死に様
2009/05/19/Tue
「空観とは悪意の総体論である」
この指摘を否定する馬鹿にはこう言ってやればいい。
「それを説いた龍樹の死に様はどんなんだった?」
と。
『レディ・イン・ザ・ウォーター』悪評のわりにはおもしろかったな。
わかりやすいサスペンス感はない、あっても完全に型にはまったもので、受取手が裏切られるという不安感はない。
でも、だからこそ漫然とした宙ぶらりんな感じの不安定さが際立っていたと思う。
『シックス・センス』はメジャー向けだろうから別に批判じゃないけれど、アイデア勝負みたいなところがあるじゃん。『ヴィレッジ』も。わたしなんかはああいうのあざといなー、って思うのだよね。
もちろん『レディ~』もあざといというか(ラカン的な意味じゃない)現実味がない。
現実味のなさというか非日常性なのだよな。
キチガイは正常人にとっての非日常性が日常になっているんだよ。
正常人にとっての日常的現実に現実味を感じられない。キチガイたちは。
それが彼らにとっての日常。
そんな感じが滲み出ていたと思う。
わかりやすいサスペンス感がないから安心して見ていられる、のではなく、正常人にとっての突発的な、間欠泉的な非日常性じゃない、漫然とした非日常性が、薄気味悪さみたいなかすかな不安感、宙ぶらりん感を醸し出している。
これを忌避して人は物語にすがるのだ。ストーリーのもとに集うのだ。
まー大衆ウケはしないだろうな、とも思えたから別にどうでもよか。
あ、『ヴィレッジ』批判してるようだけど、わたし的おもしろ度で言えば
『レディ~』≒『ヴィレッジ』>『シックス・センス』
だかんね。『ヴィレッジ』はおもしろい。『シックス・センス』は大衆ウケするなーって感じでおもしろい。
この記事から。
=====
おそらく、『アンチ・オイディプス』が分裂症の臨床実体を棄却していることと、ラカンが女を存在させなくしたことには等しい作用がある。
「用心せよ、やりすぎるな、如才なさを欠いてはならない」
文学者に対する戒めの言葉と等しい作用がある。
それは彼らにとっての接触防壁なのだ。
自身がβ要素に、器官なき身体に、現実界に、物自体に翻弄されないための。
想像界・象徴界に、オイディプスの三角形に留まるための。
狂気に陥らないための。
=====
『アンチ・オイディプス』が執拗に臨床実体としての分裂症者を棄却しているのは、ラカンの「女(ファルスのない人間、すなわち未去勢者)は存在しない」と全く等しい症状である。
ガタリはラカン派の鬼子などと言われるが、そうではない。彼は全くラカニアンであるのだ。彼が反発しているのはフロイトを読み直したラカン論をフロイト的なものに退行させようとしていた他の弟子たちにである。
彼もまたアンチ・ファルスを口走ることで自らのファルスを増長させようとしているファロセントリストなのだ。
ラカンもしばしばファルスに対し罵詈を吐いている。
ガタリは全く鬼子ではない。
ユングとアドラーを比した時、双方ともフロイトに反論しているが、アドラーの症状は非常にフロイト的であるのと同様に、ガタリの症状は非常にラカン的である。
アドラーもフロイトもラカンもガタリも、臨床実体としての分裂症者を、女を、狂気を怖れている。異常なまでに。
それをヌーメンとできたのはユングのみである。
ガタリは狂気を肯定しているようで、狂気の実体を棄却しているという点で、狡猾である。アジテーターである。口先だけのヌーメンならぬザーメン。「セックスなんて粘液の擦り合いにすぎないじゃん」などと言い逃れる童貞である。
フロイトやアドラーはパンツについたザーメンを執拗に洗っている。
射精しながら街を歩いているのがユングだ。ヤリチンだ。
だからわたしはユングが一番怖い。
ユング論は表象だけしか考えたくない。
あ、ついでに言っとくと童貞力(「DT力」と書くらしい)は特に物語系の芸術(マンガや小説や映画とか)には必要不可欠というわけじゃないが大事な要素だと思うよ。この記事とかおもしろい。
同記事から。
=====
