妥協原則
2008/08/23/Sat
最近自分でも「イタイなーこいつ」と思えるような記事ばっか書いているので定型発達的な即ちパラノイアックな文章でも書いとこうと打算的あるいは妥協的に思いました。まる。
高校生の頃、クラス全員で交換する交換日記みたいなものをやらされた。
出席番号順だか忘れたが、一冊のノートをみんなで順繰りに回していく。
強制とは言っても、好きなことを書けばよいのだった。
だから、男の子なんかは特に、一行で済ます子も多かった。イラストを描いている子もいた。ファッション雑誌の切り抜きを貼っている子もいた。
わたしはというと、このブログを読めば大体想像はつくだろうが、大量の文章を書きつけた。大量と言ってもわたしより書いている子もいたけどね。「僕は革命家になります」と宣言してた男の子。女子でも、文芸かぶれみたいな子は、宗教小説みたいなものを書いている。いじめられてた子だなー、この子。なんかすげーありがちな内容になってるけど。この子も定型発達者だな。いじめという環境因によって発達障害的な領域にちょっと押しやられてただけで。っていうか外人名の登場人物なのに、いかにもムラ的共同体に依存する日本人的思考様式になっているのが痛い。
それはともかく。
んで、お約束っちゃーお約束なんだが、卒業する時、それらの中から一部を先生が選んで、一冊の冊子にした。
わたしのは、「『フリ』をする若者たち」という評論(?)が採用された。
そう、この時代から評論めいたものを書いているのだ。やーなじょしこーせいだ。つかテメエも「若者」だろうがよ。
内容はと言えば、某深夜ラジオ番組に「架空のアイドルを自分たちで作り上げる」みたいなコーナーがあって、その分析から始まって、なんでかよくわからないがオウム真理教の分析を経由し(サリン事件前だった)、
「現代の若者は、なんでもかんでもが『フリ』になっている。人を好きになる『フリ』、人とケンカした『フリ』、恋人と別れて悲しむ『フリ』、努力してお金持ちになった『フリ』……」
みたいな論旨を構築していた。
今考えると、それこそ斎藤環が『戦闘美少女の精神分析』で行ったオタクたちの分析、「斜に構えた熱狂」と呼応しており、我ながら鋭いなあ、とか思ったりする。
とはいえ、オウム真理教についての分析は、その後の経過を考えれば明らかに誤謬だったことがわかる。信者は全く『フリ』をしているのではかった。斜に構えてなどいなかった。滅茶苦茶本気だった。熱狂していた。
まあ高校生だしいいじゃない。ああこういうのがあるから中沢新一にシンパシー感じているのかね? すっかり忘れてたことだけど。そもそも宗教に対して「斜に構える」っていうのがおかしいわけで。斜に構えられなくなったから入信するわけで。
少なくとも高校生のわたしは、オウム真理教をカルトというよりネタ宗教と解釈していたようだ。っていうかわたし自身が「『フリ』に固執する若者」だったのだな。ありがちな。麻原の本で坂本龍馬等の歴史上の偉人を憑依させて語っている奴とか笑いながら読んでたもんなあ。立ち読みで。本気でギャグでやってると思ってたフシがある。
しかし、この頃からわたしは、周りの人間たちのやっていること言っていることが、現実感をなくしていると感じていたらしい。
かといって、大人におもねるような結論にはなっていない。「こういった若者たちの傾向は、『エコノミックアニマル』などと呼ばれたりする日本人の精神性と根底で関連しているのではないか」という問題提起をして、文を閉じている。
ここの理屈は非常に乱暴である。それまでガキなりに冷静に綴っているように見えた文章が、ここに来て情動のうねりを滲ませている。
だから読んでて面白い。という自画自賛。
この文章を他人事として、つまり高校生の頃のわたしの症状として、分析してみよう。転移しまくりで。なんせ自分自身だからな。
「なんでもかんでもが『フリ』になっている若者たち」と「『エコノミックアニマル』などと呼ばれる大人たち」は、対照項として考えるなら、ほぼ和田秀樹が述べるところの「シゾフレ人間」と「メランコ人間」に当てはまる(断っておくがその頃のわたしはこんな論を知っているわけがない。中高とばりばり理系人間だったし)と考えてよいだろう。
和田の論では、周囲の世界の認知が、メランコ人間は「論理的・現実的」であるとし、シゾフレ人間は「魔術的・被害的」であるとしている。
しかし、高校生のわたしの論では、どちらとも現実感がない人間として述べられている。むしろ、和田論で読み替えるならば、先人たるメランコ人間たちの現実感のなさが、シゾフレ人間たちの現実感のなさの原因になっている、としている。
この齟齬は、和田の述べる「現実的」という言葉が、明らかにフロイトの現実原則的なものとしての「現実」を示している故、起きているものである。これは、ラカン論的な意味での「現実」では全くない。現実原則や快楽原則の綻びとして提出された死の欲動という概念を道標に、現実界という概念は考えられなければならない(再度断っておくがもちろんこの頃のわたしがラカン論など知っているわけがない)。
しかし、一般的に述べられている「現実」という言葉の意味を考えれば、確かに和田の使い方の方が正しいのだ。多数決的に。
ここに、一つのトリックがある。これが、わたしの心的外傷となっている。
フロイトの現実原則とは超自我的なものであり、ラカン論に照応すると、それは言語構造的、象徴界的なものである。つまり、象徴界的な幻想なのである。
和田もフロイトもほとんどの大人たちも、象徴界的な幻想を、現実と言い張っているのである。言い張ってきたのである。
(去勢済みの主体としての)大人たちのこの暴力的な洗脳により、柔らかく言うならばこの欺瞞により、わたしの論は理屈的に「間違っている」とされるであろう。少なくとも、和田の「シゾフレ人間/メランコ人間」論を論拠に握り潰されるような論である。内容も粗いしね。所詮高校生。
わたしは子供の頃、癲癇や発達障害を疑われていた、とこの記事で書いた。何歳までひきつけを起こしていたかは知らないが、少なくとも中学生時代は病院に通っていたのは確かだ。薬も飲んでいた。
癲癇の発作が現実界的なものを含んでいるかどうかは、ラカン論自体には述べられていない。しかし、精神病患者の幻覚などは、現実界的なものとされている。何故ならそれは自我や超自我(あるいは快楽原則や現実原則)が壊れた主体が認知する世界だからだ。自我や超自我というフィルターがかかっていない主体が認知する世界は、自我や超自我が形成された定型発達者が認知する世界より現実界的なものであろう、という理屈である。
癲癇の発作を精神病者の幻覚と同列に扱うのは危険がある。もちろんそんな論があったらわたしは反論する。しかし、机上の空論的概念としての現実界を考えるならば、それにおいて、癲癇発作状態の主体を説明しても構わないように思える。
わたしは、ひきつけなどといった症状により、精神病的な「現実」を、ラカン的な意味での「現実」を、薄々知っていたのではないか。
