わたしは狂ってなんかいない。
2008/08/22/Fri
この記事やこの記事で、神経症者が主に感じる環境に対する違和感は「社会に対する違和感」であり、非神経症者のそれは「世界に存在することの違和感」である、と繰り返し述べている。というより、神経症者の特徴的な症状として、違和感を感じる対象について、社会と世界を混同してしまうということが、臨床的事実としてあることを述べているに過ぎない。
わたしは個人的に、この差異が非常に引っかかってしまう。
何故なら、わたしの悩みや苦痛を述べれば、それは大体「社会に対する違和感」として一般人の世界(それこそ社会か)で処理されるからだ。自分の文章と周りの「社会に対する違和感」を述べた文章とは明らかに違うのに、理屈的に同じ構造を見出され、同じものとされる。され続けてきた。その都度わたしは違うと述べてきた。お前たちは間違っていると。わたしは間違っていないと。わたしが言語に執着するのも、その違いを説明するためだと言えば言い過ぎになるか。
周りの文章の中でも、この「社会に対する違和感」とは違う違和感だと感じられるものは多数ある。それさえも世の一般人は「社会に対する違和感だ」と決めつける。たとえばこのブログでも多く引用している二階堂奥歯の文章。笙野頼子については、本人曰く「どろどろした呪文めいた文章」に満ちた初期作品群が、そうだと言える。車谷長吉については、特に初期作品群が、「社会に対する違和感」から「世界に存在することの違和感」へ跳躍しつつある文章だと言える。
この作家二人とも、賞を取ったりした後の後期作品群では、その「世界に存在することの違和感」感(ややこしいな)は薄らいでいく。それは当然なのだ。賞を取ったりある程度売れることとは、イコール社会に承認されることなのだから。怒涛のごとく鏡像段階が回帰するようなものである。社会に認められることは即ち神経症者化を促進することなのだ。
この社会に承認されることとは、ラカン風に言えば、まなざしを承認することとなろう。クリステヴァの言葉を借りるなら、想像的父即ちアガペー即ち人間愛を承認することとも言えよう。よって、アガペーを否認するわたしから見れば、両者ともその後期作品群の評価は相対的に低くなる。
とはいえ両者とも作家としては非常に評価できる。というか他にわたしが生きる領域を描いた小説がない。わたしの管見になるが。
二階堂奥歯の吐露がすごくよくわかる。『八本脚の蝶』より引用する。
=====
『ペン』(引間徹著)で描かれている範囲は『くますけと一緒に』(新井素子著)のそれより広い。主人公は大人であり、仕事を持ち、失踪し放浪する。主人公と離れたペンは一時南の島の老夫婦と共に暮らす。
しかしそれでもなお、ここで描かれるのは社会への違和感である。半ば正気を失っているように見える老人もまた、一人の市民としてその身に降りかかった不幸に向かっている。
探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。
世界に存在することの違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。
従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
(()内筆者補注)
=====
この文章からもわかるように、ここで言う「世界」とは、独我論的世界即ち意味の世界だ。
別にわたしは彼女ほどぬいぐるみに思い入れはないが、わたしも「社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者」の物語を探している。何故ならこの世にほとんどないから。だから探さざるを得ないのだ。また、自分で書いたとしても、「社会に対する違和感」を描いたものと言われることも知っている。書く方からすれば、それを描くのはとても難しいことであるのも理解できる。
「世界に存在することの違和感」と「社会に対する違和感」は、全く別物などではない。それらの本質は連接している。
ドゥルーズ=ガタリに言わせれば、精神分析的な主体に関する欲望機械と、社会的な機械は同じ欲望機械である、となる。確かに彼らの言う通りその実体は等しいものである。要するに、この違和感とは、両方とも器官なき身体と身体なき器官の間の軋轢である。充実身体と欲望機械の間の軋轢である。欲望を認知できないから、この軋轢が存在するから、分裂症者はマッサージ療法において、自らの欲望を認知すること即ち軋轢を弱化させることが、治療となりうるのである。この軋轢をどう表現するかの違いに過ぎない。言葉の問題に過ぎない。言葉の問題として、左脳的象徴化処理としてのシニフィアン化の度合いが、加工の度合いが、機械の部品量あるいは工程の多さが、社会的な機械の方が大きい、という話に過ぎない。この度合いの差が、精神分析的主体の欲望機械と充実身体間の軋轢である「世界に存在することの違和感」と、社会的な機械と充実身体間の軋轢である「社会に対する違和感」の差異である、という話に過ぎない。
