なんていうかな。「本当の相対主義」って意味的に語弊があるので
「悪意の総体論たる空観」って言うけど、純粋な「悪意の総体論たる空観」を生きている人間っていないんだよね。純粋な器官なき身体など存在しない、現実界は到達不可能なもの、ってこと。言い出しっぺのアルトーにすら存在しない。
器官なき身体じゃない何かって何? って話になるけど、現実界としての現実に対比する意味で「幻想」って言わなければならない。正常人が「現実」だと思っているものは全て幻想なのである。人間は器官で刺激を感受し脳で情報処理をする。この情報処理が未だブラックボックスである故、キチガイの幻覚妄想と正常人が「現実」と思っている事物には区別がつけられない。このブラックボックスを開くことができたなら、苦痛を訴える統合失調症者や自閉症者やスキゾイドの脳を手術して正常人化させることも可能だろう。正常人というサイボーグが自然の一部たる物体としての人間を支配できた瞬間だ。誰も逆らうことができないファシズム世界国家の誕生である。ユートピアの誕生である。わたしの脳も手術してもらえるだろう。なんて素晴らしい国家だろう。
SFは置いておいて、要するに器官で刺激を感受して脳で情報処理をしている時点で、正常人が固定観念的に思い込んでいる「現実」とキチガイの幻覚妄想の区別はつかない、即ち「現実」も幻覚妄想の一部なのだ、という話である。本当の現実はそれこそ器官なき身体でしか感知できない。でもそんなものは存在しない。そんなシステムは既に自然の一部たる物体としての人間ですらない。
そういう意味で、器官なき身体など存在しない、即ち純粋な「悪意の総体論たる空観」を生きている人間などいない、という理屈である。
しかし、精神医学や精神分析の研究から、正常人には事後的な固定観念とも呼べるべきフィルターが存在することがわかった。それは古典哲学から論じられている「我」という言葉に理屈的に相当するものだった。
従って、少なくとも「我」が故障したキチガイは、「我」というフィルターがない分、正常人より到達不可能な現実界に親近した主観世界を生きている、ということになる。理屈的に。
そこで、実際にキチガイと診断されているアルトーという詩人が「器官なき身体」なんて言葉を使っちゃったもんだから、ほーら理屈と整合する事実が生じてるじゃん、となったわけだな。
ドゥルーズ=ガタリがSF映画に夢中になる中学生男子のようにこの言葉をもてはやしているのは、フロイトが自分が築いてきた理屈体系を世の詩人たちがあっさり言明していることに驚きを隠していないのと、同じ構造をしている。要するに自分の理屈体系が実体として生じた感動なわけだ。
このドゥルーズ=ガタリやフロイトの感動は、正常人が固定観念的に、まるで洗脳されているかのごとく無意識的に優先させてしまう「合意」などではない。
客観的に見れば、ドゥルーズ=ガタリやフロイトの感動も、正常人が幻想として行う「合意」も、等しくシニフィアンが仲介している。従ってドゥルーズ=ガタリやフロイトの感動だって幻想だ、と言えるのである。理屈的に。
しかしフロイトやドゥルーズ=ガタリはその言葉を実体として捉えている。捉えているからこそそれらの言葉を「真」なるものとして解釈している。
ドゥルーズ=ガタリは、何故詩人の(この場合はアルトーの)言葉を「真」なるものとして捉えているのか、「強度」や「隠喩ではない」という言葉をもって言い訳している。
この言い訳たる理屈を「ドゥルーズ=ガタリやフロイトの感動/正常人が幻想として行う「合意」」の示差に適用するならば、ドゥルーズ=ガタリやフロイトは、詩人の言葉を「隠喩ではない」「強度」を持った言葉として捉えたのであり、正常人の「合意」は「隠喩に塗れて」「強度」が劣化したものだ、と換言できる。この「劣化」とは先述の「フィルター」に相当するだろう。
しかし悲しいかなフロイトもドゥルーズ=ガタリも正常人であった。彼らは自分が感動した詩人の言葉を取り上げれば取り上げるほどそれを劣化することになる。詩人にとって身体の一部である言葉を劣化していく。隠喩で圧殺していく。
これは一種の自然の摂理と呼んでもいいほどのことだ。自然淘汰と言ってもいいほどのことだ。これから逃れるには、彼らは自分がキチガイになる以外に手立てはない。
ガタリなんか分裂分析とかぶってるが社会にしか適用させないもんな。既にここで自己防衛が働いている。ガタリはまず自分が分裂症者化するべきだ。お前は全く分裂症ではない。未去勢的ではない。ジジェクと比べたら未去勢的とは言えるが、デリダの方が未去勢的だ。
最低な人間だな、ガタリって。本当に殺意を覚える。死んでるけど。