わたしは、華厳の極楽のような「ケバケバしく毒々しい過剰な世界」について、その圧倒的さをもって、現実として認知している。それは極楽などではなく苦痛に満ちた世界であることを知っている。それを実物として認知しているから、それを基準に、たとえばそれを描こうとしている(と思われる)芸術作品をそういうものとして語れる。
わたしは、自分の記憶と周りの事実が合致しない、とこの記事で書いたが、この認知だけは譲れない。ラカン論という武器も手に入れた今ではなおさら。
要するに、現実界と現実原則という概念における「現実」という言葉は、全く別物を指している、ということだ。
この違いは、たとえばこちらの論文では「外傷的な現実(リアル)」、「社会的現実(リアリティ)」と表現し区別している。なかなか的を得た表現だと思う。この記事を援用して、アスペルガー症候群者が生きている主観世界を論じたわたしのテクストがこちらである。ここでの「外傷的」という言葉は、心的外傷即ちトラウマを指している。アスペルガー症候群はPTSD症状を併発するケースがよく見られる。臨床事実と合致する。
この、わたしにとってはラカン論の初歩の初歩に思えるようなごくわかりやすい理屈でも、現実原則に縛られた定型発達者にはわかりづらいようだ。たとえばこちらのテクストなどは、明らかに「現実界としての現実(リアル)」と「現実原則(即ち超自我的即ち象徴界的なもの)としての現実(リアリティ)」を混同している。よって、現実界と象徴界の関係について思考を巡らさざるを得なくなる。これは、「定型発達という精神障害」の中でも篤疾な症例と言えよう。
先に挙げた方の論者であるpikarrr氏などは、哲学畑である。彼は最近「身体知」という想像界的な概念を主に思考しているが、「定型発達という精神障害」症状としての、(まさに後者のテクストに見られるような)現実原則(象徴界)と現実界を混同してしまう周りの傾向への反発もあるのではなかろうか、と穿ってみたくもなる。
ここがわかると、たとえば次のようなことがわかる。精神病(パラノイアあるいはスキゾフレニー)の一症状として、「現実感の喪失」なるものがあるが、これは現実原則と同じ使用法であり、ラカン論に則った「現実(リアル)」という言葉の使用法においては、「象徴界あるいは想像界という幻想の喪失」、正確に言えば「パラノイアックなボーダーとしての、正常人を正常人たらしめる精神障害の根拠である共同幻想の喪失」と読み替えられることが理解できる。つまり、精神病の症状を「現実感(リアリティ)の喪失」と表現してしまっていることこそが、ラカン的な意味での現実感(リアル)を喪失しているその主体の症状を示している、ということである。
わたしはこれらの、パラノイアックなボーダーとしての、正常人を正常人たらしめる精神障害を、発達障害を疑われていたわたしの経験に基づいて、「定型発達という精神障害」と述べている。
わたしは両方の「現実」という言葉の使用法に則ることができる。その語の多義性を、実体を知っているから。ただそれだけである。
実体を知っている者として補足するならば、この二つの「現実」の見極めは、非常に簡単である。たとえば、年上の人間が年下の人間に言うような「もっと現実見なさいよ」という言葉を考えてみよう。この「現実」という言葉には、「妥協」という意味が含まれている。本来の「現実」という意味を考えれば、明らかに不純物である意味が含意されている。
従ってわたしは、フロイトの「現実原則」は、「妥協原則」と読み直すのが正しいとすら思っている。
こんな簡単な違いに気づけない、あるいはそれが視界から排除されているのが、「定型発達という精神障害」なのである。
ここのアスペルガー症候群者(夫もそう診断されている)の手記から引用する。
=====
私や夫と決定的に違うのは……人によって巾はありますが、いずれの人たちも「頭を切り換え」て「ほどほどのところで」「あきらめて譲る」「柔軟性」を持っていたことです。どれほど破天荒に見えても、収拾を考えています。押さえるべきところは、寸止めで押さえています。だからこそ、会社という集団で、生き残ってこられたのだと、今思います。
=====
自閉症に限った話ではない。統合失調症にもこのような症状がある。それは、たとえばガタリの言う「分裂症者が製作する自己増殖する机」がこの症状を象徴的に言い表しているだろう。あるいは、ここの論文も参照できよう。引用する。
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ラカン派の精神科医である加藤敏は分裂病圏の天才の特徴として以下の五点を列挙している(『創造性の精神分析』p150)。1、「真」の存在との出会いの情熱。2、存在の根拠の近くを定常点と分裂気質(ママ)。3、一切の虚偽性を排した独創的思考の企て。4、「長い時間」不耐性。5、根源的シニフィアンの欠如。
=====
補足するならば、5の「根源的シニフィアン」とは象徴的ファルス(主体が定型発達者の場合は、シニフィアン連鎖の最初のシニフィアンであるS1と考えてよい)のことであり、「定型発達という精神障害」の直接的原因である「正常人を正常たらしめる共同幻想」を成立させる、「存在しない軸」である。
要するに、根源的シニフィアンの欠如とは、「父の名」などとも呼ばれているような根源的欠如が欠如していることを意味しているわけだ。
こちらの記事から。
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「現実界」について少し説明しておこう。人間というシステムは、器官を通してしか物事を認知できない。器官が刺激を受けその信号を脳で処理して初めてそれを認知できる。そうやって脳で再構成された世界と妄想の区別なんてつけられないのだ。器官や脳を経ないで刺激を発する世界、即ち「本当の現実」を認知するには、器官のない身体でないと認知できない。しかしそれは矛盾となる。従って、「本当の現実」=「現実界」は到達不可能な世界であることがわかる。言葉という象徴的思考の道具もなく、器官が未発達な生まれたばかりの赤ん坊にとっての世界が、現実界に近似しているということがわかるだろう。
=====
器官なき身体に比較的親近している未去勢な主体が感じる現実を、去勢により忘れて(棄却あるいは排除して)しまった去勢済みな主体たち。彼らが想像的象徴的問わず事後的に構築された幻想を現実と思ってしまうのも理解できる。定型発達という精神障害に顕著な症状、現実原則と対峙した状況を現実だと思ってしまう症状も理解できる。
わたしだって、夢で感じる痛みなんて幻想だという常識に従おうとしてきたのだ。「そんなもの現実じゃない」という彼らの言葉に従おうとしてきたのだ。去勢されたくて。夢で感じる痛みなんか幻想だと思おうとしてきたのだ。彼らの言っていることが現実だと思おうとしてきたのだ。今でもそれを説明しようとしている。精液に塗れたくて。
