「人は誰しも大人になりたがるものだ」(笑)
2009/07/31/Fri
高校生の頃だったか。自分が誘拐される話を書いて自分で興奮した覚えがある。
つってもまー自分に都合のいい話だったがな。当時はマゾっ気も今ほどはなかったし。ふつーの優等生でしたお。
物は結構あっさり棄てるタイプなので、おそらくどこにも残っていないと思うが、今それを公表したとして、普通に(精神分析業界的な)解釈されたら、家族というダブルバインドが濃密に詰まった場所から飛び出し、社会へと参入する、しようとする自分を描いたものだ、なーんて言われるのだろう。「家族が嫌だ」っつーのが主旨だったし。
「誘拐された」という要件を軽んじれば、そんな解釈になりうるだろう、と自分で思う。わたしを誘拐する犯人は老賢者であり父である、なーんて解釈になるんだろうか。つっか誘拐犯人は明かされないままだったんだけどな。幽霊みたいな、男女か大人か子供かすらわからない犯人に誘拐されるとゆーとっても抽象的な話。
要するに、わたしは成長したがってそんな話を書いた、となるわけだ。おそらく一般的な解釈によれば、ね。そうなるだろうね、って呆れ顔で言っているわけ。
まーその頃のわたしなんて今のわたしじゃないわけだから、真意なんてわかるはずがない。だけどこれだけはわかる。もし今のわたしがタイムスリップしてその時代のわたしになり、そんなような解釈されたら、今のわたしの知識をもって「違う」と言うだろう。
わたしは人より退行的な自分を防衛しようとしてこの話を書いたのだ、と。アブジェにまみれた、決して快いとは言えない主観世界を守ろうとしたのだ。一般的には忌避される迷子のような不安に満ちた主観世界を、大人の主観世界に破壊されるのを恐れて、「誘拐されたがった」のだ。単純に考えてみろよ。誘拐されたら誘拐犯に何されるか「わからない」だろ? 「わからない」ことだらけの主観世界をわたしは守ろうとしたわけだ。誰でもない誘拐犯に罪をなすりつけて。つっか宮崎勤事件の後だったはずだしな。宮崎勤が高校生のわたしにとって老賢者だったとでも言うのかい?
お前がする「この子は成長したがってこんな話を書いたんだ」のごとき、大人にとって都合のいい解釈を押しつけてくるのが、日常生活の中でさまざまな隠喩に紛らわせて押しつけてくるのが、それが積もり積もったものが、大人のわたしの社会生活を破綻させたのだ。わたしは壊れたのだ。
誰かの個人のせいではない。「成長することはいいことだ」という固定観念から逃れられない多くの人間たちが、少しずつわたしをレイプし続けてきたのだ。
まーあれ、わたしの大人すなわち正常人に対する怨念は根が深いよ、ってゆう自己主張ですた。
なんかこのブログの人が最近毎日ここ来てるんだが、精液臭い。この記事コメント欄で話題に上った「あのひと」と文体が似ている。文体っつか思考回路が。「あのひと」よか「ネタをネタと(ry」度は低いけどな。
ああ気持ち悪い。怖い。
ゲロ吐きそう。
正常人の思考回路って、麺類だ。つなぎに精液を使った。男女関係なしに。女ならあわび汁つってもいい。
キチガイは、小麦粉に卵を乗っけただけ。まだこねられていない。卵なんていい風に言ったけど、臨場感出すなら、血ゲロ、糞便、子宮を切開して取り出した卵子、そのようなものをつなぎに(まだなっていないけど)している。
(想像的ファルスとは別物の、象徴的ファルスの想像界的側面としての)精液しかつなぎに認められてないんだよなー。
正常人とキチガイは、臭いで区別できる。
この「臭い」に「言語化が困難である」という意味しか含意させないのが普通の思考回路だが、違うんだよな。ほんとに臭いんだ。「これは隠喩ではない」ばーい『アンチ・オイディプス』。
まあ精液臭い文章の一例として紹介しとく。
結局、「自己とは幻想である」みたいなラカン系の論法は、未去勢者にとっては普通の感覚なんだな。「人格とは幻想である」が症状化したのが解離性障害で、発症している時に限ればその人は未去勢的だと言えるだろう(たとえ去勢済み主体であっても)。