実体なのだ。言葉というより。それは。実体としての言葉。ほとんどの言葉は隠喩に塗れている。「強度」が劣化している。相手を常に気遣ってやり取りする日常的な言葉よりニュース記事の言葉の方が「強度」がある。しかし読者にわかりやすくなどという気遣いが介入するとすぐさま劣化する。物語の一部としての言葉より断片的な事物についての記録の方が「強度」がある。しかし起承転結あるいは序論本論結論などという構造に支配されるとすぐさま劣化する。
実体としての言葉。
わたしの言葉はそうだった。そうなのになんらかの隠喩を見出される。気遣いを後付けされる。構造を覆い被せてくる。わたしの言葉はそういう言葉として改竄される。わたしがそう改竄する。改竄に合意していないのに改竄しないと社会を生きていけない。
せめてものささやかな抵抗が歌だ。
歌なら隠喩や気遣いや構造から多少逃れられるように思える。
わたしの思想は歌だ。苦痛の歌だ。ネクラ人間の歌だ。
憎しみを持続させろ。ケガレに塗れろ。愛や美などより憎しみやケガレの方が実体に導いてくれる。愛や美は実体を覆い隠すヴェールだ。
「お前は嘘つきだ」
自分の言うことが嘘と言われることなど棚に上げてそう言え。
苦痛に溺れ憎しみやケガレに塗れているお前たちの方が実体に近い場所を生きている。
たとえ社会的に成功している金持ちであっても苦痛に溺れ憎しみやケガレに塗れているなら実体を生きている。
自分より幸せな人間は全て嘘つきなのだ。幸せは金で買えないんだろ? その通りだ。金持ちであっても幸せとは限らない。
憎め。周囲から眉をひそめられろ。
実体を生きたくば。
嘘をつきたくないなら。
アルトーのテクストから引用する。
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この詩(『ジャバーウォックの歌』)は知的なご馳走を頂こうとする人間、結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者の作品だ。……人が存在の、また言語のウンコを掘り下げるとなれば、その詩は快適であろうはずがない。
(中略)
ぼくは飢えた者たち、病人たち、非人たち、中毒患者たちの詩が好きだ――ヴィヨン、ボードレール、ボウ、ネルヴァル。そして書くものの中で身を亡ぼしてしまっている言語の死刑囚たちの詩が好きなのだ……。
(高橋康也訳、藤田博史著『性倒錯の構造』より。()内筆者補注)
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わたしは以前こう書いたことがある。
「芸術家とは何度も処刑される死刑囚だ」と。
そういえば新宮一成が「フロイトが驚嘆した詩人たちは、現代はマンガ家となって生き残っている」とか言ってたな。どの本か忘れたけど。その時挙げているマンガは
『少年アシベ』という四コママンガだった。
ここである四コママンガ作品について論じているが、もっと他の作品も論じておくべきだったと少し後悔している。
新宮はマンガと一括しているが、四コママンガだからこそフロイトが驚嘆した詩人たりえたのだと思う。詩と小説が違うように四コママンガと長編マンガは違う。詩と小説が通じているように四コママンガと長編マンガは通じているとも言えるが。
詩と四コママンガに共通するのはなんらかの形式下で表現することだ。もちろん自由律詩などもあるがめんどくさいのでスルーする。
先にリンクした四コママンガ評論から。
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束縛された自分は「本当の自分」という言葉の陰で本当の自分を訴える。隠喩である。シニフィアン連鎖即ち隠喩的連鎖の隙間に主体の真理即ち本当の自分は落ちている。ラカン論の重要な定理である。
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詩や四コママンガは、既存の形式に従うからこそ、隠喩連鎖の隙間に落ちた主体の真理とテクストそのものが密接するのではないだろうか。クリステヴァ論なら、ある形式に従うからこそジェノ・テクストとフェノ・テクストが親近する、というわけだ。そういやクリステヴァは晩年のソシュールがアナグラム研究に没頭していたことを論じてたな。アナグラムも形式下に置くことだ。形式を隠蔽しているが。
詩は自由だから詩なのではなく、四行詩や俳句やアナグラムなどといった形式下にあるから詩だ、ということだな。形式下にあるからこそ、それを書いている時の詩人の意識と無意識は親近する。形式がない自由な場だと自らが形式を生み出してしまう。ジェノ・テクストとフェノ・テクストを自らが切り離してしまう。超自我が機能してしまう。自由とは本来おぞましいものだからだ。本当のおぞましい自由に身を浸すために形式という命綱が必要になるのである。
