対象aは、部分対象として考えられなければならない。
即ち、対象aに、人格など備わっていない。
そうして初めて、対象aは現実界と離接する。
部分対象とは、ライナスの毛布だ。
阿部定が切断したペニスだ。
二階堂奥歯にとってのぬいぐるみだ。
戸川純作詞『12階の一番奥』の「嘘を見抜くのが下手」な「指や唇とか」だ。『アンチ・オイディプス』が固執する「機械」の部品だ。
自閉症者が日がな一日くるくる回す歯車だ。
それらは、「世界に対する違和感」を生きる者にとっての、世界守護者だ。独我論的世界を、即ち意味の世界を保持せしめるものだ。シニフィアンスの瞬間だ。
アガペーを否認しない限り、対象aは実感できない。語れない。アガペーを否認できない者に、対象aを語る資格はない。そんな奴の語る対象aは、既に幻想化された対象aである。現実界から遠く離れたものである。それならまだユングのアニマの方が幻想として開き直っている。
このアガペーは、ラカンに言わせれば「まなざし」となる。
まなざしも対象aの一つである。有象無象な部分対象の中からのし上がった専制君主が、まなざしである。まなざしという部分対象が、他の様々な部分対象を制圧していく。多神教を征服してきた一神教のごとく。
様々な部分対象は、まなざしという部分対象に去勢される。アガペーという睾丸で生成された
精液をぶっかけられる。そうして生々しい対象aは人間愛というパステルカラーの幻想となる。
まなざしという専制君主は、「お前は人間しか愛してはいけない」と命令している。そういうファロセントリスムを、アガペーは備えている。主体に人間主義という洗脳を施している。人間主義に則れないアスペルガー症候群者やスキゾイドを殺戮している。そのパラノイアックな力をもって。
アガペーとは、想像界を人間主義的に定型化させるものである。この定型化が、自閉症者に欠けていると言われる
「心の理論」を、わたしから見ればただの固定観念を生じさせている。
あるアスペルガー症候群者の
ブログ記事から(関連記事
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5)。
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精神医学上で使われているのは、特に対人の心理変化に対しての「想像力」であることが多い。
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この言葉は、スキゾイドに関する論ではあるが、
ここでわたしが述べていることと符号するだろう。
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欲望を人間的なもの以外にも向けて「しまう」故、情動が希薄なように見えるのが、スキゾイドだからだ。彼らは、スキゾイドについて「心的距離が遠い」と表現する精神科医たちと等しく、オイディプスの病から逃れられていない。「心的距離」という言葉の示す距離に、人間的なるものと人間的なるものの間の距離しか思い浮かばない固定観念から、逃れられていない。
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固定観念に縛られた想像力しかない者が、固定観念に縛られていない自由な想像力を持つ者を見て、「アスペルガー症候群者には想像力がない」と述べているのだ。非常にパラノイアックな症状である。「定型発達という精神障害」を論じるのに、象徴的な症例だと言えよう。この症例は、「人格とはパラノイアである」という言葉に重みを持たせている。
――なんでこんな簡単なことに誰も気づかないのだろう?
「分析家のディスクール」では、能動者の位置に対象aが来ている。
精神分析家たちは、自らの人格を否定しなければならない。そのうちに巣食っているアガペーを排除しなければならない。自らの
色眼鏡を排除しなければならない。この色眼鏡こそが、正常人を正常人たらしめる
鎧である。皮膚に癒着した鎧である。
お前は、その鎧を脱ぎ捨てられているのか? 皮膚がばりばりと剥がれる痛みに耐えられているのか?
そんな分析家、一人もいない。
わたしの分析を許せる分析家は、未だどこにもいない。
実在する精神分析家どもは、その人格を捨てられていない。
分析家として、自閉症者より格下だ。お前らのまなざしは色眼鏡すぎる。まなざしというファロセントリスムから逃れられていない。
お前らに、対象aの立場に立つ資格はない。
(定型発達者の)愛が常に既に内包している人間主義を排除したものが、部分対象としての対象aである。主体からアガペーを排除して初めて対象aに辿り着く(わたしは否認止まりだ)。これは、現実界的な世界を人間主義によって加工した幻想、たとえば社会から見ると、不正な愛なのである。対象aとは、存在そのものが不正なのだ。父の愛により罰せられるべき、愛の本性。
クリステヴァが「想像的父がアガペーである」と述べたのは、非常に正しかった。正しすぎた。
アガペーとは、人間をパラノイア化させる父なのだ。「原父」に倣うなら「原パラノイア」だ。原パラノイアたる父のまなざしが、他の部分対象を殺戮する。たまたま生き延びたライナスや阿部定や二階堂奥歯や戸川純や自閉症者は、幼児的なり犯罪者なりキチガイなり精神障害者なりと呼ばれてしまう。
わたしはぞっとした。クリステヴァの洞察に。
彼女はなんて恐ろしい事実を読み当てたのか。
クリステヴァの本性こそが、
魔女ランダではないのか。