ところが、定型発達者が述べる「社会に対する違和感」は、社会的な機械と欲望機械の軋轢でしかない。それ以上、軋轢の本質に踏み込めない。
つまり、「社会に対する違和感」の方が(人間主義的な加工という意味で)人工的であり、「世界に存在することの違和感」の方が自然的なものである、ということだ。あくまで度合いとして。この記事から引用する。
=====
「社会」とは人間の総体である。人間的なるものと人間的なるものの関係性により成り立っているものである。少なくともそれは「自然」ではない。わたしの「断片の世界」論が示す、主体と世界という関係性における、「世界」ではない。
=====
いささか非神経症者寄りの言葉だと自覚しながら言うが、人工的な「社会に対する違和感」の、本性に近い領域にありかつそれを内包するのが「世界に存在することの違和感」である、となろうか。また、ドゥルーズ=ガタリ論的な言い方で表現するなら、「世界に存在することの違和感」すらささやかな隠蔽劣化が施されているが、それにさらに隠蔽劣化を施したのが「社会に対する違和感」である、となろう。「世界に存在することの違和感」の方が本質的なものではあるが、その本質は現実的に存在しない。純粋なあるいは理想的な器官なき身体を生きる主体など存在しないのだ。
笙野頼子作品と車谷長吉作品に共通するのは、「私小説であり幻想小説である」ということだ。笙野の作品は幻想小説と評されることが多いが、読めばわかるが作家個人としての生き様を題材としている。一方、車谷の作品は、自ら私小説家廃業宣言をしたらしいが、その初期作品群は明らかに私小説である。しかし『金輪際』文庫解説において三浦雅士が喝破したように、彼が書いているのは幻想小説である。短編掌編では、幻想小説と言い切っていいほどの作品が多い。
この、私小説的な日常的現実と密接した幻想であることが一つのポイントである。
彼らが描く幻想は、作家個人としての生き様たる日常的現実という幻想と、物語として描く幻想に、境界がない。混淆している。精神病者の幻覚や妄想のような臭いすらする。
精神分析においては、正常人が認知する日常的現実と、精神病者の幻覚や妄想に、明確な区別はつけられない、としている。どちらとも等しく幻想であるとし、本当の現実は、器官なき身体でなければ到達しない、即ち原理的に到達不可能であることを示したのが、ラカンの現実界という概念である。正常人が共有している日常的現実など、共同幻想に過ぎないのだ。
となると、「現実」という言葉にとって重要になるのは、何が現実感を惹起させているか、ということである。現実そのものが問題ではなく、それを主体に現実だと思い込ませる何かが問題となる。この現実感はサルトル的な文脈によるならば実存感と言い換えてもよいだろう。わたしは好きじゃないが。
この、現実感の強度が、ドゥルーズ=ガタリの言う強度である。だから『アンチ・オイディプス』では、分裂症者の症状をその論の主軸に持ってきている。その取捨選択の仕方がとてもオイディプス的即ち神経症者的、あるいは少なくともオイディプス即ち神経症者にとって都合のいい言い方になってはいるが。だからわたしは彼らの論に反発を覚え、彼らの言う「強度」を「生々しさ」と読み替えることが多い。
それはともかく、こういった論は、精神分析論と合致する(っていうか精神分析家の著作だし)。要するに、正常人が日常的現実と思い込まされている現実は、現実感を隠蔽劣化させた幻想であり、現実感という意味では、自我や超自我などという現実感を隠蔽劣化させる機能が破損した精神病者なり非神経症者の方が、現実を生きていると言える、ということだ。そう暴露したのが、ラカン論を初めとする精神分析理論なのである。
平たく言うならば、何に現実感を感じるか、何を現実と思うかは、原則的に人それぞれなのだ。原則的に人それぞれなのに、たとえば社会といった言葉にぶら下がるただの意味群に複数の主体が現実感を共有できる正常人たちの方が、異常なのだ。そして彼らは共有だけでは物足りず、その共有を他人に強制する。正常という狂気を伝染させたがる。ただの共同幻想を、平気な顔で、あるいは「愛」や「思い遣り」や「気遣い」などと言った言葉で隠蔽劣化させながら、他人に押しつけている。
……お前のことだよ?