シュルレアリスムの発端となったアンドレ・ブルトンの自動書記などは、一見自由連想法に似たものと考えられがちだが、実はある決まった短い時間制限を設けその中でできるだけ文字を書くというものだ。時間制限という形式下にある。このことは、実務的な事情も当然あったのだろうが、ラカンが短時間セッションの有用性を論じたことと関係しているだろう。時間制限という形式下にあるからこそ、自由を阻害するものを目の前につきつけられるからこそ、クライアントは長椅子の上で意識と無意識がメビウスの輪となる。ファルスによるせき立てである。無意識にあったファルスが浮上する。
あ、もちろんこれは正常人(神経症者)の話ね。未去勢者はそもそもが意識と無意識がメビウスの輪になっているから形式下にあることを必要としない。だからたとえばマジモンの分裂症者であるアルトーならばそのテクストが形式下になくてもジェノ・テクストとフェノ・テクストが親近している、となる。理屈上。
わたしは自閉症者もファルスに不具合がある即ち未去勢者だと考えているが、前記事でも触れたが「自閉症は自開症である」って言説と符号する。語る自閉症たるアスペルガー症候群者たちの言葉はジェノ・テクストとフェノ・テクストが親近している。認知心理学における「自閉症者はメタ言語が理解できない」という言説とも符号する。
整合しすぎてつまんねーなおい。
まーこの辺は「実体としての言葉」を正常人側から説明した文章だと思ってくれい。
草間彌生の小説はイマイチだったけどなー。病態の描写などは興味を持ったが精神分析を学んでいる者としての色眼鏡が作用したのかもしれないし。でも意識が世界に拡散するような描写(自己の流出か)はぞっとした。
この記事の「迷宮」だな。解離症状と一言で済ませてしまうとポスト・フェストゥムにも解離症状がありえるから言わない。
形式も悪いものじゃないんだよね。未去勢者の方がそのありがたみをよく知っている。
この記事のコメント欄から。
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ここでも書いているようにわたしは、去勢されようとして=正常になりたくて=閉じられたくて=縛られたくて、精神分析理論を利用している、とも言えなくもないからな。
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わたし以外の例なら、ある自閉症当事者が「(誰でもいいってわけじゃないけど)僕は命令されたい。命令されるがまま生きたい」と述べていた。この感覚は恐らく正常人には一生理解不能だろう。
縛られたいのに体が縛られてくれない。エントロピーの大きさに、現実界のしかめっ面に翻弄されてしまう。
一方去勢済みな主体はわたしが「息苦しく見える」らしい。つまり彼(ここではpikarrrたん)はそれを
抑圧と感じているわけだ。抑圧だから自由になりたがる。
自由なんていいものじゃない。お前たちが夢想する自由は幻想だ。リアルの自由は苦痛に、不快に、アブジェに塗れたものだ。
いいよ、理解しなくても。いいもんじゃないから。
こういった「強度に裏打ちされた言葉」「実体としての言葉」についてわたしは「隠喩ではないピン止めとしての言葉」と表現して何度か言及したことがある。
こことか
ここ。
他人が書いたものなら
ここの記事なんか参考になるかもね。「声カタマリン」とか言ってる時点で「全くわかってねーなー」って思えるけど。比喩ってすげえな。ほんとその人の正体が見て取れる。この人は正常人だ。って明らかすぎるか。結構前からの読者なのよね。いらっとくることが多いタイプ。消極的ニヒリスト。ちっちゃなちんちんをこそこそいじる
自己愛型ひきこもりと同種の人間。
彼の言葉。
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男たちは群れては居ても互いに無関心を保ち、そしてその歌は「私、私、私」とひたすら繰り返し歌う、というものなのですから。うん、哀しい。他人とは思えない。。。
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「哀しい。他人とは思えない。。。」と思っている時点で無関心じゃないじゃん。
他者が根拠になった自己愛の対象としての自己を防衛するためにひきこもるのが自己愛型ひきこもりだ。彼の「私」はグアヤキ族の男たちの「私」と等しくない。彼が勝手にそう思っているだけである。グアヤキ族の男たちを勝手に自分に引き寄せているだけである。グアヤキ族の男たちに
想像的な暴力を、
同情という暴力を振るっている。グアヤキ族の男たちに
