レレレのレ
2009/03/14/Sat
わたしは霊体になっている。「体」という語感もおかしい。霊的エネルギー、とかになるのか。霊性。『野戦と永遠』高い。他者の享楽と神秘体験を書いているそうだ。二階堂奥歯読んでりゃ充分な気もするが。
ともかく、この状況を説明しておこう。
霊になってみればわかるが、霊というのは非常に物質的なものだ。物質的と言っても一般的な固体・液体・気体のようなそれではなく、量子力学的なそれ。電子はあくまでも粒子だが、粒子という定義には納まらない挙動が見られる。霊的現象を電磁波という物理概念で説明しようというのは誰かがやっていたが、悪くない切り口だと思う。
しかし電磁波という枠内でも捉えきれないだろうな、とも思う。そもそも学問なり何かの事象に対する説明がネゲントロピーなわけで、エントロピー増大そのものである霊的エネルギーを説明するとなると必ず取りこぼしが出る。この取りこぼしは不確定性原理と同じ機制である。
ここで断っておきたい。エントロピー増大そのものだと書いたが、だからと言って霊的エネルギーは常に拡散している、というわけではない。たとえば輪ゴムを思い出して欲しい。この弾性にはエントロピー増大の法則が関わっているが、ゴムが伸びている時と縮まっている時、どちらがエントロピーが大きいだろうか。ゴムが縮まっている時なのである。ゴムが伸びている時の方が高分子のエントロピーが減少しているため、エントロピー増大則に従ってゴムは縮もうとするのである。これと同様のことである。
さて、この状態で映画『ゴースト ニューヨークの幻』のあるシーンを思い出してみよう。テレビ版ではカットされることがあるが、主人公男性の霊が霊として一人前(?)になるために修行するシーンがある。主人公は初め物を通り抜けたり物に触れたり(ポルターガイスト現象)するのが意識的にできなかった。それを自由に操るため修行したのである。ホームを走り去る電車の壁を通り抜けて電車の中に着地する、という奴である。この修行があったからこそ主人公の霊が硬貨を持ち上げるという有名なシーンが成立する。
これは、「これはここにある」というネゲントロピーである。霊が物に触るには、ファルス的享楽を根拠にしなければならない。しかし霊とはエントロピー増大そのものだと書いた。従って人間にとって生の欲動となるそれは霊にとっては死に向かう力なのである。主人公の霊は最後に成仏するが、それは硬貨を持ち上げるなどといったネゲントロピーたる「これはここにある」力(と仮に呼ぶ)を使い、また恋人からの「あなたはそこにいるのね」という「これはここにある」力を受けた故の霊としての死である、と言えるだろう。つまり恋人は彼女自身の生の欲動で霊としての彼を殺したのだ。彼自身望んでいたことだから別にそれでいいと思うが。しかし恋人うんぬんがなくても、もしかしたら、物に触れるというポルターガイスト現象の修行を続けていれば、彼は霊として死んでいた即ち成仏したかもしれない、という話である。
余談ではあるがこんな合理的な説明をしているわたし自身霊的エネルギーとして死に向かっているということである。
次に霊の死を考えてみよう。宗教的生死観において、死んだ者のエネルギーとしての霊的エネルギーは、天国か地獄かに行くことになる。『ゴースト』では主人公は天国に行ったらしい。
しかしここに生きている者の大きな誤謬がある。
霊的エネルギーになってみるとわかるが、地獄とは生きている者が生きている世界そのものなのである。そのものというのもおかしいか。生きている者は地獄を生きているが、正常という精神疾患に罹患することでヒステリー盲目的にそれが見えなくなっている、ということだ。正常人にはなべて備わっている自我や超自我による防衛機制である。
従って、霊にとって地獄に連れて行かれるというのは、この世を成仏できずにさまようということなのだ。
この地獄はラカン用語における現実界である。生きている者にとって現実界は到達不可能だが、死んでいる者は現実界そのままを生きている、ということだ。