折り畳めるならそれは器官なき身体ではない。『アンチ・オイディプス』が言う「器官なき身体」はファルスそのものだ。いやビオンの言う接触防壁、容器の方が厳密か(わたしはビオンの容器はファルスの裏面だと考えている。ここのコメント欄など)。
=====
これは正しくない。どちらかと言えばわたしというキチガイの妄想に近い。あえて言えば社会に対してではなくガタリという個人に対してわたしが行なった分裂分析の一過程だ。
素直にそのテクストを読むならば、「オイディプス(の三角形)」という言葉が指し示すものが容器に相当するだろう。
しかし、この容器はラカン論においてはトポロジー状となる。三角形だろうが四角形だろうが百角形だろうが円形だろうが同一視される容器である。
ガタリのエディプスコンプレックス批判は、この容器は三角形と限らず、百角形や百一角形や、さまざまな多角形である、という主旨である。
=====
社会的抑制を主とし家族的抑制を従とした。
=====
容器の本質は、家族的抑制という三角形的な容器が、社会的抑制という多数の角を持つ多角形であり、二次的に三角形化される、ということだ。要するに簡素化である。「要するに」という言葉そのものたる要約である。多角形である容器が家族というスクリーンに投影されて三角形に簡素化あるいは要約されるわけである。
このこともラカン論と同じ構造をしている。
=====
ラカンはフロイトが考えた去勢としてのエディプスコンプレックスを幻想とし、その本質に鏡像段階を持ち込んだ。
=====
ラカン論においてこの容器は他者と表現される。単なる他者なのだから三角形だろうが多角形だろうが可能なのである。「あれであり、これである」のが分裂症なら、ラカン論の方が『アンチ・オイディプス』よりよっぽど分裂的なのだ。
結局『アンチ・オイディプス』はラカン論の骨子を別の角度から光を当てたテクストなのである。ガタリは忠実な、自身が無自覚かもしれないほど忠実な、ラカニアンなのだ。
ラカン論との違いをあえて指摘するなら、骨子をアレンジしてアジテーションしている点ぐらいしか、わたしには思いつかない。
こういったわたしの論を、フロイト派がなんでもかんでもエディプスコンプレックスとしたように、なんでもかんでもラカン論にしてしまう専制君主的な精神分析の作用だ、と言われるかもしれない。『アンチ・オイディプス』はそれこそを批判しているのだ、と。
別にそれでいい。
わたしはラカン派の代表としてガタリ論と戦っているわけではない。派閥闘争などではない(別にそう思われようと、それにわたしの論を利用されようと知ったこっちゃない)。ガタリという神経症者を人格攻撃しているのである。ガタリという個人を分裂症化させたがっているのである。
わたしは以前から言っている。本当に脱領土的な主観世界を生きているキチガイは傾向的に領土を欲しがる。縛られたがる。正常人は領土という拘束を傾向的に嫌がる。脱領土化したがる。ただそうであるものとして脱領土「的」なのか、脱領土「化」するのかの違いである。後者はまさにガタリの症状である。
いや、もちろん傾向にすぎないのだから拘束されたがる正常人もいるだろう。「民衆がファシスムを望んだのである」ということだ。
しかしここには根本的な違いがある。フィールドが違うのである。
そいつの主観世界が最初から脱領土的である故縛られたがっているのか。元々領土化されているのを再領土化するために専制君主国家を望んでいるのか。
当然前者がキチガイであり後者が正常人である。
アルトーは言う。
「私はまだ考え始めていなかったのだ」
ガタリは「分裂症化はプロセスである」と力説しているが、これは正しい。脱領土的な主観世界は全てがプロセスだ。
しかし彼のこの言葉は、自身が分裂症化を目標としてしまっている心的事実の否認だと考えられる。実際、分裂症の臨床実体を棄却する言葉を吐きながら多数の臨床実体を彼は引用している。「脱領土」なる概念の実体として。
