憶と周りの事実とに矛盾があるのなんか当然だ、と言われるかもしれない。ならば何故、矛盾があるのに自分を語れるのかがわからない。過去に限らず、自分が見た聞いた感じたことを、確定的なものとして語れるのかが理解できない。
だから、わたしは、自分の歴史を語ることを、自分に対する隠蔽劣化行為だと思える。物語ならば、言葉自体に虚構という意味が込められているので、まだ許容できる。
自分を物語としてなら、語ってもよい気がする。いやむしろ自分という言葉で括られる一連の出来事は、歴史などではなく物語だと思える。そう思える自分がとてもイヤだ。
二階堂のこの言葉が、わたしのトラウマを惹起する。要するに、この言葉が、わたしはとっても不快なのだ。鳥肌が立つほど。
=====
私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
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わたしは、わたしを解釈する言葉全てに、反論する。
わたしは精神分析されたいが、わたしを分析した言葉には逐一反論する。
わたしを分析する分析家は、一人残らず同じメスで切り刻んでやる。
だって、それを享楽と呼んでいるのでしょう? あなたたちは。
わたしの物語の解釈は、一つでいい。
そうでなければ、わたしという物語は、いつまで経っても、歴史にならない。
よってわたしは、物語も歴史も拒否する。
わたしという現実を生きるために。正常人でいるために。
わたしに眼前する、この断絶を守るために。
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あぶらさんのブログ、あぶらっこいけど胃にもたれない、オメガ3脂肪酸(てきとう)みたいですきです。
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ごめんなさい最近の記事は無茶苦茶胃にもたれてそうですね。
いえ自分で読んでてわかります。自分で胃がムカムカします。
定型発達者のわたしでてこーい。パラノイアなわたしカムバーック。
というわけで四コママンガ本を大量購入してきた。
やっぱ竹書房系がおもろいの多いな。さすが西原をこき使えるほど裏社会に馴染んだ会社。褒め言葉ですよええ褒め言葉。
社会人時代、抑鬱状態やらパニ障やら診断されたわけだが、わたしは自分の症状を「物語恐怖症」と表現してた時期がある。
実際そうなのだ。テレビドラマや映画の予告編を見るだけで吐き気がする。血の気が引く。気が遠くなる。粘ついた汗が出る。マンガもシリアス系はダメ。ギャグもストーリーのあるものはダメ。小説なんて論外だ。
なので、論文やらエッセイやら雑誌ばっか読んでた。活字は。後2ちゃんとか四季報とか。
今は治ったけどね。
正直そんなわたしから見ると、「大きな物語がなくなった」って言説は、実はよくわからない。いや共産主義と資本主義の対立というドラマがなくなった、みたいなのはわかるし、男の子が大好きなイデオロギーによるドラマがなくなった、っていうのは、なんとなくわかる。大塚英志論やね。
だけど、わたし視点、全然「大きな物語」はなくなっていない。
今の物語たちは、全然「小さな物語」の乱立になっていない。蜘蛛の子のような感じ。それらは個体としては別々だが等しく蜘蛛という「大きな物語」だ。
今なら、この蜘蛛を「定型発達」や「神経症」や「正常人」などと表現できるかもしれない。
そう、うん、みんながみんな、定型発達であり過ぎるのだ。狂人という多様性が存在しなくなっているのだ。
だから、発達障害を疑われるような人生を生きてきたわたしは、物語恐怖症になった、というようなことだろう。
ほんと、『レーダーマン』だわ。
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右も左もレーダーマン
仲間同士で情報交換
何から何までおんなじ構造
わたしと同じあなたがそこに
あなたと同じ誰かがそこに
プリントされた記憶と知識
レーダーマン
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そんな中、唯一大丈夫だったのが四コママンガだった。
そこには、それこそ「プリントされた記憶と知識」が氾濫している。
なのに、四コママンガだけは大丈夫だった。
多分、「プリントされた記憶と知識」が消費できるからだと思う。気軽に物語の本質部分と接することができる。気軽に「プリントされた記憶と知識」を握り潰すことができる。
四コママンガっていうのは、実際の流通状態がどうとかという話ではなく、芸術ジャンルとして、人間の精神性における「消費」なるものを、ピンポイント的に背負っているものだと思う。
だから、わたしの「物語恐怖症」は、四コママンガによって治療された、とわたしの心的事実をもって言う。ここでの治療は定型発達者化ってことだけどね。
病んでいるわたしが許容できた数少ない精液の内の一つ、と言い換えてもいい。
ここでスターン論の物語的自己感なる概念を当てはめて考えてみるのもよかろうが、それなら中沢新一の『芸術人類学』に示されたレヴィ=ストロースの神話公式についての解釈の方を選択する。
