「演技」
2009/11/08/Sun
わたしという駒がそこここに配置されている。
演劇という世界はそういうものだ。わたしは駒。わたしという役が駒なのだが、わたしはそれを演技しているので、わたしも駒となる。舞台演劇における演技とはそういうものであり、一般的な語用における「演技」とはこの点が違う。一般的な語用における「演技」ならば、わたしが演じる役が演劇世界の駒であり、わたしはそうじゃないと言える。こういう奴の舞台演技は見ててつまらないだろう。
ともさかりえの旦那が主宰していたハイレグジーザスという劇団が好きだった。着ぐるみショーのパロディで、着ぐるみを着た演者の中に一人だけ素っ裸の役者が混じっていろいろやる、というのがあった。本当に素っ裸。フルチン。それでやっていることは本当に着ぐるみたちがやるような児童向け演劇。知り合いの明大の演劇関係者に仕込み手伝えるように頼んだことがある。なんてミーハーなんだ、などと思いながらやってた。ゲリラ上演みたいなことやってそこそこ名前売れてきた頃ね。その頃はジョビジョバが大人気だったな。明大系が一番おもしろい時期だったと思う。動物電気あたりもいろいろやり始めた時期か。
結局そういうことだ。
舞台演劇の役者も、演技した結果着ぐるみを着ることになるが、素っ裸でなければならない。一般的な語用における「演技」は着ぐるみを着ることだけを意味している。それだと舞台演劇における演技と齟齬が起こる。素っ裸の皮膚に着ぐるみを癒着させることが、舞台演劇における演技である。
むしろ、着ぐるみのキャラたちに一般の人間も含まれるのであり、素っ裸の役者こそが役者なのだ。いや役者の基礎、とかになるのか。
素っ裸になるのが一番難しいんだよ。だから感情開放とかって稽古をやるんだ。
タマネギの皮だ。むいていくと何もなくなる。それまで自分が皮膚と思っていたものも脱いでいかなきゃならない。当然痛みもある。そうやって脱いでいくと、後には何も残らなくなる。
一般的な語用の「演技」には、脱いでも残る芯が、自分が含意されている。
このことを補完して、それを舞台演劇における演技の意味に同期させるならば、「全てが演技である」という補足が必要となる。全てが演技ならば、芯も、自分も演技である。その場合それを脱いでいったなら、素っ裸になったなら、芯も、自分も残らない。
あー、ここのコメント欄読んで、自分とコメント者両方へツッコミしたくなったので。それだけ。
こういう文章って解離性障害っぽいよな。自分ではとてもそう思えないけど。わたしにゃ原因となるトラウマがない。
「自分などない」となると、「ない」ことがあるじゃないか。解離性障害のアクティングアウトはそう言明しているようなことだ。
わたしは本当に「ない」から、「あるかないかわからない」と言う。「あるかもしれないしないかもしれない」が、本当に「ない」ことを意味している。いや、「本当に「ない」ことを意味している」と言葉にすると「ない」ことがあることになってしまうが。だから意味がわからなくなるような説明が必要になる。こんな説明が。
めんどくせえなまじで。もういいよ。
お前ら全員死ねよ。
素っ裸で I love you
素っ裸で I need you
なんにもない女でも愛してくれますか?