「脱領土化はプロセスである」とどんなに力説してもその言葉自体が目標となっていることを示している。「脱領土化」という言葉は「脱領土」を目標としていることを意味している。本当にプロセスだけの世界は「~化」などと表現されない。そこにはただ運動があるだけである。機械が作動しているだけである。量子力学的な状態があるだけである。
ガタリが分裂症の臨床実体を棄却しているのは、それを目標としてしまっている自分に対する否認であり、同時に狂気を怖れている故なのだ。エディプスコンプレックスを倒錯的に反転した故の、即ち去勢の否認の表象としての分裂症コンプレックスだ、とも表現できよう。
要するに、彼は彼のファルスを防衛するためにアンチ・ファルスを論じているのである。
そう断言せざるを得ない。
何故なら彼が何を論じようと何を思索しようと、彼が分裂症者ではない事実は揺るがないのだから。
医師の診断があるかどうかの問題ではない。テクストが隠喩する実体が神経症者なのだ。おそらくこの世の全ての精神分析家がそう診断するだろう。明らかに彼のテクストは分裂症のそれではなく神経症の症状である、と。事実後半になるにつれ「充実身体」という概念は神経症化していく。
「どんなに抗ってもオイディプスに行き着いてしまうのだ……」
これは自分のテクスト自体について述べている言葉である。ガタリ自身の症状を吐露しているのである。
彼のテクストには現実界が感じられない。
革命的にデコレーションされている(即ちアジ風な文体になっている)が、彼のテクストは何も革命していないのが実体である。自身の思想におそらく大きく影響したであろうラカン論を、彼は何も破壊していない。
『ハガレン』前作よりオリジナルに忠実に作ってる、って感じなのかな?
でもマンガよりダイジェスト版みたいな雰囲気になってるのが残念。
オリジナルに忠実であろうというのは別に批判しないけれど、マンガとアニメじゃ現実的な尺が絶対的に違うから、そこが問題になってる、ってことかねえ。
いや、おもろいよ。普通に。
この指摘を否定する馬鹿にはこう言ってやればいい。
「それを説いた龍樹の死に様はどんなんだった?」
と。
『レディ・イン・ザ・ウォーター』悪評のわりにはおもしろかったな。
わかりやすいサスペンス感はない、あっても完全に型にはまったもので、受取手が裏切られるという不安感はない。
でも、だからこそ漫然とした宙ぶらりんな感じの不安定さが際立っていたと思う。
『シックス・センス』はメジャー向けだろうから別に批判じゃないけれど、アイデア勝負みたいなところがあるじゃん。『ヴィレッジ』も。わたしなんかはああいうのあざといなー、って思うのだよね。
もちろん『レディ~』もあざといというか(ラカン的な意味じゃない)現実味がない。
現実味のなさというか非日常性なのだよな。
キチガイは正常人にとっての非日常性が日常になっているんだよ。
正常人にとっての日常的現実に現実味を感じられない。キチガイたちは。
それが彼らにとっての日常。
そんな感じが滲み出ていたと思う。
わかりやすいサスペンス感がないから安心して見ていられる、のではなく、正常人にとっての突発的な、間欠泉的な非日常性じゃない、漫然とした非日常性が、薄気味悪さみたいなかすかな不安感、宙ぶらりん感を醸し出している。
これを忌避して人は物語にすがるのだ。ストーリーのもとに集うのだ。
まー大衆ウケはしないだろうな、とも思えたから別にどうでもよか。
あ、『ヴィレッジ』批判してるようだけど、わたし的おもしろ度で言えば
『レディ~』≒『ヴィレッジ』>『シックス・センス』
だかんね。『ヴィレッジ』はおもしろい。『シックス・センス』は大衆ウケするなーって感じでおもしろい。
この記事から。
=====
おそらく、『アンチ・オイディプス』が分裂症の臨床実体を棄却していることと、ラカンが女を存在させなくしたことには等しい作用がある。
「用心せよ、やりすぎるな、如才なさを欠いてはならない」
文学者に対する戒めの言葉と等しい作用がある。
それは彼らにとっての接触防壁なのだ。
自身がβ要素に、器官なき身体に、現実界に、物自体に翻弄されないための。
