待っても春など来るもんか
見捨てて歩き出すのが習わしさ
北の国の女にゃ気をつけな
いや、わたしゃ南だけどさ。南北でゆったら。
「三大ネクラ女性歌手」なんて若い子は知らないだろうな。わたしも谷山浩子のエッセイでそう呼ばれていることを知っただけで、リアルタイムでは知らない。……と若ぶっておこう。
まあ、どきっとしたよ。山崎ハコを除く二大ネクラ歌手のCDばっか持ってたんだから。
中島みゆきも谷山浩子も、暗い。じめじめしている。谷山の作品世界における暗黒面については
この記事で触れた。
とはいえ、谷山の方に顕著な傾向だが、明るい、あるいは優しい、あるいは希望に満ちた、あるいはパステルカラーな曲だって、それぞれにぱらぱらとある。わたしはそういった、正負で言えば正の面を強調しているような曲は、あまり好きじゃなかった。中島のも谷山のも、そうじゃない曲でも。
ただ、この正負の判定は単純なものではない。たとえば冒頭の
『北の国の習い』という中島の曲も、曲調は軽快であっけらかんとしたものだ。正的なものである。
しかし、そこで歌われている世界は、ぞっとするものだ。
「見捨てて歩き出すのが習わしさ」
などという語句は、未来に歩き出すような、正的なイメージを連想しがちだ。ところが、歩き出した先は
「排気ガスで眠って死ぬかい」
という世界である。
待っても春など来ない世界を見捨てて、心中へ、死へと歩き出す、という歌なのだ。だから北の国の女には気をつけなければならないのだ。
待っても春など来ない世界を、我慢強く生きられる南の女について言及する時の北の国の彼女は、
無意味な笑みを浮かべているように、わたしには思える。死の許しを与える笑み。乾いた笑み。ミユキストならば、オールナイトニッポンのけらけら笑いを連想するとよい。谷山のANNはあんまそんな感じはなかったな。さしずめ谷山は南の女ってことになろうか(
今調べたら東京生まれらしい)。
蛇足になるが、この「北の女/南の女」という二項対立を考える際、車谷長吉の直木賞受賞作
『赤目四十八瀧心中未遂』が、よい補助線となるだろう。ネタバレになるので詳しくは書かないが、ヒロインは南の女であることがわかる。春など来ない世界を見捨てず、死へと歩き出さない女。っていうか舞台が関西だしな。ヒロインの行き先もさらに南だし。……ふむ、おもしろい。
ともかく、これらのことを総合的に判断して、(わたしにとって)この曲は負的なものである、となる。
とはいえ、(わたしが勝手にそう思っている)正的なイメージの曲でも、好きなのは結構ある。中島も谷山も。
谷山のなら『パジャマの樹』や『カントリーガール』(どんでん返しがある新ver.の方)など、恥ずかしくてリアルではあまり言えないようなことだが、好きだ。
中島なら、『あした』や『with』などが、わたしにとって正的な曲である。『あした』は近所のフィリピーナホステスどもが何故か異様に好きで、微妙な気持ちになったことすらある。
『with』については、自分で自分の嫌いな範疇に入る曲だとわかっているのに、普通に覚えてしまい、知らぬ間に口ずさむほどだった。だから「好き」なのだろう、と事後的かつ他人事的に判断しているだけである。
中学生時代書き散らかしていた駄文の一人称は「僕」が多かったのだが、単純にそんなことが関係しているのかもしれない。しかし、普通の男子がこんな歌詞を書いてたら後ろからスリッパで頭をひっぱたきたくなるのは本音としてある。かといって、思春期女子が一時期熱病のように罹る「ボクッコ病」における「ボク」とは別物だと当人は思っている。中島が『with』や『命の別名』で使っている、谷山なら『窓』で使っている「僕」の方が近い。というかそういう意味でわたしは「僕」を使っていた。まあ模倣と言えばそうなんだけど、言い訳ついで少し詳しく述べておくなら、わたしの使う「僕」はボクッコたちの「ボク」より泥臭く、みじめで、雑然としている。一方、ボクッコたちの「ボク」はさっぱりしていて、スタイリッシュである。わたしの「僕」は、ロカビリー(笑)というかハングリー(笑)というか、『リングにかけろ』(星矢ではダメ)や『漂流教室』や香港ノワールや、近所にショッピングセンターができてうらびれてしまった下町商店街のような臭いを漂わせている(漂わせたい)「僕」だった。今思うとこの「僕」が高じたのがアルトーであるような気すらしてくる。