人間である限り、受け取る物事には意味が付着している。どんな抽出作業を施しても、意味に犯されてない物を取り出すことは不可能だ。意味が示すそれの範囲にもよるが。「事」に含まれる意味はまだ取り除ける。「物」に付着した意味は取り除くことが困難だ。
素っ裸の体は、限りなく意味に汚染されてない物体だ。
その体でしか、意味に犯されてない物、物自体は認知できない。
その体自体が物自体に限りなく親近する「器官なき身体」だからだ。
しかしこの黄色い犬は「愛してくれますか?」と問いかける。
愛とは意味でしかないはずなのに。愛に意味以外の物は含まれない。それを含めると性愛になってしまう。逆に言えば性は純正な意味たる愛に物自体を混入させる役割を担う。ウイルスのごとく。
わたしなら。わたしなら、「愛してくれますか?」と言った場合、実験感覚で言うだろう。「わたしという器官なき身体を愛してくれますか?」と。「どのように愛してくれるのですか?」と。意味じゃない、性でもない愛などあるのですか? と。わたしに予想外の実験結果をもたらしてくれるんですか? と。
……ああ、意味でも性でもない愛、となると、アガペーじゃん。
なんだ、つまんね。自分の思考回路が。
いや、まあ、アガペーってな意味だ、とは言えるんだけどね。原初の意味って意味で意味じゃないとも言える。それを意味の範疇に含めなければいいだけ。
むしろ意味自体って気がするな。クリステヴァの言うアガペーは。ラカンなら父の名になるんだが、ラカンの方が繋がりいいか。それを意味自体とかって言うなら。
「器官なき身体」側からすりゃそれを意味とされるのは体を侵略されているようなことになるけどな(笑)。まさにレイプ。
ああそうそう、日本人相手に「愛」って言うと「性愛」の意味で話が進む割合が高いよな。
「日本人の性欲は異常」ってコピペは真実な気がするぜ。
外人はほれ、性じゃない愛のお手本があるからな。キリスト教って。特にプロテスタントは神学っつうより愛学になってるしな。
くっせえ。ニーチェが嫌悪した部分を嫌味のようにフィーチャリングしたのがプロテスタント、ってイメージ。
プロテスタントの精液臭さにうんざりしてる奴は試しにカトリックやってみたら? いや別にユダヤ教でもいいけど。
っていうか精液と勃起したちんちんって違いでしかないけどさ。
ニーチェは大地ではなく太陽を目指した。大地側であるわたしはそれはそれで別にいい。大地も太陽も同一物だからだ。
お前たち人間は、太陽に近づけば火傷するだけ。火傷した体が、梅毒に蝕まれた体が戻るところは、腐敗した神々が寝起きする大地しかない。要するにイカロス。
だから別に太陽に向かう子に対しては「がんばってねー」としか言わない。にやにやしながら。
ニーチェもカトリックに生まれてたらあんなにならんかったかもね。
演劇という世界はそういうものだ。わたしは駒。わたしという役が駒なのだが、わたしはそれを演技しているので、わたしも駒となる。舞台演劇における演技とはそういうものであり、一般的な語用における「演技」とはこの点が違う。一般的な語用における「演技」ならば、わたしが演じる役が演劇世界の駒であり、わたしはそうじゃないと言える。こういう奴の舞台演技は見ててつまらないだろう。
ともさかりえの旦那が主宰していたハイレグジーザスという劇団が好きだった。着ぐるみショーのパロディで、着ぐるみを着た演者の中に一人だけ素っ裸の役者が混じっていろいろやる、というのがあった。本当に素っ裸。フルチン。それでやっていることは本当に着ぐるみたちがやるような児童向け演劇。知り合いの明大の演劇関係者に仕込み手伝えるように頼んだことがある。なんてミーハーなんだ、などと思いながらやってた。ゲリラ上演みたいなことやってそこそこ名前売れてきた頃ね。その頃はジョビジョバが大人気だったな。明大系が一番おもしろい時期だったと思う。動物電気あたりもいろいろやり始めた時期か。
結局そういうことだ。
舞台演劇の役者も、演技した結果着ぐるみを着ることになるが、素っ裸でなければならない。一般的な語用における「演技」は着ぐるみを着ることだけを意味している。それだと舞台演劇における演技と齟齬が起こる。素っ裸の皮膚に着ぐるみを癒着させることが、舞台演劇における演技である。
むしろ、着ぐるみのキャラたちに一般の人間も含まれるのであり、素っ裸の役者こそが役者なのだ。いや役者の基礎、とかになるのか。
素っ裸になるのが一番難しいんだよ。だから感情開放とかって稽古をやるんだ。
タマネギの皮だ。むいていくと何もなくなる。それまで自分が皮膚と思っていたものも脱いでいかなきゃならない。当然痛みもある。そうやって脱いでいくと、後には何も残らなくなる。
一般的な語用の「演技」には、脱いでも残る芯が、自分が含意されている。
このことを補完して、それを舞台演劇における演技の意味に同期させるならば、「全てが演技である」という補足が必要となる。全てが演技ならば、芯も、自分も演技である。その場合それを脱いでいったなら、素っ裸になったなら、芯も、自分も残らない。
あー、ここのコメント欄読んで、自分とコメント者両方へツッコミしたくなったので。それだけ。
こういう文章って解離性障害っぽいよな。自分ではとてもそう思えないけど。わたしにゃ原因となるトラウマがない。
「自分などない」となると、「ない」ことがあるじゃないか。解離性障害のアクティングアウトはそう言明しているようなことだ。
わたしは本当に「ない」から、「あるかないかわからない」と言う。「あるかもしれないしないかもしれない」が、本当に「ない」ことを意味している。いや、「本当に「ない」ことを意味している」と言葉にすると「ない」ことがあることになってしまうが。だから意味がわからなくなるような説明が必要になる。こんな説明が。
めんどくせえなまじで。もういいよ。
お前ら全員死ねよ。
素っ裸で I love you
素っ裸で I need you
なんにもない女でも愛してくれますか?