それがお前たち定型発達者であり、子供から見た大人であり、女から見た男である。それがファルスや間主観的自己感やSAMの本性である。わたしはその事実を「定型発達者とは「気持ちの資本家」である」などと述べている。
だから歴史上の狂人たちは言ったのだ。言い続けてきたのだ。
「わたしは狂ってなんかいない。狂っているのはお前たちの方だ」と。
「わたしは間違っていない。お前たちが間違っているのだ」と。
当然の言い分である。現実感を隠蔽劣化させる狂気が正常に働いているのが、正常人なのだから。
狂人たちは、正常人が強制的に共有させられている、たとえば社会などといった言葉に、現実感を感じていないだけなのである。それを、共同幻想に固縛された正常人が、皮肉にも「現実感の喪失」と表現しているのである。ここには、自我や超自我に妨害され圧倒的本質的な現実感を感じられない正常人の哀れさすら醸し出されている。
正常人たちは、このことに薄々気づいている。精神医学界で都市伝説のごとく伝承されている「プレコックス感」という概念などは、言葉にできない強度や生々しさを表現した言葉の好例である。この論文から引用する。
=====
この診断プロセスは、直感的、瞬間的なものであり、それが誤診であるか否かは別として、ためらいや迷いはほとんど生じないという。もちろんここでも皮膚疾患の表象データベースが、いちいち参照されているわけではない。また皮膚科の診断を言語的記述のみで再現することはほとんど不可能である。このあたりの事情は程度の差こそあれ、各科に共通するものであり、わが精神科も例外ではない。分裂病診断における「プレコックス感」の有用性がいまだ廃れていないのもこのためである。およそプレコックス感ほど、表象=再現前化になじまない感覚はないであろう。
=====
狂人の方が、現実感の強度や生々しさが、現実の本質契機が、強いのである。正常人たちはその事実に薄々気づきながら、未だにそれを否認している。現実の否認。まさにパラノイアである。その幻覚妄想がたまたま誰かと共有できているから、パラノイアと呼ばれないだけである。ラカンはこの区分を「父の名の排除」と表現している。しかしラカン論は次のような論旨も持っている。「人格とはパラノイアである」という論旨。
正常人を正常人たらしめる「父の名の排除」という区分は、幻想を共有しているかしていないかの差に過ぎないのであって、現実に基づいているわけではないのだ。
父の名とは、象徴界における欠如である。象徴界そのものがなければ、あるいは壊れていたら、父の名など存在しない。欠如など存在しない。
人は皆、精神病者なのだ。
その現実を、パラノイアックな狂気によって否認あるいは隠蔽している狂人が、正常人なのだ。このパラノイアックな狂気の原因が、「父の名」なのである。
それが、「正常という狂気」なのである。
いい加減、現実を見たまえよ。
幻想の現実ではなく、本当の意味での現実を。
歴史上の狂人を排除してきた、己の「現実感の喪失」に、そろそろ気づきたまえ。
そうでなければ、お前たちの存在価値は、ない。
死んでいるも等しい。
だからわたしは言う。
正常人など、死ねばいいのだ、と。
死んでいるから、死ねばいいのだ、と。
それが、定型発達者になれない、定型発達者になりたいわたしの愛の言葉。
狂人と正常人の、ピロートーク。
(笑)。
わたしは個人的に、この差異が非常に引っかかってしまう。
何故なら、わたしの悩みや苦痛を述べれば、それは大体「社会に対する違和感」として一般人の世界(それこそ社会か)で処理されるからだ。自分の文章と周りの「社会に対する違和感」を述べた文章とは明らかに違うのに、理屈的に同じ構造を見出され、同じものとされる。され続けてきた。その都度わたしは違うと述べてきた。お前たちは間違っていると。わたしは間違っていないと。わたしが言語に執着するのも、その違いを説明するためだと言えば言い過ぎになるか。