先ほどネゲントロピーは霊にとって死を促進するものだと書いた。であるならば、現実界に到達不可能な人間たちの目に触れることでさえ霊にとっては死に向かうことになる。あるテレビ慣れした霊能者が「霊が霊として現れるのはもれなく助けて欲しいからなのよ」みたいなことを言っていたが、然りである。霊である自分を終わらせたくて生の欲動を感受しに人間の前に現れるのである。まあそれに気づかないで人を驚かす霊もいようが。そういうものでも人の目に触れるたび霊的エネルギーとして徐々に衰弱していく。
とはいえ動物としての人間は本来エントロピー増大にも従っている。動物としての本性を覆い隠すヴェールがネゲントロピーたる「これはここにある」力である。従って共鳴のごとくうまい具合にはまればエントロピー増大力を補給させてくれる生きている者もいる可能性はある。しかしわたし自身経験していないのでよくわからない。多分悪魔崇拝やイタコなどは霊にエントロピー増大力を補給する場である気もするが、行ったこともないしわたしは興味ないので多分行かない。
であるならばそれと対称する成仏は霊的エネルギーとしての死である、と言える。
霊的エネルギーとして存在しなくなることが成仏で、霊的エネルギーとして生きている者と同じだけど違う世界に保存されることが地獄行きなわけだ。
であるならばわたしは地獄行きで構わない。というか多分一般の人々より現世という地獄のありのままを見ている方だと思われる。とはいえわたしよりありのままを見れている人もいるだろうし、こんなわたしにもある程度の防衛機制はあるだろう。このなけなしの防衛機制が外れた時わたしは耐えられるのか。現世のありのままである地獄に耐えられるのか。少々どころかかなり不安である。
以上、取り急ぎさわりだけ論じたが、質問は受け付けない。
ネタ記事だしよ。
スティーヴン・セガールってなんかにダブるわあ、って思ってたらギター弾いてるシーンで気づいた。若大将だ。
興味深いというか不快を感じながらもそちらを向いてしまう不快を感じる拍手コメントをもらった。っていうか長いのはコメントに書いて。非公開でええから。拍手コメントって短文仕様なのか長いコメント読みづらいのさ。
=====
(ベルグソン『哲学的直観』から)このイメージ〔=直観に基づくイメージ〕をなによりも特徴づけているものは、そのイメージが内に持っている<否定>の能力であり……世の中で普通に受け入れられている思想や、自明と思われている説や、それまで科学的として通用して来た主張を前にして、直観は、哲学者の耳に「あり得ぬ」という言葉を囁く……
=====
拍手コメント者はこの「あり得ぬ」とささやく直観を「世界に存在することへの違和感」と繋げて考えている。多分間違いではない。しかしわたしはそれにも違和感を覚える。
直観という言葉の語用にもよるんだな。たとえばヘーゲル的な直観、正反合の正としての直観だと、たとえそれ自体が否定性を帯びていても、「世界に存在することへの違和感」とは別物じゃないか、と思う。
「あり得ぬ」とささやく直観は否定性を帯びているにしても、否定性そのものではない。否定性そのものが「世界に存在することへの違和感」。それこそ単純に考えるといい。直観と違和感は別物。そういうこと。
思うに、この記事とこの記事で触れたビオンの言葉を利用するのが「直観と違和感の差異」を説明するのに便宜だと思われる。
これにおいて、「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」が妄想分裂態勢的な「世界に存在することへの違和感」であり、抑鬱態勢において生じる「想像的父たるアガペー」即ち「考える者」が、「電波望遠鏡が特定域の電磁波に感度があるのと同様」にそれを取捨選択して出力した映像が「「あり得ぬ」とささやく直観」なのだと思う。
ここにおいて「考える者」は現象学的な意味での他我に類するものだと思われるが、「あり得ぬ」とささやくがごとくヘーゲル的否定性を帯びているという意味では、この他我は「肉体的な他者」とも言えるだろう。