わたしは、恋愛は、成就した瞬間や成就した後より、成就前の駆け引きがメインになっている時期の方が好きだ。その方が生々しいから。確かにそちらの方が現実的な状況であるとは言えよう。しかしそれもまた幻想なのだ。より現実的な幻想というだけで。
現実界は、到達不可能な領域である。そこに辛うじて触れられるのは、享楽の瞬間だけなのである。ラカン論に則るならば。
だからわたしは、自分の定型発達的な部分と未去勢的な部分のせめぎ合いを、「外傷的な現実」として感じている。
会話を合意主義的なものとしてしか考えられない固定観念が、恋愛が成就したあるいは成就しなかった後に固着する主体が、このせめぎ合いをむしろ幻想化させる。その享楽的な本性を忘れさせている。
象徴界の穴は、確かに領域として限定されている。刺し縫いされている。象徴的想像的問わず、社会には現実的なものが散在している。それはいい。だけど、象徴界や想像界の連結が弱い人間から見ると、現実界はそれらを内包している。「世界に対する違和感」は「社会に対する違和感」を内包している。
これは、わたしがここのコメント欄でこう表現していることにも繋がろう。
=====
わたしは、一般の人たちは、常に無意識的に「バリア」を張っているように見えるのです。
自閉症者は、その言葉と裏腹に、むしろさらけ出しているように見えるのですね。アリスさんなどは、「自閉症者は生々しいものを映し出す」と、とても端的に表現されてますが、同じ印象を言っている言葉に思えます。
=====
わたしの認知によれば、自閉症者たちより、定型発達者の方が、「バリア」の中に自閉しているように見えるのだ。妥協原則という幻想への自閉。
また、ここで述べているように、わたしは「セカイ系」と呼ばれるジャンルに違和感を覚えている。違和感の根拠としてそれを評した、「社会性あるいは(誤用であることを知りながら言うなら)象徴界の喪失」という言説にも違和感を感じる。わたしから見れば、「セカイ系」と呼ばれる作品群は、まったく象徴界を喪失していない。社会性を喪失していない。それを「社会性の喪失」と評する主体たちが持っている固有の「社会という共同幻想」が崩壊しているだけである。彼らは彼ら固有の「社会性という共同幻想」に自閉したがっているのだ。「セカイ系」を制作する主体たちも、彼らなりの(幾分想像的ではあるが)「社会性という共同幻想」を、その作品で遺憾なく表現している。『エヴァンゲリオン』にしろ『イリヤの夏、UFOの空』にしろ『エウレカセブン』にしろ、作り手の社会性が発揮されている。その定型発達者っぷりをあるいはファロセントリスムを自己表現できている。精液を撒き散らしている。よってわたしには、むしろ「セカイ系」に纏わる作品群とその批評、あるいはそれに対する擁護的批評と批判的批評の対立こそが、生々しさに到達しうる一つのエンターテイメントだとすら思っている。
あるいは、このことは、フェミニズム論のジレンマとよく似ているように思う。男性は去勢されて知的な主体となるが、女性の去勢は断頭コンプレックスという名に隠喩されているように「バカになること」である。演技でもいいから。たとえば小倉優子である。知的な女性は、一般的に、むしろ未去勢的と言われてしまう。小うるさい女はヒステリックだなどと表現される。
とはいえ、去勢の否認と呼ばれる症状は、神経症の症状として顕著なものである。去勢を否認することにより、男性はたとえば「無垢」や「アウトロー」や「世捨て人」を欲望し、女性はたとえば知や肉体的力を欲望する。神経症者が生きる世界では、去勢(の回帰)に纏わる症状が、男女で反転している。
この反転やジレンマを、合意主義的に(ユング論で言う)統合あるいは妥協したものが、たとえば「寡黙な賢者」や「無口だけど賢い女房」のようなイメージであろう。後者はまさにアニマである。逆方向に妥協すれば、たとえばセカイ系などが好むイコンである「ツンデレ」なり「戦闘美少女」になるだろう。あるいは、女性に傾向的に顕著な(「母」などを含意した)「女」というシニフィアンの否認も、このジレンマ故の症状であるように思える。わたしも社会人時代はそのような状態だったかもしれない。これらに同一化したがる傾向は、「定型発達という精神障害」の症状としてよく見られる。
しかし、妥協とは、その時点で既に幻想である。
要するに、むしろ統合したがる即ち妥協したがる症状こそが、「定型発達という精神障害」の、正常という狂気の、まさにパラノイアックな症状だということだ。
ちなみにわたしはユングはパラノイア一歩手前を生きていたと診断する。特に晩年。従って、充実身体はスキゾフレニーとパラノイアの両極を振動しているとし、それを論拠にしている『アンチ・オイディプス』が、妥協的な意味でしか現実を見ていない神経症の権化とも言うべきフロイトを批判し、よりキチガイ臭のするユングに賛するのは、理に適っているのである。
また、木村敏のフェストゥム論を参照するならば、木村本人も述べているように、アンテ・フェストゥム的力動とポスト・フェストゥム的力動の妥協が神経症者即ち定型発達者即ち正常人である、と言える。この妥協がせめぎ合いとなれば、イントラ・フェストゥムとなる。
わたしは、未去勢的だ。
鏡像段階という去勢を経ているにも関わらず、事後的に課せられた「女」という言葉によって、未去勢的な世界に押し戻される一般女性と比べると、わたしは元から未去勢的だと言える。
わたしは、「女として生まれてきたのではない。女になるのだ」ではなく、女として生まれてきた。
わたしが生きてきた事実によって、大体ではあるが、それは裏付けられる。裏付けられてしまう。
……キモチワルイ。
ここまで述べておいてなんだが、わたしは社会という幻想を構築する種のようなものも、現実として認知している。あるいは、シニフィアンに現実感を感じてしまう種を認知している。社会の存在を全否定しているわけではない。象徴界をなくせ、ボロメオの輪を解体しろ、などと言っているわけではない。
これは、この記事で述べている「不動という享楽」に関連する。
この種が、象徴界に現実感を付与している。あるいは、アガペーや人間愛などといったものを発芽させ、世界を人間主義的に加工した社会なる幻想を構築させる。
人間を人間主義たらしめる享楽。人間を現実原則に従わせる種。象徴界という人間に特徴的な機能を発達させた一因。ファルス的享楽の裏の顔。「死の欲動が超自我の原因である」という表現が示す本質。
要するにこういうことだ。社会は、ユートピアへの過程として、その不動さを感じさせる。またpikarrr氏の記事になって悪いが(すまんストーキングしてる)、この記事で述べられている「固さ」に当たるだろう。それがその主体に享楽的(外傷的)に認知されれば現実感を生む。これは、阿部定が「定、石田の吉二人キリ」という不動さに感じた現実感と、その種としての享楽は、現実界との離接ポイントは、同じものなのである。この視点を取るならば。
わたしはそう思っている。暴論的に。
……いやそれはどうだろ?