想像界・象徴界に、オイディプスの三角形に留まるための。
狂気に陥らないための。
=====
『アンチ・オイディプス』が執拗に臨床実体としての分裂症者を棄却しているのは、ラカンの「女(ファルスのない人間、すなわち未去勢者)は存在しない」と全く等しい症状である。
ガタリはラカン派の鬼子などと言われるが、そうではない。彼は全くラカニアンであるのだ。彼が反発しているのはフロイトを読み直したラカン論をフロイト的なものに退行させようとしていた他の弟子たちにである。
彼もまたアンチ・ファルスを口走ることで自らのファルスを増長させようとしているファロセントリストなのだ。
ラカンもしばしばファルスに対し罵詈を吐いている。
ガタリは全く鬼子ではない。
ユングとアドラーを比した時、双方ともフロイトに反論しているが、アドラーの症状は非常にフロイト的であるのと同様に、ガタリの症状は非常にラカン的である。
アドラーもフロイトもラカンもガタリも、臨床実体としての分裂症者を、女を、狂気を怖れている。異常なまでに。
それをヌーメンとできたのはユングのみである。
ガタリは狂気を肯定しているようで、狂気の実体を棄却しているという点で、狡猾である。アジテーターである。口先だけのヌーメンならぬザーメン。「セックスなんて粘液の擦り合いにすぎないじゃん」などと言い逃れる童貞である。
フロイトやアドラーはパンツについたザーメンを執拗に洗っている。
射精しながら街を歩いているのがユングだ。ヤリチンだ。
だからわたしはユングが一番怖い。
ユング論は表象だけしか考えたくない。
あ、ついでに言っとくと童貞力(「DT力」と書くらしい)は特に物語系の芸術(マンガや小説や映画とか)には必要不可欠というわけじゃないが大事な要素だと思うよ。この記事とかおもしろい。
同記事から。
=====
折り畳めるならそれは器官なき身体ではない。『アンチ・オイディプス』が言う「器官なき身体」はファルスそのものだ。いやビオンの言う接触防壁、容器の方が厳密か(わたしはビオンの容器はファルスの裏面だと考えている。ここのコメント欄など)。
=====
これは正しくない。どちらかと言えばわたしというキチガイの妄想に近い。あえて言えば社会に対してではなくガタリという個人に対してわたしが行なった分裂分析の一過程だ。
素直にそのテクストを読むならば、「オイディプス(の三角形)」という言葉が指し示すものが容器に相当するだろう。
しかし、この容器はラカン論においてはトポロジー状となる。三角形だろうが四角形だろうが百角形だろうが円形だろうが同一視される容器である。
ガタリのエディプスコンプレックス批判は、この容器は三角形と限らず、百角形や百一角形や、さまざまな多角形である、という主旨である。
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社会的抑制を主とし家族的抑制を従とした。
=====
容器の本質は、家族的抑制という三角形的な容器が、社会的抑制という多数の角を持つ多角形であり、二次的に三角形化される、ということだ。要するに簡素化である。「要するに」という言葉そのものたる要約である。多角形である容器が家族というスクリーンに投影されて三角形に簡素化あるいは要約されるわけである。
このこともラカン論と同じ構造をしている。
=====
ラカンはフロイトが考えた去勢としてのエディプスコンプレックスを幻想とし、その本質に鏡像段階を持ち込んだ。
=====
ラカン論においてこの容器は他者と表現される。単なる他者なのだから三角形だろうが多角形だろうが可能なのである。「あれであり、これである」のが分裂症なら、ラカン論の方が『アンチ・オイディプス』よりよっぽど分裂的なのだ。
結局『アンチ・オイディプス』はラカン論の骨子を別の角度から光を当てたテクストなのである。ガタリは忠実な、自身が無自覚かもしれないほど忠実な、ラカニアンなのだ。
ラカン論との違いをあえて指摘するなら、骨子をアレンジしてアジテーションしている点ぐらいしか、わたしには思いつかない。