とりあえず、
『with』の歌詞をリンクしておこう。
「with そのあとへ君の名を綴っていいか」
などという言葉は、わたしがある自閉症者のテクストについて評した
「宛先のない手紙」を連鎖させてもおもしろいだろう。気が向いたのでそれについて垂れ流してみる。
『with』の「僕」は、宛先に名前を記入することがよいことだと知っている。彼は、なんらかの理由で宛先の文字を抹消されたのだが、一度は誰かの名を記入したことがあり、それが自分自身にとってよいものであったことを知っている。
ここが、わたしが疑問に思うところである。
わたしは自閉症者と異なり文脈は読める。むしろ正常人を含めた一般で考えても、読解力はある方だと思える。そんなわたしの文脈読解によるならば、周りの子たちは、宛先に誰かの名を記入して生きていることは理解できる。試しにわたしも書いてみたりする。しかしそこに書かれた名は、にわかにゲシュタルト崩壊を起こす。わたしは、宛先に誰かの名を記入することの、withの後に誰かの名を綴ることの、メリットがよく理解できないのだ。
いや、理解できないことはない。宛先に名を記入した方が、コミュニケーションの精度が上がることはよく理解できている。従ってわたしはその場その場でさまざまな名をそこに記す。それは事務的な行為だ。わたしにとっては、建築の基本設計における大まかな予算の割当に近いものである。コミュニケーションの効率化のためにやっているのであり、今ではむしろ、事後の収集のめんどくささが感情的に先に立つ。たとえば、このブログの初期は、実は意図的にジャーゴンを避けていた、つまりわかりやすく述べようとしていたところがある。最近はめんどくさくなって(っていうかそういう暗黙の強制そのものがうざい)わかりやすい言葉への換言はしなくなっている。わたしの頭の中に浮かんだ言葉を、ジャーゴンだろうがそうでなかろうが、浮かんだまま書きつけている。即興芝居のようなものである。質問されたら解説するのにやぶさかではないが、他人に頭の中を指図される謂れはない。
一方、周りの子たちのそれは、何かが違う。メリットという意味では同じなのだが、実体が違うように思える。わたしの「宛名の記入」は事務的な効率目的のものであるのに対し、周りの子たちのそれは性的快楽のような臭いを漂わせている。ここで言う「文脈を読むこと」とは、現代風に言い換えるなら「空気を読むこと」である。従って、周りの多くの子たちは、空気を読むことに、あたかも性的な快楽を感じているように見える、となる。もちろんこんな表現は中高生当時は使えなかった。セックスの快楽を覚えた今だからこそこんな喩えができるだけである。「建築の基本設計における大まかな予算の割当」という比喩も同様である。
表現としては事後的なものである故、いまいち自分でも納得しきれていない文章なのは確かである。ではあるが、微妙で些細な、だけど無視できない、靴の中にちっちゃな棘が入っているがごとき違和感を感じていたのは事実である。
余談になるが、この違和感をもっともわかりやすいイメージで示していると思え、最近好んで参照しているテクストが、
『自閉症の謎を解き明かす』(p282)に示されたルーシー症例である。これは、自閉症のそれと対比させる目的で、定型発達者の、即ち宛先に何かしらの名が常に記入されている人々のコミュニケーションの様態を示した仮想症例であるが、わたしは定型発達(即ち正常であること)も立派な精神障害であると考えているため、独立した症状としてこれを取り扱っている。ここには、わたしの癇に障るツレション好きなメス犬ども(
ここのコメント欄参照)のスケッチが見事に描かれている。
また、「淋しさと虚しさと疑いとのかわりに」という言葉には、
前記事の
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問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずることが最も少ないひとたちなのである。
(『アンチ・オイディプス(宇野邦一訳)』上巻p206)
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というテクストを関連づけてもよかろう。
これについては、
