対象aという真理
2008/08/31/Sun
この記事で、「サバルタンのディスクール」なるものを定式化した。再掲する。
S → S1
―― ――
対象a
斜線の取れた(即ち去勢されていない)Sが能動者に来ている。
では、Sは他の位置に立つことができるのだろうか。
ディスクールの定式は、他者の位置に来るものが、日常的現実における他人とは限らない。自分の中の他者、他我でも構わない。要するに自問自答にもディスクールの定式は当てはまるということだ。
そう考えるならば、Sが他者の位置に来ることはあり得ない。何故なら、他者そのものが、去勢によって生じるものだからである。
では、先の式における対象aの位置、即ち真理の位置にSが来ることはあるのか。
それもないのである。
何故なら、真理と能動者を区分すること自体が去勢という過程だからである。むしろ、真理と能動者を区切る横棒が曖昧なのが、未去勢な主体の主観世界なのである。
では、サバルタン(ここでは斜線が壊れた/Sという意味でSと表記しているが)にとってディスクールは成立しないのか。
原則しないのである。
しかし、彼らにも定型発達的な部分が、かろうじて残っている。その時、彼らは「語ろうとする」だろう。その時、彼らにとって真理になるのが、対象aなのである。
彼らは、対象aを、仮にかもしれないが信じて、あるいは求めて、語るのである。
彼らは、ライナスの毛布や、阿部定が切断したペニスや、二階堂奥歯にとってのぬいぐるみや、戸川純作詞『12階の一番奥』の「嘘を見抜くのが下手」な「指や唇とか」や、『アンチ・オイディプス』が固執する「機械」の部品や、自閉症者が日がな一日くるくる回す歯車や、それらを真理として、語るのである。
ヒステリックに。
サバルタンのディスクールは、鏡像段階のリアルな顕現なのだ。
S → S1
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対象a
斜線の取れた(即ち去勢されていない)Sが能動者に来ている。
では、Sは他の位置に立つことができるのだろうか。
ディスクールの定式は、他者の位置に来るものが、日常的現実における他人とは限らない。自分の中の他者、他我でも構わない。要するに自問自答にもディスクールの定式は当てはまるということだ。
そう考えるならば、Sが他者の位置に来ることはあり得ない。何故なら、他者そのものが、去勢によって生じるものだからである。
では、先の式における対象aの位置、即ち真理の位置にSが来ることはあるのか。
それもないのである。
何故なら、真理と能動者を区分すること自体が去勢という過程だからである。むしろ、真理と能動者を区切る横棒が曖昧なのが、未去勢な主体の主観世界なのである。
では、サバルタン(ここでは斜線が壊れた/Sという意味でSと表記しているが)にとってディスクールは成立しないのか。
原則しないのである。
しかし、彼らにも定型発達的な部分が、かろうじて残っている。その時、彼らは「語ろうとする」だろう。その時、彼らにとって真理になるのが、対象aなのである。
彼らは、対象aを、仮にかもしれないが信じて、あるいは求めて、語るのである。
彼らは、ライナスの毛布や、阿部定が切断したペニスや、二階堂奥歯にとってのぬいぐるみや、戸川純作詞『12階の一番奥』の「嘘を見抜くのが下手」な「指や唇とか」や、『アンチ・オイディプス』が固執する「機械」の部品や、自閉症者が日がな一日くるくる回す歯車や、それらを真理として、語るのである。
ヒステリックに。
サバルタンのディスクールは、鏡像段階のリアルな顕現なのだ。
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