周りの文章の中でも、この「社会に対する違和感」とは違う違和感だと感じられるものは多数ある。それさえも世の一般人は「社会に対する違和感だ」と決めつける。たとえばこのブログでも多く引用している二階堂奥歯の文章。笙野頼子については、本人曰く「どろどろした呪文めいた文章」に満ちた初期作品群が、そうだと言える。車谷長吉については、特に初期作品群が、「社会に対する違和感」から「世界に存在することの違和感」へ跳躍しつつある文章だと言える。
この作家二人とも、賞を取ったりした後の後期作品群では、その「世界に存在することの違和感」感(ややこしいな)は薄らいでいく。それは当然なのだ。賞を取ったりある程度売れることとは、イコール社会に承認されることなのだから。怒涛のごとく鏡像段階が回帰するようなものである。社会に認められることは即ち神経症者化を促進することなのだ。
この社会に承認されることとは、ラカン風に言えば、まなざしを承認することとなろう。クリステヴァの言葉を借りるなら、想像的父即ちアガペー即ち人間愛を承認することとも言えよう。よって、アガペーを否認するわたしから見れば、両者ともその後期作品群の評価は相対的に低くなる。
とはいえ両者とも作家としては非常に評価できる。というか他にわたしが生きる領域を描いた小説がない。わたしの管見になるが。
二階堂奥歯の吐露がすごくよくわかる。『八本脚の蝶』より引用する。
=====
『ペン』(引間徹著)で描かれている範囲は『くますけと一緒に』(新井素子著)のそれより広い。主人公は大人であり、仕事を持ち、失踪し放浪する。主人公と離れたペンは一時南の島の老夫婦と共に暮らす。
しかしそれでもなお、ここで描かれるのは社会への違和感である。半ば正気を失っているように見える老人もまた、一人の市民としてその身に降りかかった不幸に向かっている。
探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。
世界に存在することの違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。
従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
(()内筆者補注)
=====
この文章からもわかるように、ここで言う「世界」とは、独我論的世界即ち意味の世界だ。
別にわたしは彼女ほどぬいぐるみに思い入れはないが、わたしも「社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者」の物語を探している。何故ならこの世にほとんどないから。だから探さざるを得ないのだ。また、自分で書いたとしても、「社会に対する違和感」を描いたものと言われることも知っている。書く方からすれば、それを描くのはとても難しいことであるのも理解できる。
「世界に存在することの違和感」と「社会に対する違和感」は、全く別物などではない。それらの本質は連接している。
ドゥルーズ=ガタリに言わせれば、精神分析的な主体に関する欲望機械と、社会的な機械は同じ欲望機械である、となる。確かに彼らの言う通りその実体は等しいものである。要するに、この違和感とは、両方とも器官なき身体と身体なき器官の間の軋轢である。充実身体と欲望機械の間の軋轢である。欲望を認知できないから、この軋轢が存在するから、分裂症者はマッサージ療法において、自らの欲望を認知すること即ち軋轢を弱化させることが、治療となりうるのである。この軋轢をどう表現するかの違いに過ぎない。言葉の問題に過ぎない。言葉の問題として、左脳的象徴化処理としてのシニフィアン化の度合いが、加工の度合いが、機械の部品量あるいは工程の多さが、社会的な機械の方が大きい、という話に過ぎない。この度合いの差が、精神分析的主体の欲望機械と充実身体間の軋轢である「世界に存在することの違和感」と、社会的な機械と充実身体間の軋轢である「社会に対する違和感」の差異である、という話に過ぎない。
ところが、定型発達者が述べる「社会に対する違和感」は、社会的な機械と欲望機械の軋轢でしかない。それ以上、軋轢の本質に踏み込めない。
