解離性同一性障害(笑)
2008/08/26/Tue
TENVIやってます。
オープンベータでBANとか、今まで比較的大人しい(マイナーな?)ネトゲしかやってこなかったわたしにとってはなかなか刺激に満ち溢れたゲームです。
中身はすげーマゾいけど。やっとレベル11とか。
ノーステイルがいいかなーやっぱ。周り静かだし。
多重人格っておかしいよね。
部分対象じゃないもん。ちゃんと人格がある。
だからわたしは多重人格は解離性障害+パラノイアだと思っている。要するに、激しくポスト・フェストゥムだと思う。
でもまあ、ジャキガンな年頃だと、ファルスが不安定になっているってのはここでも述べたけど、そういうのはかるーくアンテ・フェストゥム入ってる気がしなくもない。
恐怖症も、幼児性のそれ、あるいは高所恐怖症とか尖端恐怖症とかと、視線恐怖症や対人恐怖症(赤面恐怖症)はまるっきり構造が違うと思う。前者は明らかに恐怖の対象に人格とか人間的なるものが関わっていない。後者は明らかに人格とか人間的なるものによって引き起こされている症状だ。視線恐怖症は人格形成の主原因(とラカン論においてはなる)であるまなざしを怖れている。そういう違い。「ポスト・フェストゥム/アンテ・フェストゥム」の区分に乗っ取るならね。
だから多重人格も一概にどっちだとは言えないけど、傾向的にはポスト・フェストゥムが多いんじゃないだろうか。
正直、わたしは理解できない。
空想とはいえ人格に救いを求める思考回路が。
むしろわたしの知らない人格とか、ドッペルゲンガーだ。わたしは怖い。そんなのが救いになるのかがわからない。
アガペー主義、人格主義なんだよね。結局こやつらも。
愛で治療されてればー? って思う。
要するに、解離性同一性障害の症状は、統合失調症者などが感じる「(ラカン的な意味での)現実的な幻覚妄想」とは別物であり、どっちかって言うと正常人と同系列の幻覚妄想だってこと。統合失調症者のそれが「原初的な幻想」であるならば、解離性同一性障害のそれは「理想的な幻想」とでも言えばいいか。ほれ、もろパラノイア。
正常人って要するに「人格とはパラノイアである」ところの神経症者なわけだから、解離性障害+パラノイア。
きめえwww
『愛していると云ってくれ』by中島みゆき。
愛とか、言えない。わたしは。
精神分析という科学からの視点を取らなければ、愛を語れない。
そうしないと、また精液をぶっかけられてしまう。
精液で窒息してしまう。
この記事とかで思いっきりキチガイ擁護してるけど、キチガイであればいいって話じゃないのよ、という釘刺しです。
「定型発達という精神障害」者にはピンとこねえかもしれねえけどな。
……という文章書いてボツにしたけれどなんかこういう記事とこういう記事が対比されていたので載せてみることにしました。
正直わからない。多重人格とか。
少なくともわたしがここで述べている「キチガイ」には当てはまらないとだけ。
あとアリスさんのコメントに突っ込むならば、自閉症者のエコラリア・エコプラクシアと、定型発達者の超自我・自我は別物だと思う。それはラカン論で言うならば、サントーム的なものとファルスに制御されたS2群の違い。だから、定型発達者視点の言い方をするならば、自閉症者は自我や超自我が「壊れている」と考えなければならない。その知識群に軸がないかあるか。「軸」と「柵」の違い。「軸」があるのが定型発達者。引用する。
=====
自意識の強い人間がスポーツ的な勝敗として理屈を用いるのに対し、自意識の弱い人間は、自分という流動的な領域を防衛するためのブイとして、理屈を好むのだ。自意識は象徴的ファルスによって発生するわけで、ファルスをサンボリックの「軸」(ラカン用語ならS1)と見做すならば、「軸」がある結果としての理屈か、「軸」がない故仮設する「柵」(ラカン用語なら第四の輪たるサントーム)としての理屈か、の違いである。
=====
わたしはこの「軸」があることを固定観念と呼んで、何故「定型発達という精神障害」は、その自我や超自我がこの固定観念に縛られているのか、という思考をしているわけです。そうすると人格主義やら(クリステヴァ論で言う)アガペーやら(ラカン論で言う)まなざしに行き着いた、という流れ。
要するに自我や超自我なんて概念そのものが定型発達者のそれに依拠している、ということ。
それらの概念にぶら下がる言葉を見ていけば、必然的に定型発達バンザーイになってしまう。「非定型発達者は定型発達者化されるべきだ、わたしたちの「愛」や「思い遣り」や「気遣い」によって」という、帝国主義が「この地を豊かにするために植民地化したのである」と述べるのと同じ論理に行き着いてしまう。それは理屈的にそういう道筋が既につけられている。自閉症者のそれを自我や超自我と表現した時点で、既に帝国主義的な暴力が働いている。それらにぶら下がる言葉たちによって。
つまり、それを超自我と表現してしまった時点で、ドナの述べる
=====
だが決して、わたし自身が世の中をどう見ているかを理解しようとは、してくれなかった。彼らにとっての世の中は、まさにシンプルきわまりないもののようだった。
=====
の「彼ら」に当てはまっているのだ。
定型発達者は「軸」を持っているから「シンプルきわまりない」という表現をされている、などとも言えるかもしれない。
だから、わたしはあえてこう言う。「非定型発達者は自我や超自我が壊れている」と。
となると、自我や超自我とは別物の、絶対的未知であり到達不可能な現実界という領域を設置したラカン論に必然的に行き着いちゃうわけです。
