あっしゅくしゅくしゅ
2009/05/01/Fri
不快な感じが体に充満している。わたしは不快をきつく抱きしめている。
不快だからあなたを抱きしめたい。あなたが窒息死してしまうほどに。獣は邪険に獣を抱く。
あるキチガイが言った。
「殺し合いでないセックスは信用しない」
正常人の性欲は信用できない。不快を閉じ込めるセックスではない。むしろお前はこれを解放させようとしている。
お前にとってわたしの不快は快楽らしい。
だからお前は下卑なのだ。
夢における無意識の検閲機制である圧縮、置換を、ラカンはそれぞれ隠喩、換喩と読み替えた。
前記事やここのコメント欄で述べている柵とは圧縮・隠喩に当たるだろう。置換や換喩は柵により区分けされた領域である。従って隠喩と換喩どちらが先というわけではない。ある事象の二側面を述べているのである。
『アンチ・オイディプス』風に言うなれば器官なき身体上の「強度」を隠蔽・劣化するのが隠喩であるが、逆に言えば、ビオンの言うところの「β要素」からの「接触防壁」としてそれは機能しているのである。「β要素」に翻弄されているのが器官なき身体であり、それが「接触防壁」と接触した時のエネルギーが「強度」である。
従って、確かに隠喩は「強度」を隠蔽・劣化するものではあるが、隠喩なしでは「強度」として発現しないのである。観測者は物自体に到達できずそれを劣化したものしか認識できないが、観測者がいなければそれは観測できない、というわけだ。ここのコメント欄で言うなれば、高インピーダンスは微細な信号を感知する、ということに喩えられるだろう。
わたしの不快を圧縮する隠喩はどこにありますか?
わたしという身勝手な粒子たちを梱包する「容器」はどこにありますか?
二階堂奥歯『八本脚の蝶』より。
=====
私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
=====
説得力のある読み。殺し合いのセックス。
そこにあるかもしれない隠喩。
二階堂は待ちきれなかった。そしておそらく死んでも待ち続けている。
下卑た隠喩などいらない。
軸もあって柵もある去勢済みな主体が使用する隠喩は、軸と柵によって二重に圧縮されている。二重であることが劣化だと言える。
ところが未去勢者たちは軸による圧縮過程が弱いため、事後的な柵によって主に圧縮する。これが「強度」として顕現するのだ。
単に、未去勢者は「β要素」と「接触防壁」の接触が意識的領野に及んでいるから「強度」が生じる、という言い方でも構わない。一方、去勢済みな主体にとってそれは無意識の奥深くに格納された領野にある。意識的領野でさらに圧縮される。劣化される。結果彼らの「強度」は希薄になる。
イメージで考えれば単純な構造である。
わたし作詞作曲『圧縮の歌』(『解体の歌』の続き)
あっしゅくあっしゅくあっしゅくしましょ
あなたとわたしであっしゅくしましょ
ろうにゃくなんにょもあのひとも にっこりわらってあっしゅくしゅくしゅ
あっしゅくしゅくしゅくばらばらばいばい
あなたがわたしをくっつけちゃうの
『ハガレン』ロイの声変わってる……。
今の方がバランスはいいっちゃーいいんだけどなあ。
ここのコメント欄とかで「「強度」って言葉が語弊が多いから使いたくない」とか言ってるけど結構使ってるよな、わたし。
確かに語弊が多いのだ。「強度」という意味にファロセントリスム的な、マッチョイズム的な、硬度のあるイメージが纏わりつきやすい。これはドゥルージアン、ガタリアンに顕著な症状だ。しかしある意味仕方ないと言える。わたしの見立てではガタリ自身が強いエディプスコンプレックス者だからである。アンチ・ファルスを訴えるほど「語る主体」の強いファルスが透けて見えてくる。そういった文脈がドゥルージアン、ガタリアンたちに影響しているのだろう。ちなみに精神分析とはシニフィアン連鎖を分析することである故、その文脈とは即ち「語る主体」の症状である、となる(ジョーシキよね、ガタリアンなら)。要するにドゥルージアン、ガタリアンたちはそのテクストの「語る主体」に転移しており、結果「強度」という意味にファロセントリスム的なイメージを纏わりつかせている、というわけだ。
とはいえ、未去勢者としての自己弁護的要素などにおいて「強度」というシニフィアンは有用である。なので「硬度のある強度ではなく、生々しい現実感としての強度」などと補足すればそこそこ満足できるシニフィアンなんだよな。
そんな独り言。
……っておい! 『ハガレン』EDアニメくらオリの『さかな&ねこ』の人じゃねーか! 見覚えのある猫が出てきてびびったわ。
何メジャーな仕事してんだよカス。竹書房系のマンガ家は肉便器でなければならない(念のため言っとくがギャグだぞ)。
追記。
イトウさんとこから。
イトウ / TIME : 09/05/01 (Fri)
セリーヌ「夜の果ての旅」だっけ、を読み始めた
予想していたのと随分違った なんか主人公中学生っぽい
--------------------------------------------------------------------------------
NAME : 脂
TIME : 09/05/01 (Fri)
>なんか主人公中学生っぽい
最後まで読むとそれが確信に変わるだろう。
--------------------------------------------------------------------------------
NAME : イトウ
TIME : 09/05/01 (Fri)
危ない
気づかないところだった
主人公の中二臭が冒頭からすごいので、最初これはわざとやっているのだと思っていたけど、読んでいるとマジなのだとさとった
上下巻同時に買ってしまった。下巻買わなければよかった……。
--------------------------------------------------------------------------------
NAME : イトウ
TIME : 09/05/01 (Fri)
でもお笑いとして読めるのかもしれない
でも笑いにするにはちょっと足りないし、んーびみょー
自分には合わなかったらしいです
ガタリもセリーヌの反ユダヤ主義くらいやってくれてたら「社会という影絵にしか適用させない、逆精神分析のごっこ遊びとしての分裂分析」を認めてやってもよかったんだけどな。中二病度即ち去勢の否認の重篤度合いが
セリーヌ>>>>ガタリ
ってことにすぎんが。ガタリは人間として中途半端。ええ人格批判ですが何か?