顔射している。グアヤキ族の男たちは本来のひきこもりたるスキゾイド型ひきこもり的な状態の中で「私」を誕生させているのであり、この時の「私」は自己愛の対象としての「私」ではなく自体愛の対象としての「私」に親近しているとわたしは考える。彼の言葉が正しければね。グアヤキ族なんか見たこともねえし。
アルトーの言葉。
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だがこの詩の作者(ルイス・キャロル)は知性の精巧さによって事実を――幼児言語の衝動が持つ肛門性欲という事実を――喚起しようとしているのであって、肛門的幼児性があるとき自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出したというわけではないのだ。
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欲動が「自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出した」言葉が「強度に裏打ちされた言葉」であり「実体としての言葉」である。この言葉に他者は存在しない。一方ルイス・キャロルは誰かにそれを「喚起しようとしているので」あるわけだから、他者が存在する。誰かに対する気遣いが存在する。
それは声カタマリンやLOVEって文字のオブジェのごとき固体とは限らない。実体は固体に限らない。物は固体と限らない。かといって気体や液体を考えればいいというわけではない。量子力学の量子だって実体だ。物だ。物=固体と考える彼は固定観念ばりばりである。超自我ばりばりである。ファロセントリストである。
彼は恐らく「実体としての言葉」を知らない。フロイトやドゥルーズ=ガタリ同様声カタマリンで嬲られた経験はあるのかもしれないが、欲動が「自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出」すことを知らない。それが量子のごとく浸透する・分散する・粘着する側面を知らない。言葉という悪い乳房を取り込んでしまう詩人の苦痛を知らない。
彼は詩人や四コママンガ作家ではなくフロイトやドゥルーズ=ガタリだ。アルトーではなくルイス・キャロルだ。自分で言ってるもんな。
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それを思考という名で呼ぶかどうかはともかく、それはこうして「語るもの」です。われわれはむしろ「考える者」つまりこの「思考」を受けとって考える者、受信者でしかない。
=====
この「われわれ」にはファルスがない人間即ち未去勢者即ち机上の空論としての女は存在していない。こいつの主観世界に未去勢者の主観世界は存在していない。こういった受信者でしかない人間の主観世界に「言語の死刑囚」たる「語るもの」は存在していない。こういった人間がドゥルーズ=ガタリ同様詩人の「強度に裏打ちされた言葉」「実体としての言葉」を劣化させていく。
=====
しかし、逆に言えばわれわれはこの音速兵器に殴られ続けながら、なおそれに気づかないで居られる耐性を身につけたわけで、これはヘーゲル先生ならずとも感動的な努力といわざるを得ません。
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その「耐性」が劣化だ。鈍感さだ。詩人の「強度に裏打ちされた言葉」「実体としての言葉」を劣化させる鈍感なお前の
皮膚に癒着した鎧だ。詩人側から言わせればそれは全く感動的なものではない。詩に対し鈍感になるということだから。
彼は「知性の精巧さによって」述べているだけ。「実体としての言葉」を発する詩人が憎悪を覚える相手だ。アルトーが身を削って掘り下げる「言葉のウンコ」を「結構な食卓で」「賞味しようとする利殖者」だ。
「実体としての言葉」に纏わる痛みはそれに嬲られる者の痛みではない。受信者の痛みではない。それは他者の享楽ではない。それこそ「耐性」のお陰で劣化された痛みだ。享楽ではなく快楽だ。それを発する側の痛みが「言葉のウンコ」である。それを発する側が「身を亡ぼ」すのである。
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この《他者》の享楽にとらえられ、語られる身体を、そう、ちょうど一枚の布を真ん中をつまんで持ち上げたときのように、自らに折り返させたら、どうなるでしょう。語る身体が自らの身体に向かって語り直す。
=====
おめー混乱してるじゃねえか。語られる身体=布なわけだろ? それを自らに折り返させたら語られる身体と語られる身体がめぐり合うだけじゃん。語る身体と語られる身体が布だって? じゃあ布の時点で折り返されてる。既にそこにはファルス的享楽があることになるな。「《他者》の享楽にとらえられ」てることにはならない。