正常人は「肉の本」とその「肉の読者」を常に既に持っている。ファルスの背後に。「肉の読者」が自分になれば「本は所詮本だろ」となる。これがファロセントリックな彼が言うところの「感動的」な「耐性を身につけた」「われわれ」である。彼らにとっては「肉の本」が「外的なもの」となる。ビオン曰く「かくして受信された、あるいは発展させられた思考の発信源は、外的なもの、神から与えられたものなどとして感じられ」るのである。
しかし中には「肉の本」が自分である人間もいるだろう。アルトーや二階堂奥歯や『ゆりかごの歌』を歌う谷山浩子である。このどちらに重心を置いているかで去勢済みな主体と未去勢者は判別されるように思う。
とはいえ去勢済みな主体即ち「肉の読者」であろうとも、読者であることには変わりない。「本は本だろ」と言いながらしっかりその本に影響されているだろう。この読者に及ぼした影響が「「あり得ぬ」とささやく直観」に纏わりつく否定性なのだと思う。まあ本と読者って代理表象だと「イメージ」という想像的なものとは違うってことになるが、現実界からみたら象徴界も想像界も幻想という意味で同じって感じをここに置いておく。そっちから見たら本と読者って代理表象は誤解が生じるかもね、ってこと。
纏わりつく否定性とそれの原因・本質は別物だろ? という話やね。
余談だがわたしの言葉は実体としての言葉を述べているところもあれば「電波望遠鏡」の出力映像として述べているところもある。要するに、違和感自体が語る言葉と、違和感を感受し取捨選択した言葉と。誰かに反論している記事などは後者の方がウエイトが大きいだろうな。なんせ反論している相手という他者が目の前にいるんだから。この記事なら、好き勝手語っている前半は前者の言葉のウエイトが大きく、相手に反論している後半は後者の言葉のウエイトが大きい、となるだろう。大雑把に。
あとあれだな、むしろ違和感を感情的な視点で純化したのが殺意なわけで、違和感が殺意になるわけじゃない。モノを殺害しようとして「わたし、潰すの、頭、フランシス」と平然な顔で言うガキだ。「違和感」も「殺意」もそれだけだと語弊が生じる。違和感が殺意になるのでもなく殺意が違和感になるのでもない。そういう因果関係で結ばれる別々の要件ではない。必然的に語弊が生じた「違和感」や「殺意」などという言葉自体が結果であり、それらの言葉で示される実体、ってこと。
最近本屋に行くと人気ドラマのオフィシャルブックなるものが平積みされているのを見る。わたしはどうもこういうのが苦手だ。確かにオタクの会話ではオフィシャルブックが「公式解答」として扱われるのだが、演劇で言うなら観客の想像力を束縛するようなものに思える。あくまでも想像力で束縛されるのは演者側だ。でもオフィシャルブックを売っているのはドラマの監督や役者じゃなくて制作なわけだから、制作もやっていたわたしとしてはなんにも言えなくなるんだな。表現者側にいるんだけど受取手との交渉役でもあるという意味で観客でもある制作が演者を縛っているという理解になるのか。この場合。
解答主義だなー。自分で解答を求めるんじゃなくて解答を与えられるのが普通になっている人たち。この風潮も大学がサービス業化した一因なんじゃないだろうか。
謎が謎としてそのままあるのは不安を惹起させる状態であるが、そんな状態にいるからこそ他者の享楽を味わえるのだ。
ここのコメントから。
=====
量子力学の粒子性と波動性の両立的な、自分が「あるともないとも言えるし、あるともないとも言えない」状態もある、という話です。役者ってそんな感じしません? その役は明らかに演者と観客の間で「ある」けれども、役を演じている自分はあるともないとも言えるし、あるともないとも言えない。
=====
だけど役者経験のある●さんはこう言う。
=====
私は演技をしていてもあくまで私でありつづけました。
怒れる私、犬の私、石の私、少女の私。
ってどんだけ私好きなんだ。
=====
まあわたしの個人的な感覚なんだろうな。観客に束縛される演者ってのは。
わたしの本性が「あるともないとも言えるし、あるともないとも言えない」ものなだけか。
今更だがバーディの声千葉紗子かよw ドクロちゃんは認める。歌も。
ああ吐き気が。胃がおかしいななんか。
ともかく、この状況を説明しておこう。