セリーヌは嫌いじゃないよ、わたしゃ。
似たようなこと最近書いたなと思って探した。あった。この記事から。
=====
いや、どちらかというとやはりアルトーのテクストの方がそれっぽいな。セリーヌのテクストはまだ去勢の否認臭さがある。それ故クリステヴァに「人一倍神性を求めている故ユダヤ人という神の民族を愚弄する」などという「わたしの苦しみをわかって」=「わたしの苦しみを癒して」のごとき正常人的即ち定型的なメタ言語を読み込まれる。おそらくクリステヴァは、セリーヌは癒されたがっている=神に救われたがっている、と考えているだろう。これはわたしが感じた「去勢の否認臭さ」に相当する。一方、アルトーのテクストは否認ではなく棄却されたものの実体が感じられる。クリステヴァはアルトーのテクストについてほとんど言及していない。分析を避けているようにすら見える。まるで彼に対し「狂気に固執している」として治療を放棄したラカンのごとく。
=====
『臨場』第一話以降ましになってるな。
死ぬ前に一度言いたい言葉。
「これじゃあまるで犯人扱いじゃないですか」
不快だからあなたを抱きしめたい。あなたが窒息死してしまうほどに。獣は邪険に獣を抱く。
あるキチガイが言った。
「殺し合いでないセックスは信用しない」
正常人の性欲は信用できない。不快を閉じ込めるセックスではない。むしろお前はこれを解放させようとしている。
お前にとってわたしの不快は快楽らしい。
だからお前は下卑なのだ。
夢における無意識の検閲機制である圧縮、置換を、ラカンはそれぞれ隠喩、換喩と読み替えた。
前記事やここのコメント欄で述べている柵とは圧縮・隠喩に当たるだろう。置換や換喩は柵により区分けされた領域である。従って隠喩と換喩どちらが先というわけではない。ある事象の二側面を述べているのである。
『アンチ・オイディプス』風に言うなれば器官なき身体上の「強度」を隠蔽・劣化するのが隠喩であるが、逆に言えば、ビオンの言うところの「β要素」からの「接触防壁」としてそれは機能しているのである。「β要素」に翻弄されているのが器官なき身体であり、それが「接触防壁」と接触した時のエネルギーが「強度」である。
従って、確かに隠喩は「強度」を隠蔽・劣化するものではあるが、隠喩なしでは「強度」として発現しないのである。観測者は物自体に到達できずそれを劣化したものしか認識できないが、観測者がいなければそれは観測できない、というわけだ。ここのコメント欄で言うなれば、高インピーダンスは微細な信号を感知する、ということに喩えられるだろう。
わたしの不快を圧縮する隠喩はどこにありますか?
わたしという身勝手な粒子たちを梱包する「容器」はどこにありますか?