何故なら、わたしにとって物語とは、退行促進剤に他ならないからだ。
スターン論においては、物語的自己感は主観形成の最終段階に当たる。
人間は、主観の形成発達の極みにおいて、退行を促される。
従って、物語に固執した二階堂奥歯を、退行的だとわたしは表現する。
この「プリントされた記憶と知識」を自覚しないで生きられるのが、定型発達という精神障害だ。
かといって、アスペルガー症候群者や発達障害者などといった非定型発達者が「プリントされていない(あなたがお望みなら「独自の」なんて言葉を付け足してもよいが)記憶と知識」を生きている、などという理屈にはならない。
非定型発達者も定型発達者と等しく「プリントされた記憶と知識」を生きている。
たまたまそれを自覚できるのが、非定型発達者である、という話だ。
この自覚も頭で理解するということではない。そのぐらいなら自覚できている定型発達者はゴマンといるだろう。
頭だけではなく、実感を伴って認知できるのが、非定型発達者である。いや、彼らは認知して「しまう」のだ。心的あるいは身体的苦痛を伴って。
何故なら、プリント機能が壊れているから。
アンテ・フェストゥムたちはドッペルゲンガーを怖れる。ポスト・フェストゥムたちは怖れない。
ポスト・フェストゥムたちは、プリント機能が発達しているから。
=====
擬似ロボット高性能
識別不可能
レーダーマン
=====
プリント機能に不調をきたしていたわたしは、四コママンガレベルじゃないと、消費できなかったのだろう。
サバルタンは、自分を語れない。
これは、自分を物語ることができない、と言い換えてもよいように思える。あるいは、自分の歴史を語れないのが、サバルタンである、と。
わたしは、子供の頃よくひきつけを起こした。このひきつけが、記憶機能になんらかの障害を与えたと思っている。
というのは、わたしの記憶と、周りの人の記憶が、合致しないことが多いからだ。
たとえば、祖父に対するイメージ。たとえば、わたし自身の子供時代のイメージ。これだけではない。わたしが楽しかったと思っている記憶でも、親には「ものすごくイヤがっていた」などと言われる。親だけではない。わたしは自分を理系脳だと思っている。事実小中高と数学を初め理数系の方が成績が良かったし、理系に進んだ。しかし中学校の担任は、「お前は文系に行くものとばかり思っていた」とわたしを評する。同窓会では、わたしが自分で馴染んでいたと思っていたグループからは「浮いていた」と言われ、自分で肌が合わなかったと思っていたグループから馴れ馴れしく思い出を語られる。
周りからそう言われると、そうだったかもしれない、などと思ってしまう。自分で自分の子供時代を「手のつけられない子供だった」と思っているのに、親に「すごく大人しかった」と言われると、大人しかったような記憶が惹起される。理数系の方が成績が良かったはずなのに、現国はいつもトップクラスで、数学の成績にはムラがある。高校に入ったばかりの頃の数学の成績は惨憺たるものだった。現国と物理は大体安定していたが、古文と日本史と化学は一貫してダメだった。体育は体力テストで級外だったが、剣道部では団体戦のレギュラーだった(部員数少なかったけど)。
周りの人の記憶だけではなく、事実にも、矛盾がある。
わたしは、わたしの歴史を語れない。わたしという物語を語れない。語るためのアリバイが、その証拠が、揃っていない。
自分の記憶と周りの事実とに矛盾があるのなんか当然だ、と言われるかもしれない。ならば何故、矛盾があるのに自分を語れるのかがわからない。過去に限らず、自分が見た聞いた感じたことを、確定的なものとして語れるのかが理解できない。
だから、わたしは、自分の歴史を語ることを、自分に対する隠蔽劣化行為だと思える。物語ならば、言葉自体に虚構という意味が込められているので、まだ許容できる。
自分を物語としてなら、語ってもよい気がする。いやむしろ自分という言葉で括られる一連の出来事は、歴史などではなく物語だと思える。そう思える自分がとてもイヤだ。
二階堂のこの言葉が、わたしのトラウマを惹起する。要するに、この言葉が、わたしはとっても不快なのだ。鳥肌が立つほど。
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私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
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わたしは、わたしを解釈する言葉全てに、反論する。
わたしは精神分析されたいが、わたしを分析した言葉には逐一反論する。
わたしを分析する分析家は、一人残らず同じメスで切り刻んでやる。
だって、それを享楽と呼んでいるのでしょう? あなたたちは。
わたしの物語の解釈は、一つでいい。
そうでなければ、わたしという物語は、いつまで経っても、歴史にならない。
よってわたしは、物語も歴史も拒否する。
わたしという現実を生きるために。正常人でいるために。
わたしに眼前する、この断絶を守るために。
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