思ってないかもしれない。正直わからない。
ただ、それは、象徴的ファルスとは関連しているかもしれないが、象徴界とは別物である、ということだけ。完全に別物とは言い切れないけど。パロールじゃなくエクリチュール的な象徴界っぽくはある。パロールとエクリチュールならエクリチュールの方が「固い」っしょ? だけど象徴ではない。むしろ、象徴界に穴が開いてしまうことに関連している、のか。
生々しさは、多神教の専売特許じゃない。一神教の唯一神にも、不動的な生々しさはある。「否定」を司る神としての、生々しさ。
その生々しさを隠しちゃうのが精液だけどね。
むしろこの穴から、精液が飛び散っていく。
まーそういうこと。
最近なんかライトノベル風な文章を書いてみたい。妙に。
キモイの書きたい。すごく。
一般的なキチガイのキモさじゃなくて、定型発達のキモさを真似てみたい。ばれないように。一応役者やってたんだぞ! みたいな。
なんていうか、奈須とか上遠野とか本人のに限らず、それに影響受けたいかにも中二病っぽいジャキガン系文化とここでは言ってみるけれど、それってむしろ一種の否定神学だよなあ、ってオモタ。本気な(妥協してない)子ほど。わたしたちから見れば「ジャキガンw」なんだけど、そういう態度さえも否定神学っぽくなる。本気な子に対しては。そっち系の子ほどラカン論っぽい。なのでわたしは中二病擁護派。ええ大人が中二病ぶるのはケツ蹴り上げるがな。んなの『フリ』だ『フリ』。
彼らにとってはなんらかのちっぽけではあるかもしれないけど現実感があるのかもねえ。ジョジョのスタンドみたいな系統も。
圧倒的さ、か。
社会が持つ圧倒的さ。
不動の享楽を種とし、アガペーや人間愛を芽とし、シニフィアン連鎖を根や枝とし、精液を養分とし、構築された圧倒的さ。繁茂した森。ヘーゲル的止揚により、高く高く伸びた木々。
ポスト・フェストゥム的な圧倒的さ。社会という実体が持っていて、社会という概念には存在しない現実感の原因。
わからなくもないんだな。本場オペラのスタッフやってた身からすると、そういったポスト・フェストゥム的な、建築的な圧倒的さって。客席で見るよりその生々しい圧倒的さが眼前する。高層ビルも、乱立してそれが日常となってしまうと、圧倒的さは失われる。
その圧倒的さまでをもぼかしてしまうのが精液です。
「父の名」の生々しさは、むしろ精液によって隠蔽されるのです。
定型発達者たちは、それが精液だと気づかないから。
ジャキガンな子たちも、精神年齢史的にそういう時期なのかもしれないけど、精液に塗れたがっている。精液に塗れたがる度合いが大人より強い故、それが精液かもしれないと薄々感づいてしまう。
この微妙な加減を、そのジレンマを、長く生きてしまうと、斎藤環が分析した九十年代のオタクたちの「斜に構えた熱狂」という妥協点を見出すのかもね。
パラノイアックな正常という神経症的狂気に、ある程度は馴染んでいるけど、大人になるまで、一般より馴染めなかった神経症者たち? 精液に薄々感づいていたことを、大人になっても、引きずっている人たち?