二階堂奥歯『八本脚の蝶』より。
=====
私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
=====
説得力のある読み。殺し合いのセックス。
そこにあるかもしれない隠喩。
二階堂は待ちきれなかった。そしておそらく死んでも待ち続けている。
下卑た隠喩などいらない。
軸もあって柵もある去勢済みな主体が使用する隠喩は、軸と柵によって二重に圧縮されている。二重であることが劣化だと言える。
ところが未去勢者たちは軸による圧縮過程が弱いため、事後的な柵によって主に圧縮する。これが「強度」として顕現するのだ。
単に、未去勢者は「β要素」と「接触防壁」の接触が意識的領野に及んでいるから「強度」が生じる、という言い方でも構わない。一方、去勢済みな主体にとってそれは無意識の奥深くに格納された領野にある。意識的領野でさらに圧縮される。劣化される。結果彼らの「強度」は希薄になる。
イメージで考えれば単純な構造である。
わたし作詞作曲『圧縮の歌』(『解体の歌』の続き)
あっしゅくあっしゅくあっしゅくしましょ
あなたとわたしであっしゅくしましょ
ろうにゃくなんにょもあのひとも にっこりわらってあっしゅくしゅくしゅ
あっしゅくしゅくしゅくばらばらばいばい
あなたがわたしをくっつけちゃうの
『ハガレン』ロイの声変わってる……。
今の方がバランスはいいっちゃーいいんだけどなあ。
ここのコメント欄とかで「「強度」って言葉が語弊が多いから使いたくない」とか言ってるけど結構使ってるよな、わたし。
確かに語弊が多いのだ。「強度」という意味にファロセントリスム的な、マッチョイズム的な、硬度のあるイメージが纏わりつきやすい。これはドゥルージアン、ガタリアンに顕著な症状だ。しかしある意味仕方ないと言える。わたしの見立てではガタリ自身が強いエディプスコンプレックス者だからである。アンチ・ファルスを訴えるほど「語る主体」の強いファルスが透けて見えてくる。そういった文脈がドゥルージアン、ガタリアンたちに影響しているのだろう。ちなみに精神分析とはシニフィアン連鎖を分析することである故、その文脈とは即ち「語る主体」の症状である、となる(ジョーシキよね、ガタリアンなら)。要するにドゥルージアン、ガタリアンたちはそのテクストの「語る主体」に転移しており、結果「強度」という意味にファロセントリスム的なイメージを纏わりつかせている、というわけだ。
とはいえ、未去勢者としての自己弁護的要素などにおいて「強度」というシニフィアンは有用である。なので「硬度のある強度ではなく、生々しい現実感としての強度」などと補足すればそこそこ満足できるシニフィアンなんだよな。
そんな独り言。
……っておい! 『ハガレン』EDアニメくらオリの『さかな&ねこ』の人じゃねーか! 見覚えのある猫が出てきてびびったわ。
何メジャーな仕事してんだよカス。竹書房系のマンガ家は肉便器でなければならない(念のため言っとくがギャグだぞ)。
追記。
イトウさんとこから。
イトウ / TIME : 09/05/01 (Fri)
セリーヌ「夜の果ての旅」だっけ、を読み始めた
予想していたのと随分違った なんか主人公中学生っぽい
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NAME : 脂
TIME : 09/05/01 (Fri)
>なんか主人公中学生っぽい
最後まで読むとそれが確信に変わるだろう。
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NAME : イトウ
TIME : 09/05/01 (Fri)
危ない
気づかないところだった
主人公の中二臭が冒頭からすごいので、最初これはわざとやっているのだと思っていたけど、読んでいるとマジなのだとさとった
上下巻同時に買ってしまった。下巻買わなければよかった……。
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NAME : イトウ
TIME : 09/05/01 (Fri)
でもお笑いとして読めるのかもしれない
でも笑いにするにはちょっと足りないし、んーびみょー
自分には合わなかったらしいです
ガタリもセリーヌの反ユダヤ主義くらいやってくれてたら「社会という影絵にしか適用させない、逆精神分析のごっこ遊びとしての分裂分析」を認めてやってもよかったんだけどな。中二病度即ち去勢の否認の重篤度合いが
セリーヌ>>>>ガタリ
ってことにすぎんが。ガタリは人間として中途半端。ええ人格批判ですが何か?
セリーヌは嫌いじゃないよ、わたしゃ。
似たようなこと最近書いたなと思って探した。あった。この記事から。
=====
いや、どちらかというとやはりアルトーのテクストの方がそれっぽいな。セリーヌのテクストはまだ去勢の否認臭さがある。それ故クリステヴァに「人一倍神性を求めている故ユダヤ人という神の民族を愚弄する」などという「わたしの苦しみをわかって」=「わたしの苦しみを癒して」のごとき正常人的即ち定型的なメタ言語を読み込まれる。おそらくクリステヴァは、セリーヌは癒されたがっている=神に救われたがっている、と考えているだろう。これはわたしが感じた「去勢の否認臭さ」に相当する。一方、アルトーのテクストは否認ではなく棄却されたものの実体が感じられる。クリステヴァはアルトーのテクストについてほとんど言及していない。分析を避けているようにすら見える。まるで彼に対し「狂気に固執している」として治療を放棄したラカンのごとく。
=====
『臨場』第一話以降ましになってるな。
死ぬ前に一度言いたい言葉。
「これじゃあまるで犯人扱いじゃないですか」
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