だけど、自我や超自我問わない「自己」が幻想なんだよ。動物にもあるかもしれないレベルの幻想。幻想だけど現実かもしれないレベルの幻想。「ここにある」という確信以前の、「切り離された」感。『アンチ・オイディプス』で言うところの「孤児」という「切り離されたもの」。
「ここにある」という確信が問題なんだな。それが「切り離されたもの」に纏わりつく。ビオン論で言う「容器」として纏わりつく。
「切り離されたもの」を「自己」と呼ぶならそれは「自己」でいい。「自己」には現実界も含まれている、と。スターン論で言う「中核自己感」なんかそういうものだろうな。
自己の根っこを「自己」に含めるかどうかの話にすぎない。だけど、その根っこは「自我」などという言葉で表されるものとは全く別物である。自己の枝葉が自我ではあるけど、根っこと葉っぱは形も機能も違う。
ここが全ての心を取り扱う学問で齟齬が生じているところじゃないだろうか。
追記。
「自分が誘拐される話」で今思い出した。作中(と言っていいのか、まあ小説みたいなもんだしいいか)のニュース記事をそれらしく書こうといろんな誘拐事件の新聞記事を読み漁った記憶がある。まだパソコンなんて流行ってなかった時代。あーそりゃキメエわ。傍から見たら。そんな子。
それはまあいいんだが、誘拐事件を読み漁ってた時に興奮したのかもしれない。となると、わたしはわたしを誘拐する犯人の立場で興奮した、となる。それもありかもなー、と思う。そう言われたら「そうかもねー」くらい。となると「幽霊みたいな犯人」ってのがポイントになるのか。ってほんと誘拐犯についてはなんにも書いてなかったような。誘拐された自分の恐怖感みたいなのを、家族への嫌悪感織り交ぜて書いてただけ。そもそも小説のつもりなんてないし。
なんでそんなの書こうと思ったのかも覚えてない。
欲情してたんだろうな。高校生らしく。欲情のはけ方をよく知らなかったということか。リビドーの備給の仕方がそんなんだっただけ?
あーすげーつまんなくなった。
つってもまー自分に都合のいい話だったがな。当時はマゾっ気も今ほどはなかったし。ふつーの優等生でしたお。
物は結構あっさり棄てるタイプなので、おそらくどこにも残っていないと思うが、今それを公表したとして、普通に(精神分析業界的な)解釈されたら、家族というダブルバインドが濃密に詰まった場所から飛び出し、社会へと参入する、しようとする自分を描いたものだ、なーんて言われるのだろう。「家族が嫌だ」っつーのが主旨だったし。
「誘拐された」という要件を軽んじれば、そんな解釈になりうるだろう、と自分で思う。わたしを誘拐する犯人は老賢者であり父である、なーんて解釈になるんだろうか。つっか誘拐犯人は明かされないままだったんだけどな。幽霊みたいな、男女か大人か子供かすらわからない犯人に誘拐されるとゆーとっても抽象的な話。
要するに、わたしは成長したがってそんな話を書いた、となるわけだ。おそらく一般的な解釈によれば、ね。そうなるだろうね、って呆れ顔で言っているわけ。
まーその頃のわたしなんて今のわたしじゃないわけだから、真意なんてわかるはずがない。だけどこれだけはわかる。もし今のわたしがタイムスリップしてその時代のわたしになり、そんなような解釈されたら、今のわたしの知識をもって「違う」と言うだろう。
わたしは人より退行的な自分を防衛しようとしてこの話を書いたのだ、と。アブジェにまみれた、決して快いとは言えない主観世界を守ろうとしたのだ。一般的には忌避される迷子のような不安に満ちた主観世界を、大人の主観世界に破壊されるのを恐れて、「誘拐されたがった」のだ。単純に考えてみろよ。誘拐されたら誘拐犯に何されるか「わからない」だろ? 「わからない」ことだらけの主観世界をわたしは守ろうとしたわけだ。誰でもない誘拐犯に罪をなすりつけて。つっか宮崎勤事件の後だったはずだしな。宮崎勤が高校生のわたしにとって老賢者だったとでも言うのかい?
