擬似わるばあさん
2008/08/15/Fri
ここの議論をいまだに引きずっている。
身体知と言語的知。
それはいい。象徴界と想像界という概念では拾えなかったものを拾えるかもしれない(彼の思考はまだ想像界以外のものを拾えていないように思えるが、まあ応援の言葉と思ってくれて構わない)。
しかし、本当にそれでいいのか?
議論から引用。
=====
その身体知。とても重要な概念だとわたしも思います。わたしなどは、たとえば統合失調症は(認知を含めた)運動機能障害だという論があり、結構巷ではスルーされている説なのですが、それが連想されます。ここにも関係してきそうな話です。
しかし、身体知と言語的知の関係も、見逃されてはならないと思うのです。
身体知も「統合」です。一つ一つの筋肉の伸縮をどう統合するか。これは言語的知に当てはめるなら、「統辞」になると思います。
たとえば、あなたがよく引用するベイトソンの学習理論についてならば、斎藤環は自閉症者の障害を、学習2の段階の不具合に見て取っています。だからアスペルガー症候群者は「文脈が読めない」=「空気が読めない」となるわけです。
統合失調症者や自閉症者の障害は、言語的知の統辞機能に問題があるのか、はたまた身体知の統合機能に問題があるのか。それらは別々の不具合と考えるべきなのか。かといってバロン=コーエンのように「中枢性統合の不具合」として一括していいものか。
=====
次にここを読んでほしい。
記事中の彼女は、空手有段者であり、このような統辞的に筋道の通った文章を書ける。アスペルガー症候群者たちは、身体知にも言語的知にも、見てそれと分かる不具合はない(細かなところで、あるいは全般的に、運動オンチだったり文脈が乱れることはあるが)。しかし彼らは「中枢性統合の不具合」を起こしている(と診断されている)。
このブログで頻繁に述べられている「擬似SAM」によって、彼女は空手有段者になりこのような文章を書けるのだろうか?
だとすれば擬似と擬似じゃないものの違いとはなんだ?
この違いは、何故かわたしには薄々わかる。言葉にできないところで。
たとえば、記事中では
=====
私や夫と決定的に違うのは……人によって巾はありますが、いずれの人たちも「頭を切り換え」て「ほどほどのところで」「あきらめて譲る」「柔軟性」を持っていたことです。
=====
と述べられている症状。これは依存症のようなものを惹起させられるが、この夫は、ブログで「アスペルガー症候群の依存は依存症のそれとは別物だ」というようなことを述べている。
わたしの言葉なら、快楽原則に則った依存症が定型発達者の陥る依存症であり、快楽原則が壊れている故の依存症的症状が、たとえばアスペルガー症候群の一症状として見られる、などとなるか。たとえば統合失調症ならばガタリの言う「分裂症者が制作する自己増殖する机」になるか(ガタリは分析的態度のテクストには目を見張るものがあるが、そこから演繹した態度がいかにも「神経症者が非神経症者を食い物にしている」ような気がして殺意すら覚えてしまう。死んでるけど)。
快楽原則は大体自我の領域で発生する。象徴的ファルスに不具合があるということは、そこから形成される自我や超自我にも不具合があるということなので、理屈的に符合する。
むしろ定型発達者たちは、その違いが区別できない。体感的にも理屈的にも。体感的にあるいは理屈的にわかったとしても、その差異を実存在として認知できない。あるいはすぐなかったものにしてしまう。
なんちゃってラカニアンであるわたしは、この中枢性統合機能こそが象徴的ファルスだと考えている。バロン=コーエンによるSAMの形成時期ともほぼ重なる。
身体知でもない言語的知でもない統合性。というとオカルトっぽくなる。
身体知と言語的知の相関性における統合性の不具合。違う気がする。
わからない。
神秘主義に走れってか。
なんていうかpikarrrさんって中沢新一みたいな臭いがしたわ。
木村敏や河合隼雄とかって神経症とかパラノイアとしての天然じゃなく、本気の天然。子供っぽい天然。
議論の最後の言葉に合わせるなら、天体観測に熱中する男の子みたいな。
いや揶揄でも褒め言葉でもなく。
身体知と言語的知。
それはいい。象徴界と想像界という概念では拾えなかったものを拾えるかもしれない(彼の思考はまだ想像界以外のものを拾えていないように思えるが、まあ応援の言葉と思ってくれて構わない)。
しかし、本当にそれでいいのか?