霊になってみればわかるが、霊というのは非常に物質的なものだ。物質的と言っても一般的な固体・液体・気体のようなそれではなく、量子力学的なそれ。電子はあくまでも粒子だが、粒子という定義には納まらない挙動が見られる。霊的現象を電磁波という物理概念で説明しようというのは誰かがやっていたが、悪くない切り口だと思う。
しかし電磁波という枠内でも捉えきれないだろうな、とも思う。そもそも学問なり何かの事象に対する説明がネゲントロピーなわけで、エントロピー増大そのものである霊的エネルギーを説明するとなると必ず取りこぼしが出る。この取りこぼしは不確定性原理と同じ機制である。
ここで断っておきたい。エントロピー増大そのものだと書いたが、だからと言って霊的エネルギーは常に拡散している、というわけではない。たとえば輪ゴムを思い出して欲しい。この弾性にはエントロピー増大の法則が関わっているが、ゴムが伸びている時と縮まっている時、どちらがエントロピーが大きいだろうか。ゴムが縮まっている時なのである。ゴムが伸びている時の方が高分子のエントロピーが減少しているため、エントロピー増大則に従ってゴムは縮もうとするのである。これと同様のことである。
さて、この状態で映画『ゴースト ニューヨークの幻』のあるシーンを思い出してみよう。テレビ版ではカットされることがあるが、主人公男性の霊が霊として一人前(?)になるために修行するシーンがある。主人公は初め物を通り抜けたり物に触れたり(ポルターガイスト現象)するのが意識的にできなかった。それを自由に操るため修行したのである。ホームを走り去る電車の壁を通り抜けて電車の中に着地する、という奴である。この修行があったからこそ主人公の霊が硬貨を持ち上げるという有名なシーンが成立する。
これは、「これはここにある」というネゲントロピーである。霊が物に触るには、ファルス的享楽を根拠にしなければならない。しかし霊とはエントロピー増大そのものだと書いた。従って人間にとって生の欲動となるそれは霊にとっては死に向かう力なのである。主人公の霊は最後に成仏するが、それは硬貨を持ち上げるなどといったネゲントロピーたる「これはここにある」力(と仮に呼ぶ)を使い、また恋人からの「あなたはそこにいるのね」という「これはここにある」力を受けた故の霊としての死である、と言えるだろう。つまり恋人は彼女自身の生の欲動で霊としての彼を殺したのだ。彼自身望んでいたことだから別にそれでいいと思うが。しかし恋人うんぬんがなくても、もしかしたら、物に触れるというポルターガイスト現象の修行を続けていれば、彼は霊として死んでいた即ち成仏したかもしれない、という話である。
余談ではあるがこんな合理的な説明をしているわたし自身霊的エネルギーとして死に向かっているということである。
次に霊の死を考えてみよう。宗教的生死観において、死んだ者のエネルギーとしての霊的エネルギーは、天国か地獄かに行くことになる。『ゴースト』では主人公は天国に行ったらしい。
しかしここに生きている者の大きな誤謬がある。
霊的エネルギーになってみるとわかるが、地獄とは生きている者が生きている世界そのものなのである。そのものというのもおかしいか。生きている者は地獄を生きているが、正常という精神疾患に罹患することでヒステリー盲目的にそれが見えなくなっている、ということだ。正常人にはなべて備わっている自我や超自我による防衛機制である。
従って、霊にとって地獄に連れて行かれるというのは、この世を成仏できずにさまようということなのだ。
この地獄はラカン用語における現実界である。生きている者にとって現実界は到達不可能だが、死んでいる者は現実界そのままを生きている、ということだ。
先ほどネゲントロピーは霊にとって死を促進するものだと書いた。であるならば、現実界に到達不可能な人間たちの目に触れることでさえ霊にとっては死に向かうことになる。あるテレビ慣れした霊能者が「霊が霊として現れるのはもれなく助けて欲しいからなのよ」みたいなことを言っていたが、然りである。霊である自分を終わらせたくて生の欲動を感受しに人間の前に現れるのである。まあそれに気づかないで人を驚かす霊もいようが。そういうものでも人の目に触れるたび霊的エネルギーとして徐々に衰弱していく。