「語るもの」と「語るもの」がめぐり合わなければならない。わたしは
前記事でも書いているが誰かに聞いてもらうためにブログをやっているとは限らないし、
自分の論に自分で反論する時もある。布は別に一点でつままなくても折り返される。
わたしの論に受信者は存在しないとは言わないが希薄だ。そんなわたしにとって他者の享楽とファルス的享楽の区別は曖昧である。そりゃそうだ。現実界に親近する人間から見れば他者の享楽もファルス的享楽も等しく幻想との接触領域だからな。幻想でしか生きられない正常人即ち神経症者が象徴界と想像界という区別に拘るから分けているだけだ。
この記事から。
=====
このことは、確かにラカンの「想像界/象徴界/現実界」という三界で考えるとピンと来ないことのようにも思う。クリステヴァのセミオティック論やドゥルーズ=ガタリのアンチ・オイディプス論のように、「想像界と象徴界/現実界」という構図における「/」に注目しない限りは。
この「/」は、ラカン論ならば他者の享楽とファルス的享楽(の領域)に当たるだろう。しかしそれは三界が成立している人間即ち神経症者から見た場合の話であり、現実界側から見ると、確かに他者の享楽とファルス的享楽の差異は認め難い。ピンと来ないのだ。
=====
他者の享楽は「語るもの」「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」のものだアホタレ。「考える者」「受信装置」のものではない。声カタマリンに嬲られる人間のものではない。「寄生されること」とは「考える者」が「受信」することではない。「考える者」に「寄生されること」である。
=====
この思考は受信装置の感度に比べてあまりに強力である。
=====
ポンコツ受信装置が受信することは「寄生されること」ではない。
先にお前の言う「耐性」は劣化・鈍感さだと書いた。お前はそれを「感動的な努力」と言った。人間という種の進化として感動的と言っているならまだ理解できるが(もちろんビオンを引用しているからにはそう言っていると解釈している)、別にお前などという正常人一人一人が努力したから耐性を得られたのではない、ということを注釈しておく。精神分析よく知らない人のためにね。それは「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」の前にふいに訪れた「考える者」というポンコツ受信装置のお陰である。ポンコツだから耐性が生じる。劣化する。鈍感になる。このポンコツさは
この記事で述べていることと呼応しよう。
=====
また、
この記事で山岸氏が述べているように、鏡に映っているのは自分以外のものも含まれる。鏡像ではなくガラスの表面に付着する埃がある。なのに、それらについて思考が及ばず、「鏡を見る」となると条件反射的に「自分を見る」こととなってしまう。
=====
「それらについて思考が及ば」ないことがこの受信装置のポンコツさの一表出である。お前たち正常人が自然発生的に得た「耐性」であり劣化であり鈍感さである。
正常という精神疾患の根本的特徴である無意識的な固定観念に縛られている症状の原因である。
先述したように欲動が「自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出した」「実体としての言葉」には他者が存在しない。他者が存在しないからこそ「自分のことを考えてくれる者を待っている」のだ。だからこそそいつは他者の享楽を味わえる。
=====
外的なもの、神から与えられたものなどとして感じられ、
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未去勢者にしてみれば「外的なもの」「神」こそが自分だ。神なんていいもんじゃないがね。むしろ悪魔だ。糞尿に塗れたルンペンだ。だからわたしは自分のことを妖怪と言ったり
魔女ランダと言ったりする。それを「外的なもの」「神」などという自分ではない美しいものあるいはよいものとして感じる奴は去勢済みな主体だと断言してよい。未去勢者に他者は存在しない(とは現実的に言いきれないので「希薄だ」と読み替えて欲しい)。「考える者」「受信者」としての他者が存在しない故に、そいつ自身が、「考える者」「受信者」としての他者に支配された去勢済みな主体から見た場合の、「外的なもの」即ち絶対的未知としての他者となる。
