チャンスを逃す
2009/04/30/Thu
状態がよくない。
目をもんでたら右目の視力が元に戻らなくなった。タイプしづれえ。
アリソン・ローマンが野沢直子に見えてしょうがない。
勝手に影響されてろ。
軸と柵の違い。
今一度確認。軸も柵もあるのが去勢済みな主体であり、軸がなくあっても柵だけなのが未去勢者である。軸のない柵はラカン論のサントームという概念に相当するとわたしは考えている。このブログでは「軸」と「柵」という表現を多用しているので「これがそう」ってリンクを貼れないが、勝手にブログ内検索でもしてざーっと読んでくだちい。
簡単に言えば生後二年以内に形成された柵が成長するにつれ無意識の奥底に格納されたものが軸(ほぼファルスと同義)であり、本質的には軸も柵も同じ防衛機制なのである。自体愛と自己愛という概念を流用するなら自体愛的防衛機制が柵であり自己愛的防衛機制(の根拠)が軸である。ビオン論における「容器」は、大人にとっての軸が妄想分裂態勢及び抑鬱態勢の乳幼児にとっての柵的な防衛機制(という表現自体が微妙になるが)であったことを説明していると言える。
一時期「自分探し」という言葉が流行ったが、生後二年以内に柵が軸となった正常人にとっては無意識の奥底に格納された元は柵であった軸を再発見することだと言える。要するに正統な精神分析となんら構造的に違いはない。
では軸がなく事後的な柵しかない未去勢者にとって「自分探し」はどういうものになるか。
この記事から。
=====
ある未去勢者たちが集うスレから引用する。
=====
自分の心理状態と向き合う事は、ちょいと気をつけていた方がいいとオモ。
=====
正しい。「自分の心理状態と向き合う事」が、「人間らしさ」にとってよい結果となるのは、去勢済みな主体に限定されている。
=====
無意識に潜り込んで「自分探し」をすれば、セーフティネットのない未去勢者たちはその狂気を悪化させるだろう。アブジェに塗れた精神世界に陥るだろう。ビオン論ならばβ要素に翻弄されるだろう。
セーフティネット即ちビオン論で言う容器即ち軸がないのだから。
では、生後二年以降に築いた柵が軸になることはないのだろうか?
ないのである。何故なら生後二年以降の乳幼児は想像界、象徴界に、去勢済みな主体たちと異なる形で参入(と言えるかどうかは疑問だが)してしまっているからである。ラカン論で言うならボロメオの輪が綻んだ状態で彼らは想像界、象徴界を学んでしまう。
ボロメオの輪が綻んだ状態で想像界、象徴界を学んでしまうと、彼らの工夫はどうやってもサントームという第四の輪にしかならない。
想像界、象徴界を学ぶ前に柵は軸にならなければならない。いや、柵を築き上げなければならない。その後想像界、象徴界が形成されるにつれ、柵を軸としてボロメオの輪が形成されるのである。
この時軸となる柵がなかった人間は、ボロメオの輪が綻んだままで成長していく。そういった彼らの中でも、一見正常人と変わらぬ言動を取れる人間がいるだろう。しかし彼らは第四の輪でボロメオの輪を保持しているのである。彼らにとって柵は軸のない柵のままなのである。
要するに、柵が軸になるのだが、想像界、象徴界という非現実界を学ぶ直前(あるいは学び始めたごくごく初期)のある一定期間に柵がないと軸とはならない、そのある時期を逃すと柵は軸にならない、という話である。未去勢者たちは柵が軸になる唯一無二のチャンスを逃した人々である、とも言えるだろう。
ここに去勢済みな主体と未去勢者の決定的な隔たりがある。いや、こうやって説明できる、という話にすぎないが。
ここのコメント欄なら
=====
しかし、ほぼ運命的に(先天的かつ後天的に)基礎を学べた正常人たちと比べると、(未去勢者の)その機能にはどうしても差が生じてしまいます。
=====
における「どうしても生じてしまう差」に相当する話だろう。
そういうこった。
あーそうそう吉本隆明の「共同幻想」とか「対幻想」ってビオンの「依存」とか「ペアリング」とかと関連させて考えたら大したこと言ってないのがわかりそう。理屈操作は簡単そうなので誰かやっといて。
あーだる。
目をもんでたら右目の視力が元に戻らなくなった。タイプしづれえ。
アリソン・ローマンが野沢直子に見えてしょうがない。
勝手に影響されてろ。
軸と柵の違い。