彼女の
愛を語る言葉は、魔女の呪詛として考えなければならない。
……なんてこと考えてて、なんかラノベっぽい感じで書きたいなーと思って書いたら
こんなん出来上がった。ヤンデレ批判小説になってるけど。わたしの夢日記も元ネタになってる。箱庭療法みたいなもん。
サバルタンの語る言葉は、(他者が定型発達者であったならば)「ヒステリー者のディスクール」の形式を取るだろう。これは、もちろんわたし自身の心的事実にも基づいているが、
自らをサバルタンと表現するある自閉症者の言葉を観察した結果の論でもある。
しかし、能動者の/Sは、その斜線は壊れている。去勢されていないのが自閉症者である。決して斜線から解き放たれているとは言えないが、あえて記号化するなら、
S → S1
―― ――
対象a
となろうか。
他者にS1を入れたのは、サバルタンの語る言葉は、原則
「宛先のない手紙」である故、定型発達者がそこにいたならば、そのパラノイアックな症状をもって、己の名を宛先に書き込むからである。自意識過剰的に。
S1の下の生成物の欄には、何も入らない。「サバルタンのディスクール」は、何も生まない。
あえてクリステヴァ論の揚げ足を取るなら、彼女は「ヒステリー者のディスクールは非生産的である」と述べているが、これは正しくない。正しくは、「サバルタンのディスクールは非生産的である」だ。
よって、わたしの言葉は、何も生まない。
器官なき身体には、転移が生じない。
これは正しいのだ。
『アンチ・オイディプス』に則るならば、象徴界あるいは想像界にとっての破壊が、幻想の破壊こそが、現実界にとっての生産になるからだ。逆にこの生産されたものが、象徴界あるいは想像界という幻想の裏打ちとなる。また、転移についても、「無意識とはその本質は孤児である」というその主張と符合するだろう。
従って、先の言葉をさらに正しく述べるならば、
「サバルタンのディスクールは、象徴界あるいは想像界という幻想領域、意味領域において、何も生まない」
となろう。
そうとも言えない。象徴界に限るならば、「何も生まないこと」を生むとなる。即ち欠如を生むのだから、こう書いてもよいのか。
S → S1
―― ――
対象a 父の名
……よいのだろうか?
正直言って、わからない。
正直言って、「何も生まない」の方が現実的に正しいように思える。
ここの空白が、父の名になることは、可能性としてはあろうが、とても低いように思える。
いや……、ここにアガペーが、想像的父が来る、のか?
ああ、いや、……わかんない。
それだと、閉じた構造になってしまう。
ユングのマンダラになってしまう。
それ以前に、これは既にディスクールの定式ではない。鏡像段階すら彷彿とさせる。
わたしの言葉は、何も生まない。
……いや、わたしにだって定型発達者の部分はある。だから神経症者のディスクールたる「ヒステリー者のディスクール」を目指せるのだ。
目指したいのか?
わたしはサバルタンから脱したいのか?
脱したいのだ。
サバルタンなんてもういやだ。
サバルタンであることは悪いことなのか?
そういうわけではない。サバルタンであることが悪いとかそんな問題じゃない。
じゃあ何故お前はサバルタンから脱しようとしているのだ?
うるさい!
アガペーなんて、想像的父なんて死んでしまえ。
今すぐ殺してやる。
いかなる手段をもってしても殺してやる。
死ね。死ね。死ね。
想像的父など、この世からいなくなってしまえ。
定型発達者など、精液で窒息死してしまえ。
わたしが欲しいのは、王様ゲームの中でしか存在できないパラノイアックな人格ではない。真の人格だ。
……まあ、そんな感じ。
体が死にかけている気がする。
年は取りたくないねー。
ああやだ。
ぽーにょぽーにょぽにょおんなのこっ♪
あれだな、パヤオ作品も確実に部分対象化してってるよな。ナウシカと比べたらサンとか明らかに(定型発達的な)人格が希薄だもんなー。画的にもポニョとかワラタわ。部分対象臭ばりばり(笑)。見てないけど。パヤオもいよいよ老境に入ったなって。いい意味でも悪い意味でも、いい意味でも悪い意味でもなく。老人の幼児退行的傾向って一つの事実だと思うんだよね。肉体が老いればパラノイアックな人格も弱体化していくのかね? より大人になりたがる老人じゃない大人たちも退行しちゃってるこんな世の中だけど。ポイズン。肉体的に衰えてないクセにフリだけで退行するから仮面退行止まりになる。自らのファルスを否認しているだけ。だから己のファルスで未去勢な主体を殺戮していることに気づけない。ロリコン。マザコン。快楽殺人者。一番カッコワリイ。生理的にキモイ。殺意を覚える。そういうのが大人たちの中で大多数になっている。現代社会を支配している。そのむき出しのファルスで、(絶対的未知性という意味での)他者を快楽的に殺戮している。それはファルス的享楽ですらない。愚者のフリをする賢者。小賢しい大人。戯れにプロレタリアートを演じるブルジョワジー。いや、賢くないのだ。かといって愚者でもないのだ。無価値な存在。そこにあるのはただ、むき出しのファルスたち。ちっちゃなちんちんの群れ。
お前のことだよ。
定型発達者の中でも最初の方に死んでいい一群だな。個人的に真っ先に死んで欲しいのはわかったような口を聞く肥大したクリトリスどもではあるけど。
クサマヤヨイの作品(『A Gateway to Hell』等)は生々しい現実を映し出している。生々しい現実に裏打ちされている。残酷演劇的に。
がけの うえに やあってきた♪
そして落ちた。
ここは東尋坊。