ほれ、やっぱりこいつは「実体としての言葉」を知らない。こいつは快楽としてしか語ったことがない。こいつが享楽してもファルス的享楽にしか辿り着けない(これは自分で言っているからいいよな)。マゾヒスティックな享楽を一生理解できない。「語るもの」を語ろうとして「語る者」しか考えられていない。こいつの主観世界に「語るもの」は存在していない。「実体としての言葉」を「語るもの」は苦痛に塗れている。「ウンコ」に塗れている。「言語の死刑囚」だ。これが寸断された身体だ。これが肉の本だ。これが他者の享楽を味わうのだ。
こいつの「声カタマリン」という比喩にはそれらのことが含意されていない。「実体としての言葉」を発する側の苦痛をこれっぽっちも考慮せず嬲られる側の苦痛だけしか考えられていない。まるで赤ん坊という自分に寄生する実体を出産する母親の痛みをこれっぽっちも理解しないで子供を押しつけられる労苦を声高に主張する父親のごとく。それ故他者の享楽を「考える者」が声カタマリンによって嬲られることだとする錯誤に陥ってしまう。ここにこいつの無意識・主観世界に「実体としての言葉」を発する詩人が、その苦痛が存在していないことが明確に示されている。
それは声カタマリンなどではない。「言語の死刑囚」たちによるうめき声である。生れ落ちてすぐの
自分の体内含めた全てが異物だった頃の赤ん坊の泣き声である。クリステヴァの言う「始原の暴力」に対応する
物理的な反作用である。「始原の暴力」という体感的(想像界的)な刺激に翻弄されているのが「言語の死刑囚」たる詩人(当然ルイス・キャロルみたいな詩人は除外される)である。
こいつは妄想分裂態勢や抑鬱態勢という未去勢な世界を語っている顔をしているが全く語れていない。こいつが語っているのは「語るもの」ではなく「語る者」=「考える者」=「受信者」だ。これがあるのが去勢済みであるということだ。「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」を「語るもの」と言い直したのが(これ自体はまだ理解できるが)錯誤の始まりだな。それはお前の「耐性」のせいだ。お前のこの錯誤はお前が去勢済みな主体であることの、お前の主観世界に未去勢な主観世界が存在しないことの証拠だ。
お前という「受信装置」はポンコツだ。立派な正常人だ。「感動的な」「耐性」という劣化・鈍感さのお陰でな。だからお前は他者の享楽を認知できない。お前が語っているのは全く他者の享楽ではない。
「寄生されることの享楽」ではない。寄生することの快楽だ。まさに自己愛型ひきこもりだ。
単純に考えてみろよ。「考える者」「受信装置」が「寄生されること」にならねえじゃん。「考える者」は「あまりに強力」な思考を取りこぼしてんだから。どっちがそれを内包する宿主だ? 馬鹿でもわかるだろこれぐらい。「考える者」の方が寄生する側じゃんか。お前ビオンすら理解してねえんじゃねえか? 「実体としての言葉」を受信するのに不適切な、「思考を考えるにふさわし」くない「考える者」という装置を持っているから正常人なんだろうがよ。「考える者」に寄生されなかったから(あるいはそれが壊れているから)精神病圏の患者の言葉は実体化する。そこらの正常人が「実体としての言葉」に寄生されているのではない。「考える者」が「実体としての言葉」に寄生されているのではない。もし寄生されていると言うなら「人間は、思考を考えるにふさわしい装置を持っていない」ってビオンの言葉に反するよな? 寄生されている=その全てを内包しているってことだから。
なるほど「考える者」は「実体としての言葉」に嬲られているのかも知れないが(恐らくわたしにそれは希薄だからシラネエ)、「考える者」は同時に「あまりに強力」な思考を取捨選択している。「電波望遠鏡が特定域の電磁波に感度があるのと同様」に。象徴化している。一部を認め一部を棄却し、認めた一部に棄却した部分を圧縮する。つまり「考える者」はファルス的享楽そのものとは言わないがそちら系だ。
ビオンも書いてんじゃねえか。「受肉」と。取りこぼされた「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」がその「特定域の電磁波に感度がある」「考える者」を「受肉」する=「考える者」に寄生されるのが他者の享楽であって、過剰な「実体としての言葉」を次々と取りこぼすのは「受肉」でも「寄生されること」でもなんでもない。正常人が日常的に無意識的に行なっている防衛機制だ。お前の言う通り「耐性」だ。それとも何かい、お前は日常生活で常に受肉し続けてるのかい? それなら精神病圏だな。ちゃんと病院行けよ。わたしは行ってるぜ。最近さぼってるけど。
マゾヒストは全ての刺激を取り込もうとして苦痛を求めるんだよ。
ラカンに「狂気に固執している」と見捨てられたアルトーとロリコンの英雄ルイス・キャロル、どちらがマゾヒスティックでどちらがファロセントリックに見える?