今一度確認。軸も柵もあるのが去勢済みな主体であり、軸がなくあっても柵だけなのが未去勢者である。軸のない柵はラカン論のサントームという概念に相当するとわたしは考えている。このブログでは「軸」と「柵」という表現を多用しているので「これがそう」ってリンクを貼れないが、勝手にブログ内検索でもしてざーっと読んでくだちい。
簡単に言えば生後二年以内に形成された柵が成長するにつれ無意識の奥底に格納されたものが軸(ほぼファルスと同義)であり、本質的には軸も柵も同じ防衛機制なのである。自体愛と自己愛という概念を流用するなら自体愛的防衛機制が柵であり自己愛的防衛機制(の根拠)が軸である。ビオン論における「容器」は、大人にとっての軸が妄想分裂態勢及び抑鬱態勢の乳幼児にとっての柵的な防衛機制(という表現自体が微妙になるが)であったことを説明していると言える。
一時期「自分探し」という言葉が流行ったが、生後二年以内に柵が軸となった正常人にとっては無意識の奥底に格納された元は柵であった軸を再発見することだと言える。要するに正統な精神分析となんら構造的に違いはない。
では軸がなく事後的な柵しかない未去勢者にとって「自分探し」はどういうものになるか。
この記事から。
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ある未去勢者たちが集うスレから引用する。
=====
自分の心理状態と向き合う事は、ちょいと気をつけていた方がいいとオモ。
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正しい。「自分の心理状態と向き合う事」が、「人間らしさ」にとってよい結果となるのは、去勢済みな主体に限定されている。
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無意識に潜り込んで「自分探し」をすれば、セーフティネットのない未去勢者たちはその狂気を悪化させるだろう。アブジェに塗れた精神世界に陥るだろう。ビオン論ならばβ要素に翻弄されるだろう。
セーフティネット即ちビオン論で言う容器即ち軸がないのだから。
では、生後二年以降に築いた柵が軸になることはないのだろうか?
ないのである。何故なら生後二年以降の乳幼児は想像界、象徴界に、去勢済みな主体たちと異なる形で参入(と言えるかどうかは疑問だが)してしまっているからである。ラカン論で言うならボロメオの輪が綻んだ状態で彼らは想像界、象徴界を学んでしまう。
ボロメオの輪が綻んだ状態で想像界、象徴界を学んでしまうと、彼らの工夫はどうやってもサントームという第四の輪にしかならない。
想像界、象徴界を学ぶ前に柵は軸にならなければならない。いや、柵を築き上げなければならない。その後想像界、象徴界が形成されるにつれ、柵を軸としてボロメオの輪が形成されるのである。
この時軸となる柵がなかった人間は、ボロメオの輪が綻んだままで成長していく。そういった彼らの中でも、一見正常人と変わらぬ言動を取れる人間がいるだろう。しかし彼らは第四の輪でボロメオの輪を保持しているのである。彼らにとって柵は軸のない柵のままなのである。
要するに、柵が軸になるのだが、想像界、象徴界という非現実界を学ぶ直前(あるいは学び始めたごくごく初期)のある一定期間に柵がないと軸とはならない、そのある時期を逃すと柵は軸にならない、という話である。未去勢者たちは柵が軸になる唯一無二のチャンスを逃した人々である、とも言えるだろう。
ここに去勢済みな主体と未去勢者の決定的な隔たりがある。いや、こうやって説明できる、という話にすぎないが。
ここのコメント欄なら
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しかし、ほぼ運命的に(先天的かつ後天的に)基礎を学べた正常人たちと比べると、(未去勢者の)その機能にはどうしても差が生じてしまいます。
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における「どうしても生じてしまう差」に相当する話だろう。
そういうこった。
あーそうそう吉本隆明の「共同幻想」とか「対幻想」ってビオンの「依存」とか「ペアリング」とかと関連させて考えたら大したこと言ってないのがわかりそう。理屈操作は簡単そうなので誰かやっといて。
あーだる。
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