とはいえ動物としての人間は本来エントロピー増大にも従っている。動物としての本性を覆い隠すヴェールがネゲントロピーたる「これはここにある」力である。従って共鳴のごとくうまい具合にはまればエントロピー増大力を補給させてくれる生きている者もいる可能性はある。しかしわたし自身経験していないのでよくわからない。多分悪魔崇拝やイタコなどは霊にエントロピー増大力を補給する場である気もするが、行ったこともないしわたしは興味ないので多分行かない。
であるならばそれと対称する成仏は霊的エネルギーとしての死である、と言える。
霊的エネルギーとして存在しなくなることが成仏で、霊的エネルギーとして生きている者と同じだけど違う世界に保存されることが地獄行きなわけだ。
であるならばわたしは地獄行きで構わない。というか多分一般の人々より現世という地獄のありのままを見ている方だと思われる。とはいえわたしよりありのままを見れている人もいるだろうし、こんなわたしにもある程度の防衛機制はあるだろう。このなけなしの防衛機制が外れた時わたしは耐えられるのか。現世のありのままである地獄に耐えられるのか。少々どころかかなり不安である。
以上、取り急ぎさわりだけ論じたが、質問は受け付けない。
ネタ記事だしよ。
スティーヴン・セガールってなんかにダブるわあ、って思ってたらギター弾いてるシーンで気づいた。若大将だ。
興味深いというか不快を感じながらもそちらを向いてしまう不快を感じる拍手コメントをもらった。っていうか長いのはコメントに書いて。非公開でええから。拍手コメントって短文仕様なのか長いコメント読みづらいのさ。
=====
(ベルグソン『哲学的直観』から)このイメージ〔=直観に基づくイメージ〕をなによりも特徴づけているものは、そのイメージが内に持っている<否定>の能力であり……世の中で普通に受け入れられている思想や、自明と思われている説や、それまで科学的として通用して来た主張を前にして、直観は、哲学者の耳に「あり得ぬ」という言葉を囁く……
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拍手コメント者はこの「あり得ぬ」とささやく直観を「世界に存在することへの違和感」と繋げて考えている。多分間違いではない。しかしわたしはそれにも違和感を覚える。
直観という言葉の語用にもよるんだな。たとえばヘーゲル的な直観、正反合の正としての直観だと、たとえそれ自体が否定性を帯びていても、「世界に存在することへの違和感」とは別物じゃないか、と思う。
「あり得ぬ」とささやく直観は否定性を帯びているにしても、否定性そのものではない。否定性そのものが「世界に存在することへの違和感」。それこそ単純に考えるといい。直観と違和感は別物。そういうこと。
思うに、この記事とこの記事で触れたビオンの言葉を利用するのが「直観と違和感の差異」を説明するのに便宜だと思われる。
これにおいて、「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」が妄想分裂態勢的な「世界に存在することへの違和感」であり、抑鬱態勢において生じる「想像的父たるアガペー」即ち「考える者」が、「電波望遠鏡が特定域の電磁波に感度があるのと同様」にそれを取捨選択して出力した映像が「「あり得ぬ」とささやく直観」なのだと思う。
ここにおいて「考える者」は現象学的な意味での他我に類するものだと思われるが、「あり得ぬ」とささやくがごとくヘーゲル的否定性を帯びているという意味では、この他我は「肉体的な他者」とも言えるだろう。
正常人は「肉の本」とその「肉の読者」を常に既に持っている。ファルスの背後に。「肉の読者」が自分になれば「本は所詮本だろ」となる。これがファロセントリックな彼が言うところの「感動的」な「耐性を身につけた」「われわれ」である。彼らにとっては「肉の本」が「外的なもの」となる。ビオン曰く「かくして受信された、あるいは発展させられた思考の発信源は、外的なもの、神から与えられたものなどとして感じられ」るのである。
