夢日記
2008/08/29/Fri
わたしは夢日記をつけている。
つけていると言っても、残っているのはノート数冊程度だ。大体高校生以降のもの。
毎日つけているわけではない。印象が強烈だったものだけを記す。いや、強烈さも関係ないかもしれない。とにかく自分がつけようと思った日だけつける。
高校生以前からつけてはいたのだが、イラスト帳に書いたり、雑記帳のようなものに思い出したように綴ったりと、資料としては散乱している。
このブログにも夢を記した記事はぼつぼつあるが、そのせいか最近はノートに書きつけることはほとんどない。「日記」と呼べるようなものではない。ここに書いてあるのは、多少なりちょこまかと脚色したりすることもあるが、それが意外と楽しいことに気づいた。
そんなこんなで、夢用のノートは今は数冊しか残っていない。
「誰か偉い作家が夢日記をつけて、創作のモチーフにしているらしい。じゃあわたしもつけてみよう」
とか、
「夢には心の真実が隠されている。毎日つければ自分の心の真実がわかるかもしれない」
などといった強迫観念めいたものがないので、あっさり捨ててしまう。
わたしが夢を記すようになったのは、もっと実用的な目的からだった。
わたしは子供の頃、夢と日常的現実を混同する傾向が強かった。
たとえば、わたしの家の周りだけが突然崩壊する。崩壊した瓦礫は空に落ちる。実験でやった細かく切った折り紙の中に放り込まれた蓑虫が作る蓑のような皮膚をした人間たちが、空を覆う廃墟の中、無数に歩き回っている。そんな夢を見たとする。
朝起きると、怖くて外に出られなくなる。「空から人が落ちてくる」みたいなことを口走る。
これで実際に大地震が起きたりしたならちょっとした予知能力なのだが、現実はそううまく行ってくれない。
また、初めて幼稚園に登園する時大泣きしたのも、前日見た夢と現実の風景がまるっきり違ったからだ。後付けの記憶かもしれないが、そう思う。
夢と日常的現実が混同するのは、幼児には結構見られることだ。しかしわたしの場合、中学生になっても、混同するとまではいかないが、夢の名残が現実にこびりついているような感じが常にあった。
たとえば、小学校の頃の先生が、夢の中で先生として出てきたなら、現実の中学校で、
「あれ? なんであの先生いないんだろう?」
とか思ってしまう。
さすがに中学生にもなれば、そんなことを思う自分がおかしいというのは気づく。なので誰にも喋らない。しかし気がつかないうちに口走ってしまうかもしれない。ならば、夢は夢として書き記しておけば、日常との違いは意識できるだろう。そういう考えで、夢を記していたわけだ。
効果はそこそこあったように思う。そこに描かれた事柄は夢だと自分が覚えれば、記したものは必要なくなる。従って、古くなったら普通に捨てる。
夢を記すようになってわかったのだが、わたしの夢は他の人が見る夢とまるで毛色が違う。今でも筒井康隆の『パプリカ』などを読むと、少なくとも筒井が見ている夢とは全く印象が違うんだろうなあ、と思う。
その一方、少女マンガなどで好きな男の子とらぶらぶちゅっちゅした夢を見て現実にその子と会って照れてしまう、なんてシーンがあるが、それの重篤な例だろう、などと自分勝手に決めつけて安心している。
赤ん坊が「テイク&テイク」だあ?
アホか。
(少なくとも鏡像段階以前の)赤ん坊は「デストロイ&デストロイ」だ。悪い乳房を糞便爆弾で破壊するのだ。クライニアンよ立ち上がれ。
未去勢なわたしは、実感を込めてそう言える。
ですとろーい!