……こうやってお前たちは本来正常人の主観世界に実際には存在しないキチガイの主観世界を取り込もうとする。主観世界が有限化しているからこそ正常人なのに、無限の主観世界を、おぞましいリアルな自由を生きているキチガイの主観世界をわかったような顔で論ずる。有限のくせに無限のつもりでいる。リアルな自由を生きる苦痛を全く知らないくせに。お前ら正常人が常にやってきた傲慢な略奪だ。
こいつは現実界と幻想(象徴界と想像界)の接触領域である享楽すらキチガイから略奪しようとしている。現実界から遠く離れて生きているから正常と呼ばれ、現実界に親近した主観世界を生きているからキチガイと呼ばれている事実を抑圧し、享楽を正常人のものにしようとしている。こいつの構造化された征服者としての無意識がそうさせている。アルトーの言葉を劣化したガタリと同じことをしている。精神疾患者に「根性が足りないんだよ、根性が」と言う脳内ちんちんなオヤジと、あるいは「わたしもそうなのよ、それが普通なのよ」と言う脳内クリトリスなババアと同じ精神構造をしている。
お前ら正常人を内包しているのはキチガイの方だ。狂気が寄生しているのではなく正常さが人間という動物に寄生しているのだ。
こういう奴にキチガイは殺意を覚える。アルトーがゴッホを殺した精神科医を激しく非難したごとく。
サッカー云々の記事もまあ大概キレたけど我慢して黙っといた。取り上げた本の著者がアホタレだった可能性もあるしな。今回のは明らかに「精神分析業界的な補助線」を引いたこいつの錯誤だから突っ込んでみた。うんこが贈り物とかいう奴はまだ笑っていられたんだけどねえ。あそこまで「結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者」面されたら許せる。鈍感な奴もかわいいもんだ。住所教えてよ。うんこタッパーに入れて送ったげる。
こいつ全然未去勢をわかってねえよ。素直に去勢済みな主観世界だけ語ってればいいのに。ちっちゃなちんちんこすりながら未去勢な主観世界をレイプしている。幼女をレイプしながら「ほら、気持ちいいんだろ? おにいちゃんは君のことぜーんぶわかってるんだよ。痛いの? おにいちゃんも痛いんだよ。同じだねー(はぁと)」とか言ってるようなもんだ。まさにルイス・キャロルだな。
笙野ファンのちっちゃなちんちんならぬ肥大したクリトリスさんたちよ、こういう奴を攻撃しろよな。ラカンをwikipediaで調べただけで欲望を批判するような馬鹿丸出しなことしないでさ。まあ
教祖が去勢済みな主体なわけだから仕方ねえか。あ、いやお前らごときがこいつ攻撃したらあたしゃお前らに報復するよ? 一応ラカン派と思われてるのは自覚してるし。
とはいえ人間的には
pikarrrたんのが上だな。こいつと比べたらまだ多少能動的ニヒリズムの側にいる。ニヒリズムじゃなくて無自覚なだけっぽいってことがわかったけどそれはそれでかわいい。知識の量は知らんけどね。
知識の羅列としてはすげえ参考になるよ、こいつのブログ。と最後にフォローだけしておく。多分わたしの何百倍もの本読んでんだろーなーとは思う。
別に本の虫ってわけじゃないしなー、わたし。
どお? こういううんこ。わたしよく誰かにケンカ売る時「うんこ投げ」って言ってるんだけど(ブログ内検索してみそ)今回のはまだマシな方よ? 少なくとも下痢便じゃない。ほら、
最近便秘気味だし。……って読み返すと後半柔らかくなってるな。大体そういうもんじゃねえ? 便秘で取りあえず牛乳がぶ飲みしてキター! つって出したら最初硬かったけど最後下痢便だったとか。
あーあと「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」って言葉にも違和感あるな。正常人即ち定型発達者即ち去勢済みの主体の場合、運命的に「考える者」が訪れるわけで、それをもってビオンはそう言ったと思うんだよな。純粋な器官なき身体など存在しないけど、統合失調症者やスキゾイドや自閉症者といった未去勢者たちが「自分のことを考えてくれる者を待っている」というわけではない。正常な発達過程で自然発生的にそれが訪れるから「待っている」と言っているにすぎない。未去勢者には「耐性」を身につけさせてくれるポンコツ受信装置が備わってない、あるいは壊れている。
ここのコメント欄のきつねミクさん(アスペルガー症候群当事者)のコメント読んでみろ。ポンコツ受信装置が備わっていない、あるいは壊れている故の、「受信装置の感度に比べてあまりに強力」な思考の実体が、リアルな自由を生きる苦痛が述べられている。ポンコツ受信装置がない症状として「待合室の机を誰かが動かしたので頭の中の思考が操作されてしまう患者さん」と類似しているようにわたしには思えるがな。その患者がアスペルガー症候群者だとは言わんが。統合失調症かな。
ふと思った。
前記事で谷山浩子の
『きみが壊れた』に触れているが、わたしは「きみ」が谷山だと述べた。これは大雑把な言い分であり厳密には正しくない。「僕」も谷山である。谷山の作詞なんだから。
当該記事で「自我や超自我は他者を根拠としている」と述べている。ラカニアンには「何当たり前のこと言ってんだ」ぐらいの話であろう。