「自意識の弱い人=懐疑したがり屋、懐疑して「しまう」傾向の強い人たち」としたわたしの論を参照するとよい。ここで言う「キチガイ」は、統合失調症やスキゾイドや自閉症などといった限定的な定義にしているが、「自意識の弱い人」とは、それに「大人と比した場合の子供」や「男性と比した場合の女性」などを含めた少し広い範囲を射程にしているだけであり、「キチガイ/正常人」=「自意識の弱い人/自意識の強い人」=「ファルスに不具合がある人/ファルスに不具合がない人」=「未去勢的な人/去勢済みな人」という、(論理的二項対立で考えれば)同じ差異を示している。ここでは短絡的に同じ意味だと考えてもらってよい。
そう考えるとこの歌詞は、自意識の弱い人がおそるおそる自意識を強めようとしている、即ち、キチガイがおそるおそる正常人へと治療されようとしているテクストである、などという解釈も可能だろう。
後、これは余談めいた話だと思ってくれて構わないが、「ひとりきり笑うことはできない」という言葉は、『北の国の習い』の歌詞のよって否定されると、わたしは考える。ひとりきりの笑いこそが、北の女が浮かべる無意味な笑み、乾いた笑み、死の許しを与える笑みであるように、わたしには思える。
まとめよう。
この歌詞における「僕」は、withの後に名を綴ることが、性的とは言わないがなんらかの(ラカン論における享楽ではない)快楽となることを知っているように思える。
『ふたりは』なども同様の臭いがするが、「与えあう何も残ってはいないけどもう二度と傷つかないで」というくだりなどは、『with』より享楽的に思える。だけどわたしはそれも快楽だとうがった見方をしてしまう。要するに、物足りない。
『新曽根崎心中』などは、もろに「心中」というシニフィアンを使っているため、享楽の臭いと言うより享楽をテーマにしているのだな、と頭で思ってしまう。従って自動的に負的な作品に分類される。
『with』については、享楽ではなく快楽であることに、わたしは微妙な違和感を感じてしまう。
加えて、「自意識が弱い(懐疑したがり屋な)」即ち「未去勢的な」「僕」ではなく、「自意識が強い(確信したがり屋な)」即ち「去勢済みな」「僕」を、それこそなんの疑いもなく選択しようとしているところも、むずむずと引っかかってくる。「ほんとにそれでいいの? 疑いたがりな、淋しがりな虚しくなりたがりな自分を、ちゃんと始末できるの?」と突っ込みたくなる。
これらが、わたしが『with』という作品を正的なものと判断している理由である。
それなのに、わたしはこの曲を気に入っているらしいのだ。「らしい」なんてこそばゆい言い方をしなくてもいい。わたしは『with』という曲が気に入っている。
理由はよくわからない。靴の中に入っているちっちゃな棘など当然取り除きたいに決まっている。なのに、そのまま歩きたがっているようなものである。
現実世界は、棘だらけだ。
クサマヤヨイの『A Gateway to Hell』のごとく、無数のちっちゃなちんちんが勃起しまくっている世界だ。
だがわたしは、その棘全てを、ちっちゃなちんちん全てを排除したい、とは思わない。
何故ならわたしはその棘に、ちっちゃなちんちんに刺される痛みを、ささやかな「正しさ」の根拠となるファルスを、時と場合によって、求めることがあるからだ。
『with』はたまたまその場合に当てはまっただけである、とも言える。
この靴の中のちっちゃな棘は、少なくとも群れていない。加えて、わたしは所有しているつもりはないのに、わたしが所有していることになる。システマティックに所有している。
非常に無責任で自分勝手だと自分でも思えるこういった要素の積み重ねが、この正的な作品を好きにならせたのかもしれない。
話は変わるが、わたしの個人的語用における「キチガイ」には、パラノイアックなBPDは含まれない。真性パラノイアならば別だが、範囲としては統合失調症、スキゾイド、自閉症などが代表となる領域である。即ち未去勢者である。
そういった意味範囲で述べるならば、中島と谷山の作品を比較した場合、(本人がどうであるかは保留して)谷山の作品の方が、キチガイだと、未去勢的だと思える。簡単に言えば、谷山の方が幼児的で中島の方が大人である、ということであり、一般的なイメージとも齟齬はないだろう。