お前がする「この子は成長したがってこんな話を書いたんだ」のごとき、大人にとって都合のいい解釈を押しつけてくるのが、日常生活の中でさまざまな隠喩に紛らわせて押しつけてくるのが、それが積もり積もったものが、大人のわたしの社会生活を破綻させたのだ。わたしは壊れたのだ。
誰かの個人のせいではない。「成長することはいいことだ」という固定観念から逃れられない多くの人間たちが、少しずつわたしをレイプし続けてきたのだ。
まーあれ、わたしの大人すなわち正常人に対する怨念は根が深いよ、ってゆう自己主張ですた。
なんかこのブログの人が最近毎日ここ来てるんだが、精液臭い。この記事コメント欄で話題に上った「あのひと」と文体が似ている。文体っつか思考回路が。「あのひと」よか「ネタをネタと(ry」度は低いけどな。
ああ気持ち悪い。怖い。
ゲロ吐きそう。
正常人の思考回路って、麺類だ。つなぎに精液を使った。男女関係なしに。女ならあわび汁つってもいい。
キチガイは、小麦粉に卵を乗っけただけ。まだこねられていない。卵なんていい風に言ったけど、臨場感出すなら、血ゲロ、糞便、子宮を切開して取り出した卵子、そのようなものをつなぎに(まだなっていないけど)している。
(想像的ファルスとは別物の、象徴的ファルスの想像界的側面としての)精液しかつなぎに認められてないんだよなー。
正常人とキチガイは、臭いで区別できる。
この「臭い」に「言語化が困難である」という意味しか含意させないのが普通の思考回路だが、違うんだよな。ほんとに臭いんだ。「これは隠喩ではない」ばーい『アンチ・オイディプス』。
まあ精液臭い文章の一例として紹介しとく。
結局、「自己とは幻想である」みたいなラカン系の論法は、未去勢者にとっては普通の感覚なんだな。「人格とは幻想である」が症状化したのが解離性障害で、発症している時に限ればその人は未去勢的だと言えるだろう(たとえ去勢済み主体であっても)。
だけど、自我や超自我問わない「自己」が幻想なんだよ。動物にもあるかもしれないレベルの幻想。幻想だけど現実かもしれないレベルの幻想。「ここにある」という確信以前の、「切り離された」感。『アンチ・オイディプス』で言うところの「孤児」という「切り離されたもの」。
「ここにある」という確信が問題なんだな。それが「切り離されたもの」に纏わりつく。ビオン論で言う「容器」として纏わりつく。
「切り離されたもの」を「自己」と呼ぶならそれは「自己」でいい。「自己」には現実界も含まれている、と。スターン論で言う「中核自己感」なんかそういうものだろうな。
自己の根っこを「自己」に含めるかどうかの話にすぎない。だけど、その根っこは「自我」などという言葉で表されるものとは全く別物である。自己の枝葉が自我ではあるけど、根っこと葉っぱは形も機能も違う。
ここが全ての心を取り扱う学問で齟齬が生じているところじゃないだろうか。
追記。
「自分が誘拐される話」で今思い出した。作中(と言っていいのか、まあ小説みたいなもんだしいいか)のニュース記事をそれらしく書こうといろんな誘拐事件の新聞記事を読み漁った記憶がある。まだパソコンなんて流行ってなかった時代。あーそりゃキメエわ。傍から見たら。そんな子。
それはまあいいんだが、誘拐事件を読み漁ってた時に興奮したのかもしれない。となると、わたしはわたしを誘拐する犯人の立場で興奮した、となる。それもありかもなー、と思う。そう言われたら「そうかもねー」くらい。となると「幽霊みたいな犯人」ってのがポイントになるのか。ってほんと誘拐犯についてはなんにも書いてなかったような。誘拐された自分の恐怖感みたいなのを、家族への嫌悪感織り交ぜて書いてただけ。そもそも小説のつもりなんてないし。
なんでそんなの書こうと思ったのかも覚えてない。
欲情してたんだろうな。高校生らしく。欲情のはけ方をよく知らなかったということか。リビドーの備給の仕方がそんなんだっただけ?
あーすげーつまんなくなった。
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