コメントいただいた某さんへ。
そういうわけで未去勢な領域は気軽にお話できるものではないということです(言い訳で利用してみた)。
もし、未去勢的な、たとえば「世界に存在することへの違和感」から脱するという意味での「生きやすさ」なら、そりゃームリ、としか言えません。最近は薬物療法も進歩していますし、そういうものに頼らざるを得ないでしょう。
冷たいようですが、それが事実です。
つけていると言っても、残っているのはノート数冊程度だ。大体高校生以降のもの。
毎日つけているわけではない。印象が強烈だったものだけを記す。いや、強烈さも関係ないかもしれない。とにかく自分がつけようと思った日だけつける。
高校生以前からつけてはいたのだが、イラスト帳に書いたり、雑記帳のようなものに思い出したように綴ったりと、資料としては散乱している。
このブログにも夢を記した記事はぼつぼつあるが、そのせいか最近はノートに書きつけることはほとんどない。「日記」と呼べるようなものではない。ここに書いてあるのは、多少なりちょこまかと脚色したりすることもあるが、それが意外と楽しいことに気づいた。
そんなこんなで、夢用のノートは今は数冊しか残っていない。
「誰か偉い作家が夢日記をつけて、創作のモチーフにしているらしい。じゃあわたしもつけてみよう」
とか、
「夢には心の真実が隠されている。毎日つければ自分の心の真実がわかるかもしれない」
などといった強迫観念めいたものがないので、あっさり捨ててしまう。
わたしが夢を記すようになったのは、もっと実用的な目的からだった。
わたしは子供の頃、夢と日常的現実を混同する傾向が強かった。
たとえば、わたしの家の周りだけが突然崩壊する。崩壊した瓦礫は空に落ちる。実験でやった細かく切った折り紙の中に放り込まれた蓑虫が作る蓑のような皮膚をした人間たちが、空を覆う廃墟の中、無数に歩き回っている。そんな夢を見たとする。
朝起きると、怖くて外に出られなくなる。「空から人が落ちてくる」みたいなことを口走る。
これで実際に大地震が起きたりしたならちょっとした予知能力なのだが、現実はそううまく行ってくれない。
また、初めて幼稚園に登園する時大泣きしたのも、前日見た夢と現実の風景がまるっきり違ったからだ。後付けの記憶かもしれないが、そう思う。
夢と日常的現実が混同するのは、幼児には結構見られることだ。しかしわたしの場合、中学生になっても、混同するとまではいかないが、夢の名残が現実にこびりついているような感じが常にあった。
たとえば、小学校の頃の先生が、夢の中で先生として出てきたなら、現実の中学校で、
「あれ? なんであの先生いないんだろう?」
とか思ってしまう。
さすがに中学生にもなれば、そんなことを思う自分がおかしいというのは気づく。なので誰にも喋らない。しかし気がつかないうちに口走ってしまうかもしれない。ならば、夢は夢として書き記しておけば、日常との違いは意識できるだろう。そういう考えで、夢を記していたわけだ。
効果はそこそこあったように思う。そこに描かれた事柄は夢だと自分が覚えれば、記したものは必要なくなる。従って、古くなったら普通に捨てる。
夢を記すようになってわかったのだが、わたしの夢は他の人が見る夢とまるで毛色が違う。今でも筒井康隆の『パプリカ』などを読むと、少なくとも筒井が見ている夢とは全く印象が違うんだろうなあ、と思う。
その一方、少女マンガなどで好きな男の子とらぶらぶちゅっちゅした夢を見て現実にその子と会って照れてしまう、なんてシーンがあるが、それの重篤な例だろう、などと自分勝手に決めつけて安心している。
赤ん坊が「テイク&テイク」だあ?
アホか。
(少なくとも鏡像段階以前の)赤ん坊は「デストロイ&デストロイ」だ。悪い乳房を糞便爆弾で破壊するのだ。クライニアンよ立ち上がれ。
未去勢なわたしは、実感を込めてそう言える。
ですとろーい!
コメントいただいた某さんへ。
そういうわけで未去勢な領域は気軽にお話できるものではないということです(言い訳で利用してみた)。
もし、未去勢的な、たとえば「世界に存在することへの違和感」から脱するという意味での「生きやすさ」なら、そりゃームリ、としか言えません。最近は薬物療法も進歩していますし、そういうものに頼らざるを得ないでしょう。
冷たいようですが、それが事実です。
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