そんな感じですー。
オープンベータでBANとか、今まで比較的大人しい(マイナーな?)ネトゲしかやってこなかったわたしにとってはなかなか刺激に満ち溢れたゲームです。
中身はすげーマゾいけど。やっとレベル11とか。
ノーステイルがいいかなーやっぱ。周り静かだし。
多重人格っておかしいよね。
部分対象じゃないもん。ちゃんと人格がある。
だからわたしは多重人格は解離性障害+パラノイアだと思っている。要するに、激しくポスト・フェストゥムだと思う。
でもまあ、ジャキガンな年頃だと、ファルスが不安定になっているってのはここでも述べたけど、そういうのはかるーくアンテ・フェストゥム入ってる気がしなくもない。
恐怖症も、幼児性のそれ、あるいは高所恐怖症とか尖端恐怖症とかと、視線恐怖症や対人恐怖症(赤面恐怖症)はまるっきり構造が違うと思う。前者は明らかに恐怖の対象に人格とか人間的なるものが関わっていない。後者は明らかに人格とか人間的なるものによって引き起こされている症状だ。視線恐怖症は人格形成の主原因(とラカン論においてはなる)であるまなざしを怖れている。そういう違い。「ポスト・フェストゥム/アンテ・フェストゥム」の区分に乗っ取るならね。
だから多重人格も一概にどっちだとは言えないけど、傾向的にはポスト・フェストゥムが多いんじゃないだろうか。
正直、わたしは理解できない。
空想とはいえ人格に救いを求める思考回路が。
むしろわたしの知らない人格とか、ドッペルゲンガーだ。わたしは怖い。そんなのが救いになるのかがわからない。
アガペー主義、人格主義なんだよね。結局こやつらも。
愛で治療されてればー? って思う。
要するに、解離性同一性障害の症状は、統合失調症者などが感じる「(ラカン的な意味での)現実的な幻覚妄想」とは別物であり、どっちかって言うと正常人と同系列の幻覚妄想だってこと。統合失調症者のそれが「原初的な幻想」であるならば、解離性同一性障害のそれは「理想的な幻想」とでも言えばいいか。ほれ、もろパラノイア。
正常人って要するに「人格とはパラノイアである」ところの神経症者なわけだから、解離性障害+パラノイア。
きめえwww
『愛していると云ってくれ』by中島みゆき。
愛とか、言えない。わたしは。
精神分析という科学からの視点を取らなければ、愛を語れない。
そうしないと、また精液をぶっかけられてしまう。
精液で窒息してしまう。
この記事とかで思いっきりキチガイ擁護してるけど、キチガイであればいいって話じゃないのよ、という釘刺しです。
「定型発達という精神障害」者にはピンとこねえかもしれねえけどな。
……という文章書いてボツにしたけれどなんかこういう記事とこういう記事が対比されていたので載せてみることにしました。
正直わからない。多重人格とか。
少なくともわたしがここで述べている「キチガイ」には当てはまらないとだけ。
あとアリスさんのコメントに突っ込むならば、自閉症者のエコラリア・エコプラクシアと、定型発達者の超自我・自我は別物だと思う。それはラカン論で言うならば、サントーム的なものとファルスに制御されたS2群の違い。だから、定型発達者視点の言い方をするならば、自閉症者は自我や超自我が「壊れている」と考えなければならない。その知識群に軸がないかあるか。「軸」と「柵」の違い。「軸」があるのが定型発達者。引用する。
=====
自意識の強い人間がスポーツ的な勝敗として理屈を用いるのに対し、自意識の弱い人間は、自分という流動的な領域を防衛するためのブイとして、理屈を好むのだ。自意識は象徴的ファルスによって発生するわけで、ファルスをサンボリックの「軸」(ラカン用語ならS1)と見做すならば、「軸」がある結果としての理屈か、「軸」がない故仮設する「柵」(ラカン用語なら第四の輪たるサントーム)としての理屈か、の違いである。
=====
わたしはこの「軸」があることを固定観念と呼んで、何故「定型発達という精神障害」は、その自我や超自我がこの固定観念に縛られているのか、という思考をしているわけです。そうすると人格主義やら(クリステヴァ論で言う)アガペーやら(ラカン論で言う)まなざしに行き着いた、という流れ。
要するに自我や超自我なんて概念そのものが定型発達者のそれに依拠している、ということ。
それらの概念にぶら下がる言葉を見ていけば、必然的に定型発達バンザーイになってしまう。「非定型発達者は定型発達者化されるべきだ、わたしたちの「愛」や「思い遣り」や「気遣い」によって」という、帝国主義が「この地を豊かにするために植民地化したのである」と述べるのと同じ論理に行き着いてしまう。それは理屈的にそういう道筋が既につけられている。自閉症者のそれを自我や超自我と表現した時点で、既に帝国主義的な暴力が働いている。それらにぶら下がる言葉たちによって。
つまり、それを超自我と表現してしまった時点で、ドナの述べる
=====
だが決して、わたし自身が世の中をどう見ているかを理解しようとは、してくれなかった。彼らにとっての世の中は、まさにシンプルきわまりないもののようだった。
=====
の「彼ら」に当てはまっているのだ。
定型発達者は「軸」を持っているから「シンプルきわまりない」という表現をされている、などとも言えるかもしれない。
だから、わたしはあえてこう言う。「非定型発達者は自我や超自我が壊れている」と。
となると、自我や超自我とは別物の、絶対的未知であり到達不可能な現実界という領域を設置したラカン論に必然的に行き着いちゃうわけです。
そんな感じですー。
スポンサーサイト