議論から引用。
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その身体知。とても重要な概念だとわたしも思います。わたしなどは、たとえば統合失調症は(認知を含めた)運動機能障害だという論があり、結構巷ではスルーされている説なのですが、それが連想されます。ここにも関係してきそうな話です。
しかし、身体知と言語的知の関係も、見逃されてはならないと思うのです。
身体知も「統合」です。一つ一つの筋肉の伸縮をどう統合するか。これは言語的知に当てはめるなら、「統辞」になると思います。
たとえば、あなたがよく引用するベイトソンの学習理論についてならば、斎藤環は自閉症者の障害を、学習2の段階の不具合に見て取っています。だからアスペルガー症候群者は「文脈が読めない」=「空気が読めない」となるわけです。
統合失調症者や自閉症者の障害は、言語的知の統辞機能に問題があるのか、はたまた身体知の統合機能に問題があるのか。それらは別々の不具合と考えるべきなのか。かといってバロン=コーエンのように「中枢性統合の不具合」として一括していいものか。
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次にここを読んでほしい。
記事中の彼女は、空手有段者であり、このような統辞的に筋道の通った文章を書ける。アスペルガー症候群者たちは、身体知にも言語的知にも、見てそれと分かる不具合はない(細かなところで、あるいは全般的に、運動オンチだったり文脈が乱れることはあるが)。しかし彼らは「中枢性統合の不具合」を起こしている(と診断されている)。
このブログで頻繁に述べられている「擬似SAM」によって、彼女は空手有段者になりこのような文章を書けるのだろうか?
だとすれば擬似と擬似じゃないものの違いとはなんだ?
この違いは、何故かわたしには薄々わかる。言葉にできないところで。
たとえば、記事中では
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私や夫と決定的に違うのは……人によって巾はありますが、いずれの人たちも「頭を切り換え」て「ほどほどのところで」「あきらめて譲る」「柔軟性」を持っていたことです。
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と述べられている症状。これは依存症のようなものを惹起させられるが、この夫は、ブログで「アスペルガー症候群の依存は依存症のそれとは別物だ」というようなことを述べている。
わたしの言葉なら、快楽原則に則った依存症が定型発達者の陥る依存症であり、快楽原則が壊れている故の依存症的症状が、たとえばアスペルガー症候群の一症状として見られる、などとなるか。たとえば統合失調症ならばガタリの言う「分裂症者が制作する自己増殖する机」になるか(ガタリは分析的態度のテクストには目を見張るものがあるが、そこから演繹した態度がいかにも「神経症者が非神経症者を食い物にしている」ような気がして殺意すら覚えてしまう。死んでるけど)。
快楽原則は大体自我の領域で発生する。象徴的ファルスに不具合があるということは、そこから形成される自我や超自我にも不具合があるということなので、理屈的に符合する。
むしろ定型発達者たちは、その違いが区別できない。体感的にも理屈的にも。体感的にあるいは理屈的にわかったとしても、その差異を実存在として認知できない。あるいはすぐなかったものにしてしまう。
なんちゃってラカニアンであるわたしは、この中枢性統合機能こそが象徴的ファルスだと考えている。バロン=コーエンによるSAMの形成時期ともほぼ重なる。
身体知でもない言語的知でもない統合性。というとオカルトっぽくなる。
身体知と言語的知の相関性における統合性の不具合。違う気がする。
わからない。
神秘主義に走れってか。
なんていうかpikarrrさんって中沢新一みたいな臭いがしたわ。
木村敏や河合隼雄とかって神経症とかパラノイアとしての天然じゃなく、本気の天然。子供っぽい天然。
議論の最後の言葉に合わせるなら、天体観測に熱中する男の子みたいな。
いや揶揄でも褒め言葉でもなく。
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