……やっぱいいや。キモイものはキモイ。キモイと思わず書ける人いっぱいいるんだし。
素で大人になれない人間が、大人になれているのに大人になれないフリをする人間を演じるのって、すげえ難しいのかもね。
よくわからんけど。
キモイのが好き。好きというか、わたしに引っかかってくる。なので事後的に判断して、「好き」という言葉が当てはまるだろうか、と疑問を持ちながら言う「好き」。実際は好きじゃない。不快なのは不快だ。アルトーもキモイ。笙野頼子もキモイ。二階堂奥歯もキモイ。金原ひとみもキモイ。自閉症者もキモイ。でも、それぞれ違うキモイ。それぞれが独立したキモイ。定常独立的なキモイ。
そういうキモイとは、全然違う。今のオタク文化は。
一つに括ってキモイ。一つに括られてしまうところがキモイ。
お互いが、滅茶苦茶相関しまくってて、キモイ。
精液に塗れ過ぎている。
定型発達者過ぎる。
自我や超自我が強過ぎる。快楽原則や現実原則が強過ぎる。
正直、現実がどうとかどうでもいい。そんなの関係ない。
わたしは、定型発達者の存在が、死ぬほど不快なのだ。殺意を覚えるほど。
ある自閉症者が言った。
「定型発達者は八割死ね」
本当にそう思う。全員死ねとは言わないし、根絶やしにできるわけがないと思うから、八割でいい。
指や唇とかは
嘘を見抜くのが下手
羨ましいくらいに信じる
今この瞬間のわたしがあなたを信じても、一分後のわたしや一分前のわたしがどうなのかはわからない。
責任持てない。
だって指や唇とかだから。
それが、わたしの、アガペーではない、愛。
高校生の頃、クラス全員で交換する交換日記みたいなものをやらされた。
出席番号順だか忘れたが、一冊のノートをみんなで順繰りに回していく。
強制とは言っても、好きなことを書けばよいのだった。
だから、男の子なんかは特に、一行で済ます子も多かった。イラストを描いている子もいた。ファッション雑誌の切り抜きを貼っている子もいた。
わたしはというと、このブログを読めば大体想像はつくだろうが、大量の文章を書きつけた。大量と言ってもわたしより書いている子もいたけどね。「僕は革命家になります」と宣言してた男の子。女子でも、文芸かぶれみたいな子は、宗教小説みたいなものを書いている。いじめられてた子だなー、この子。なんかすげーありがちな内容になってるけど。この子も定型発達者だな。いじめという環境因によって発達障害的な領域にちょっと押しやられてただけで。っていうか外人名の登場人物なのに、いかにもムラ的共同体に依存する日本人的思考様式になっているのが痛い。
それはともかく。
んで、お約束っちゃーお約束なんだが、卒業する時、それらの中から一部を先生が選んで、一冊の冊子にした。
わたしのは、「『フリ』をする若者たち」という評論(?)が採用された。
そう、この時代から評論めいたものを書いているのだ。やーなじょしこーせいだ。つかテメエも「若者」だろうがよ。
内容はと言えば、某深夜ラジオ番組に「架空のアイドルを自分たちで作り上げる」みたいなコーナーがあって、その分析から始まって、なんでかよくわからないがオウム真理教の分析を経由し(サリン事件前だった)、
「現代の若者は、なんでもかんでもが『フリ』になっている。人を好きになる『フリ』、人とケンカした『フリ』、恋人と別れて悲しむ『フリ』、努力してお金持ちになった『フリ』……」
みたいな論旨を構築していた。
今考えると、それこそ斎藤環が『戦闘美少女の精神分析』で行ったオタクたちの分析、「斜に構えた熱狂」と呼応しており、我ながら鋭いなあ、とか思ったりする。
とはいえ、オウム真理教についての分析は、その後の経過を考えれば明らかに誤謬だったことがわかる。信者は全く『フリ』をしているのではかった。斜に構えてなどいなかった。滅茶苦茶本気だった。熱狂していた。
まあ高校生だしいいじゃない。ああこういうのがあるから中沢新一にシンパシー感じているのかね? すっかり忘れてたことだけど。そもそも宗教に対して「斜に構える」っていうのがおかしいわけで。斜に構えられなくなったから入信するわけで。
少なくとも高校生のわたしは、オウム真理教をカルトというよりネタ宗教と解釈していたようだ。っていうかわたし自身が「『フリ』に固執する若者」だったのだな。ありがちな。麻原の本で坂本龍馬等の歴史上の偉人を憑依させて語っている奴とか笑いながら読んでたもんなあ。立ち読みで。本気でギャグでやってると思ってたフシがある。
しかし、この頃からわたしは、周りの人間たちのやっていること言っていることが、現実感をなくしていると感じていたらしい。
かといって、大人におもねるような結論にはなっていない。「こういった若者たちの傾向は、『エコノミックアニマル』などと呼ばれたりする日本人の精神性と根底で関連しているのではないか」という問題提起をして、文を閉じている。
ここの理屈は非常に乱暴である。それまでガキなりに冷静に綴っているように見えた文章が、ここに来て情動のうねりを滲ませている。
だから読んでて面白い。という自画自賛。
この文章を他人事として、つまり高校生の頃のわたしの症状として、分析してみよう。転移しまくりで。なんせ自分自身だからな。
「なんでもかんでもが『フリ』になっている若者たち」と「『エコノミックアニマル』などと呼ばれる大人たち」は、対照項として考えるなら、ほぼ和田秀樹が述べるところの「シゾフレ人間」と「メランコ人間」に当てはまる(断っておくがその頃のわたしはこんな論を知っているわけがない。中高とばりばり理系人間だったし)と考えてよいだろう。
和田の論では、周囲の世界の認知が、メランコ人間は「論理的・現実的」であるとし、シゾフレ人間は「魔術的・被害的」であるとしている。
しかし、高校生のわたしの論では、どちらとも現実感がない人間として述べられている。むしろ、和田論で読み替えるならば、先人たるメランコ人間たちの現実感のなさが、シゾフレ人間たちの現実感のなさの原因になっている、としている。
この齟齬は、和田の述べる「現実的」という言葉が、明らかにフロイトの現実原則的なものとしての「現実」を示している故、起きているものである。これは、ラカン論的な意味での「現実」では全くない。現実原則や快楽原則の綻びとして提出された死の欲動という概念を道標に、現実界という概念は考えられなければならない(再度断っておくがもちろんこの頃のわたしがラカン論など知っているわけがない)。
しかし、一般的に述べられている「現実」という言葉の意味を考えれば、確かに和田の使い方の方が正しいのだ。多数決的に。
ここに、一つのトリックがある。これが、わたしの心的外傷となっている。
フロイトの現実原則とは超自我的なものであり、ラカン論に照応すると、それは言語構造的、象徴界的なものである。つまり、象徴界的な幻想なのである。
和田もフロイトもほとんどの大人たちも、象徴界的な幻想を、現実と言い張っているのである。言い張ってきたのである。
(去勢済みの主体としての)大人たちのこの暴力的な洗脳により、柔らかく言うならばこの欺瞞により、わたしの論は理屈的に「間違っている」とされるであろう。少なくとも、和田の「シゾフレ人間/メランコ人間」論を論拠に握り潰されるような論である。内容も粗いしね。所詮高校生。
わたしは子供の頃、癲癇や発達障害を疑われていた、とこの記事で書いた。何歳までひきつけを起こしていたかは知らないが、少なくとも中学生時代は病院に通っていたのは確かだ。薬も飲んでいた。