つまり、「社会に対する違和感」の方が(人間主義的な加工という意味で)人工的であり、「世界に存在することの違和感」の方が自然的なものである、ということだ。あくまで度合いとして。この記事から引用する。
=====
「社会」とは人間の総体である。人間的なるものと人間的なるものの関係性により成り立っているものである。少なくともそれは「自然」ではない。わたしの「断片の世界」論が示す、主体と世界という関係性における、「世界」ではない。
=====
いささか非神経症者寄りの言葉だと自覚しながら言うが、人工的な「社会に対する違和感」の、本性に近い領域にありかつそれを内包するのが「世界に存在することの違和感」である、となろうか。また、ドゥルーズ=ガタリ論的な言い方で表現するなら、「世界に存在することの違和感」すらささやかな隠蔽劣化が施されているが、それにさらに隠蔽劣化を施したのが「社会に対する違和感」である、となろう。「世界に存在することの違和感」の方が本質的なものではあるが、その本質は現実的に存在しない。純粋なあるいは理想的な器官なき身体を生きる主体など存在しないのだ。
笙野頼子作品と車谷長吉作品に共通するのは、「私小説であり幻想小説である」ということだ。笙野の作品は幻想小説と評されることが多いが、読めばわかるが作家個人としての生き様を題材としている。一方、車谷の作品は、自ら私小説家廃業宣言をしたらしいが、その初期作品群は明らかに私小説である。しかし『金輪際』文庫解説において三浦雅士が喝破したように、彼が書いているのは幻想小説である。短編掌編では、幻想小説と言い切っていいほどの作品が多い。
この、私小説的な日常的現実と密接した幻想であることが一つのポイントである。
彼らが描く幻想は、作家個人としての生き様たる日常的現実という幻想と、物語として描く幻想に、境界がない。混淆している。精神病者の幻覚や妄想のような臭いすらする。
精神分析においては、正常人が認知する日常的現実と、精神病者の幻覚や妄想に、明確な区別はつけられない、としている。どちらとも等しく幻想であるとし、本当の現実は、器官なき身体でなければ到達しない、即ち原理的に到達不可能であることを示したのが、ラカンの現実界という概念である。正常人が共有している日常的現実など、共同幻想に過ぎないのだ。
となると、「現実」という言葉にとって重要になるのは、何が現実感を惹起させているか、ということである。現実そのものが問題ではなく、それを主体に現実だと思い込ませる何かが問題となる。この現実感はサルトル的な文脈によるならば実存感と言い換えてもよいだろう。わたしは好きじゃないが。
この、現実感の強度が、ドゥルーズ=ガタリの言う強度である。だから『アンチ・オイディプス』では、分裂症者の症状をその論の主軸に持ってきている。その取捨選択の仕方がとてもオイディプス的即ち神経症者的、あるいは少なくともオイディプス即ち神経症者にとって都合のいい言い方になってはいるが。だからわたしは彼らの論に反発を覚え、彼らの言う「強度」を「生々しさ」と読み替えることが多い。
それはともかく、こういった論は、精神分析論と合致する(っていうか精神分析家の著作だし)。要するに、正常人が日常的現実と思い込まされている現実は、現実感を隠蔽劣化させた幻想であり、現実感という意味では、自我や超自我などという現実感を隠蔽劣化させる機能が破損した精神病者なり非神経症者の方が、現実を生きていると言える、ということだ。そう暴露したのが、ラカン論を初めとする精神分析理論なのである。
平たく言うならば、何に現実感を感じるか、何を現実と思うかは、原則的に人それぞれなのだ。原則的に人それぞれなのに、たとえば社会といった言葉にぶら下がるただの意味群に複数の主体が現実感を共有できる正常人たちの方が、異常なのだ。そして彼らは共有だけでは物足りず、その共有を他人に強制する。正常という狂気を伝染させたがる。ただの共同幻想を、平気な顔で、あるいは「愛」や「思い遣り」や「気遣い」などと言った言葉で隠蔽劣化させながら、他人に押しつけている。
……お前のことだよ?