だからと言って、谷山の方が好き、あるいは中島の方が好き、などというわけではない。両方とも独立した作品群として好きである。ジャーゴンに塗れさせるならば、谷山の作品群にはスキゾイドの臭いを感じ、中島のそれにはヒステリーの臭いを感じる、となる。
未去勢者について
サバルタンという概念と連関させて述べたことがある。また、自らをサバルタンだと表現するある自閉症者のテクストを観察し、それを
「サバルタンのディスクール」と定式化して論じた。そこで、サバルタンのディスクールはヒステリー者のディスクールと同じ構造を持っているとした。違いは、能動者に位置する/Sの斜線があるかないかであり、S2(一般的に言う知識と考えてもらってよい)を産出するか何も産み出さないかであるとした。この論を採用し、その構造に着目すれば、中島と谷山が同じ「ネクラ歌手」にカテゴライズされるのも納得できるだろう。「ネクラ」という言葉は多少誤解を生む言い方ではあるが、たとえばニーチェが覗き込んだ深淵をエスだとしたならば、彼女らは等しく暗い深淵を能動者として語っている、となり、そうおかしいカテゴライズではないことがわかる。深淵を覆う蓋の厚みが違うだけである。Sにかかる斜線が綻んでいるのが、深淵の蓋が薄いのが、谷山である、ということだ。
未去勢者と去勢済みな主体の人口は、当然正常たる去勢済みな主体の方が圧倒的に多いだろう。谷山以外の、わたしの管見により(その作品群が)未去勢的だと身勝手に感じる歌手を挙げておくならば、
戸川純がまず思い浮かぶ。戸川(の作品群)も中島と比して子供である。未去勢的である。キチガイである。
要するに、中島は正常人で、戸川や谷山はキチガイだと思える、という話だが、別に戸川と谷山の印象が被っている、というわけでもない。
この違いを理屈で述べるのは難しいので、印象論で述べてみる。
わたしは、
正常であることとは平均台を渡るようなものと思っている。台ではないところがキチガイの領域である。
この比喩を採用すると、彼女らの違いが述べやすい。
谷山は、平均台に登れない。登ろうとしても元の地面にずり落ちてしまう。戸川も等しく登れないのだが、谷山と比して思いっきりがよく、登った直後向こう側へ落ちてしまう。
こちら側がスキゾフレニックな狂気で、向こう側がパラノイアックな、あるいはヒステリックな狂気となるだろうか(ラカン論においては、人格とはパラノイアである。即ち人格がある正常人たちは、なべてパラノイアックである。ここで言う正常人とは神経症者のことである。ヒステリーとは神経症の範疇に入る)。
となるとこう言い換えられる。谷山は、台に登ってもすぐ元の側に、スキゾフレニックな狂気に落ちてしまう。戸川は、スキゾフレニックな狂気から、正常になったと思った次の瞬間、パラノイアックな(ヒステリックな)狂気に落ちている。台のこっち側向こう側、いったりきたりで落ちてしまう。
中島は、彼女ら二人より台を歩くのは上手だ。しかし、この三人の中では、という意味である。谷山や戸川が台の上を一歩しか歩けないところを、中島は三、四歩歩ける、という具合である。このことは、谷山が中島を姉と慕っていることとも関係しているかもしれない。
しかし、一般から見れば、三人が三人とも、台を渡るのが下手、となる。
台を渡るのにもたもたしている彼女ら三人の横を、たくさんの正常人がすいすいと歩いていく。台から落ちることなく器用にスマートに進んでいく。
彼女たちのイメージは、そんなようなものだ。
もちろん、わたしの個人的嗜好が大きく影響している論なので、他にも平均台を渡るのにもたもたしているアーティストはたくさんいるだろう。中には、本当は台を渡るのは下手なんだけれど、歩く速度が非常にゆっくりなので、落ちないだけ、というキチガイなどもいるだろう。しかし、そういったキチガイの姿は、台の上で滞りなく生きていける正常人たちにとっては、自分たちと同じ見慣れた光景となる。つまり、目立たない。目立つのは、やはり台から落ちてしまう人間である。
台を歩くのが下手な彼ら彼女らが、必死に台にすがりつくさまに、正常人たちは感動する。人間らしく歩けない彼ら彼女らが、必死に人間らしく振る舞おうとする姿に、ファロセントリックな快楽を覚える。芸術表現の受取手はなべて征服者であり、