癲癇の発作が現実界的なものを含んでいるかどうかは、ラカン論自体には述べられていない。しかし、精神病患者の幻覚などは、現実界的なものとされている。何故ならそれは自我や超自我(あるいは快楽原則や現実原則)が壊れた主体が認知する世界だからだ。自我や超自我というフィルターがかかっていない主体が認知する世界は、自我や超自我が形成された定型発達者が認知する世界より現実界的なものであろう、という理屈である。
癲癇の発作を精神病者の幻覚と同列に扱うのは危険がある。もちろんそんな論があったらわたしは反論する。しかし、机上の空論的概念としての現実界を考えるならば、それにおいて、癲癇発作状態の主体を説明しても構わないように思える。
わたしは、ひきつけなどといった症状により、精神病的な「現実」を、ラカン的な意味での「現実」を、薄々知っていたのではないか。
わたしは、華厳の極楽のような「ケバケバしく毒々しい過剰な世界」について、その圧倒的さをもって、現実として認知している。それは極楽などではなく苦痛に満ちた世界であることを知っている。それを実物として認知しているから、それを基準に、たとえばそれを描こうとしている(と思われる)芸術作品をそういうものとして語れる。
わたしは、自分の記憶と周りの事実が合致しない、とこの記事で書いたが、この認知だけは譲れない。ラカン論という武器も手に入れた今ではなおさら。
要するに、現実界と現実原則という概念における「現実」という言葉は、全く別物を指している、ということだ。
この違いは、たとえばこちらの論文では「外傷的な現実(リアル)」、「社会的現実(リアリティ)」と表現し区別している。なかなか的を得た表現だと思う。この記事を援用して、アスペルガー症候群者が生きている主観世界を論じたわたしのテクストがこちらである。ここでの「外傷的」という言葉は、心的外傷即ちトラウマを指している。アスペルガー症候群はPTSD症状を併発するケースがよく見られる。臨床事実と合致する。
この、わたしにとってはラカン論の初歩の初歩に思えるようなごくわかりやすい理屈でも、現実原則に縛られた定型発達者にはわかりづらいようだ。たとえばこちらのテクストなどは、明らかに「現実界としての現実(リアル)」と「現実原則(即ち超自我的即ち象徴界的なもの)としての現実(リアリティ)」を混同している。よって、現実界と象徴界の関係について思考を巡らさざるを得なくなる。これは、「定型発達という精神障害」の中でも篤疾な症例と言えよう。
先に挙げた方の論者であるpikarrr氏などは、哲学畑である。彼は最近「身体知」という想像界的な概念を主に思考しているが、「定型発達という精神障害」症状としての、(まさに後者のテクストに見られるような)現実原則(象徴界)と現実界を混同してしまう周りの傾向への反発もあるのではなかろうか、と穿ってみたくもなる。
ここがわかると、たとえば次のようなことがわかる。精神病(パラノイアあるいはスキゾフレニー)の一症状として、「現実感の喪失」なるものがあるが、これは現実原則と同じ使用法であり、ラカン論に則った「現実(リアル)」という言葉の使用法においては、「象徴界あるいは想像界という幻想の喪失」、正確に言えば「パラノイアックなボーダーとしての、正常人を正常人たらしめる精神障害の根拠である共同幻想の喪失」と読み替えられることが理解できる。つまり、精神病の症状を「現実感(リアリティ)の喪失」と表現してしまっていることこそが、ラカン的な意味での現実感(リアル)を喪失しているその主体の症状を示している、ということである。
わたしはこれらの、パラノイアックなボーダーとしての、正常人を正常人たらしめる精神障害を、発達障害を疑われていたわたしの経験に基づいて、「定型発達という精神障害」と述べている。
わたしは両方の「現実」という言葉の使用法に則ることができる。その語の多義性を、実体を知っているから。ただそれだけである。
実体を知っている者として補足するならば、この二つの「現実」の見極めは、非常に簡単である。たとえば、年上の人間が年下の人間に言うような「もっと現実見なさいよ」という言葉を考えてみよう。この「現実」という言葉には、「妥協」という意味が含まれている。本来の「現実」という意味を考えれば、明らかに不純物である意味が含意されている。
従ってわたしは、フロイトの「現実原則」は、「妥協原則」と読み直すのが正しいとすら思っている。
こんな簡単な違いに気づけない、あるいはそれが視界から排除されているのが、「定型発達という精神障害」なのである。
ここのアスペルガー症候群者(夫もそう診断されている)の手記から引用する。
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私や夫と決定的に違うのは……人によって巾はありますが、いずれの人たちも「頭を切り換え」て「ほどほどのところで」「あきらめて譲る」「柔軟性」を持っていたことです。どれほど破天荒に見えても、収拾を考えています。押さえるべきところは、寸止めで押さえています。だからこそ、会社という集団で、生き残ってこられたのだと、今思います。
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自閉症に限った話ではない。統合失調症にもこのような症状がある。それは、たとえばガタリの言う「分裂症者が製作する自己増殖する机」がこの症状を象徴的に言い表しているだろう。あるいは、ここの論文も参照できよう。引用する。
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ラカン派の精神科医である加藤敏は分裂病圏の天才の特徴として以下の五点を列挙している(『創造性の精神分析』p150)。1、「真」の存在との出会いの情熱。2、存在の根拠の近くを定常点と分裂気質(ママ)。3、一切の虚偽性を排した独創的思考の企て。4、「長い時間」不耐性。5、根源的シニフィアンの欠如。
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補足するならば、5の「根源的シニフィアン」とは象徴的ファルス(主体が定型発達者の場合は、シニフィアン連鎖の最初のシニフィアンであるS1と考えてよい)のことであり、「定型発達という精神障害」の直接的原因である「正常人を正常たらしめる共同幻想」を成立させる、「存在しない軸」である。
要するに、根源的シニフィアンの欠如とは、「父の名」などとも呼ばれているような根源的欠如が欠如していることを意味しているわけだ。
こちらの記事から。
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「現実界」について少し説明しておこう。人間というシステムは、器官を通してしか物事を認知できない。器官が刺激を受けその信号を脳で処理して初めてそれを認知できる。そうやって脳で再構成された世界と妄想の区別なんてつけられないのだ。器官や脳を経ないで刺激を発する世界、即ち「本当の現実」を認知するには、器官のない身体でないと認知できない。しかしそれは矛盾となる。従って、「本当の現実」=「現実界」は到達不可能な世界であることがわかる。言葉という象徴的思考の道具もなく、器官が未発達な生まれたばかりの赤ん坊にとっての世界が、現実界に近似しているということがわかるだろう。
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器官なき身体に比較的親近している未去勢な主体が感じる現実を、去勢により忘れて(棄却あるいは排除して)しまった去勢済みな主体たち。彼らが想像的象徴的問わず事後的に構築された幻想を現実と思ってしまうのも理解できる。定型発達という精神障害に顕著な症状、現実原則と対峙した状況を現実だと思ってしまう症状も理解できる。