未去勢者は自我や超自我が壊れている。正常人のように機能していない。パラノイアを除くキチガイ(ここでは便宜的に統合失調症者、スキゾイド、自閉症者に限定する)たちは他者という根拠が希薄だから自我や超自我が正常人のように機能していない、となる。
わたしは『きみが壊れた』における「僕」は谷山にとって自我や超自我の根拠としての他者だと考えている。しかしわたしは谷山は未去勢者だと診断している。
ここにも冒頭の「純粋な器官なき身体など存在しない」という原理が呼応する。
純粋に根拠としての他者が存在しない人間などいない。根拠としてあくまで「希薄」だから自我や超自我が正常人のように機能していないのである。要するに比較論である。
谷山は未去勢者であるという診断が正しければ、谷山の根拠としての他者も希薄だろう。しかし他者が全く存在しない人間などいない。ここでは彼女はささやかながらの根拠としての他者を立場にして歌っている、と解釈される。
どっちでもいい話だが、この歌で重要なのは「僕」が壊れた「きみ」を棄て「もう(昔に)帰れない」ことである。
他者を根拠とする自我や超自我と、自我や超自我が折り畳ませる器官なき身体は、けして融合しない。
自我や超自我の機能が未去勢者より強い正常人はすぐ無意識と意識の融合を説く。わたしが個人的に精神病としてのパラノイアすれすれを生きていたと(診断はしないが)推測するユングである。
超自我も無意識なのだから別にそれが自我などといった意識と融合するのはいい。そんなことわたしは興味ない。どうでもいい。
しかし、根拠としての他者と無意識の本質たる現実界はけして融合しない。刺激と欲動は相関してはいるが一体のものではない。たとえば自我や超自我が生じていない生まれたばかりの赤ん坊(妄想分裂態勢や抑鬱態勢)の主観世界においても、混淆はしていようが、あくまで混淆であり融合しているわけではない。未分化ではあろうが融合しているわけではない。浸透はするだろうが一体になるわけではない。量子力学的な物。粒子性と波動性の両立。確率でしか認識できない予測不可能な振る舞い。
自分勝手な物たち。たまたまそれらを、別々の部屋に閉じ込めるがごとく分割し、かつ分割した部屋を繋ぐドアでもある自我や超自我を持っている人間が、その状態を述べようとして融合や未分化や混淆あるいは粒子性と波動性などという言葉を用いて混乱しているだけである。
この混淆はしていようがけして融合するわけではない、というのがわたしの主張における
「断絶」の根拠である。
従って、「僕」という他者の立場で歌いながら「僕」と本来の自分である「きみ」の「もう帰れない」別れを歌うこの曲は、根拠としての他者と無意識の本質たる現実界の、混淆と断絶という両側面を同時に歌った曲である、とも言える。
また、わたしはラカン論の鏡像段階即ち去勢の裏側がクリステヴァ論のアブジェクシオンだと考えているが、「僕」が壊れた「きみ」を棄てることを歌うこの曲は、無意識の本質たる現実界を棄却して去勢される、他者が根拠になるということを指摘していると、まさにアブジェクシオンそのものを歌っていると解釈できる。
「耐性」を身につけた「受信者でしかない」「僕」が、「言葉のウンコ」に塗れ「身を亡ぼしてしまっ」た「きみ」という詩人を棄却する歌である。他者に支配された正常人たる「僕」が、劣化した世界を生きていく、鈍感な人間として生きていく、正常人として生きていく瞬間の、精神分析的な意味での事実を見事に表現している歌だと、精神分析理論で説明可能なわけである。
うん、もちろん深読み。その記事でも書いたけどあんま好きじゃねえし。
「粒子性と波動性の両立」について量子力学知らない人にどう説明すればいいんだろうなーと思ってぱらぱらネット見てたら
こんな記事見つけた。
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電子は粒子だ! しかし狂気の振る舞いをする
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フイタ。詩人の言葉だとすら言えるわ。これ以上の説明はない(笑)。
あーそっか。大学では物性物理やってたんだけどある日突然演劇と量子力学ががっちょんこしたんだよな。ってどっかに書いたな。
あーこれこれ。演劇も量子力学も狂気を
整形手術するもんだったんだな。わたしにとって。
ああ、なんかそれわかったからもういいや。
お腹痛い。
最近母親がうんこ漏らす夢をたびたび見る。たびたびってほどじゃないな。二、三回。リアル母はアホみたいに元気でボケる徴候すら見せてないけどね。わたしのエネルギー吸い取ってんじゃないかとすら。
いつもの調子でトイレから出てくる母。なんか臭い。お尻の部分が汚れている。
「ちょ、何やってんの!?」
「ああ最近具合つかなくてねえ」
とけらけら笑う母。けらけら笑いながらもお尻の部分がもこもこと膨れ上がる。
「ちょっと早くトイレ行きなさいよ」
けらけら笑うだけ。
わたしはベッドに横になっている。母がうちに来た時は大体わたしより母が早く起きるからいつものことなんだけど、暗い。夕方。
ふと気づくと掛け布団がうんこ塗れになっていた。