表現者は何度も処刑される死刑囚である。河原雅彦プロデュース公演で、小劇場関係者は全員「何か」の奴隷であり、奴隷から脱出することは観客に回ることだ、というような芝居があった(調べた。『隷族08』というタイトルだった)。短絡的に解釈すれば演劇人は観客の奴隷である、ということになるが、わたしは違うと思う。この芝居は「演劇村への報復」と冠されている。観客、演劇人問わず報復しようとしているのである。奴隷から脱出することは確かに観客になることではあるが、芸術家は観客のためだけに表現しているわけではない。表現者は受取手の奴隷ではない。両者の合意に基づいた主従の関係ではない。もっと緊張感溢れる関係である。なんでもありなバーリトゥードのごとき関係である。野犬と保健所のごとき冷酷な関係である。
征服者たちは、この点を常に勘違いし続ける。バーリトゥードなのにK-1のルール(たとえばですよ。深い意味はありません。格闘技ヲタうぜえから一応言っておく)を押しつけてくる。自分が快楽を感じるように表現されないと気が済まない。
知能は高いが(「心の理論」による)人間らしさが欠けているアスペルガー症候群者に、人間らしい振る舞いを強制する。ニキリンコなどといった
人間らしい自閉症者のテクストが、感動的な(その実ただの快楽だが)作品として売れていく。そんな出来レースを根拠にして、自閉症という実体が歪められていく。幻想が現実をレイプしている。
アルトーの残酷演劇とは、そんな思い上がった征服者たちへの、幻想でしか生きられない去勢済みな主体たちへの、現実界の報復なのだ。器官なき身体の蜂起なのだ。
物自体の反乱なのだ。農村を襲う野犬の群れなのだ。
演劇を観客席側からしか思考できないガタリなど、残酷演劇によって殺されるべき人間なのである。農村から一歩も出たこともないのに、村の外を知ったかぶりする調子のよい若造である。
アルトーのキチガイたる実体が、ドゥルーズ=ガタリという征服者によって殺されている。
ドゥルーズ=ガタリに、演劇人たるアルトーを語る資格はない。
精神分析と演劇、両方を知っている人間として、わたしは断言できる。『アンチ・オイディプス』の「語る主体」こそが、思い上がった征服者、即ちオイディプスである、と。
アルトーがゴッホを殺したのは精神科医だとし、そいつに対する殺意を隠さないのと等しく、わたしはドゥルーズ=ガタリに対し、現代でも蛆虫のように生き残るエディプスコンプレックスだだ漏れなドゥルージアン、ガタリアンに対し、殺意を抱く。
……そんな状況の中、人間らしく生きられない、征服者になりきれない、平均台を渡るのが下手なキチガイたちは生れ落ちる。そんなキチガイのうち、たとえばスキゾイドたちは、それでも人間らしくあるためにアーティストという生き方を選択する。死刑囚であることを、奴隷であることを選択せざるを得ない。このことは、正常人たちにおける職業選択の自由などといった具合のものではない。自然の摂理のようなものとして、そうなってしまう。そうであるだけのことである。
結果、アーティストという集団の中で、キチガイの割合が多くなる。そういうことではないだろうか。事実クレッチマーなどは、
スキゾイドの典型症例を詩人という言葉で表現している。とはいえ、キチガイであればなんの障害もなく芸術家として成功できる、というわけではないことは留意しておきたい。たとえば、文脈の理解能力に欠如がある自閉症者などは、文章能力が重要となる小説家などには向かない、先天的なハンディキャップがある、などと言えよう。
中島、谷山、戸川ら(の作品)を他人事として見ると、それぞれ全く違った個性を持っているにも関わらず、クレッチマーが描いたスキゾイド像に、しみじみと共鳴してしまう。
彼女たちの声は、深淵から響いてくる。
鎧戸が閉ざされた別荘の薄暗い中から、祭宴の残響が滲んでくる。
彼女らは平均台の下で歌っている。
アルトーのように、足元のコーヒーゼリーが台を飲み込んでいないだけである。
冗談半分で笙野頼子はどうだ、という話をしてみたくなった。彼女も先の三人と同様に平均台を渡るのは下手糞である。
しかし、やはり歌手と作家の違いか、平均台の喩えでは述べにくい。よって、スキーで喩えてみたい。スキーがうまいのが正常人である。
笙野も、中島や谷山や戸川と同様にスキー初心者だ。周りで正常人たちが、ファロセントリストたちがこともなげにすいすい滑っている中、ぼてぼて転びながら滑っている。