わたしだって、夢で感じる痛みなんて幻想だという常識に従おうとしてきたのだ。「そんなもの現実じゃない」という彼らの言葉に従おうとしてきたのだ。去勢されたくて。夢で感じる痛みなんか幻想だと思おうとしてきたのだ。彼らの言っていることが現実だと思おうとしてきたのだ。今でもそれを説明しようとしている。精液に塗れたくて。
わたしは、恋愛は、成就した瞬間や成就した後より、成就前の駆け引きがメインになっている時期の方が好きだ。その方が生々しいから。確かにそちらの方が現実的な状況であるとは言えよう。しかしそれもまた幻想なのだ。より現実的な幻想というだけで。
現実界は、到達不可能な領域である。そこに辛うじて触れられるのは、享楽の瞬間だけなのである。ラカン論に則るならば。
だからわたしは、自分の定型発達的な部分と未去勢的な部分のせめぎ合いを、「外傷的な現実」として感じている。
会話を合意主義的なものとしてしか考えられない固定観念が、恋愛が成就したあるいは成就しなかった後に固着する主体が、このせめぎ合いをむしろ幻想化させる。その享楽的な本性を忘れさせている。
象徴界の穴は、確かに領域として限定されている。刺し縫いされている。象徴的想像的問わず、社会には現実的なものが散在している。それはいい。だけど、象徴界や想像界の連結が弱い人間から見ると、現実界はそれらを内包している。「世界に対する違和感」は「社会に対する違和感」を内包している。
これは、わたしがここのコメント欄でこう表現していることにも繋がろう。
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わたしは、一般の人たちは、常に無意識的に「バリア」を張っているように見えるのです。
自閉症者は、その言葉と裏腹に、むしろさらけ出しているように見えるのですね。アリスさんなどは、「自閉症者は生々しいものを映し出す」と、とても端的に表現されてますが、同じ印象を言っている言葉に思えます。
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わたしの認知によれば、自閉症者たちより、定型発達者の方が、「バリア」の中に自閉しているように見えるのだ。妥協原則という幻想への自閉。
また、ここで述べているように、わたしは「セカイ系」と呼ばれるジャンルに違和感を覚えている。違和感の根拠としてそれを評した、「社会性あるいは(誤用であることを知りながら言うなら)象徴界の喪失」という言説にも違和感を感じる。わたしから見れば、「セカイ系」と呼ばれる作品群は、まったく象徴界を喪失していない。社会性を喪失していない。それを「社会性の喪失」と評する主体たちが持っている固有の「社会という共同幻想」が崩壊しているだけである。彼らは彼ら固有の「社会性という共同幻想」に自閉したがっているのだ。「セカイ系」を制作する主体たちも、彼らなりの(幾分想像的ではあるが)「社会性という共同幻想」を、その作品で遺憾なく表現している。『エヴァンゲリオン』にしろ『イリヤの夏、UFOの空』にしろ『エウレカセブン』にしろ、作り手の社会性が発揮されている。その定型発達者っぷりをあるいはファロセントリスムを自己表現できている。精液を撒き散らしている。よってわたしには、むしろ「セカイ系」に纏わる作品群とその批評、あるいはそれに対する擁護的批評と批判的批評の対立こそが、生々しさに到達しうる一つのエンターテイメントだとすら思っている。
あるいは、このことは、フェミニズム論のジレンマとよく似ているように思う。男性は去勢されて知的な主体となるが、女性の去勢は断頭コンプレックスという名に隠喩されているように「バカになること」である。演技でもいいから。たとえば小倉優子である。知的な女性は、一般的に、むしろ未去勢的と言われてしまう。小うるさい女はヒステリックだなどと表現される。
とはいえ、去勢の否認と呼ばれる症状は、神経症の症状として顕著なものである。去勢を否認することにより、男性はたとえば「無垢」や「アウトロー」や「世捨て人」を欲望し、女性はたとえば知や肉体的力を欲望する。神経症者が生きる世界では、去勢(の回帰)に纏わる症状が、男女で反転している。
この反転やジレンマを、合意主義的に(ユング論で言う)統合あるいは妥協したものが、たとえば「寡黙な賢者」や「無口だけど賢い女房」のようなイメージであろう。後者はまさにアニマである。逆方向に妥協すれば、たとえばセカイ系などが好むイコンである「ツンデレ」なり「戦闘美少女」になるだろう。あるいは、女性に傾向的に顕著な(「母」などを含意した)「女」というシニフィアンの否認も、このジレンマ故の症状であるように思える。わたしも社会人時代はそのような状態だったかもしれない。これらに同一化したがる傾向は、「定型発達という精神障害」の症状としてよく見られる。
しかし、妥協とは、その時点で既に幻想である。
要するに、むしろ統合したがる即ち妥協したがる症状こそが、「定型発達という精神障害」の、正常という狂気の、まさにパラノイアックな症状だということだ。
ちなみにわたしはユングはパラノイア一歩手前を生きていたと診断する。特に晩年。従って、充実身体はスキゾフレニーとパラノイアの両極を振動しているとし、それを論拠にしている『アンチ・オイディプス』が、妥協的な意味でしか現実を見ていない神経症の権化とも言うべきフロイトを批判し、よりキチガイ臭のするユングに賛するのは、理に適っているのである。
また、木村敏のフェストゥム論を参照するならば、木村本人も述べているように、アンテ・フェストゥム的力動とポスト・フェストゥム的力動の妥協が神経症者即ち定型発達者即ち正常人である、と言える。この妥協がせめぎ合いとなれば、イントラ・フェストゥムとなる。
わたしは、未去勢的だ。
鏡像段階という去勢を経ているにも関わらず、事後的に課せられた「女」という言葉によって、未去勢的な世界に押し戻される一般女性と比べると、わたしは元から未去勢的だと言える。
わたしは、「女として生まれてきたのではない。女になるのだ」ではなく、女として生まれてきた。
わたしが生きてきた事実によって、大体ではあるが、それは裏付けられる。裏付けられてしまう。
……キモチワルイ。
ここまで述べておいてなんだが、わたしは社会という幻想を構築する種のようなものも、現実として認知している。あるいは、シニフィアンに現実感を感じてしまう種を認知している。社会の存在を全否定しているわけではない。象徴界をなくせ、ボロメオの輪を解体しろ、などと言っているわけではない。
これは、この記事で述べている「不動という享楽」に関連する。
この種が、象徴界に現実感を付与している。あるいは、アガペーや人間愛などといったものを発芽させ、世界を人間主義的に加工した社会なる幻想を構築させる。
人間を人間主義たらしめる享楽。人間を現実原則に従わせる種。象徴界という人間に特徴的な機能を発達させた一因。ファルス的享楽の裏の顔。「死の欲動が超自我の原因である」という表現が示す本質。
要するにこういうことだ。社会は、ユートピアへの過程として、その不動さを感じさせる。またpikarrr氏の記事になって悪いが(すまんストーキングしてる)、この記事で述べられている「固さ」に当たるだろう。それがその主体に享楽的(外傷的)に認知されれば現実感を生む。これは、阿部定が「定、石田の吉二人キリ」という不動さに感じた現実感と、その種としての享楽は、現実界との離接ポイントは、同じものなのである。この視点を取るならば。
わたしはそう思っている。暴論的に。
……いやそれはどうだろ?