それがお前たち定型発達者であり、子供から見た大人であり、女から見た男である。それがファルスや間主観的自己感やSAMの本性である。わたしはその事実を「定型発達者とは「気持ちの資本家」である」などと述べている。
だから歴史上の狂人たちは言ったのだ。言い続けてきたのだ。
「わたしは狂ってなんかいない。狂っているのはお前たちの方だ」と。
「わたしは間違っていない。お前たちが間違っているのだ」と。
当然の言い分である。現実感を隠蔽劣化させる狂気が正常に働いているのが、正常人なのだから。
狂人たちは、正常人が強制的に共有させられている、たとえば社会などといった言葉に、現実感を感じていないだけなのである。それを、共同幻想に固縛された正常人が、皮肉にも「現実感の喪失」と表現しているのである。ここには、自我や超自我に妨害され圧倒的本質的な現実感を感じられない正常人の哀れさすら醸し出されている。
正常人たちは、このことに薄々気づいている。精神医学界で都市伝説のごとく伝承されている「プレコックス感」という概念などは、言葉にできない強度や生々しさを表現した言葉の好例である。この論文から引用する。
=====
この診断プロセスは、直感的、瞬間的なものであり、それが誤診であるか否かは別として、ためらいや迷いはほとんど生じないという。もちろんここでも皮膚疾患の表象データベースが、いちいち参照されているわけではない。また皮膚科の診断を言語的記述のみで再現することはほとんど不可能である。このあたりの事情は程度の差こそあれ、各科に共通するものであり、わが精神科も例外ではない。分裂病診断における「プレコックス感」の有用性がいまだ廃れていないのもこのためである。およそプレコックス感ほど、表象=再現前化になじまない感覚はないであろう。
=====
狂人の方が、現実感の強度や生々しさが、現実の本質契機が、強いのである。正常人たちはその事実に薄々気づきながら、未だにそれを否認している。現実の否認。まさにパラノイアである。その幻覚妄想がたまたま誰かと共有できているから、パラノイアと呼ばれないだけである。ラカンはこの区分を「父の名の排除」と表現している。しかしラカン論は次のような論旨も持っている。「人格とはパラノイアである」という論旨。
正常人を正常人たらしめる「父の名の排除」という区分は、幻想を共有しているかしていないかの差に過ぎないのであって、現実に基づいているわけではないのだ。
父の名とは、象徴界における欠如である。象徴界そのものがなければ、あるいは壊れていたら、父の名など存在しない。欠如など存在しない。
人は皆、精神病者なのだ。
その現実を、パラノイアックな狂気によって否認あるいは隠蔽している狂人が、正常人なのだ。このパラノイアックな狂気の原因が、「父の名」なのである。
それが、「正常という狂気」なのである。
いい加減、現実を見たまえよ。
幻想の現実ではなく、本当の意味での現実を。
歴史上の狂人を排除してきた、己の「現実感の喪失」に、そろそろ気づきたまえ。
そうでなければ、お前たちの存在価値は、ない。
死んでいるも等しい。
だからわたしは言う。
正常人など、死ねばいいのだ、と。
死んでいるから、死ねばいいのだ、と。
それが、定型発達者になれない、定型発達者になりたいわたしの愛の言葉。
狂人と正常人の、ピロートーク。
(笑)。
スポンサーサイト