笙野も戸川と似ている。思いっきりがよい。しかし、思いっきりのよさが少々違う。笙野は、どうせうまく滑れないのなら、直滑降で滑ってしまえ、というタイプである。転ぶことに対し、笙野の方が敏感なのだ。こけたがらない。一方、戸川はあっちこっちにこける。たびたび木や柵にぶつかる。しかし笙野は、初心者のクセに中級者向けゲレンデを、直滑降で滑り降りる。特に『金毘羅』以降、『だいにっほんシリーズ』などは、この印象が顕著である。凄まじい勢いで正常人の世界を生きているのだが、実はそれは初心者故の生き方なのだ。事実、初期の作品群には、その初心者っぷりが、不安定さがよく表れている。
従って、中島や谷山と比べ、戸川や笙野は転んだ時の外傷が重くなる。作品に、ではなく(想像的な)作者の方に、痛みを感じてしまう。作品より作者の方が目立ってしまう。
ちなみに、最近の中島作品にも、特にアルバム『夜を往け』以降は、笙野みたいな直滑降感があるように思う。しかしやはり北の女であるせいか、思いっきりのよさの裏側に、あのANNのけらけら笑いが浮かんでしまう。
……そういえば以前、友人に
「ラカンはハイウェイをスーパーカーでぶっ飛ばしてて、ドゥルーズ=ガタリは森の獣道をさまよっているのだとしたら、わたしはどっちだと思う?」
と質問したら
「スーパーカーで森の中をぶっ飛ばしている」
と言われた。
わたしも笙野タイプになるのだろうか。
だとしたら、笙野は転ばない限り直滑降し続けるだろう。転ばない限り、正常人が圧倒的多数である事実に、おんたこがうじょうじょいてしまっている現実に、南の女ならば(そう言えば三重出身だな)春の来ない世界を生き続ける宿命に、ファルスと戦い続けるしかない自分という物体に、気がつかないだろう。個人的な経験に照らし合わせると、そう推測できる。
……いや、もしかしたら、一度も転ばないまま死というゴールに辿り着けるのかもしれない。それはそれでいい、と思う。彼女が『金毘羅』で手に入れたファルスは本物だったということである。彼女はキチガイではなく正常人だったということである。火星人ではなく地球人だったということである。それは宗教的にも歴史的にも道徳的にも正しく喜ばしい寿がれるべき事柄である。
わたしという受取手が、おもしろければ読むし、つまんなかったら読まなくなるだけである。ただそれだけのことである。
ファロセントリストたる受取手の、ファルスを増長させるのが正的な作品で、破壊するのが、萎えさせるのが、負的な作品である、ということか。人を正常へと治癒するのが正的な作品、症状を悪化させ狂気を増幅するのが負的な作品。
去るあなたは美しいわ
行かないでとすがるわたしより
雨が降っていたわ とっても寒かった
フロントガラスを打って流れる涙
雪が残ってたわ とっても寒かった
もう一言も言えなかったわたし
苦渋を砂のように噛んで
最後に振り返るとそこに
ミカエル ガブリエルのように
輝くあなたを見たのよ
去るあなたは美しいわ
大天使のように
この曲はぞくっときたなあ。
うん、これは快楽じゃなく享楽。正と負が脱構築されている。正と負というただの意味がサーカスをしている。
雪国を生きる南の女、かな。いきなり冒頭の言葉に戻るけど。
谷山作品だと、『Pyun Pyun』や『SORAMIMI~空が耳をすましている~』がぐっとくる。
多分、幻聴なんだな。少女マンガにも幻聴症状のような描写は多いが、谷山の手にかかると、わたしは急所をなでられているみたいに感じてしまう。谷山のそれは、リアルなのだ。わたしにとって。この二つの曲は、負的な作品である。スキゾイド(未去勢者)たちにとっては、悲恋は狂気の増幅であり、それ自体が享楽なのかもしれない。卑俗的に言えば、悲劇のヒロイン症候群みたいなもの。
春など来ない世界を生きる者から見ると、ラカンもドゥルーズ=ガタリも、別の世界を生きている。
ラカンの言葉もドゥルーズ=ガタリの言葉も、こちらの世界を述べているようで、どこか違う。フロイトもユングもデリダもヘーゲルもフーコーもホッブズも。
何か違う。
彼らの描く雪国はきれいすぎる。
残雪は、泥と混じり合って汚らしいのに。
あなたは油絵の甘すぎる匂いをさせながら
売れっ子画家みたいに
きれいな肖像画のような嘘ばかり描く人だから信じない
12階の一番奥から、うめき声のような歌が聞こえる。
あなたは何も聞こえない顔をする。
わたしはそれを幻聴だと思う。