思ってないかもしれない。正直わからない。
ただ、それは、象徴的ファルスとは関連しているかもしれないが、象徴界とは別物である、ということだけ。完全に別物とは言い切れないけど。パロールじゃなくエクリチュール的な象徴界っぽくはある。パロールとエクリチュールならエクリチュールの方が「固い」っしょ? だけど象徴ではない。むしろ、象徴界に穴が開いてしまうことに関連している、のか。
生々しさは、多神教の専売特許じゃない。一神教の唯一神にも、不動的な生々しさはある。「否定」を司る神としての、生々しさ。
その生々しさを隠しちゃうのが精液だけどね。
むしろこの穴から、精液が飛び散っていく。
まーそういうこと。
最近なんかライトノベル風な文章を書いてみたい。妙に。
キモイの書きたい。すごく。
一般的なキチガイのキモさじゃなくて、定型発達のキモさを真似てみたい。ばれないように。一応役者やってたんだぞ! みたいな。
なんていうか、奈須とか上遠野とか本人のに限らず、それに影響受けたいかにも中二病っぽいジャキガン系文化とここでは言ってみるけれど、それってむしろ一種の否定神学だよなあ、ってオモタ。本気な(妥協してない)子ほど。わたしたちから見れば「ジャキガンw」なんだけど、そういう態度さえも否定神学っぽくなる。本気な子に対しては。そっち系の子ほどラカン論っぽい。なのでわたしは中二病擁護派。ええ大人が中二病ぶるのはケツ蹴り上げるがな。んなの『フリ』だ『フリ』。
彼らにとってはなんらかのちっぽけではあるかもしれないけど現実感があるのかもねえ。ジョジョのスタンドみたいな系統も。
圧倒的さ、か。
社会が持つ圧倒的さ。
不動の享楽を種とし、アガペーや人間愛を芽とし、シニフィアン連鎖を根や枝とし、精液を養分とし、構築された圧倒的さ。繁茂した森。ヘーゲル的止揚により、高く高く伸びた木々。
ポスト・フェストゥム的な圧倒的さ。社会という実体が持っていて、社会という概念には存在しない現実感の原因。
わからなくもないんだな。本場オペラのスタッフやってた身からすると、そういったポスト・フェストゥム的な、建築的な圧倒的さって。客席で見るよりその生々しい圧倒的さが眼前する。高層ビルも、乱立してそれが日常となってしまうと、圧倒的さは失われる。
その圧倒的さまでをもぼかしてしまうのが精液です。
「父の名」の生々しさは、むしろ精液によって隠蔽されるのです。
定型発達者たちは、それが精液だと気づかないから。
ジャキガンな子たちも、精神年齢史的にそういう時期なのかもしれないけど、精液に塗れたがっている。精液に塗れたがる度合いが大人より強い故、それが精液かもしれないと薄々感づいてしまう。
この微妙な加減を、そのジレンマを、長く生きてしまうと、斎藤環が分析した九十年代のオタクたちの「斜に構えた熱狂」という妥協点を見出すのかもね。
パラノイアックな正常という神経症的狂気に、ある程度は馴染んでいるけど、大人になるまで、一般より馴染めなかった神経症者たち? 精液に薄々感づいていたことを、大人になっても、引きずっている人たち?
……やっぱいいや。キモイものはキモイ。キモイと思わず書ける人いっぱいいるんだし。
素で大人になれない人間が、大人になれているのに大人になれないフリをする人間を演じるのって、すげえ難しいのかもね。
よくわからんけど。
キモイのが好き。好きというか、わたしに引っかかってくる。なので事後的に判断して、「好き」という言葉が当てはまるだろうか、と疑問を持ちながら言う「好き」。実際は好きじゃない。不快なのは不快だ。アルトーもキモイ。笙野頼子もキモイ。二階堂奥歯もキモイ。金原ひとみもキモイ。自閉症者もキモイ。でも、それぞれ違うキモイ。それぞれが独立したキモイ。定常独立的なキモイ。
そういうキモイとは、全然違う。今のオタク文化は。
一つに括ってキモイ。一つに括られてしまうところがキモイ。
お互いが、滅茶苦茶相関しまくってて、キモイ。
精液に塗れ過ぎている。
定型発達者過ぎる。
自我や超自我が強過ぎる。快楽原則や現実原則が強過ぎる。
正直、現実がどうとかどうでもいい。そんなの関係ない。
わたしは、定型発達者の存在が、死ぬほど不快なのだ。殺意を覚えるほど。
ある自閉症者が言った。
「定型発達者は八割死ね」
本当にそう思う。全員死ねとは言わないし、根絶やしにできるわけがないと思うから、八割でいい。
指や唇とかは
嘘を見抜くのが下手
羨ましいくらいに信じる
今この瞬間のわたしがあなたを信じても、一分後のわたしや一分前のわたしがどうなのかはわからない。
責任持てない。
だって指や唇とかだから。
それが、わたしの、アガペーではない、愛。
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