しかし中には「肉の本」が自分である人間もいるだろう。アルトーや二階堂奥歯や『ゆりかごの歌』を歌う谷山浩子である。このどちらに重心を置いているかで去勢済みな主体と未去勢者は判別されるように思う。
とはいえ去勢済みな主体即ち「肉の読者」であろうとも、読者であることには変わりない。「本は本だろ」と言いながらしっかりその本に影響されているだろう。この読者に及ぼした影響が「「あり得ぬ」とささやく直観」に纏わりつく否定性なのだと思う。まあ本と読者って代理表象だと「イメージ」という想像的なものとは違うってことになるが、現実界からみたら象徴界も想像界も幻想という意味で同じって感じをここに置いておく。そっちから見たら本と読者って代理表象は誤解が生じるかもね、ってこと。
纏わりつく否定性とそれの原因・本質は別物だろ? という話やね。
余談だがわたしの言葉は実体としての言葉を述べているところもあれば「電波望遠鏡」の出力映像として述べているところもある。要するに、違和感自体が語る言葉と、違和感を感受し取捨選択した言葉と。誰かに反論している記事などは後者の方がウエイトが大きいだろうな。なんせ反論している相手という他者が目の前にいるんだから。この記事なら、好き勝手語っている前半は前者の言葉のウエイトが大きく、相手に反論している後半は後者の言葉のウエイトが大きい、となるだろう。大雑把に。
あとあれだな、むしろ違和感を感情的な視点で純化したのが殺意なわけで、違和感が殺意になるわけじゃない。モノを殺害しようとして「わたし、潰すの、頭、フランシス」と平然な顔で言うガキだ。「違和感」も「殺意」もそれだけだと語弊が生じる。違和感が殺意になるのでもなく殺意が違和感になるのでもない。そういう因果関係で結ばれる別々の要件ではない。必然的に語弊が生じた「違和感」や「殺意」などという言葉自体が結果であり、それらの言葉で示される実体、ってこと。
最近本屋に行くと人気ドラマのオフィシャルブックなるものが平積みされているのを見る。わたしはどうもこういうのが苦手だ。確かにオタクの会話ではオフィシャルブックが「公式解答」として扱われるのだが、演劇で言うなら観客の想像力を束縛するようなものに思える。あくまでも想像力で束縛されるのは演者側だ。でもオフィシャルブックを売っているのはドラマの監督や役者じゃなくて制作なわけだから、制作もやっていたわたしとしてはなんにも言えなくなるんだな。表現者側にいるんだけど受取手との交渉役でもあるという意味で観客でもある制作が演者を縛っているという理解になるのか。この場合。
解答主義だなー。自分で解答を求めるんじゃなくて解答を与えられるのが普通になっている人たち。この風潮も大学がサービス業化した一因なんじゃないだろうか。
謎が謎としてそのままあるのは不安を惹起させる状態であるが、そんな状態にいるからこそ他者の享楽を味わえるのだ。
ここのコメントから。
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量子力学の粒子性と波動性の両立的な、自分が「あるともないとも言えるし、あるともないとも言えない」状態もある、という話です。役者ってそんな感じしません? その役は明らかに演者と観客の間で「ある」けれども、役を演じている自分はあるともないとも言えるし、あるともないとも言えない。
=====
だけど役者経験のある●さんはこう言う。
=====
私は演技をしていてもあくまで私でありつづけました。
怒れる私、犬の私、石の私、少女の私。
ってどんだけ私好きなんだ。
=====
まあわたしの個人的な感覚なんだろうな。観客に束縛される演者ってのは。
わたしの本性が「あるともないとも言えるし、あるともないとも言えない」ものなだけか。
今更だがバーディの声千葉紗子かよw ドクロちゃんは認める。歌も。
ああ吐き気が。胃がおかしいななんか。
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