こういったわたしの論を、フロイト派がなんでもかんでもエディプスコンプレックスとしたように、なんでもかんでもラカン論にしてしまう専制君主的な精神分析の作用だ、と言われるかもしれない。『アンチ・オイディプス』はそれこそを批判しているのだ、と。
別にそれでいい。
わたしはラカン派の代表としてガタリ論と戦っているわけではない。派閥闘争などではない(別にそう思われようと、それにわたしの論を利用されようと知ったこっちゃない)。ガタリという神経症者を人格攻撃しているのである。ガタリという個人を分裂症化させたがっているのである。
わたしは以前から言っている。本当に脱領土的な主観世界を生きているキチガイは傾向的に領土を欲しがる。縛られたがる。正常人は領土という拘束を傾向的に嫌がる。脱領土化したがる。ただそうであるものとして脱領土「的」なのか、脱領土「化」するのかの違いである。後者はまさにガタリの症状である。
いや、もちろん傾向にすぎないのだから拘束されたがる正常人もいるだろう。「民衆がファシスムを望んだのである」ということだ。
しかしここには根本的な違いがある。フィールドが違うのである。
そいつの主観世界が最初から脱領土的である故縛られたがっているのか。元々領土化されているのを再領土化するために専制君主国家を望んでいるのか。
当然前者がキチガイであり後者が正常人である。
アルトーは言う。
「私はまだ考え始めていなかったのだ」
ガタリは「分裂症化はプロセスである」と力説しているが、これは正しい。脱領土的な主観世界は全てがプロセスだ。
しかし彼のこの言葉は、自身が分裂症化を目標としてしまっている心的事実の否認だと考えられる。実際、分裂症の臨床実体を棄却する言葉を吐きながら多数の臨床実体を彼は引用している。「脱領土」なる概念の実体として。
「脱領土化はプロセスである」とどんなに力説してもその言葉自体が目標となっていることを示している。「脱領土化」という言葉は「脱領土」を目標としていることを意味している。本当にプロセスだけの世界は「~化」などと表現されない。そこにはただ運動があるだけである。機械が作動しているだけである。量子力学的な状態があるだけである。
ガタリが分裂症の臨床実体を棄却しているのは、それを目標としてしまっている自分に対する否認であり、同時に狂気を怖れている故なのだ。エディプスコンプレックスを倒錯的に反転した故の、即ち去勢の否認の表象としての分裂症コンプレックスだ、とも表現できよう。
要するに、彼は彼のファルスを防衛するためにアンチ・ファルスを論じているのである。
そう断言せざるを得ない。
何故なら彼が何を論じようと何を思索しようと、彼が分裂症者ではない事実は揺るがないのだから。
医師の診断があるかどうかの問題ではない。テクストが隠喩する実体が神経症者なのだ。おそらくこの世の全ての精神分析家がそう診断するだろう。明らかに彼のテクストは分裂症のそれではなく神経症の症状である、と。事実後半になるにつれ「充実身体」という概念は神経症化していく。
「どんなに抗ってもオイディプスに行き着いてしまうのだ……」
これは自分のテクスト自体について述べている言葉である。ガタリ自身の症状を吐露しているのである。
彼のテクストには現実界が感じられない。
革命的にデコレーションされている(即ちアジ風な文体になっている)が、彼のテクストは何も革命していないのが実体である。自身の思想におそらく大きく影響したであろうラカン論を、彼は何も破壊していない。
『ハガレン』前作よりオリジナルに忠実に作ってる、って感じなのかな?
でもマンガよりダイジェスト版みたいな雰囲気になってるのが残念。
オリジナルに忠実であろうというのは別に批判しないけれど、マンガとアニメじゃ現実的な尺が絶対的に違うから、そこが問題になってる、ってことかねえ。
いや、おもろいよ。普通に。
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