人間である限り、受け取る物事には意味が付着している。どんな抽出作業を施しても、意味に犯されてない物を取り出すことは不可能だ。意味が示すそれの範囲にもよるが。「事」に含まれる意味はまだ取り除ける。「物」に付着した意味は取り除くことが困難だ。
素っ裸の体は、限りなく意味に汚染されてない物体だ。
その体でしか、意味に犯されてない物、物自体は認知できない。
その体自体が物自体に限りなく親近する「器官なき身体」だからだ。
しかしこの黄色い犬は「愛してくれますか?」と問いかける。
愛とは意味でしかないはずなのに。愛に意味以外の物は含まれない。それを含めると性愛になってしまう。逆に言えば性は純正な意味たる愛に物自体を混入させる役割を担う。ウイルスのごとく。
わたしなら。わたしなら、「愛してくれますか?」と言った場合、実験感覚で言うだろう。「わたしという器官なき身体を愛してくれますか?」と。「どのように愛してくれるのですか?」と。意味じゃない、性でもない愛などあるのですか? と。わたしに予想外の実験結果をもたらしてくれるんですか? と。
……ああ、意味でも性でもない愛、となると、アガペーじゃん。
なんだ、つまんね。自分の思考回路が。
いや、まあ、アガペーってな意味だ、とは言えるんだけどね。原初の意味って意味で意味じゃないとも言える。それを意味の範疇に含めなければいいだけ。
むしろ意味自体って気がするな。クリステヴァの言うアガペーは。ラカンなら父の名になるんだが、ラカンの方が繋がりいいか。それを意味自体とかって言うなら。
「器官なき身体」側からすりゃそれを意味とされるのは体を侵略されているようなことになるけどな(笑)。まさにレイプ。
ああそうそう、日本人相手に「愛」って言うと「性愛」の意味で話が進む割合が高いよな。
「日本人の性欲は異常」ってコピペは真実な気がするぜ。
外人はほれ、性じゃない愛のお手本があるからな。キリスト教って。特にプロテスタントは神学っつうより愛学になってるしな。
くっせえ。ニーチェが嫌悪した部分を嫌味のようにフィーチャリングしたのがプロテスタント、ってイメージ。
プロテスタントの精液臭さにうんざりしてる奴は試しにカトリックやってみたら? いや別にユダヤ教でもいいけど。
っていうか精液と勃起したちんちんって違いでしかないけどさ。
ニーチェは大地ではなく太陽を目指した。大地側であるわたしはそれはそれで別にいい。大地も太陽も同一物だからだ。
お前たち人間は、太陽に近づけば火傷するだけ。火傷した体が、梅毒に蝕まれた体が戻るところは、腐敗した神々が寝起きする大地しかない。要するにイカロス。
だから別に太陽に向かう子に対しては「がんばってねー」としか言わない。にやにやしながら。
ニーチェもカトリックに生まれてたらあんなにならんかったかもね。
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